Groove and our physique 3

—「拍」の非ユークリッド性



その1:リズムの起源と身体性
その2:リズムへのアプローチは文化によって異なる
その3:「拍」の非ユークリッド性

原子論

 古代ギリシアの哲学者デモクリトスが唱えた原子論は、論理的にはすっきりとして風通しがよいが、観察事実に基づいて作られたわけではない。もっと極論すれば、彼の理論は観測的事実と関係なく演繹的に構築されたが故に美しいとさえいえる。

 後代、観測的な事実を踏まえてドルトンは原子論を構築したわけだが、彼の論はデモクリトスのそれに比べて、論理的にゴツゴツしたところがある。さらに時代がくだり、原子よりさらに小さなレベルである量子に関する理論などは、現実が常に仮説を裏切り、シンプルな統一理論を発見するのはなかなか難しいようだ。

 優れた科学法則には必ず、ある種のシンプルさと美しさが含まれる。しかしよりシンプルであればシンプルであるほど、また美しければ美しいほどその法則が真実に近いというわけではないのだ。

 余談ではあるが、その論理の美しさゆえに多くの人が眩惑され、現実世界に適用しようとしたものの、その理論には人間の本質に関する重要な何かが欠けていたために、大規模な惨劇を生じたのがマルクス理論ではないかと思う。

 

 西洋古典音楽理論にみられるような、二分音符、四分音符、八分音符、一六分音符、三二分音符……と無限に等分割しうる譜割のやり方は、確かにデカルト平面の体現という意味では目的を果たしていると思うし、なにより論理的にシンプルで美しい。

 しかし、人類の作り出す音楽を体現するにはいささか整いすぎているように思われる。絶対的な時間は確かにこのような等分割を許すけれども、実際の音楽でこのような等分割が即ち美に直結するかは難しいところではある。

 はっきり言えば、十六分音符より細かい分割は、どうも論理的な上滑りを起こしているのではないかと私などは思うのだ。


スウィングの謎

 ここで、突然話をジャズに戻す。

 「スウィング」というのはジャズのリズムの一つなのであるが、簡単にいうとタータタータタータというようなリズムで、八分音符の頭拍が長く、後ろ拍が短い。で、スウィングの曲の楽譜には、冒頭によくこういった記譜記号が書かれている。こういう風に2:1くらいの比率ですよ、とそういう意味の記譜なのである。

 では実際はどうであるか、というと、こういう風に簡単には行かない。

 正確に2:1であることはおそらくほとんどあるまい。テンポによって、またバンドによってもこのスウィングの比率というのは全く異なるのだ。

 「敢えて記譜すれば」このような2:1が一番ニュアンスが近い。それは確かだ。それでこういう記譜の書き方にせざるを得ない。だが、実は、この2:1に分割するという、アプローチが間違っているのだ。

 これはよく吹奏楽で演奏される「なんちゃってスウィング」がおかす過ちである。また、カシオトーンなどに実装されるリズムパターンの中にある「Swing」にも、同様の過ちが見られる。

 これらの「なんちゃってスウィング」をわかりやすく図示するとこうなる。

 テンポが変わると、中点の位置は2:1の比率を保って移動する。線分は、一拍の時間で、やや右よりの中程に置かれた中点が頭拍と裏拍を分ける点と思ってほしい。

 これは非常に理路整然としていて一見わかりやすい。しかし、実際にこれで演奏してみると、全然格好よくないのだ。

 人間の生理的な機序を考えると、このやり方は全く不自然なのである。拍を内分するというコンセプト自体がそもそもの間違いなのだ。


生理学的な「自然さ」とは


 「グルーヴと身体性 その1」で、一拍は心臓の拍動と同じと書いた。

 西洋古典音楽の譜面空間では、心拍数を基本単位として音楽が記載される。

 少なくとも心拍数の整数倍に関する限り、こうしたデカルト的整合性はよく保たれている。等間隔の心拍動を基本単位として、加減乗除は無理なく成立する。

 ところが、一拍よりも短いレベルで時間を切り取る場合、つまり、心拍数の小数以下の数字を持ち込むと、そこはデカルト平面とはほど遠い非対称な時間の流れが存在する。

 ここからはやや医学的な話になる。
 心臓は体の中心に位置し、ポンプのように加圧収縮を繰り返すことで、体の各部署に血液を送っている。血液には細胞の維持に必須のブドウ糖などのエネルギー源、酸素が含まれており、これらによって我々の体の構成要素である細胞は生存しているのだ。

 さて、心臓の電気的な信号を記録したものを心電図と言う。
 全く正常な安定した状態での心電図はこんな感じだ。


 波と波の間の一周期が心臓の拍動一つ分ということになります。
 簡単に言えば、筋肉の動きが生じると電気信号が発生するわけで、波が動いている部分で心臓の筋肉がぎゅっと動いていると考えてよろしい。

 一拍分の周期、電気的な振幅の大きい部分と、電気的にはほとんど静止している部分の二つがあるのがおわかりだろうか。

左の図は、心電図と、実際の心臓内の圧力を示している。
心室内圧が上昇する山がおわかりだろうか。これは心臓の筋肉がぎゅっと収縮している、つまりポンプとして加圧していることを示している。(手に力を入れてぎゅっと握ることを想像して欲しい)。この状態を収縮期といい、反対に拡張期という状態では、心臓の筋肉は動いていない。(この間、心臓には静脈から血液がどんどん流れ込んで、次の収縮期に押し出す血液を溜めている。)

