Jazz as mare wallpaper
—なぜ夜のお店ではジャズを流すのか。
ジャズが流れている店は多い。
最近はどんなジャンルの店に入ってもジャズをBGMに使っているのをちらほらみるようになった。カフェー、服屋、イタリア料理屋、フランス料理屋、居酒屋、小料理屋、てんぷら屋、韓国料理屋や寿司屋でさえも。
この圧倒的なシェアを見ている限り、日本でジャズは非常に親しまれているかのように思える。ジャズは、世間に浸透している。
本当にそう思う?
実はこうしたジャズが流れている店の殆どが、音源を有線放送に頼っている。有線というのは便利なもので、音楽にたいして興味がなくても、それらしく音楽をあつらえて、コンスタントに提供してくれる。だから店主もアルバイトの店員も、そのジャズが誰の演奏か、ブルーノートだとかプレスティージだとかを誰も気に留めない。もっと言うと、ビバップだとか、ハードバップだとか、ウェストコーストだとか、さらに、ピアノトリオだろうが、三管編成だろうが、全く頓着がない。ジャズのミュージシャン五人あげてごらんって尋ねても、多分彼らの半分以上は答えられないだろう。
有線でジャズを流す店の多くは、こだわりというか、屈託が全くない。逆に、ジャズに「こだわり」のある店は、大抵自前で用意したCDやLPを持っている。
従って、夜の街で「ジャズ」がBGMとして流されているからって、それはジャズが市民権を得たということにはならない。
現在ジャズが店先で流される音楽として人気を博しているのは、ジャズが理解されているからではなく、理解されてないからではないかとさえ思う。BGMは、会話の邪魔になったりしてはいけないから、出来るだけ意識に上らない方がよい。ジャズの理解不能性が、BGMとしてちょうどよいのではないか。
単なるBGMの枠を超えて、店主が音楽にも気を使っているようなイマドキのスタイリッシュな店で人気があるのは、残念ながらジャズではなく、クラブミュージックだとか、アシッド的なものとか、テクノ的なものとか、MPBであり、断じてジャズではない。
ジャズ喫茶では相変わらずジャズを聴かせてくれる。だがそれとこれとは別の話で、アンテナの敏感な人間にキャッチされる音楽の中で、ジャズはもうそれほどの地位を占めていない。今やジャズは、凡百の店で、消費されるだけの存在になりつつある。
ひと言でいえば、有線で流されるBGMのジャズは、日本から輸出した浮世絵が、ヨーロッパで包装紙に使われたのと同じようなものである。
あるいは、我々が英字新聞などを「オシャレな包装紙」として使うのと同じ。
何が書いてあるのかよくわからないけど、ぐにゃぐにゃしている黒いこれはきっと文字だよね。それに、絵は色遣いがとっても綺麗。よくわからないけど、すごくきれいだよ、これ。包み紙にちょうどいいんじゃね?
みたいなノリで、19世紀のヨーロッパで、浮世絵はこうした包装紙的な使われ方をしていた。ファインアートとして扱われたのではなく、あくまで消費財である。もちろんヨーロッパの画家達の中でも勘の鋭いものは、そこに西洋芸術の文法にはないアプローチを汲み取ることは出来た。
そのエッセンスを彼らは自分の芸術に取り入れ、それが印象派の発展のもとになったのは確かだ。しかし、浮世絵が印象派の先祖とは言えないのはこうした出自の事情による。あくまでも浮世絵は、素材として「発見」されたにすぎない。
落ちてくるリンゴを見てニュートンが万有引力の理論を発見したからといって、ニュートンの師匠がリンゴだとは、誰も思わない。「インスパイアされる」というのはそういうことだ。印象派の発展に日本人が寄与していたと、現代の我々日本人は自らの愛国心ゆえに思いたがるわけだが、残念ながらフランス人は同意してくれないだろう。
作り手が志向していた目的とは別の形で使われる、ということはままあることだ。
ジャズが飲食店にて広く用いられているのはそれと同レベルの話ではないか。
ジャズは、ジャズとして理解されているから用いられているのではなく、理解しにくく、それゆえに無視しやすいものであるから使われているに過ぎない。
ただ、そこにあるBGM。それは壁紙と同じだ。
壁紙のようなものだ。※
壁紙の柄に必要な条件はなにか。
歴史を辿ってみると、例えばローマ時代やバロック時代には壁一杯にストーリー性のある「壁画」が描かれていた。こうした壁画というのは具象すぎるのである。意識に入りすぎる。現在、我々の家にある壁紙というのは、元のモチーフがかすかにわかるようなわからないようなテキスタイルが主流である。あれは、居住者に殺風景な印象を抱かせず、しかし邪魔にならないという効果の点では、壁一杯の極彩色の壁画より優れている。
それと同じ事で、店に流れている音楽が、例えば、オペラや交響楽だとするとどうだろう。そちらが主になって、会話の妨げになるだろう。いわゆる歌謡曲もそうである。どうにも言葉が入っているものは、時に会話を邪魔しがちであったり、意識に上りやすい。
いわゆるバップ・イディオムは、「コード」の項で述べたことがあるが、曲のトーナリティーの束縛から放散する傾向のある音楽である。一曲としての起承転結よりも、瞬間瞬間の微分的変化が優先される。もちろん、ジャズに起承転結要素がないとは言わない。しかし他のジャンルほどは優先されない形で発展したのは確かだ。
それこそが、やや遠景において見た時に人の意識を邪魔しない、現在のポピュラリティの要因となっている。
※ そういえば、イギリス英語ではBGMのことをwallpaper musicというらしい。まさに今自分が言ったことが、ひと言で表せてしまった。
しかし、ジャズは本来「読まれる」べき音楽である。近景において、フレーズの一つ一つを追いかけてこそその意味がわかるもので、ジャズを聴く人間は、そのように音楽を聴いている。
そういう意味で、本来の聴かれ方をせず、「世間に流布」している今の状況というのは、ジャズファンの自分からすると、いささか苦々しい。
音楽にあまり興味のない人に、「趣味はジャズです」とか言うと、「わ〜おしゃれなんですね〜」とかいう返事が返ってくる。
とんでもない話だ。
本当にジャズなんてオシャレなのか。
大体君の目の前に居るこのむさいおっさんは何だ。
明らかにオシャレではないだろうが。
じゃあジャズ=オシャレという前提との論理的矛盾は、いいのかそれで?
と、説教するわけにもいかず、弱々しく微笑むしかない。こういう場合、興味の無い話題によくぞあわせてくれたと、むしろ我々は感謝しなくてはいけないのである。
消費する側と、消費される側の間には、絶望的な懸隔がある。そして、それは残念ながら年々距離を広げつつあるのだ。
(Nov, 2006改稿)