ジャンヌ・ダルク

　　　上篇

　　十三、　レ・トウーレルの奪取だつしゆとオルレアンの救助きうじよ

　翌日よくじつ五月ぐわつの六日か、少女せうぢよは曉方あけがたに床ベツトを出でた。そして附つき添そひの牧師ぼくしに懺悔ざんげをして、供養く　やうを聞きいた。熱心ねつしんな市民等し　みんらは、もう起おきて武裝ぶ　さうしてゐた。彼女かのぢよが告つげたものか何どうか知しらないが、彼等かれらは飽あくまでロワール川がはを渡わたり、レ・トウーレルを襲擊しふげきしようと決心けつしんしてブルガンデイ門もんの方はうへと群ぐんをなして押おしよせてゐた。門もんは閉とぢられてゐた。ゴークウル卿きやうが部下ぶ　かを率ひきゐて護まもつてゐた。首領しゆりやうたちは、市民し　みんが自分等じ　ぶんらの計畫けいくわくを耳みゝに入いれて、夫それに加くははらうとするやうなことが生しやうじた場合ばあひの用意よういをしてゐたのである。自分じ　ぶんたちの寶玉はうぎよくとも云いふべきレ・トウーレルを取とり返かへさうと夢中む　ちうになつてゐる市民等し　みんらは、少女せうぢよさへ來くれば門もんは開あけられるに違ちがひないと云いふので、彼女かのぢよを呼よびにやつた。少女せうぢよはやつて來きた。そして直すぐとゴークウルの所ところへ行ゆき、彼かれの言いふことなど耳みゝにも入いれないで、言いつた、「あなたは宜よくない人ひとですね、市民し　みんが出でて行ゆかうと云いふのに邪魔じやまするなんて。あなたが何どうしたつて、彼等かれらはするだけの事ことをしますよ。」
　ジヤンヌの聲こゑに刺激し　げきされ、彼女かのぢよがゐるので元氣げんきがついた市民等し　みんらは、やつつけて了しまへと叫さけびながら、ゴークウルや、その部下ぶ　かに跳とびかゝつて行いつた。もう何どうしやうもないのを見みて取とると、ゴークウルは門もんを開ひらき、市民等し　みんらに向むかつて叫さけんだ、「さア來こい、私わたしが指揮し　きしてやる。」
　で彼かれは、ド・オーロンその他たと共ともに、門もんを護まもつてゐた兵へいや、市民軍し　みんぐんの先頭せんとうに立たつて進すゝんだ。城壁じやうへきの東ひがしの角かどの、ラ・トウール・ヌーブの下したの所ところに小舟こ　ぶねが置おいてあつたので、彼等かれらは夫それに乘のつてトワル島たうに渡わたり、其所そ　こからソローニユの堤　つゝみの間　あひだへ二艘さうの小舟こ　ぶねで橋はしをかけた。敵てきの捨すてた聖せいジヤン・ル・ブランの砦とりでへ先さきに着ついた連中れんぢうは、後あとから來くる者ものを待まちながら、夫それを毀こはして面白おもしろがつてゐた。みんな渡わたり切きつて了しまふと、市民等し　みんらは樂たのしげに聖せいオーギユスタンへ向むかつて進すゝんだ。この稜堡りやうはうは、レ・トウーレルの、前面ぜんめんの僧院そうゐんの廢墟はいきよに設まうけられて居をり、トウーレルを攻擊こうげきするのには、先まづ是非ぜ　ひとも此所こ　ゝを落おとさなくてはならなかつた。敵てきは掩堡えんはうの中うちから出でて來きて、猛烈まうれつに矢彈や　だまを浴あびせかけた。オルレアンの人々ひとびとは、到底夫たうていそれに立たち向むかうことは出來で　きなかつた。彼等かれらは遂つひに敗やぶれて、船橋せんけうの方はうへ逃走とんそうした。そして川かはに落おちるのを恐おそれて、みんなトワル島たうへ渡わたつた。ゴークウルの部下ぶ　かは、彼等かれらよりも戰爭せんさうに慣なれてゐたので、一同聖どうせいジヤン・ル・ブランの阪さかに陣ぢんを構かまへて、敵てきを支さゝへた。非常ひじやうに小勢せうぜいではあつたけれども彼等かれらは、午後ご　ゞ三時じまで、さうして敵てきを喰くひ止とめてゐた。