 複雑たらしく書いているが、簡単に言えば「醤油チュルチュル」のポンプと同じ原理ではある。灯油の代わりに血液を押し出しているのだ。


 

 さて、運動をすると、我々の筋肉はより多くの酸素を必要とする。より多くの酸素を供給する為に、より多くの血液を必要とする。血液の量は急に増やすわけにはいかないから、より頻繁に血液を循環させなければならない。

 つまり出力を上げる為にエンジンを高回転にする必要があるのと同じように、この時、心臓のポンプを高出力にするためには、パワーと回転を上げる必要がある。つまり、一回当たりの血液の拍出量を上げ、さらに心拍数も上昇させるわけである。心拍数が上昇するということは、一拍の時間が少なくなる。この時、心電図はどうなるか。

 心臓の収縮の力学的モデルはなかなか複雑で、生理学の学問的にはもなかなか面白のだが、結論をいうと、収縮に要する時間はほとんど変わらない。

これらは、脈拍が遅い状態と速い状態の心電図である。



 上の段は除脈といい、脈が遅い状態なのだが、収縮期の波の形は先ほどの正常な心電図と殆ど同じで、波と波の間の空白が極度に延長しているのがわかるだろうか。

 また、下段は、頻拍といって、脈が速い例である。これは波形自体が変わっているのでちょっとわかりにくいのだが、QRS波からT波の終わるところまでが収縮期であるから、拡張期が随分短縮されていることがわかる。しかし収縮期の長さはそれほど変わらない。

 心拍数が変動しても、収縮期の長さは殆ど変わらないのだ。生体は拡張期の長さを調節することによって拍の長さをコントロールしているのである。

 心臓が「ぎゅっと収縮する」一動作は、どんな状態、テンポが速くでも遅くても、その動作にはあまり差がない。


 で、冒頭述べたスウィングのリズムだが、このような心臓の動きをふまえて考えると極めて理解しやすい。

 実は、正しい「スウィング」とは、こうなっている。

 最前示した機械的に内分した拍ではなく、実際に演奏されているのはこの図に示すが如である。後ろ拍の「タメ」は原則としてテンポが変わってもそれほどは変化しない。


 つまり、後ろ拍を、心臓での「収縮期」と同じように考えてみればよいわけだ。

 実際、この後ろ拍の事を学生の時分、ドラムの先輩に教わったのだが、ライドを四つ打ちする時に、表拍の頭は、スティックがシンバルを打つ瞬間なのだが、その直前にスティックを上に振り上げて下ろす、その動作をイメージする。そうすると、スティックを上に振り上げる瞬間が裏拍の始まる瞬間だということであった。テンポとは関係がないのである。

 つまり、スティックを上げて下ろすという一動作は、どんな状態、テンポが速かろうが遅かろうがその動作には差がない。そして、その動作の時間が八分音符の裏拍となっているのである、ということだ。

 これは、早くても遅くても変わらない心臓の拍動と、原理的には同じである。

 middle tempoでは、確かに頭拍:裏拍=2:1比になっているように見えるし、ファストスウィングではイーブンに近い。だが、それはあくまで結果としてそうなっているだけであって、あくまで前拍:後拍の比率を「合わせ」ようとしても、グルーヴしない。



拍内の非ユークリッド性

 「ノリ」と言われている要素がなぜ表現しにくいかという理由を、ここまで延々述べてきた。

 わざわざ医学的な機序云々を持ち出したのは、一拍の中は時相的に均一ではないということに理論的な裏付けが欲しかったからである。拍の内部は必ずしも均等に分け得る等質の空間ではなく、非ユークリッド的な非対称な空間であるということが、なんとなくおわかり頂けるだろうか。

 こうした認識は西洋古典音楽のデカルト平面的記譜には欠けていたものである。こうして説明を聞いた後では、拍を機械的に等分して行くというアプローチは身体的にはちょっとそぐわない点があるということもおわかりだろうか。

 ジャズに限らず多くのポップミュージックにおいて、こういった「ノリ」とか「グルーヴ」の要素は広く普及し、用いられているのが現状である。未だに上手く定式化、言語化されていず、統一理論も存在していないにも関わらず。

 クラシック愛好家の諸兄にとっては甚だ面白くないだろうが、この点においては、現在のポップスの方がクラシックよりもある意味人体に対する洞察が深いといえる。現在のポップミュージックは、西洋古典音楽が論理的整合性を優先する過程で誤差として切り捨てたこうしたものを再発見したと言ってもよいだろう。

 厳密にいうと、グルーヴに関する統一理論は未だ定式化されていない。こうした身体性は、大衆が暗黙知の中で評価することによってスタンダードになり得た、というところに、人間の面白さがある。

 

 グルーヴというのは「隙間」という意もある。

我々の意識が宿されている人体という不完全な組織に「グルーヴ」=欠落が存在するが故に、我々はグルーヴを感じる。

(Jul,2006 初稿)