ジャンヌ・ダルク ( アナトオル・フランス著,吉江孤雁訳、早稲田大学出版部,大正6)
孤雁先生未譯部分 補完プロジェクト by cygnus_odile
下篇 十五 乙女の死後 ——羊飼いの末路 ——デ・ザルモワーズ夫人 |
ジャンヌ・ダルク ( —— 孤雁譯補完計畫其 ノ貳 ) 下篇 十五、乙女 の死後 ——羊飼いの末路 ——デ・ザルモワーズ夫人 その夕刻、火刑の後、死刑執行人は、いつもの習慣通りに、哀れっぽく愚痴をこぼしそして告解して赦しを求めようと説教修道士会(ドミニコ会)の修道院へ行った。その男はジャンヌを死に追いやるのは非常に骨折りだったと不平を洩らした。 その後創作された伝説によると、彼は修道僧に、聖人を焼き殺してしまったことの為に地獄に落とされるのではないかとの怖れを語ったとのことである。宗教裁判所副長の館で彼が実際にそのように語ったのであったら、彼は即座に最下層の地下牢へ叩き込まれて、そこで異端審理を待ち受ける羽目になったであろう、そしてその異端審問はおそらく、一生の間彼が聖人と呼んだ彼女に与えた死に苛まされるよう宣告を受けるという結果に終わるに違いない。そして一体なにが、善良なるルメートル神父とボーヴェー司教によって死を宣告されたその女性が本当は悪い女ではなかったのではないか、と彼に考させるよう導き得たのであろうか? 真相はこうだ、これらの修道僧の面前で、彼は、魔女を処刑してそれに難儀したことへの報奨は、当然自分に支払われるべきだと主張した、そうゆうわけでねぎらいの葡萄酒の一杯を求めてやって来たのだった。偶々ドミニコ会士となっていた修道士たちの一人、ピエール・ボスクワイヤ修道士が、我を忘れてあまっさえ、その乙女に下した宣告は間違っていたとも言った。これらの言葉は、数名の人のみが聴いていたものであったにもかかわらず、宗教裁判所総長の許へ注進された。 彼がそれらの弁明をすべく召喚された時に、ピエール・ボスクワイヤ修道士は、すっかり恐れ入って申し述べた、彼の言葉は全く間違っていて異端に汚されていたと、そして実際彼は葡萄酒をたらふく聞し召していたときに口走ったのだと。跪きそして両手を握り合わせて聖なる母教会に彼は懇願した、彼の判事と最も崇敬すべき司教とに彼を赦してくれるようにと。 彼の悔恨を鑑みまた彼の聖服と酩酊状態で口走っていたこととを考慮して、ボーヴェー司教と宗教裁判所副長とはピエール・ボスクワイヤ修道士へ贖宥を示した。千四百三十一年の八月八日に判決が申し渡され、彼等は彼に修道説教士の館で拘留され、イースターまでパンと水のみを給されることを宣告した。 六月の十二日に、ジャンヌの審理に陪席した判事らと顧問官らは、イングランドの王会(the Great Council)からの免責の手紙を受け取った。これらの手紙の目的は何だったのか? 其等の所持者がフランス人たちによって訴訟を起こされた場合のためだったのか? しかし、あの事件(後年のジャンヌの復権審理)においては、その手紙は彼等に益よりは害をもたらした。 イングランドの掌璽大法官は、キリスト教界の皇帝(神聖ローマ皇帝)や、王や、王子たちにラテン語の手紙を送った、大司教、公爵、伯爵、領主、そしてフランスの総ての町にはフランス語で。此処に彼は、彼等に知らしめた、ヘンリー王とその顧問官等は 乙女に心を痛め憐れみを感じていたのだと、そしてもしかれらが彼女の死を引き起こしたというならば、忠誠の為の彼等の熱心とキリスト教徒の人々への彼等の心遣いがその動機であったのだと。 テノール歌手の如く、パリ大学は聖なる教皇と、帝王と、枢機卿会議へ宛てて書き送った。 七月の四日、即ち、ブイヤンの聖マルタンの日に、ドミニコ会派の修道院副院長でフランス異端審問官たるジャン・グラビエール主教は、サン・マルタン・デ・シャンで説教した。彼の説法のなかで彼はジャンヌの行為 に言及し、彼女の誤りと短所のために如何ように彼女は世俗の裁きに送られ生きながら焼かれたのかを語った。 それから彼は付け加えた。「四人いた、そのうちの三人即ち、この乙女とピエロンヌ及びその同伴者とは捕えられた。もう一人のカトリーヌ・デ・ラ・ロッシュは未だアルマニャック方の手中に在る。無辜聖嬰児 の記念日(幼子の日)にパリにおいてそしてどこであれ説教したときには大層多くの人々を魅了した、フランシス修道会会員の托鉢僧リシャールが、これらの女どもを指導していた。かれは彼女等の霊性上の父であった。」 教会の牢の中で苦い麵麭 と苦痛の水を飲んでいたピエロンヌの同伴者は彼女と共にパリで焼かれた、そしてジャンヌはルーアンで焼かれた、王室のベギン修道姉妹会((※ 孤雁訳では、「伝道婦人巡業隊」))はいまや殆ど完全に滅んでしまった。王にはラ・ロッシェルの聖なる修道女だけが残った、彼女はパリの官憲の手から逃れていた、しかし彼女の軽率なお喋りが彼女を面倒に巻き込んでいた。 善良なる托鉢僧リシャールは、彼への告解者(信徒)たちが評判を落としている一方で、彼自身災厄の日々に陥っていた。ポワティエの教区内の司教代理と異端審問官は彼に説教することを禁じてしまったのだ。 多くのクリスト教の人々を改宗(転向)させていた偉大な雄弁家は、最早、遊戯卓と骰子 や女どもの華美な服装や、贅沢な衣装で盛装させられたマンドラゴラを激しく非難することができなかった。最早彼は、差し迫ったこの世の終わりの先触れとなるキリストの敵の到来や恐るべき審判に対しての魂の備えを布告することもできなかった。 彼はポワティエのフランシス会の修道院内にて禁錮状態に置かれるよう命じられた。そして、彼の上司の宣告に彼は不承不承ながら従ったことは疑いない、というのは、千四百三十一年の三月二十三日の金曜日に、ポワティエの高等法院から判決の執行に当たっての助言を求められた管轄の主教と異端審問官とは、それを拒否しなかったことを我々は見いだすからだ。 なぜ聖教会は、罪深い魂を揺り動かすあのように驚異的な力を授かった一人の説教師に向けて苛酷な刑を強いたのか? いずれにせよ我々はその理由を訝しく思っても当然であろう。暫くの間、英国及びブルガンデイ方の聖職者は彼を背教と魔術使いの廉 で告発していた。 いまや、世界的な教会の統一と特にガリア教会(フランスのローマカトリック教会)の統一のお蔭で、またキリスト教国土の輝かしき太陽、パリ大学の権威のお蔭で、ある一人の聖職者がイギリスやブルガンデイ党の博士によって誤謬や異端を疑われた時には、彼はシャルル王に忠実なる聖職者たちによっても疑いの目をもって見られるようになった。特に、カトリックの信仰に触れるような事項においてであるときはそのようであり、パリ大学は彼に向って不利なそして英国人好みの判決を下していた。ポワティエの聖職者たちが、ピエロンネの自白によってそして『乙女』の裁判によって、托鉢僧リシャールにたいして偏見を持っていたということは大いにありうる事である。 説教に於いてこの世の終わりを始終繰り返した、その善良なる修道士は、黒魔術を扱うものと強く疑われた。そんなわけで、彼を脅迫する運命を悟って、彼は遁走した、そして二度と彼の消息を聞くことは無かった。