ジャンヌ・ダルク

　　下篇

　　　八、　宗敎裁判しうけうさいばんとパリイ大學だいがく

　　　　　　——囹圄れいごの裡うちのジヤンヌ——新あたらしき豫言者よ　げんしや


［395頁↓］
　ジヤンヌがブルガンデイ方がたの手てに捕とらへられたと云いふ消息たよりは五月ぐわつの二十五日にちにパリイへ届とゞいた。パリイ大學だいがくではその翌日よくじつ、卽　すなはち二十六日にち、ジヤンヌをフランスの宗敎裁判副總長　しうけうさいばんふくそうちやうの手てに引ひき渡わたすやうにと云いふ召 喚 狀せうくわんじやうをブルガンデイ公爵こうしやくへ送おくつた。これと同時どうじに、宗敎裁判副總長　しうけうさいばんふくそうちやうの方はうでもこの俘虜ふ　りよには樣々さまざま異敎徒　いけうと臭くさい犯罪はんざいの嫌疑けんぎがあるから護送ご　そうしてくれるやう公爵こうしやくへ宛あてゝ書狀しよじやうを送おくつた。
「…… 威名赫々ゐ　めいかくかくたる公爵及こうしやくおよびその廟堂べうだうの諸侯伯しよこうはくに謹つゝしんで白まをす、希ねがはくは諸卿しよきやう一致ちの協力けふりよくを以もつて確實且迅速かくじつかつじんそくにその女囚徒をんなしうとを我等われらに護送ご　そうなし給たまはんことを。又然またしかする事ことに依よりて、眞しんの信仰しんかうの保護者ほ　ご　しやにして神威しんゐの擁護者ようご　しやたるの實じつを擧あげ給たまはんことを希望き　ばうして止やまざるなり……」と云いふ風ふうに書かいてやつた。
　このフランスの 宗敎裁判副總長 しうけうさいばんふくそうちやうはマルチン・ビヨーレエイ師しと云いつて、法王廳はふわうちやうの主要事務しゆえうじ　むに關與くわんよする托鉢敎團たくはつけうだんの一人ひとりなのであつた。つまりドミニツク派はの托鉢敎團たくはつけうだんに屬ぞくする人ひとであつた。このドミニツク派ははその源始はじまりから異敎征伐い　けうせいばつを以もつて聞きこえてゐる。インノケント三世せいの當時たうじ、宗敎裁判所しうけうさいばんしよで、アルビゼンスなどの異敎派い　けうはを全滅ぜんめつしつゝあつた頃ころには、このドミニツク派はの托鉢僧團たくはつそうだんは、敎會けうくわいや修道院しうだうゐんの懸繪かけゑや壁畫へきがには巨大きよだいな白黒犬ぶ　ち　いぬとして描ゑがかれた。卽すなはち異敎徒い　けうとなる狼　おほかみの咽喉の　どぶえに噛かみ付ついてゐる所ところの繪ゑである。十五世紀せいきのフランスに於おいては、ドミニツク派はは常つねに主しゆクリストの犬いぬであつた。監督等かんとくらと共同きようどうして異敎徒い　けうとを征伐せいばつした。宗敎裁判 副總長 しうけうさいばんふくそうちやうは自分自身じ　ぶんじ　しんの提議ていぎを打うち立たてる事ことも出來できねば、又何等またなんら裁判事件さいばんじけんを起訴き　そすることも出來できなかつた。敎會けうくわいに反抗はんかうする犯罪はんざいを審判しんぱんする權利けんりは、凡すべて監督僧正等かんとくそうじやうらの手てにあつた。信仰審判しんかうしんぱんの事ことに至いたつては二種しゆの裁判官さいばんくわん——卽すなはち常任判事じやうにんはんじ（これは監督僧正かんとくそうじやうが普通ふ　つうであつた）と宗敎裁判總長若しうけうさいばんそうちやうもしくは副總長ふくそうちやうが立たち合あふことであつた。
