Skill up

—上達の意義?

問い:私は大学のビッグバンドに所属しています。
同回生の男子の中には「プロになってやる」なんて言っている人も居ますが、正直にいうと、私にはそこまでの覚悟はありませんし、それなりの大学に入ったんだし、それなりの就職もしたいと思っています。
 つまりは、今楽器をやっているけど、それは一生の仕事ではないわけで、あくまで趣味の範囲の話なんですよね。だから、練習をしてうまくなっても、それに何の意義があるのか、と思っちゃったんです。
 一旦そう思うと、練習のモチベーションが下がっちゃうんですよね……。

 その1の続きです。

 なぜ人は上達しなければならないか。
 そして上達することに意味はあるのか。

 一つ言えることは、定命である我々は、無為であることを自覚して事を続けることには耐えられないということです。


上達するということ


 私の場合は、ミュージシャンとして得られるであろう経済的インセンティブと一般就職で得られるインセンティブを比較しますと、圧倒的に一般就職の方が有利でした。ゆえにそちらの道にすすみ、現在に至ります。

 とはいえ、学生の頃、練習はかなりしました。学生の頃は、そんなに深く考えずとも、ただ音楽が好きだから練習をする。それでよかった。自分の学生生活も終わりをむかえんとする頃、なぜ役に立つわけでもないのにこれほどまでに練習をしなければいけないのかという疑問にぶつかり、随分悩みました。その頃は理由を見いだすことができず、悶々としていたのですが、その後、ある本を読み、非常に目の覚める思いをしました。

 PHP文庫の「上達の法則」という本です。ジャズの話はビタイチ載っていませんが、はっとする部分が沢山あります。

 冒頭の「上達することの意味」という章の一部を取り上げてみます。

 世の中には、上達とはなにかということを、自分なりに掴んでいる人がいる。たいていは、若い頃にひとつかふたつ深く打ち込んだことのある人で、その経験のなかから、上達に必要な練習の仕方や目の付け所を知っている人である。

 一芸に秀でることは、多芸に秀でることだという考え方がある。この原則があてはまる範囲にも当然限度があるだろうが、一面の真実を含んでいる。それは、上達には一般的な法則があり、一芸に秀でる過程でその法則をある程度体得すれば、他の技能の上達にも応用が出来るからである。

(中略)

 新しい仕事や難度の高い仕事を与えられても、いつの間にかきちんと自分のものにしている。そういう人がいるものである。あいつに任せておけばとりあえずある線まではきちんとやるそうだ。そんな感じに信頼出来る雰囲気がただよっている、そんな人がいるものである。

 そういう人は、じつは、上達の法則を体で知っている人なのである。多くの場合、子供の頃に、なにかをかなり深く身につける経験を通じて、上達の一般則を体得しているのである。その体得が、新しいものを身につける時に自然に活かされるのである。

 上達には法則がある。近道でなく、法則がある。
 その法則が把握出来ている人は、努力の効率がよい。

(中略)

 また、ある程度難しい技能を深く体得した経験のある人は、他の技能でも、習得する必要が生じたら、ある程度の上達ができるという自信を持っている。その自信が、仕事ぶりや、ものごとへの取り組み方、関心の持ち方などに反映して、心に余裕を生んでいることが多い。「いざとなったらいま未習得の技能でも身につければよいさ」と考えて仕事をしている人とそうでない人では、心の余裕、仕事ぶりの余裕がまったく異なる。新しい領域に仕事を広げる進取の気風なども、たんに好奇心がつよいというだけでなく、このような本来的な余裕が良い結果をもたらすことが多い。