午後ご　ゞ三時じになると、少女せうぢよとエチヤンヌ・ド・ヴイニヨールとが野武士の　ぶ　しどもを率ひきゐてやつて來きた。彼等かれらは馬うまに乘のり、槍やりを構かまへて敵陣てきぢんへ突貫とつくわんした。市民し　みんは、之これに力ちからを得えて後あとに續つゞき、敵てきを追おひ返かへしたが、稜堡りやうはうの下したで又またも擊退げきたいされた。少女せうぢよは非常ひじやうに苛立いらだつて、稜堡りやうはうと堤防ていばうとの間あひだを彼方此方かなた　こなたと馬うまを驅かけらせ、騎士き　したちを呼よび集あつめたが、誰たれも應おうじなかつた。計畫けいくわくは崩くづれ、戰鬪せんとうの秩序ちつじよは亂みだれて了しまつたので、彼等かれらは少時休しばらくやすんで、頭あたまを落おち着つかせなくてはならなかつたのだ。折おりしも彼女かのぢよは、オルレアン公こうの庶子しよしと、ド・ブーサツクと、ド・レーの旗はたが島しまの上うへに飜ひるがへるのを見みた。砲兵隊ほうへいたいも來きてゐた。かうして四千の兵へいが、レ・オーギユスタンの周圍しうゐに集あつまつたのである。併しかし多おほくの時ときがたつた。彼等かれらが攻擊こうげきを始はじめると間まもなく、もう太陽たいやうは沈しづみかゝるのであつた。
　ゴークウルの兵へいは、後方こうはうにゐて、レ・トウーレルから敵てきの援軍えんぐんが來きた場合ば　あひの備そなへとなつてゐたが、軍中ぐんちうに爭あらそひが起おこつた、現位置げんゐ　ちに留とゞまることを主張しゆちやうするものと、空むなしく留とゞまつてゐるのを恥辱ちじよくとする者ものとが生しやうじたのである。で、結局けつきよく、ドン・アロンゾーとメートル・ジヤンとは、何方どちらが名なをなすか競爭きやうそうしようと云いふので、手てを携たづさへて稜堡りやうはうに突進とつしんした。メートル・ジヤンの一囘くわいの一齊せい射擊しやげきで、城柵じやうさくは破壞はくわいされた。二人ふたりの戰士せんしは、夫それ夫ぞれ突入とつにふして行いつた。
「大膽だいたんに突入とつにふ！」と、少女せうぢよは叫さけんだ。そして、城壘じやうるゐの上うへに自分じ　ぶんの旗はたを立たてた。ド・レー卿きやうは彼女かのぢよの直すぐ後あとに續つゞいた。
　フランス兵へいの數すうは、増ましてゐた。彼等かれらは稜堡りやうはうを猛襲まうしふして、直ぢきに落おとして了しまつた。それから一ひとつ一ひとつ敵てきのゐる僧院そうゐんの建物たてものを襲擊しふげきした。とうとうイギリス兵へいは、レ・トウーレルへ走はしつた僅わづか許ばかりの者ものを除のぞいて、悉　ことごとく斬きられたり、捕とらへられたりした。小屋こ　やの内うちには捕虜ほりよされてゐた味方み　かたの者ものが幾人いくにんもゐた。夫それ等らを一人ひとり殘のこらず救すくひ出だして置おいて、彼等かれらは砦とりでに火ひをかけた。かうして、その不幸ふ　かうをイギリス軍ぐんに知しらせたのである。が、また味方み　かたの兵へいが盛さかんに掠奪りやくだつをやつてゐるのを止とめる爲ために、少女せうぢよが火ひを放はなつことを命めいじたのであるとも言いはれてゐる。
　大勝利だいしようりが得えられた。が、彼等かれらはなかなか勇氣ゆうきを恢復くわいふくしなかつた。火事くわじの光ひかりで、闇やみの中なかに初はじめて直すぐ近ちかくのレ・トウーレルの砦とりでを眺ながめた時とき、武人ぶ　じんたちは恐おそれをなしてゐた。或ある者ものは言いつた、「あれを取とるのにや、一ヶ月以上げついじやうかゝるね。」