　處女をとめジヤンヌの事件じ　けんには、啻たゞに監督僧正 かんとくそうじやうが 宗敎裁判所しうけうさいばんしよをおだてるのみならず、諸王しよわうの娘むすめ、學問がくもんの母はゝ、フランス及および全ぜんクリスト敎土けうどの光運赫耀　くわうゝんかくえうたる太陽たいやう、卽すなはちパリイ大學だいがくも亦またおだてたのである。パリイ大學だいがくはパリイ市し或あるひはその附近ふ　きんの地方ち　はうで生起せいきした異敎事件若い　けうじ　けんもしくは敎理事件けうり　じけんに關くわんする特別とくべつの裁判事故さいばんじ　こに就ついては、自みづから専橫せんわうを 擅 ほしいまゝにした。パリイ大學だいがくの助言忠告じよげんちうこくは、有あらゆる方面はうめんから乞こはれた、そして天あまが下した十字架じ　かの敎をしへの打うち建たてられた限かぎりの所ところでは、その忠告ちうこくは確固不磨かくこ　ふ　まの權威けんゐを有もつのであつた。もはや一年ねんの間あひだ、數多かずおほき又篤學またとくがくなるパリイ大學だいがくの諸學者諸先生しよがくしやしよせんせいは、處女をとめジヤンヌを宗敎裁判所しうけうさいばんしよに引ひき渡わたすことこそ敎會安寧けうくわいあんねいの爲ために良よい事ことであり、信仰上しんかうじやうの利益り　えきを增ます事ことであるのだと、喧々囂々けんけんがうがうの論ろんをなしつゝあつた。何なんとなれば彼等かれらは處女をとめをかう疑うたぐつてゐた、——卽すなはち、彼女かのぢよは神かみから來きたのでなく、惡魔あくまの奸策かんさくに惑まどはし迷まよはされて居をり、又彼女またかのぢよは神かみの力ちからによつて行動かうどうせず、惡魔あくまの助たすけに依よつて行動かうどうし妖術えうじゆつに耽ふけり、偶像崇拜ぐうざうすうはいを實行じつかうする者ものであると。
　彼等學者先生かれらがくしやせんせいが有いうしてゐた所ところの神かみの事ことに關くわんする知識ち　しきや推理法すゐり　はふやは、この眞面目ま　じ　めなる疑念ぎ　ねんを彌々強いよいよつよからしめた。彼等かれらは自みづからの好このみからとか、或あるひは止やむに止やまれぬ事情じゞやうから、ブルガンデイ方がたやイギリス方がたに屬ぞくしてゐた。彼等かれらは一旦誓たんちかつたところのトロワ條約でうやくを忠實ちうじつに守まもつた。彼等かれらに對たいして至極鄭重慇懃し　ごくていちよういんぎんなるイギリス攝政せつせいに心身しんしんを捧さゝげてゐた。彼等かれらは、世界第せ　かいだい一の麗うるはしいパリイ市しを荒廢衰頽くわうはいすゐたいせしめたところのアルマニヤツク方がたを恐おそれ戰おのゝいた。而そして彼等かれらは、皇太子ドオーフアンシヤルルなる者ものは、最早も　はやその「百合ゆ　りの王國わうこく」フランスを繼つぐべき權利けんりを沒収ぼつしうせられたものと見做み　なしてゐた。
　それ故ゆゑに、彼等かれらはシヤルルの女騎士をんなきしたるアルマニヤツクの處女をとめをば卑いやしむべき無數む　すうの惡魔あくまに憑つけられて力ちからを有もつた者ものと信しんずるやうな傾かたむきを有いうしたのである。これらの大學だいがくの學者先生がくしやせんせいは、矢張や　はり人間にんげんであつた。彼等かれらは自みづから信しんずるに興味きようみあるものを信しんじた。氣きに向むいたやうに信しんじた。彼等かれらは元來僧官もともとそうくわんであつた。そして到いたる所ところに惡魔あくまの所在しよざいを見みたが、別わけても女をんなの衷うちには殊更ことさらさうであつた。この處女をとめの行爲かうゐや言葉ことばを深ふかく檢しらべても見みないで、彼等かれらは直すぐさま之これを宗敎裁判しうけうさいばんに附ふせよと要求えうきうするだけに彼女かのぢよのことを知悉ち　しつしてゐたとは不思議千萬ふ　し　ぎ　せんばんの事ことである。