しかしながら、それにもかかわらず、シャルル王の顧問官等は軍隊に敬虔な神に身を捧ぐ者を雇い入れ続けた。 托鉢僧リシャールと彼の伝道教団が消え去った時、彼らは、ランスの公爵兼王国掌璽大法官たる大司教猊下がジャンヌの奇蹟の後継者たるべしと宣言した若い羊飼いを利用していた。そして、その羊飼いは彼の能力を示すことを許されていた、というのがそれに引き続く状況であった。 戦争は続いた。ジャンヌの死から二十日後、英国人は Louviers(ルビエ、ルーアンの南約20km) の町を奪い返すために強大な勢力で行軍した。彼等はそのときまで先延ばしにしていたが、それは或る者が述べていたように(言によれば)、彼等は乙女の生きている限り何も成功しないと諦めていたからというわけではない。しかし、軍資金や攻城機械を調達するための時間が必要であったからだ。 この同じ年の七月と八月に、サンリ(Senlis)とボーヴェー(Beauvais)に於いて、フランス掌璽大法官のランス大司教とブーサック元帥とはフランスの大義を支持していた。そして我々はランス大司教は少なからぬ熱意でそれを支援していた、彼にとって親しみの有った受禄任地(聖職禄)を防衛していたと同時に、と確かに信じて良い。 一人の少女が一度は失われたそれらを再征服していたが、いまや彼は一人の若者にそれを防御させようとしていた。この目的のため、彼はギヨームと言うロゼール山脈からやって来た年若い羊飼いを利用した。その羊飼いは、アッシジの聖フランチェスコやシエナの聖カタリナと同様に、聖痕を受けていた。フランス党の人々は 摂政がマント(Mantes)にあって そして今にも彼を捕虜として捕えようとしていることに仰天した。 ルビエを包囲していた軍隊にその警告は与えられた、そして二三の武装兵の部隊が急派された。彼等はマントへ急いだ、そこで彼等はすでに摂政がパリに到達するのに成功していたことを知った。その上、グルネー(Gournay)と他の英軍の守備兵とから補強されていたので、二千もの軍勢となり、ワーウイックやアランデルやソールズベリーやサフォークの伯爵等や、タルボット総督やトーマス・キリール卿に率いられて、英国軍は大胆にもボーヴェーへ向って進軍した。彼等の接近を知らされたフランス勢は夜明けに町を離れ、彼等と会敵すべくサヴィニー(Savignies)の方角へ軍を進めた。シャルル王の軍勢は八百から一千の間の戦闘員を数え、ブーサック元帥とラ・イール、ポトン其の他の隊長たちに率いられていた。 彼等が神から遣わされたと信じており、そして手足と左の脇腹に不思議な傷(聖痕)を呈していた、羊飼いのギヨームが、馬に横乗りして彼らの先頭に立っていた。 彼等が町から約二哩半に来た時、丁度彼等がそれを予期していた時だが、彼等の上に矢の雨が降り注いだ。英国軍は、彼等の斥候によってフランス軍の接近を知らされており、街道のくぼ地で彼等を待ち受けて潜んでいた。いまや英国軍はフランス軍を先頭と殿 の両方から接近して攻撃した。双方が勇敢に戦った。相当な員数が殺害され、それは逃亡者を除き殆ど戦死する者はいないその時代の大抵の戦いの場合とは異なっていた。 しかし、自身が取り囲まれたと思ったフランス軍は恐慌状態に陥った、そしてかくて彼ら自身の破滅がもたらされた。彼らの多くは、ブーサック元帥とラ・イール隊長と一緒に、ボーヴェーの町へと逃げ帰った。ポトン(ジャン・ポトン・ド・ザントライユ)隊長と羊飼いのギヨームとはイギリス軍の手中に残り、彼等イギリス軍はルーアンへ凱旋した。 ポトンは通常の習慣に従って、身代金を払って解放されることを確約された。しかし小さな羊飼いにはそんな運命は望みようがなかった。彼は異端と魔術使いとが疑われていたのだ。彼は基督教徒の人々を欺き、彼等から偶像崇拝的な崇敬を受けていた。彼が身の上に持っていた我等が救世主の受難のしるし(聖痕)は、彼を少しも助けはしなかった。それどころか、神聖に刻まれたものとフランス人によって認められていたその傷は、イギリス人どもにとっては悪魔の刻印に見えたのだ。 ギヨームは、乙女と同様、ボーヴェーの教区にて捕えられたのであった。この町の大僧正、ピエール・コーション閣下は、ジャンヌを審理する権利を主張した人物だが、ギヨームに対しても類似の権利主張をした。そして羊飼いはかつて乙女が拒絶されたことを許されて、教会の牢に投じられた。彼はジャンヌよりも保護する困難さは少ないように、また、重要性も薄いと見えたのであろう。しかし英国人は近頃になって、異端審問による審理に伴うものを学んでいた、彼等はいまやその異端審問が如何に長期間を要し如何に形式ばっているかを知った。更にその上、彼等は、この羊飼いが異端を宣告された場合に、どのようにそれが彼等に利をもたらすのかが分っていなかったのだ。もしフランス軍が彼等の戦争における成功の望みを、ジャンヌに成したと同じくギヨームに託していたのなら、そのときこそその望みは束の間のものであっただろう。 彼等の羊飼いの若者は悪魔からもたらされたと証明することでアルマニヤック方に恥をかかせようとすることは、割の合わない手間だった。その若者はルーアンからパリへ向かって連行された。 ヘンリー六世王が九歳のとき、パリにやって来てノートル・ダム教会にてフランスとイングランドの二つの冠を戴冠したとき、ギヨームは四ヶ月に亘り虜囚となっていた。十二月十六日の日曜日、非常な壮麗と大いなる喜びをもって彼は市(まち)に入城した。その行列のポンソー・サン・ドニ通りの道筋沿いには泉が作られ、三人のセイレーンで飾り立てられ、そして彼女等の中ほどから背の高い百合の茎が立ちあがり、その蕾と花からはワインとミルクが流れ出していた。人々はその泉の飲み物に群がり、そしてその水盤の回りでは、野蛮人に仮装した男たちが、遊戯や見せ掛けの戦いで人々を慰めた。 サン・ドニ門(聖ドニイ門)からマレ地区のサン・ポール館まで、幼い王は、金色の百合の花が刺繍された見事な空色の天幕の下にて騎行した、頭巾と紫衣を纏った四人の参事会員に先導され、それから 組合員や呉服商、食料雑貨商、両替商、金細工職人、靴下製造業者たちによって。 彼の前には二十五名の先触れと二十五名の喇叭手とが進み、九人の立派な男と九人の美しい婦人が続いた、彼等は堂々とした装甲を纏い大きな盾を携え、九人の勇敢な騎士と女武者を表していた、また、多くの騎士と従者とが続いた。この華麗な行列の中に、哀れな羊飼いのギヨームが現れた、彼はもはや受難の傷痕を見せるために腕を伸ばすことは無い、彼は強固に縛られていたからだ。 儀式の後で彼は牢に連れ戻された、その場所で彼は囚われの身となり、後にはとうとう袋の中に縫い込まれセーヌ川に投げ込まれたのだった。フランス人が、ギヨームが薄のろでそして彼の使命は神からもたらされたものでないと認めたのにもかかわらず。 千四百三十三年に大元帥リッシュモンは、シシリーの女王(シャルル七世の義母、ヨランド・ダラゴン)の協力の下、ラ・トレムイユの逮捕と暗殺の首謀者となった。シャルル王の顧問官たちに任命しそして後には彼等を殺してしまうのが当時の高貴な人々の慣例だった。