PHP新書『上達の法則』岡本浩一 より引用。一部編集。

 なるほど。

 ジャズの技能は音楽の仕事以外にはあまり役立ちません。しかし、ジャズの技能を習得するためのプロセスは、他の仕事を習得する際にも役立つ、ということですね。

 そしてここに書かれていることは、そうやってアホほど練習をしていた頃を今にして振り返ってみれば、確かに直感的に理解出来るんですよ。

 そして、自分のしていたことは全く無駄というわけでもないということに納得が行き、すっと胸のつかえがとれたことを覚えています。

 この本は、他にも、上級者は中級者とどこが違うかとか、上級者になるためのプロセスとか、いちいち肯ける部分が多いので、是非一度読んでみることをお薦めします。

 

 また、このような一般論とは別にジャズに特有の特典もあります。

 ジャズは音楽の中では限られたジャンルに過ぎませんが、現在の商業音楽のバックボーンになっている方法論の多くはジャズと関連が深いんですね。ジャズのインプロヴィゼーションの技法を身につけることによって、曲の構造やアレンジ、サウンドへのアプローチをより深く理解することが出来る。従って、楽器を離れて、単に一リスナーとして音楽を鑑賞する時でさえ、深くジャズに触れている経験は、深いレベルで音楽を楽しむ助けになることが出来るのです。

 僕も就職直後、一時期楽器から完全に離れていました。現役の時には、自分の楽器の周辺のごく狭い範囲しか音楽を聴いていませんでしたが、楽器という軛から離れたことで、逆に幅広いジャンルの音楽に触れるようになりました。そして、そういう風にジャンルが広がっても、根本的な聴き方は、楽器をやっていたときに培われたものが役立っています。朝から晩まで音楽のことを考えていた時間があるからこそ、幅広い音楽を深く楽しむことが出来る。

 一生、音楽を深く楽しむことが出来る。

 この一点だけでも、学生時代に時間を注ぎ込んだことに対する十分な報いだと僕は思っています。

 但しそのためにはかなり深いところまでジャズに浸淫する必要はあります。ジャズというジャンルを俯瞰できる程度には技能を習得する必要があるでしょう。

 ビッグバンドでとりあえず大体の曲がこなせるレベルというのは、ジャズが深く理解出来ているということと同義ではありません。(口さがなく言えば、それは人間オルガンに過ぎないのです。楽しいけどな)。


まとめ


 冒頭の問いに戻りましょう。

 練習することに意味があるか?

 間違いなく意味はあります。

 ジャズは個人にスポットライトを当てる音楽です。このような自問が生じるというのは、個人として考え始めている証左ともいえるでしょう。

 しかし残念なことに「なぜ上達する必要があるのか」という問いには、安易な結論はありません。

 ビッグバンドをやっている場合「なぜ上達する必要があるのか」という疑問は、とりあえず脇においておいて、「どうやって上達するか」ということを考えるはずです。こういうことを考えないで済むのがビッグバンドの良さでもあるのですが。反面、浅さでもあるのです。

 僕はことさらに、ビッグバンドを非難しているわけではありません(自分もやっていましたし)。ただ、ビッグバンドをやっていれば、楽しくてそこそこ忙しいですから、こうした疑問を考えないでおこうとすれば考えなくて済むんですね。

 そして、学生時代のビッグバンドは、いつか卒業するものです。今まで回りに当然のようにあった快適な環境は、いつか喪失する。その時に、君はどのような行動を取れるか。もう誰からも練習しろなんていわれません。自分で決めることができますが、その時に、自分の意志をどれだけ明確に提示できるか。

 個人として練習する場合、この「なぜ上達する必要があるのか」という問いは常に自分に投げかけられ続けます。通奏低音のように、こうした問いの視線を感じながら練習をすることになるでしょう。僕だって、今も「なぜ上達する必要があるのか」と思いながら、続けています。

 もちろんビッグバンドでcompetitionが上達のモチベーションであったことを援用して、仮想敵を作って練習するのもある時期の一つの方法でしょう。細かく期間を区切って小さな目標を立てるというのも、目標達成のためには効率のいい方法です。しかし、大事なのは「なぜ=why」を強く意識しながら「どうやって=how」の方法論を考える、そして考え続けることでしょうか。

(Feb, 2007初稿)