　處女をとめは自みづから神かみの使者つかひ、神かみの娘むすめと呼よんだ、そして彼女かのぢよは饒舌おしやべりに見みえ、虚榮好きよえいずきに見みえ、老獪らうくわいに見みえ又またその身裝みなりは華美くわびに見みえた。彼女かのぢよはイギリス人じんを威喝ゐ　かつして、若もしフランス領土りやうどから立たち去さらなければ鏖殺みなごろしにするぞと怒鳴ど　なつた。彼女かのぢよは軍隊ぐんたいを指揮し　きしたので、それでその同胞人どうはうじんの殺戮者さつりくしやでもあり、向むかう見みずの勇者ゆうしやでもあつた。彼女かのぢよは治安妨碍的ちあんばうがいてきであつた、が、反對派はんたいはから言いへば、總すべて黨派たうはの爲ために盡つくす人々ひとびとは治安妨碍的ちあんばうがいてきであるまいか？　併しかしながら最近さいきんに於おいて彼女かのぢよは、異端い　たんにして謀反者むほん　しやなる托鉢僧たくはつそうリシヤールを同伴どうはんしてパリイ城門じやうもんに迫せまつて、若もし市民し　みんが降伏かうふくしなければ、慈悲じ　ひも用捨ようしやもなく殺戮さつりくしてしまふぞと威喝ゐ　かつした。しかもその強襲きやうしふは、聖母せいぼマリヤ誕生祭たんじやうさいの日ひであつたのだ。これは一體たい善靈ぜんれいに鼓吹こ　すゐされて爲なしたことか、又惡靈またあくれいに差圖さしづされて爲なした事ことか、嚴密げんみつな審査しんさを要えうするのであつた。
［398頁↓］
　ブルガンデイ公爵　こうしやくは敎會　けうくわいの利害問題り　がいもんだいには強つよい愛着あいちやくを有いうしてゐたに拘かゝはらず、この大學側だいがくがはよりの緊急要求きんきふえうきうに對たいしては返答へんたふをしなかつた。そしてジヤン・ド・ルクセンブルグ卿きやうは、コムピエニユ市外しぐわいの陣營中ぢんえいちうに三四日かの間處女あひだをとめを監禁かんきんして置おいて後のち、其處そ　こから五六里りほど隔へだたつたボオーリウ城じやうに彼女かのぢよを伴つれて行いつた。この人ひともその主君しゆくんに劣おとらず母敎會ぼけうくわいの從順じうじゆんな子こではあつたが、併しかし中々分別なかなかふんべつを有もつた人ひとなので、イギリス方がたとフランス方がたとがやつて來きてその孰いづれが澤山たくさんの身請金み　うけきんを申まをし込こむかを吟味ぎんみしよう爲ために、その儘待まゝまつことに決心けつしんした。
　ボオーリウ城じやうでは、ジヤンヌは鄭重慇懃　ていちよういんぎんな待遇たいぐうを受うけた。彼女かのぢよの元もとからの執事しつじがその身邊しんぺんに從ついて萬端ばんたんの世話せ　わをした。或ある日ひ執事しつじは氣きの毒氣どくげに彼女かのぢよに言いつた、——
「貴女あなたがあれほど思おもつてゐられましたコムピエニユの町まちも、 最早も　はやフランスの敵てきの手てに引ひき渡わたされるでせう、どうしてもあの市まちは敵てきに從したがはねばなりませんよ。」
「いやいや、さうはならない。 天帝てんていが私わたしを通とほして征服せいふくし給たまうて我わが御見事お　み　ごとなシヤルル王陛下わうへいかに從したがはせ給たまうた町々まちまちは、その一ひとつでも敵てきに奪うばはれはしない。神樣かみさまは十分ぶんにその町々まちまちを守護しゆごし給たまふのだよ。」と彼女かのぢよは答こたへた。
　或ある日ひ、彼女かのぢよは板いたの間まから身みを滑すべらして脱走だつそうを企くはだてた。彼女かのぢよは番人等ばんにんらを塔たふの中うちに閉とぢ込こめて置おいて野原の　はらへ出でようとしたが、門衞もんゑいに見附み　つけられて捕つかまつた。今遁いまにげることは神かみの御心みこゝろではないと判斷はんだんして彼女かのぢよは思おもひ止とまつた。それに拘かかはらず彼女かのぢよは非常ひじやうに自依心じ　い　しんが強つよかつた。それで絶望ぜつばうなどは決けつしてしなかつた。彼女かのぢよを驚おどろくべき會戰くわいせんや武士的冒險ぶし　てきばうけんに戀々れんれんたらしめむるものゝ如ごとき例れいの「聲こゑ」は、彼女かのぢよにイギリス國王こくわうに面謁めんえつしなければならぬと囁　さゝやき告つげるのであつた。かうして彼女かのぢよの樣々さまざまの夢幻　ゆめまぼろしは逆 境 中ぎやくきやうちうの彼女かのぢよを勇いさましめ、且かつ慰なぐさめるのであつた。