しかしながらラ・トレムイユの死の原因となる筈だった剣は、彼の肥満の故に、死に至る傷を負わせるのに失敗した。彼の命は助かった、しかしながら彼の権勢は死んだ。シャルル王は、嘗てラ・トレムイユの父祖の所業を黙認したと同様、大元帥の行為を黙認した。 後者(ラ・トレムイユ)は彼の背後に掴み取っていた名声を遺したが王国の繁栄には無関心であった。おそらく彼の最大の失敗(誤算)は、戦争と掠奪の時代に統治を行ったということだ、当時は友人たちも敵たちも同様に王国を貪 り喰っていたのだ。 彼は『乙女』の破滅に責任があるとして非難された。彼女に彼は嫉妬していたと言われていたのだ。この非難は、宮廷侍従長を好ましく思っていないアランソン家から発せられた。それとは反対に、これは認めないわけにはいかないが、掌璽大法官に次いで、ラ・トレムイユは乙女を利用するのに最も積極的だった、そしてもし後に彼女が彼の計画を挫折させたのだとしたら、英国の手によって彼女を破滅させることが彼の意図だったと証明するものは何もない。彼女は彼女自身の熱意によって身を滅ぼしそして焼き尽くされたのだ。 是非はどうあれ(事の是非はさておき)、宮廷侍従長は悪人だったと看做された。そして、王に寵愛された彼の後継者、リッシュモン公爵は、強欲で、辛辣で、凶暴で、信じられぬほど愚かで、無愛想で、意地悪く、常に疲れきっていてそして不満を抱いているにもかかわらず、その交替は一切の損失がないようにみえた。大元帥は幸運な時にめぐり合った、その時ブルガンディの公爵はフランスの王と和平に同意していたのだ。 あるカルトゥジオ修道会の会士の言の中には、モントローの橋の上でジョン公の頭に開けられた穴によって王国に入っていた英国軍は、フィリップ公の手によって漸く王国を保持していた、とある。彼等は数においては僅かであり、そしてもし巨人が腕を振り回していたら彼等を吹き飛ばす(一掃する)に十分であったでだろう。摂政(ベッドフォード公)は歎きそして憤怒のうちに死んだ、ヘンリー六世王についての星占い「エクスターはモンマスの勝ち得たものを失うべし」の成就を眺めて。 [※ 訳注:ヘンリー五世は、ウェールズのモンマスにあるモンマス城で生まれた。] 千四百三十六年の四月十三日に、リッシュモン伯爵はパリに入城した。ブルゴーニュ方の吏員やカボシュ党の博士たちの乳母なる、パリ大学はそれ自身、和平の調停に助力していた。 さて、パリがその忠誠をシャルル王へ復してから一ヶ月後、ロレーヌ地方に或る妙齢の娘が現れた。彼女は二十五歳位だった。これまで彼女はクロードと呼ばれていた。しかし今やメッスの町の様々な貴族たちに彼女は自らを『乙女ジャンヌ』として自己紹介したのだった。 この時点で、ジャンヌの父親と長兄とは既に亡くなっていた。イザベル・ロメエは生きていた。彼女の二人の年若の息子たちはフランス王に仕えており、フランス王は彼等を貴族階級に取り立て、そして彼等にデュ・リュスの名を与えていた。年上の方の、小ジャン(プチ・ジャン)と呼ばれた、ジャンはヴェルマンドワの市参事会員に、それからシャルトルの奉行に任ぜられていた。この年、千四百三十六年頃には彼はヴォークルールの監督兼司令官であった。 年下のピエール或いはピエロットは、ジャンヌと同時にコンピエーニュの前でブルガンディ勢の手に落ちてていたが、丁度ヴェルジーの私生児の牢獄から解放されたところだった。 [※ 訳注:高山一彦の著作79頁によれば、この時点でピエールはまだ虜囚であったと指摘されている。そして下記のように兄弟二人でその女性に会ったというのは誤りとしている] 兄弟は二人とも彼等の妹はルーアンで火刑に処せられたと信じていた。しかし彼らは彼女が生きていて会いたがっていると聞かされたとき、彼らはセイルとモーゼルとの間で、メッスの南およそ二哩半の、ラグランジェ・ド・オルメという、サブロン(Sablon) の草原にある村で出会うことを約束した。 彼らはこの場所へ五月二十日に到着した。そこで彼らは彼女と会って即座に彼らの妹であることを認めた、そして彼女は彼等を彼女の兄たちであると認めた。 彼女は、メッスの或る貴族たちに付き添われていて、その中には立派な貴族のニコル・ローウェ閣下がいた。かれはシャルル七世の侍従官だった。いくつかの証拠によってこれらの貴族たちは彼女が嘗てシャルル王をランスで戴冠させた處女ジャンヌたるべしと認めた。 これらの証拠は皮膚の上のしるしだった。当時一つのジャンヌに関する預言があって、それは彼女に耳の下に小さな赤い点(あざ)があると述べていた。 しかしこの預言は、それが言及する事象のあとに創作されたものだ。それ故に私たちは『乙女』にはかようなしるし(あざ)があったと信じてよいだろう。これがメッスの貴族たちに彼女を認めさせたしるしであろうか? 我々は彼女がどんな手段で死を脱したと主張したのかを知らない。しかし彼女は彼女の救出をその聖性に帰したと考えるべき理由がある。天使が火から彼女を助け出したのだと彼女は言ったのか? ものの本からは、どのように古代の円形競技場で獅子 が処女たちの素足をおとなしく舐めたのか、どのように煮 え滾 った油が聖なる殉教者の体にとって香油のように心地よかったのかが読みとられるかもしれない。そして多くの古い物語によれば、神の乙女たちの命は剣によって一切縮めることができなかったかを。 これらの古代の歴史は確固とした根拠に基づいていた。しかしその様な話が十五世期のことを物語っていたとしたら、それらはいささかより信用に劣る様相ではなかったのではないか。そしてこの娘は彼女の冒険を飾る為にそれらの伝承を利用したようには見えない。彼女はおそらく他の女が彼女の代わりに焼かれてしまったのだと言うに止 めただろう。 後に彼女がした告白によれば、彼女はローマから来た、そこで戦争の身支度を着用して、彼女は教皇エウゲニウスの軍隊において勇ましく戦っていたとのことである。彼女はロレーヌ人にそこで彼女が達成した武勲を語ることさえしていたかもしれない。 いまやジャンヌは予言されていた(少なくともそのように信じられていた)、彼女は異教徒との戦いに於いて死ぬのだと、そして彼女の外套はローマの乙女の上に落ちるのだと。しかしその様な説は、もしそれがこれらのメッスの貴族たちに知られていたならば、それは彼女の真実の証拠だというよりもある詐欺行為だとしてこの所謂ジャンヌを公然と非難(告発)する可能性の方が高かったであろう。これが如何なるものだったにせよ、彼らはこの女が彼等に話したことを信じた。 おそらく、共和国の多くの貴族と同様に、彼らはブルガンディ公よりはシャルル王により傾いていた。そして我々は確信してよい、彼等が高潔な(騎士道的な)騎士であったと同様に、彼らがどこでそれを見つけようが彼らは騎士道精神(勇敢な行為)を尊重した。そういうわけで、彼女の武勇故に彼らは『乙女』に感嘆したのだ。 ニコル・ローウェ閣下は彼女に馬と一対の長靴下を与えた。その長靴下は三十フランの値——ほとんど国王に相応しい金額——であったし、ソワッソンとサンリで王が乙女ジャンヌに与えた二頭の馬の代価は、一頭は三十八リーブルと十スー、そしてもう一頭は三十七リーブルと十スーだった。