　　　　　　囹圄れいごの裡うちの處女をとめ

　我わが處女をとめの身みの上うへにふりかゝつた慘禍 さんくわを知しつた時ときにシヤルル王わうに忠誠ちうせいなるロワール河方面がははうめんの町々まちまちの人民じんみんの歎なげき悲かなしみは實じつに非常ひじやうなものであつた。人民等じんみんらは、彼女かのぢよを聖者せいじやとして尊敬そんけいしてゐた。彼等かれらは處女をとめを目もくして、聖母せいぼマリヤの次つぎに位くらゐする者もの、神かみの聖者中せいじやちうの最もつとも大だいなる者ものと思おもふまでに達たつしてゐた。彼等かれらは聖者堂せいじやだうに彼女かのぢよの肖像せうざうを揭揚けいやうし、彼女かのぢよの爲ために獻さゝげる禮拜會　マ　　ス　を制定せいていし、且かつ敎會けうくわいで唱となへる短句たんく祈禱き　たうを制定せいていしてゐた。彼等かれらは宛さながら羅馬敎會ローマ　けうくわいで既すでに彼女かのぢよに批准ひじゆんを與あたへでもしたかの如ごとく、彼女かのぢよの肖像せうざうを描ゑがいた鉛なまりのメタルを各々帶おのおのおぶることにしてゐた。彼等かれらはつひぞ彼女かのぢよを信しんずる信仰しんかうを失うしなはないで繼續けいぞくしたのである。こんな信仰深しんかうぶかいことから、パリイ大學だいがくの學者先生達がくしやせんせいたちは彼女かのぢよを誣しひて別べつに理由り　いうも無ないのに彼女かのぢよを非難ひ　なんした。「ジヤンヌは正統せいとうクリスト敎徒けうとを惑まどはすこと實じつに甚はなはだしく、遂つひに彼等かれらは彼女かのぢよを其面前そのめんぜんで聖者せいじやと賞ほめ讃たゝへ、そして今いまや彼女かのぢよが居ゐないやうになつたら、彌々益々賞いよいよますますほめ讃たゝへるやうになつた。」と學者先生がくしやせんせいは言いつたのである。
　これは實際眞實じつさいしんじつであつた。數多あまたの都市と　し、數多あまたの人民じんみんがさうしたのである。トールの町まちでは、町まちの顧問等こ　もんらが命令めいれいを出だして、處女をとめ救助きうじよの爲ために 公 おほやけの祈禱會きたうくわいを開ひらいた。それに次ついで町まちとしての行列ぎやうれつをも催もよほした。夫それには中央敎會ちうあうけうくわいの役僧等やくそうらを始はじめ町中まちゞうの僧侶そうりよが殘のこらず加くはゝつて、而しかも皆素足みなす　あしで行列ぎやうれつをした。
［400頁↓］
　シヤルル王下わうかの町々まちまちでは、朝夕あさゆふの禮拜勤行らいはいごんぎやうの時とき、處女をとめジヤンヌの爲ために祈禱き　たうをすることになつた。それには敎會堂けうくわいだうで會衆全體くわいしうぜんたいで唱となへる短句たんく祈禱き　たうと、各自かくじが自分じ　ぶんの室へやで唱となへる密室みつしつくの祈禱き　たうと、聖餐せいさんの後あとで唱となへるものが新あらたに制定せいていせられた。これは都市町々と　し　まちまちは云いふまでもなく、苟　いやしくもフランス王家わうけの恩恵おんけいを感かんずる津々浦々つ　ゞ　うらうらに至いたるまで執行しつかうせられた。次つぎにその三みつの祈禱文き　たうぶんを揭かゝげることにしよう。

　　　　　　短句たんく祈禱き　たう
　おゝ、全能全知ぜんのうぜんちにして永とこしへなる神かみよ、貴方あなたは聖せいなる言いひ盡つくし難がたき御恵お　めぐみにて、かの處女をとめに命めいじて此このフランス國こくを救すくひ、囘復くわいふくし、國敵こくてきを擊うち退のけ、打うち惱なやまし、打うち果はたすやうなさいました。然しかるに彼女かのぢよは御心みこゝろにより、その授さづけられたる聖きよき働はたらきを成就じやうじゆせんとする折柄おりから、敵てきの手てに捕とらはれ、敵てきの繩目なはめに陷かゝりました。どうぞ神樣かみさま、榮光えいくわうある聖母せいぼマリヤと有あらゆる聖者せいじやたちのお取とり成なしに依よつてお願ねがひ致いたします。どうぞ彼女かのぢよが貴方あなたより遣つかはされたる目的もくてきの事業じ　げふを成なし遂とげ得えまする爲ため、その身みに些すこしの傷きずも受うける事ことなくして敵てきの手てから救すくひ出だされますやうに。
　　イエス・クリストの御名み　なの爲ために。