彼女が嘗てヴォークルールにて提供された馬に払われたのは十六フラン以下であったのに。 その町の長官ニコル・グログノーはデュ・リュス兄弟の妹に一ふりの剣を与えた。オーベール・ブレは頭巾を贈った。もし我々が幾分伝説的な物語を信じるならば、彼女は七年前にロレーヌの老公爵を驚愕させたのだが、それと変わらぬ技量で馬を乗りこなした。そして彼女はニコル・ローウェ閣下にある言葉を言ったがそれは、彼女は実際に嘗てフランスへ向けて出発した乙女ジャンヌその人なのだ、との彼の確信を裏付けて強めた。彼女は女預言者の雄弁を持ち、そして象徴や寓話で語り、彼女の意図は一切洩らすことは無かった。 彼女の力は洗礼者聖ヨハネの日より前には現れなかったと彼女は言った。いまやこれは、千四百二十九年のパテーの戦いの後で、乙女がフランスにおけるイングランド勢の絶滅を指定したまさにその時であった。 この予言は未だ成就しておらずその結果再び述べられることはなかった。もしジャンヌが既にそれを口にしていたとしたら、そして彼女がそうしたことは極めて可能性が高いのだが、彼女はそれを忘れた最初の人だったに違いない。さらに、聖ヨハネの日は、賃貸借契約や、市 や売買契約や雇用契約その他でよく引合いに出される期日であった、そして女予言者の暦は労働者のそれと同じものであったであろうことはかなりの確度で考えられることである。 彼等がラグランジェ・ド・オルメに到着した次の日、即ち、五月二十一日の月曜日に、デュ・リュス兄弟は、彼等が妹だと支持した彼女を、嘗てロベール・ド・ボードリクール卿に会うためにイザベル・ロメエの娘が目指して出かけた、あのヴォークルールの町へ連れていった。この町に千四百三十六年には、リロイ夫婦や、領主オーベール・ドゥルシエら、千四百二十九年の二月にジャンヌと会っていた異なる身分の多くの人たちが未だ住んでいた。 ヴォークルールに一週間居たのち彼女はコルニー(コルニー・シュル・モーゼル)とポンタ・ムソンの間の小さい町マルヴィルへ行った。そこで彼女は聖霊降臨節とさらに三週間以上ジャン・クナの家で過ごした。彼女の出発の際には彼女は様々なメッスの住人の訪問を受けた、彼女がフランスの乙女であることを認めて、かれらは彼女に宝石を贈った。 思いだされることだろうが、ジャンヌはランスにおけるシャルル王の戴冠式のときに、メッスの様々な騎士たちに見知られていた。マルヴィルで、ニコル・ローウェの例に引き続き、ジョフロワ・デシュは「所謂ジャンヌ」に一頭の馬を贈呈した。ジョフロワ・デシュはメッスの社会で最も影響力の有る一門に属していた。彼は千四百二十九年に市の書記(国政書記官)であったジャン・デシュと縁続きだった。 マルヴィルから彼女は、ピカールによってリエンシェと呼ばれ後にはリエスのノートル・ダムとして知られた、リアンスのノートル・ダムへ巡礼した。リアンスでは、聖処女(マリア)の黒い像が崇敬されていた、それは、伝説によれば、聖地(イェルサレム)から十字軍の戦士たちによって運んで来られたものであった。 この像を安置した礼拝堂はラン(Laon)とランス(Reims)の間にあった。そこは、そこで司祭の役を務めた聖職者らによって、(代々の)王たちとその随行員たちがランスからの帰路に止まるのを慣例としていた、戴冠式行列の道筋の休止場所の一つだったと言われていた。しかし、これはどうも真実でありそうにないと思われる。 そこがそのような休止場所であったかどうかはともかく、メッスの信徒たちがリアンスの我等が貴婦人(聖母マリア)に特別な信仰心を示したことは疑いない。そしてそこは、イングランド軍の牢獄から脱出していたジャンヌがお参りして、ピカルデイの黒い聖母に彼女の奇跡的な救出の感謝を捧げるに相応しいように見えた。 そこから、彼女はアルロンへ行く道すがら、ブルゴーニュ公の結婚によりその伯母となってた、リュクサンブール伯夫人ゴルリッツのエリザベートの許へと赴いた。彼女は二度も夫に死に別れた老女であった。強奪と圧政とにより、彼女は彼女の臣下たちから嫌われるようなまねをしていた。この王女によってジャンヌは手厚く受け入れられた。そこにはなにも奇妙なことはなかった。 信仰に身を捧げた生活を過ごし奇蹟を行う人たちは引っ張りだこだった、秘密を解き明かしたり何等かの願望の成就を得たいと願う王子たちや貴族たちによって。そしてリュクサンブール伯夫人がこの娘が乙女ジャンヌそのものに他ならないと信じたのも理解できる、なぜならデュ・リュス兄弟やメッスの貴族たち及びヴォークルールの民衆らがその見解の持ち主だったからだ。 世間の大多数の人々にとって、ジャンヌの生涯と死は驚異と神秘に包まれていた。多くの者は最初から彼女が死刑執行吏の手にかかってすでに死んでしまっていることを疑っていた。幾人かは奇妙にもこの点について口が重かった。彼らは言った「イギリス軍はルーアンで彼女を公開火刑に処した、もしくは彼女に似たある他の女を。」 他の人々は、彼女に何が起きたのか知らないのだと告白した。 かくて、ドイツとフランスの隅から隅まで乙女は生きていてメッスの近くで見たものがいるとの噂が広がったとき、その音信は様々に受取られた。ある者はそれを信じ、他のものは信じなかった。アルルの二人の市民の間で起きた激しい論争は、その様な音信から誘発された興奮をおぼろげながら伝えてくれる。一人は『乙女』はまだ生きていると主張した。もう一人は彼女は死んだと断言した。どちらも自分の言うことが正しいということに賭けた。これは軽々しい賭けごとでは全くなかった、というのは、ラ・グランジェ・オ・ゾルムでの面会からたった五週間後の千四百三十六年六月二十七日、公証人立会いのもとにその賭けが成立し記録されたからだ。 一方、八月の初旬に、年長の方の乙女の兄、プティ・ジャンと呼ばれていたジャン・デュ・リュスは、乙女が生きていると知らせるためにオルレアンを訪れていた。この良き知らせの謝礼として、彼は彼自身と彼の従者(随行者)のために、ワイン十パイント(三升二合半)と鵞鳥の雛二羽、雌鶏十二羽、そして仔兎二羽を受取った。 その鳥たちは二人の行政官が贖ったものだった。 その一人の名はピエール・バラティンで、千四百二十九年のジャルジョー遠征のときの要塞の会計簿にその名が見られる。もう一人は六十六歳の老人で、裕福に過ごす自由市民でエイニャン・ド・サン・メスミン(Aignan de Saint-Mesmin)と言った。 シャルル公爵(ブルゴーニュ公)の町とリュクサンブール伯爵夫人の町との間を使者たちが往来していた。八月九日の一通のアルロンからの手紙がオルレアンに着いた。その月の半ば頃に一人の下級役人がアルロンに到着した。彼は、オルレアン市の紋章に敬意を表して、クール・ド・リスと呼ばれたが、それは一つの百合の蕾で、三つ葉模様の一種であった。オルレアンの行政官たちは一通の手紙を持たせて彼をジャンヌの許へ送った、ただしその中身は不明である。ジャンヌは彼に国王あての手紙を与え、その中で彼女は恐らく謁見を願い出たのだ。彼はそれを直ちにロッシュへ持って行った、そこではシャルル王が彼の娘のヨランドとサヴォワのアメデ王子との婚約を交渉しているところだった。 