　　　　　　密室みつしつくの祈禱き　たう
　おゝ、全能ぜんのうの神樣かみさま、有あらゆる美德び　とくの父樣ちゝさま、この祈いのりの上うへに聖せいなる祝福しゆくふくを下くだし給たまへ、願ねがはくは貴方あなたの驚おどろくべき力ちからを顯あらはし給たまうて、榮光ほまれある聖母せいぼマリヤと有あらゆる聖者せいじやたちのお取とり成なしに依より、どうぞ處女をとめを敵てきの牢獄らうごくより救すくひ出だし給たまうて、そしてどうぞ彼女かのぢよが貴方あなたより遣つかはされたる目的もくてきの事業じ　げふを完成くわんせいいたし得えまするやうに。我等われらの主しゆイエス・クリストを通とほして願ねがひ奉　たてまつる。

　　　　　　聖餐後せいさんごの祈禱き　たう
　おゝ、全能ぜんのうの神かみよ、願ねがはくは貴方あなたの民等たみらのこの祈いのりに御耳おんみゝを傾　かたむけ聽きき入いれ給たまへ、どうぞ私わたしどもが唯今戴たゞいまいたゞきましたところの聖晚餐せいばんさんの功德ちからに依より、榮光ほまれある聖母せいぼマリヤと有あらゆる聖者せいじやたちのお取とり成なしに依より、どうぞ處女をとめの繩目なはめを斷たち切きり給たまへ、彼女かのぢよは貴方あなたの御命令ご　めいれいを成なし遂とげんが爲ために敵てきの獄舍ごくやに繫つながれまして今尚いまなほ繫つながれてをります。どうぞ彼女かのぢよがその爲ために貴方あなたより遣つかはされたる目的もくてきの事業じ　げふを完成くわんせいいたし得えまするやう、貴方あなたの聖せいなる御同情ご　どうじやうと御慈悲ご　じ　ひによつて彼女かのぢよを危險き　けんより脱のがれしめ給たまはんことを。我等われらの主しゆイエス・クリストの御名おんなの爲ために！　伝々うんぬん。

　アムブランの大監督だいかんとくは初はじめ處女をとめジヤンヌを惡意あくいある女をんなでないかと疑うたぐつて、後のちには其その全然善良ぜんぜんぜんりやうなることを承認しようにんしたのであるが、今度こんどこの處女をとめが敵軍てきぐんに捕とらへられたと聞きくや、取とり敢あへずシヤルル王わうへ使者し　しやを送おくつて書面しよめんを齎もたらした。卽すなはちかゝる不仕合ふ　し　あはせな出來事で　き　ごとに際さいして國王こくわうの採とらるべき方針はうしんに就ついての書翰しよかんなのであつた。
　この大監督だいかんとくは國王こくわうの少年せうねんの頃ころその指導薰陶し　だうくんたうの任にんに當あたつた人ひとなので、少すこしも遠慮えんりよのない諫言かんげんを呈ていした。卽すなはち處女をとめが神かみの助たすけと彼女自かのぢよみづからの勇氣ゆうきに依よつて國王こくわうの爲ために盡つくしたその功勞こうらうを想おもひ囘かへしなさるがよいと言いふ事ことに筆ふでを始はじめ、そして國王自こくわうみづからその良心　りやうしんに顧かへりみる所ところあつて、神かみの恩寵おんちように反はんするやうな何なにかの罪つみを犯をかした事ことはなきや否いなやを能よく調しらべなさるやうにと申まをし上あげた。つまり、そんな事ことでもあつて神かみが國王こくわうをお憤　いきどほりにならない限かぎりはこの處女をとめを敵てきの手てに奪とらせるやうな事ことを許ゆるし給たまふ筈はずがないのである。大僧正だいそうじやうは自みづからの名譽めいよに免めんじても、この處女をとめを救すくひ出だす爲ためには有あらん限かぎりの手段しゆだんと努力どりよくとに訴うつたへなさるやうにと國王こくわうにお勸すゝめした。
「……この處女をとめの囘収くわいしうと彼女かのぢよの身請金み　うけきんとの爲ためには、假令たとひ、如何い　かなる高價かうかに價あたひするとも、陛下へいかはその手段金錢しゆだんきんせんを敢あへて吝おしみ給たまはざらん事ことを、然しからざれば陛下へいかは言語ごんごに絶ぜつしたる不感謝ふ　かんしやと云いふ不名譽ふ　めいよを負おひ給たまふことゝ存ぞんじ候　さふらふ……。」
　大僧正だいそうじやうは更さらに言葉ことばを進すゝめて、處女をとめ救すくひ出だしの爲ために各所かくしよに祈禱會きたうくわいを開ひらくやう法令ふ　れを出だされん事ことを勸すゝめた。それは卽すなはち、若もし國王こくわうか國民こくみんかの非行ひ　かうの爲ためにこの禍わざはひが下くだされたものとすれば、祈禱き　たうに依よつて神意しんいをお和やはらげ申まをすことが出來で　きるからであつた。
　一大僧正だいそうじやうたるよりも寧むしろより多おほく隱者いんじやであつたところの老大僧正らうだいそうじやうの力強ちからづよい慈愛じ　あいをこめた、この樣やうな言葉ことばは、決けつしてこの人ひとでなければ申まをし出だす事ことの出來で　きないものであつた。彼かれはシヤルル王家わうけ多難た　なんの時ときに際會さいくわいして、眞しんにフランス國こくを憂うれへる赤心せきしんを此處こ　ゝに吐露と　ろしたのでだつた。
　レームズの大僧正始だいそうじやうはじめ一二の高官かうくわんが、處女をとめを邪魔拂じやま　はらひしたく思おもつたところから、わざと彼女かのぢよの失敗しつぱいを大おほきくさせるやうに企たくらんだのではないかといふ疑うたがひを抱いだく人々ひとびともあつた。パリイやラ・シヤリテやコムピエニユに於おける彼女かのぢよの戰敗せんぱいを大おほきくする爲ために用もちひられた樣々さまざまな狡奸かうかんな手段しゆだんを見破み　やぶつたと思おもふ人々ひとびともあつた。併しかし實じつは、そんな手段しゆだんは無用む　ようであつた。パリイの攻擊こうげきの際さいの失敗しつぱいは唯ただかの濠ほりを越こえられなかつたので折角せつかくの好機會かうきくわいを逸いつして百年ねんの恨うらみを遺のこしたのであるが、これは全まつたく國王こくわうや顧問等こ　もんらの手落て　おちではなかつた。彼女及かのぢよおよび同伴どうはんの隊長等たいちやうらが濠ほりの深ふかさを豫かね
て檢しらべて置おかなかつたからである。ラ・シヤリテの攻擊こうげきは處女をとめが指揮し　きでやつたのでないから、この敗北はいぼくは彼女かのぢよの責せめにはならなかつた。それからコムピエニユでやつた奇襲き　しふにしても、フランス方がたが、マルニイ村むらで餘あまり劫奪ごふだつに身みを入いれ過すぎて時ときを移うつしてしまつた爲ため、遂つひに敵てきの大軍たいぐんが退路たいろを切斷せつだんするに立たち至いたつたのである。かう見みて行ゆけば、一向故意かうこ　いに彼女かのぢよの戰敗せんぱいを大だいならしめるやうに奸黠かんきつな手段しゆだんを用もちひられたとは受うけ取とられない。
［403頁４行↓］
　又何故またなにゆゑにレームズの大僧正だいそうじやうや式部卿しきぶきやうが處女をとめを邪魔拂じやま　はらひしようと望のぞんだか？　彼女かのぢよは決けつして彼等かれらに厄介やくかいをかけたことがない、それどころか却かへつて彼等かれらの爲ためには非常ひじやうに有用いうような働はたらきをしたのである。彼女かのぢよのお蔭かげで、レームズの大僧正だいそうじやうなどは國王こくわうよりも寧むしろ多おほくの利益り　えきを得えた。それに拘かゝはらず大僧正だいそうじやうは彼女かのぢよに對たいして感謝かんしやの念ねんは有もたなかつた。彼かれは冷酷れいこくな人ひと、我儘わがまゝな人ひとであつた。然しからば彼かれは彼女かのぢよを害そこなひたがつたか？彼女かのぢよが不用ふ　ようであつたか？と云いふに、決けつしてそんな理由り　いうはなかつた。彼女かのぢよがブルガンデイ方がたに捕とらへられると、直すぐ樣さまフランス方がたはその代理だいりがないので困こまつた。大僧正だいそうじやうや式部官等しきぶくわんららは豫言者よげんしやを捜さがし廻まはつた。併しかし處女をとめの豫言者よげんしやが見付みつからなかつたので、若わかい男をとこを採用さいようした。これはジヤンヌの捕とらはれてから幾日いくじつも經たたない頃ころのことである。