四十一日間の旅の後、その下級役人は、九月の二日に彼を派遣した行政官たちの許へ戻った。使者は大いに喉が渇いていると訴えた、それで行政官らは、彼らの習慣に従って、町役場でパンと葡萄酒と豆と生の胡桃とを彼に供した。この食事はパリ硬貨で二スーと四ドゥニエかかった、一方その下級役人の旅費は六リーブルであり、それらは翌月支払われた。その胡桃を提供した町の召し使い(従者)は攻囲の間も仕えていたジャケット・ルプレストル(Jacquet Leprestre)当人だった。八月二十五日に、乙女からの他の手紙を行政官たちは受取っていた。 ジャン・ド・リュスはまるで奇蹟を行う彼の妹が、実際に彼の許へ戻ってきたかのように振舞い続けた。彼は国王の許へ出向き、彼に向ってその素晴らしい吉報を報せた。シャルルはそれらを全く信じないことは出来なかったのであろう、というのは、彼はジャン・ド・リュスに百フランの心付けを与えるよう命じたからだ。すると即座にジャンは王の出納官にこの百フランを請求し、その出納官は彼に二十フランを与えた。勝利王の金庫はその時でさえ満杯というわけではなかったのだ。 オルレアンへ戻ると、ジャンは町議会に出頭した。彼は行政官たちに、彼が八フランしか所持していないことを確認させるために、彼と四人の従者がロレーヌへ戻るには決して十分ではない額の有り金を、差しだした。行政官たちは彼に十二フラン与えた。 そのときまで毎年、聖体祭りの前夜とその前日には、聖ザンクソン教会で乙女の記念日が祝われていた。千四百三十五年には、四つの修道会の八人の聖職者がジャンヌの魂の平穏のためにミサを歌った。この年、千四百三十六年には、行政官たちはあわせて九ポンド半の重さになる四つの蝋燭を灯した、そして、そこから『乙女』の(紋章を描いた)盾、すなわちフランスの王冠が描かれた銀の盾がぶら下げられていた。しかし彼等が、乙女が生きていると聞いた時、彼らは彼女を追悼する儀式の準備を取り止めた。 これらの事柄がフランスで起きている間、ジャンヌは依然としてリュクサンブール伯爵夫人と一緒に居た。そこで彼女はヴュルテンベルクのウルリッヒなる若い伯爵と会った、彼は彼女と別れて後に残すのを拒絶した。彼は彼女のために立派な胴鎧を作らせてそして彼女をコローニュに連れて行った。彼女は未だ自らを「神により遣わされたフランスの乙女」と称していた。 六月二十四日の洗礼者聖ヨハネの祝日から、彼女の神通力は彼女に戻った。ウルリッヒ伯爵は、彼女の超自然的能力を本物だと認めて、彼自身及び彼の友人たちのためにその霊能力を用いてくれるように彼女に切に要望した。とても論争好きであったので、彼はトレーヴの教区をばらばらに引き裂いている分裂騒動に深刻に巻き込まれていた。二人の高位聖職者が管区司教の座を頑固に主張していた。一人は マンダーシャイトのウダルリック で、その司教座聖堂参事会から任命されており、もう一人はシュパイヤーの司教、ヘルムシュタットのラバンで、教皇によって任命されていた。 ウダルリックは小さな軍勢を率いて出征し、彼自身がその真の保護者(羊飼い)だと称していたその町を二度包囲して攻め立てた。これらの行為はその教区のより広大な部分を彼の味方に引き寄せた。しかし年老いて衰えているとはいえ、ラバン司教もまた武器を持っていた。それらは精神的だが強大な力をもっていた。彼は彼のライヴァルの大義を信奉するような全てのことを禁ずる禁令を宣言した。 もっとも熱心なウダルリックの支持者たちの一人であったヴュルテンベルクのウルリッヒ伯爵は、彼に関して神の乙女に質問した。同様の事例が最初のジャンヌに提出されていた、彼女がフランスに居た時のことである。例えば、三人の教皇、ベネディクト、マルティン、及びクレメントの誰が真の教皇なのかと彼女は問われていた、そしてその問題に即座に宣託を下すことなく彼女は、パリに行ってそこで休息した後に、忠誠を尽くすのが正当な教皇を指名すると約束していた。第二のジャンヌはより自信を持って答えた。彼女は誰が真の大司教なのかを知っていると言明し、その彼を司教の座に就かせる積りだと言い触らした。 彼女によれば、それはマンダーシャイトのウダルリックであり、彼は参事会が任命していた人だった。しかしウダルリックがバーゼルの公会議に召喚されたとき、彼は地位の強奪者だと宣言された。そして決して変わることのない彼らの規則に定められていることを実行した、即ち——彼らは教皇の指名を正式に承認した。 不幸なことに、この論争における乙女の調停は、コローニュの宗教裁判所総長、ハインリッヒ・カルト・アイゼンの注意を惹いた、彼は著名な神学教授だった。彼は貴族の若殿から庇護を受けている人(自称ジャンヌ)に関して、市 で流布していた噂を調査した。そして彼は、彼女が見苦しい服装(男装)を着け、必要以上に飲食し、そして魔法を使うことを知った。彼は特に、或る集会でその乙女が食卓の掛布を引き裂きそして直ちにそれを元の状態に復してみせたこと、そして硝子杯 を壁にぶつけて壊しておいて彼女は驚異的な技でその破片のすべてを再び組み合わせて元に復したことなどを知らされた。 その様な所業はカルト・アイゼンをして彼女に異端と妖術との嫌疑を強く掛けさせた。彼は彼女を彼の法廷へ召喚した。彼女は出頭することを拒否した。この非服従は宗教裁判所長官の不興を買った、そして彼はその出頭義務違反者を連れてくるよう請求した。しかしヴュルテンベルクの若い伯爵は彼の館に彼女を匿 った、そしてその後で彼女を密かに町から出そうと画策した。 かくて彼女は、彼女が部分的にのみ模倣することにやぶさかでなかった彼女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の運命から逃れた。他に何も出来なかったので、その宗教裁判官は彼女を破門した。 彼女はアルロンの彼女の庇護者、リュクサンブール伯爵夫人のところへ逃げ込んだ。そこで彼女はティシェモンの領主、ロベール・ド・ザルモワーズと出会った。彼女は以前に彼に会っていたのかもしれない、春に、マルヴィルで。彼はそこに普段住んでいた。この貴族は多分、千四百十六年当時バール公領の知事だったリシャール卿の息子であった。彼のことは何も知られていない、彼がこの領地をバールの公爵の承諾を得ずに外国人へ明け渡したということを除いて。そしてそれからその領地は没収されて、それを征服することを条件にアプルモンの領主へ授与された。 ロベール卿のティシェモンの城がこの町の近くだったことをみれば、彼がアルロンにいたことは特別なことではなかった。彼は貧しかった、貴族の生れにもかかわらず。 所謂(似て非なる)乙女は彼と結婚した、明らかにリュクサンブール伯爵夫人の承認を得て。神聖なるコローニュの宗教裁判官の意見によれば、この結婚は命令に逆らってその女を保護し教会の剣 から彼女を守るためだけに結ばれたのだった。 彼女は結婚の後直ぐに、聖バルブ(サント・バルブ)門を挟んで聖セゴレーヌ教会の反対側にある、彼女の夫の家で暮らすためにメッスへ行った。これ以降彼女は、ティシェモン夫人、フランスの乙女、ジャンヌ・デュ・リュスだった。これらの名前で彼女は千四百三十六年の十一月七日付の売買契約書に記されている。それによってロベール・デ・ザルモワーズと彼によって公認された彼の妻は、コラール・ド・ファイイ(Collard de Failly) というマルヴィルに住んでいる郷士と彼の妻のポインセッテとにアロクールの所有権の四分の一を売っている。 彼らの親しい友人たち、即ち、ヴィレットの領主ジャン・ド・トネレッティイとマルヴィルの参事会長ソブレ・デ・デュン、の求めで、ロベール殿とジャンヌ夫人とは、まるで行商人のように、その有効性を証明するために契約書に彼らの印鑑を捺している。 聖セゴレーヌ教会の反対側で彼女が暮らしているときに、デ・ザルモワーズ夫人は二人の子供を産んだ。ラングドック地域のあるところに一人誠実な郷士(地主)がいた、彼はこれ等の出産のことを聞いた時、『乙女ジャンヌ』とデ・ザルモワーズ夫人とは一人の同一人物であり得るか否かを真剣に疑った。これは嘗てジャンヌの侍従武官であったジャン・ドーロンだった。彼が知っていた女性から受けていた知見によれば、彼は彼女が子供を設けるような類の女性であるとは信じられなかった。 ヴィエンヌ大学の神学博士であったジャン・ニーダー修道士によれば、この実りある結婚は駄目になった。ある牧師、彼に言わせれば、女衒と呼ぶ方がふさわしいような牧師だったが、彼女を愛の囁きで誘惑して奪い去った。しかしジャン・ニーダー修道士は、その司祭が密かにデ・サルモワーズ夫人をメッスに連れて行き、そこで彼女を彼の内縁の妻として一緒に暮らした、と付け加えている。いまでは彼女の故郷がまさにその町で会ったことが証明されている。それ故に我々はこのドミニコ会士ジャン・ニーダーは自分が何について語っているのか分かっていないのだと結論付けてよさそうだ。 その件での事実は、彼女は聖セゴレーヌの庇護の下に二年以上は留まらなかったということである。 彼女は結婚してしまったが、決して彼女の意志は予言や騎士道的行為を誓って止めることではなかった。(嘗てルーアンの)裁判の間にジャンヌは審問官に尋ねられた、「ジャンヌよ、もし汝の処女性を失うならば、汝の幸運は終わりそして汝の『声』は汝を見捨てるだろうということを、汝は明らかにされていなかったのではないか?」 (その時ジャンヌは答えて)彼女はその様な事柄が既に彼女に明かされていたことを否定していた。そして彼が執拗になって、彼女がもし結婚していたとしても彼女の『声』は依然として彼女の所へやって来ると信じているか否かを尋ねられたとき、彼女は立派なキリスト信者のように答えた、「私にはわかりませんが、神様にお願い致します。」と。 ジャンヌ・デ・ザルモワーズは同様に、彼女の結婚を理由として彼女を見捨ててはいないという良き運命を掴んでいた。さらには、預言書の時代には、ベテュリアのユディトのように、神聖な霊感によって行動した寡婦や既婚婦人の両方がいた。結局のところ、おそらく大そう偉大なことは何一つしてはいなかったのかもしれないが、カトリーヌ・デ・ラ・ロッシェル夫人もそうであった。 千四百三十九年の夏、デ・ザルモワーズ夫人はオルレアンへ行った。オルレアン市の役人たちは喜びと熱愛のしるしとして彼女に葡萄酒 と食事を提供した。八月一日に彼らは彼女に晩餐会を開き、包囲戦の間にその町のために彼女が果した尽力に感謝してパリ金貨二百十リーブルを贈呈した。これらは、その市の会計簿にこの支出が記入されているまさにその語句そのものである。 もしオルレアンの人々が本当に彼女を本物の『乙女ジャンヌ』だと思い込んだのだとしたら、それは彼ら自身の眼での確認というよりもデュ・リュス兄弟の証言がよりその理由となっていたに違いない。 というのは、そのことについて考えてみれば、彼らは彼女を見てはいたもの滅多に実際には見ていないからである。(オルレアン解放の奇蹟の)五月のあの週の間、彼女は鎧を着けそして馬上で彼らの前に現れていただけだった。その後千四百二十九年の六月と千四百三十年の一月には彼女は単に町を通り過ぎただけだった。 確かに彼女は嘗て葡萄酒 を供されたことがあり、町役人 たちは彼女と一緒の食卓についていた、しかしそれは九年前のことだった。そして九年の歳月の時の経過は女の顔に多くの変化をもたらす。彼等が最後に彼女を見たのは若い少女としてだった、いまや彼らは、大人の女性であり二人の子の母親としての彼女に相見 えているのだった。更に彼らは彼女の血縁の親族の見解に誘導されていた。 しかしながら、宴会での会話やその夫人が口にしたに違いないぎこち悪くつじつまの合わない発言について考えてみれば、彼らの態度には幾分の驚きを禁じえない。もし彼等がそれで真実を悟ることがなかったとしたら、これらの自由市民たちは大変無邪気であって彼らの客人をとても偏愛していたということに違いない。 そしていったい誰が、彼らはそうではないと言えようか? ジャン・デュ・リュスが持ってきた知らせを信用してしまった後では、町の住民は身元詐称を明らかにしようとはしなかったと、誰が言えようか? デ・ザルモワーズ夫人の訪問期間中に、ジャンヌの生存を信じることは決してその町では一般的ではなかったことは、我々が既に言及した市の会計簿に記入されている、その追悼儀式に費やされた支出の記載事項によって証明される。 千四百三十七年と千四百三十八年とを除外するとして、ともかく千四百三十九年には、聖体祭りの二日前に、追悼記念祭が開催されていた、そしてそれは八月一日の宴会のほんの約三ヶ月前だった。かようにこれらオルレアンの慈悲深き町役人たちは、一度にそして同時に、晩餐会にて恩人をもてなすとともに彼女の死を追悼してミサを唄っていたのである。 デ・ザルモワーズ夫人は彼らと共に二週間を過ごしただけだった。彼女は七月末近くにその市を立ち去った。彼女の出立はさぞかしせわしなく突然のことに見えたであろう。 彼女は夕食に招れた、そこで彼女は八パイントの葡萄酒 を送られるはずだった、しかし当の葡萄酒 が出された時彼女は既に立ち去っていた、そしてその晩餐会は彼女抜きで催されたのだった。 ジャン・リュイリエとテバノン・ド・ブールジュが出席していた。このテバノンという御仁はあの包囲攻撃の間ジャンヌの兄たちが一緒に暮らしていたあのテブニン・ヴィルダールかもしれない。ジャン・リュイリエについては彼は若い反物屋であり、千四百二十九年の六月に、乙女にガウンを仕立てるための紫色の見事なブリュッセルの織物を提供していた。 デ・ザルモワーズ夫人はトゥールに行ってしまった。そこで彼女は自分が本当のジャンヌだと触れ込んだ。彼女はトゥールの代官に国王あての手紙を与えた、そしてその代官はそれが(嘗ての)王太子へ届けられるのを見届けることを請け負った。国王はその時オルレアンに居り、ジャンヌが出発したほんの少し後にそこへ到着していたのだった。千四百三十九年当時、トゥールの代官は他でもないギヨーム・ベイリエであり、十年前にシノンの副官として『乙女』を家に受け入れて彼女を信仰深い彼の妻に委ねたその人だった。 [※ 訳注:この段落の二ヶ所の Touraine は誤記と考えた ⇒ Tours] この手紙を運ぶ使者へ、ギヨーム・ベイリエはまた彼自身の書いた国王宛ての報告書を与えた、そして「デ・サルモワーズ夫人の行為に言及」した。 その後直ぐに夫人は立ち去ってポワトゥに入った。そこで彼女は、フランス元帥ジル・ド・レイの殿様の部隊に身を置いた。彼はそのごく若い時に乙女をオルレアンに導いたその人であり、戴冠式巡行のあいだずっと彼女と行動をともにし、パリの城壁の前では彼女の傍らで戦っていた。ジャンヌが捕えられている間にかれはルビエを占領しており、そして大胆にルーアンへ攻め寄せていた。 いまや彼の広大な領地の至るところに亘って、彼は子供たちを誘拐し、道楽で魔術を組み合わせ、そして悪魔に対して彼は数え切れないほどの犠牲者の血と手足とを捧げていた。彼の怪物の如き醜悪な所業は彼のティフォージュ城(ナントの南東約40km)やマシュクル城(ナントの南西25km)の周りに恐怖を撒き散らした。そして既に教会の手が彼の上に伸びていた。 コローニュの聖なる宗教裁判官によれば、デ・ザルモワーズ夫人は魔術を行うのを常としたということだ。しかしド・レイ元帥が彼女を雇ったのは悪魔の召喚者(祈祷師)としてではなかった。彼は武装歩兵を差配する統率者に任命した、それはかつてジャンヌがラニーとコンピエーニュで占めていたのと幾分同等の地位なのだった。彼女は多大な武勇を披露したか? 我々には分からない。何れにしても彼女はその公職に長いあいだ止まることは無かった。そして彼女の後でその地位は或るガスコーニュ人の郷士、ジャン・ド・シケムヴィルに与えられた。 この二年半近くの間、偉大な都市(パリ)はシャルル王に忠誠を示していた。彼はその市 に入っていたが、しかし彼はその繁盛を保つことに失敗していた。何処でも荒れ果てた家が廃墟となって崩れ落ちていた。郊外の宅地には狼たちが侵入してそして幼い子供たちを貪り喰った。 つい先頃までブルガンディ方であった町の人々は、いかに托鉢僧リシャールとアルマニャック勢とが一緒になって聖母生誕祭の日にその都市を攻撃していたかを全く忘れ去ることはできなかった。彼女(乙女ジャンヌ)のもたらした災厄に耐えしのび、そして彼女の罪のために彼女は火刑に処されてしまったのだと信じるものが数多くいたことに疑いはない。しかし彼女の名はもはや千四百二十九年の頃のような世間一般の非難を励起させはしなかった。 彼女の以前の敵たちの間でさえ、ある者は彼女が自分の君主の大義のために殉死したのだと見做 した。 ルーアンででさえその様な考えが知られていないわけではなく、ましてや最近になってフランス方に転向したパリ市ではさらにそれが支持されがちであった。ジャンヌは死んでいなかったのだ、オルレアンの人々によって既に彼女はそれと認められていて、そしてパリにやって来る最中なのだという噂に、パリの下級層の人々は興奮し、そしてひと騒動起こる気配となっていた。 (パリ)大学の心は千四百三十一年当時ランカスター家のヘンリーの下についたのと丁度同じように千四百四十年にはヴァロワ家のシャルルにひれ伏していた。大学は、特権の保護者でありフランス教会の自由の守護者たるフランスの王を褒め讃え敬った。著名な大家たちは、謀反人かつ異端者の乙女ジャンヌを折檻することを要求し獲得していたことに就いて、なんの良心の呵責を感じなかった。誰であれ誤りについて固執する者は異端者であり、権勢を持つものとして存在する者たちを屈服させようと試みて失敗するものは皆謀反人である。 千四百四十年にはヴァロワ家のシャルルがパリの市 を所有することは神の意志だった。千四百二十九年にはそれは神の意志ではなかった。そういうわけで『乙女』は神に逆らって戦っていたのだった。同様の辛辣さで大学は、千四百四十年に、英国人の乙女を訴えていた。 ポワティエでの長く憂鬱な亡命生活からパリの彼らの自宅へ戻ったお役人たちは、改心したブルガンディ方の者と並んで王立裁判所 の席に着いた。逆境の日々に於いてシャルル王に忠実なこれらの奉仕者たちは『乙女』に仕事をさせていた、しかし千四百四十年の今、彼女の使命と彼女の信仰が純粋であったことを公に擁護(支持)するのは彼らの預かり知らぬ事であった。イギリス軍によって火あぶりにされた、そのことは全く好都合であった。 しかし(パリ)大学の同意を得て一人の司教と一人の宗教裁判所副長とによって指導監督された裁判はイギリスの裁判ではない。それは元々フランスの裁判であると同時に元々カトリック教会の裁判である。ジャンヌの名前は永遠にキリスト教国土中で汚名を着せられていた。 その宗教裁判の判決は教皇ただ一人のみによって覆されえた。しかし教皇はこれをしようという意志は全くなかった。彼はカトリック教徒である英国王の不興を買うことを過大に過ぎるほど恐れていた。そして更に異端裁判官が誤った判決を宣告していたと認めたとしても、彼は(誰であれ)皆の人間の権威を傷つけるようとはしなかっただろう。 フランスの聖職者たちはおとなしく服従し沈黙している。聖職者の集まりでは誰も敢えてジャンヌの名を口にする者はいない。 幸いにも、彼等大学の博士や修士たち若しくは嘗てのポワティエの高等法院(王立裁判所)のお歴々のどちらも、デ・ザルモワーズ夫人に関する一般大衆の思い込みを共有していない。彼らはかの『乙女』がルーアンで火あぶりに処せられたことを全く疑っていない。そして彼らはオルレアンの解放者だと自らを触れこんでいるこの女が(パリの)市 に彼女が入ることによって騒動を起こしはしないかと恐れている。 そんなわけで王立裁判所 とパリ大学は彼女を出迎えるべく武装兵たちを使いに出した。彼女は拘束されてパリに連れてこられた。 彼女は尋問され、審理されて、そして公衆に晒すべしとの判決を受けた。王国裁判所(the Palais de Justice)の中で、"Cour-de-Mai" (五月の法廷)と呼称される法廷からの道続きに、犯罪者が晒された分厚い大理石の台がある。デ・ザルモワーズ夫人はそこに載せられそして彼女が欺いていた世間の人々にむけて晒しの刑に処せられた。通例の訓戒が彼女に説諭されそして彼女は公衆の面前で告解するよう強要された。 彼女は『乙女』ではないと宣言し、彼女はある騎士へ嫁いでいて二人の息子がいることを告白した。彼女はどのように或日、彼女の母親の居るところで、彼女はある女が彼女のことを侮蔑して話すのを聞いたかを語った。そんなわけで彼女はその誹謗者を攻撃し始め、そして、彼女の母親が彼女を制止したときに彼女は親に向ってこぶしの向きを変えた。彼女が受難に遭わなければ彼女は決して彼女の母を打ったりしなかっただろう。 この挑発的な態度にもかかわらず、それは特殊な事態であり、ローマ教皇の裁判権を留保するものであった。父親か母親に手を挙げたものは誰でも、司祭或いは聖職者に反抗したのと同様に、ローマ教皇(聖なる父親)の許へ行って許しを求めなければならない、ローマ教皇にのみ(道徳あるいは宗教上の)罪を犯した者を有罪と宣告或いは無罪判決を言い渡す権限が属しているのである。これが彼女が行ったことだった。 「私はローマへ行きました、」と彼女は言った、「男の衣裳を着けて。