　　　　　　新あたらしき豫言者よげんしや

　しばらく以前い　ぜんのこと、マンド連山れんざんの麓ふもとでギヨームと云いふ若わかい羊飼ひつじかひが羊ひつじの群むれを見張みはつてゐるとき突然天上とつぜんてんじやうの聲こゑが聞きこえて來きた。卽すなはちこの若者わかものはその時ときから神かみの聲こゑを聞きくやうになつた。そしてフランスの國王こくわうに行ゆけと云いふお告つげを蒙かうむつたので、彼かれは先まづマンドの町まちへ出でかけて行いつた。これは丁度ちやうどジヤンヌが國王こくわうに用もちひられん爲ためにヴオクラールへ行いつたのと同おなじである。その町まちの信仰篤しんかうあつい人々ひとびとはこの若者わかものに尋常じんじやうならぬ神かみの力ちからが宿やどつてゐることを知しつて、旅費りよひや何なにかを與あたへて國王こくわうの許もとへ旅たびを續つゞけさした。若者わかものが初はじめて國王こくわうに面謁めんえつを賜たまはつた時ときに言いつた言葉ことばはジヤンヌのと能よく似にてゐた。
「陛下へいか、私わたしはお國くにの方々かたがたと一緒しよに行ゆけといふお告つげを受うけました、さうすれば間違ま　ちがひなくイギリス方がたやブルガンデイ方がたを打うち破やぶることが出來で　きます。」と彼かれは言いつた。
　國王こくわうは親切しんせつにこの若者わかものを受うけ入いれた。この男をとこを試驗しけんした僧官等そうくわんらは、若もしこれを拒絶きよぜつしたら聖靈せいれいの助たすけを拒こばむことになりはしないかと恐おそれたに相違さうゐない。アモスも矢張や　はり羊飼ひつじかひであつた。神かみは彼かれに豫言よげんの力ちからを與あたへ給たまうた、……卽すなはち、「おゝ天地てんちの主しゆなる父ちゝよ、汝なんぢこれらのことを聰さとき者もの賢かしこき者ものに隱かくして幼子をさなごに啓あらはし給たまふが故ゆゑに感謝かんしやす。」である。
　併しかしこの羊飼ひつじかひも徽しるしを見みせないうちは信しんじられなかつた。ジヤンヌは採用さいようせられる時唯ときただオルレアンを救すくふ事ことを約やくした許ばかりで、その他たの徽しるしは有もたなかつた。が、この羊飼ひつじかひは、一層多そうおほくの徽しるしを有もつてゐた。彼はその身體からだの不思議ふ　し　ぎな徽しるしを示しめした。聖せいフランシスのやうに聖痕せいこん（クリストの傷痕きずあとと同おなじ痕あと）を有もつてゐた。そしてその手てや足あしや側腹わきばらに血汐ち　しほしたゝる傷きずを有もつてゐた。
　乞食僧等こつじきそうらはその中心人物ちうしんじんぶつとして此樣このやうな主しゆクリストの苦難く　なんに關與あづかつた人ひとを有もつことを非常ひじやうに喜よろこんだ。併しかし世よには主しゆクリストに依よつて印いんせられた聖痕せいこんがあると同時どうじにまた惡魔あくまによつて印いんせられたものもあつた。この見分み　わけには非常ひじやうな知識ち　しきと非常ひじやうな信仰しんかうとが必要ひつえうであつた。兎とに角かくギヨームの聖痕せいこんは惡魔あくまの業わざではなかつたと見みえる。何故な　ぜなら、彼かれはジヤンヌやその他たの豫言者等よ　げんしやらと同おなじ風ふうに採用さいようせられたからである。
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　當時たうじレームズの大僧正だいそうじやうはオワズ河畔か　はんにあつて、フイリツプ公爵こうしやくの指揮し　きするブルガンデイ軍ぐんと對抗たいかうしてゐた。そこへ羊飼ひつじかひギヨームが送おくり届とゞけられた。大僧正だいそうじやうは機嫌き　げんよく彼かれを迎むかへて有事いうじの際さいにその豫言よげんを聞きかうとて陣中ぢんちうに置おくことにした。
　その頃ころは最早もはや托鉢僧たくはつそうリシヤールの「傳道婦人巡行團でんだうふじんじゆんかうだん」は反抗はんかうや嫉妬しつとの結果解散けつくわかいさんしてしまつて、殘のこつてゐるのは唯一人たゞひとり、かの隱かくれた寶たからを發見はつけんする才能さいのうを授さづけられたと稱しようするカトリーヌのみであつた。處女をとめの事こととなると、この女豫言者同樣をんなよげんしやどうやうに羊飼ひつじかひのギヨームも餘あまり辯護べんごしなかつた。
「神かみが處女をとめジヤンヌを生捕いけどらしめ給たまうた、その譯わけは、彼女かのぢよが高慢かうまんになり、贅澤ぜいたくな着物き　ものを身みに着つけ、又神またかみの命めいじ給たまふ通とほりにせずに、却かへつて我意が　いの儘まゝを働はたらいたからだ。」と彼かれは言いつた。
　こんな言葉ことばを云いふやうになつたのは、ジヤンヌの敵てきの付つけ智慧ぢ　ゑの爲ためであつたらうか？　さうかも知しれないが、又またこれは或あるひは彼かれが靈感れいかんに依よつて告つげられた儘まゝの事ことかも知しれない、聖者せいじやたちは常つねにお互たがひに仲なかが好よいと云いふ譯わけでもあるまいから。
　一方ぱうに於おいて大僧正だいそうじやうは、既すでに失うしなつたものにも優まして驚おどろくべき者ものを手てに入いれたと信しんじた。彼かれは處女をとめがコムピエニユで敵てきの手てに捕とらへられた事ことをレームズの市民し　みんへ書かき送おくつた。
　その書面しよめんの中うちにも大僧正だいそうじやうは羊飼ひつじかひの言いつた事ことを書き添えた、卽すなはちジヤンヌが敵手てきしゆに陷おちたのは全まつたく彼女かのぢよの落度おちどからであり、神かみの御心みこゝろの儘まゝを働はたらかずに我意が　いを貫とほし、高慢かうまんになり、贅澤ぜいたくになつた爲ために他ほかならないと。そして更さらに言葉ことばを續つゞけて、神かみはジヤンヌに優まさるとも決けつして劣おとらぬ一人ひとりの豫言者よげんしやを與あたへ給たまうたから、これによつてイギリス人じんやブルガンデイ人じんを征服せいふくすることは、露疑つゆうたがひなしと申まをし送おくつたのである。
　大僧正だいそうじやうは全然彼ぜんぜんかれを信用しんようした。彼かれには少すこしも惡あくがないと見みたので、それで十分信用ぶんしんようするに足たると思おもつた。そしてジヤンヌが爲したやうな事ことをこの羊飼ひつじかひにもやらせようと思おもつた。大僧正だいそうじやうのこの遣やり方かたが正たゞしいか正たゞしくないかは、その結果けつくわに依よつて判斷はんだんされるであらう。
　併しかしながら、大僧正だいそうじやうは假令よ　しこの豫言者よげんしやを賞揚しようやうするにしたところで、今いまやその殉敎　じゆんけうの期きに近ちかづいてゐる聖者處女せいじやおとめを貶けなさなくともよさゝうなものであつた。言いふまでもなく、彼かれは國家こくかの幸運かうゝんと彼女かのぢよの幸運かうゝんとの間あひだには劃然くわぜんたる區別くべつをつける必要ひつえうを認みとめて、そしてそれを斷然決行だんぜんけつかうする勇氣ゆうきを有もつたのである。
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　　　　　　　　　　＜宗敎裁判しうけうさいばんとパリイ大學だいがく　了＞

　　　　　　　　　　［（下篇　九）へ続く]

底本：　ジャンヌ・ダルク　1917年　早稻田大學出版部
譯者：　吉江 孤雁 （喬松たかまつ）(1880.09.05 - 1940.03.26)

原著：　Vie de Jeanne d'Arc　　ジャンヌ・ダルク　の　生涯　1908
著者：　Anatole France　アナトール・フランス (1844.04.16 - 1924.10.12)