私は教皇エウゲニウス様の戦争に兵士として従事しました、そしてこの戦争に於いてわたしは二度殺人行為を犯しました。」 (パリ)大学にしろ、(裁判権をもつ)司教にしろ、宗教裁判所総長にしろ、魔法や殺人を疑われてそして不穏当な服装で着飾っていたこの女の審理を請求した様子はない。彼女は異端者としては起訴されなかった。恐らく彼女は頑迷ではないという理由によるものであろう、それに頑迷であることのみでは異端とはならないからだ。 これ以降は彼女は更に注目を惹くことは無かった。特段信頼すべき証拠は一切ないのであるが、彼女はメッスへ、デ・サルモワーズの騎士たるその夫の許へ戻って生涯を終えたと信じられている。そして彼女は善良な余生に見合うべく静かに堅実に暮らした、扉の上に彼女の紋章、もっと正しく言えば乙女ジャンヌの、即ち剣と王冠と百合とを配した紋章を冠した邸宅に住まって。 この詐称は四年の間うまくいっていた。結局のところ、それはそんなに驚くようなことではない。いつの時代であれ、民衆は彼等の想像を掻き立ててきた存在の最後の終末(死)を信じることを嫌がってきた。 彼等は、偉大な個性の持ち主が普通の人々と同じような死によって斃れ得ることを認めようとはしないのだ。 高貴な経歴の人がその様な最後を迎えることは、彼等にとって相容れないものである。デ・サルモワーズ夫人のような身元詐称者は、彼等を信じようとする者を見つけるのに失敗することは決してない。そして夫人は、その様な錯覚(妄念)にとって目立って有利な時に現れたのだ。識者たちは長い苦しみによってぼんやりとなっていた。ある地区と他の地区との間で情報を伝達するのは不可能かもしくは困難であって、そして在る場所で起こったことは、直ぐ手の届くところでさえ全く知られずじまいだった。人々の心の中は、ぼんやりした薄暗さや無知や困惑に支配されていたのだ。 しかしその時でさえ、もしデュ・リュス兄弟によって彼女が支持されていなかったならば、人々はこの「贋ジャンヌ」によってそう長く騙され続けたわけではなかっただろう。彼等兄弟は彼女の『かも』か或いは『ぐる』だったのか? 彼等がそう見えたように頭が鈍かったとしても、女冒険者が彼等を騙すことができたとは到底信じられないように思われる。 彼女がロメエの娘ととてもよく似ていたとはいえ、La Grange-aux-Ormes (ラ・グランジェ・オウ・オルメ)から来たその女が、ジャンヌを近親として見知っており彼女と共に育ち共にフランスへ来たという、二人の男をそんなに長い間欺くことはできようはずは無い。 若し彼等が騙されたのでないならば、さすれば彼等の態度を我々はどう説明できるのか? 彼等は妹を失ったとき大いに損害をうけていた。彼がラ・グランジェ・オウ・オルメに着いた時、ピエール・デュ・リュスはちょうどブルガンデイ方の捕虜の身から解放されたところだった。彼の身代金は彼の妻女の持参金で贖われていた、そしてかれはその時全くの極貧にあったのだ。ヴェルマンドワの市参事会員のジャンは、後にはシャルトルの奉行となりそして千四百三十六年にはヴォークルールの参事会員となったが、けっしてより裕福であったわけではない。 その様な状況が多くのことを説明づけた。そして、孤独で無援な彼ら自身がそのように難しく、リスクの多い、そしてその様に危険な駆け引きを演じるのは、どうも似つかわしくない。彼等の生涯について我々が知っている僅かなことを手掛かりとすると我々は、彼等は二人ともその様な悪巧みを実行するにはあまりにも単純で、あまりにもうぶであったと結論すべきだ。 我々は、彼等が何らかのより高貴で強大な権力によって強制されたのだと信じる気にさせられる。一体誰が知っていようか? おそらく、フランス王の宮中に仕える或る思慮の足りない人物によってであろう。ジャンヌの有罪宣告と死は、シャルル七世の威信への深刻な攻撃であった。彼の王室のなかにもしくは彼の顧問官たちの間に、この乙女の出現をでっちあげるには十分無分別で抜け目のない或る臣下が、彼にはいなかったであろうか? 乙女ジャンヌは魔女として死んだのではない、むしろ彼女の清浄無垢と彼女の高潔さのお蔭で火中から抜け出していたのだと信じることを広く世に流布する目的で。 もしこれが事実そうであったならば、さすれば我々は、偽ジャンヌの詐欺行為は、千四百三十一年の審理に対して教皇の修正を得ることすら不可能に見えた時に、同時に創作されたのだと見做してよいだろう。彼女の復権をもたらすために、秘密裏に人を欺かんとして進められそして即座に中止された、一つの試みとして。 そのような仮説はなぜデュ・リュス兄弟が罰せられることも失脚することさえもなかったかを説明してくれる、彼等が自らを偽り、王や人々を欺き、大逆の罪を働いたときに。ジャンはヴォークルールの監督官を長い間続け、そしてそれから、公職を辞したときに、その代わりに少なからぬ額のお金を受取った。ピエールは、彼の母親ロメと同様、オルレアンに住んでいた。千四百四十三年に彼は、三年前にフランスへ戻っていたシャルル公(シャルル・ドルレアン)から、ロワール川の中に浮かぶ一つの島、牡牛島 、の下賜を受けた、それは良好な牧草地であった。 それにもかかわらず、彼は貧乏のままであった、そして常々公爵やオルレアンの町の人々から援助を受け取っていた。 <乙女 の死後 了> [(下篇 十六)へ続く] ———————————————————————————— 底本: ジャンヌ・ダルク 1917年 早稻田大學出版部 譯者: 吉江 孤雁 (喬松 )(1880.09.05 - 1940.03.26) ※ 吉江 孤雁に収録されていない未訳部分を Gutenberg Project 所収の英語版(1908) より重訳して掲載。 原著:Vie de Jeanne d'Arc 1908 著者:Anatole France (1844.04.16 - 1924.10.12) 英語版: The life of Joan of Arc 1908 英訳者:Winfred Stephens
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ジャンヌ・ダルク 下篇 十五、 乙女の死後 ——羊飼いの末路 ——デ・ザルモワーズ夫人 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 所収 / ジャンヌ・ダルク ( アナトオル・フランス著,吉江孤雁訳、早稲田大学出版部,大正6) には 未収録の章を、Gutenberg Project 所収の英語版(1908)、Part2, Chap.XV より重訳。
Japanese Translation by cygnus_odile
(縦書き表示 powered by 涅槃2(Nehan2-1.22)− 縦書き文庫提供)
履歴:
2012-07-15 : ブログ連載の対訳、「吉江孤雁訳 補完計画 その弐」 を縦書き化して WebSite に掲載。
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