　首領しゆりやうや武人ぶ　じんたちは、靜しづかな夜よを過すごす爲ために町まちへと歸かへつて行いつた。射手い　てと市民し　みんの多おほくは、ル・ポルトロオーに留とゞまつた。少女せうぢよも亦また、確たしかに明日みやうにちも戰爭せんさうをするやうにする爲ために其所そ　こに留とゞまつてゐようとした。が、首領しゆりやうたちが馬うまや小姓こしやうを置おいて行ゆくのを見みて、彼等かれらの後あとからオルレアンへ歸かへつた。黎鐵れいてつ（騎馬き　ばの通行つうかうを障さまたげる爲ため地上ちじやうに置おく武器ぶ　き）で足あしを傷きづつけ、非常ひじやうに疲勞ひ　らうして彼女かのぢよは、意氣地い　く　ぢがなくなつたやうな氣きがした。そして、その日ひは金曜日きんえうびであつたけれど、何時いつもの習慣しふくわんに反はんして、斷食だんじきをしなかつた。パスクルによれば、——斯かう云いふ事ことに就ついては此人このひとに餘あまり信用しんようは置おけないが——彼女かのぢよが宿やどで食事しよくじをすましてゐるところへ、誰たれだが名なは擧あげてゐないが、一人にんの貴族きぞくがやつて來きて、かう彼女かのぢよに言いつた、「首領しゆりやうたちは、會議くわいぎを開ひらきました。彼等かれらの見みるところによると、味方み　かたは敵てきよりも、ズツと小勢こ　ぜいです、それだのに勝利しようりを得えたのは、みんな神樣かみさまのお蔭かげだと思おもつてゐます。今いまでは町まちの供給きようきふは十分ぶんにされてゐますが、國王こくわうからの援助ゑんじよを待まつた方はうが宜よいやうです。で、會議くわいぎでは、明日あ　すの攻擊こうげきは策さくを得えたものでないと認みとめてゐます。」
　ジヤンヌは答こたへた、「あなたは、あなた方がたの會議くわいぎに出席しゆつせきしてゐたのですね、私わたしは、私わたしの會議くわいぎに出席しゆつせきしてゐました。あの方かたの御相談ご　さうだんに從したがはなくてはなりません、あの方かたの御相談ご　さうだんは有効いうかうです、けれど、あなたの御相談ご　さうだんは何なんにもなりません。」それからパスクルの方はうへ向むかつて言いつた、「明日あ　すは今日け　ふよりも早はやく起おきて、全力　ぜんりよくを盡つくしてやつて下くださいよ。 始終 しよつちう私わたしの傍そばにゐて下ください。明日あ　すはもつと豪えらい騒さわぎがありませうし、私わたしの體からだから血ちが流ながれるでせうから。」
　イギリス軍ぐんが、フランス軍ぐんよりも數すうに於おいて勝まさつてゐると云いふのは、事實じ　じつではなかつた。その反對はんたいに彼等かれらは遙はるかに小勢こ　ぜいで、オルレアンの周圍まはりには、辛やつと三千人にんゐるか、ゐない位くらゐであつた。國王こくわうからの援軍ゑんぐんは既すでに到着たうちやくしてゐたのであるから、首領しゆりやうたちが夫それを待またうなどゝ言いつた筈はずはないのだ。が、彼等かれらが明日あ　す直すぐレ・トウーレルを攻擊こうげきしに行ゆくのを躊躇ためらつてゐたのは事實じ　じつである。夫それは、市民等し　みんらが聖せいローランへ行ゆくのを拒こばんで、みんなル・ポルトロオーへ行いつて了しまつたから、タルボー揮下き　かのイギリス軍ぐんが空からになつた町まちに這入は　ひつて來きはしないかと心配しんぱいしたからであつた。少女せうぢよの會議くわいぎは、こんな問題もんだいに關くわんしては、一向かうに苦勞く　らうしなかつた。如何いかなる恐おそれも、聖せいカトリーヌや聖せいマルガレツトをば惱なやましはしなかつた。疑うたがふと云いふことは恐おそれると云いふことである。彼等かれらは決けつして疑うたがふと云いふことはなかつた。
　夜よるになると街路がいろには、ル・ポルトロオーにゐる人ひとたちの所ところへ、麵麭ぱ　んや、酒さけや、彈藥だんやくを運はこばねばならないと云いふ布令ふ　れが叫さけばれた。小舟こ　ぶねは斷たえず川かはを彼岸此岸あちら　こちらへと往復わうふくしてゐた。男をとこも女をんなも、子供こ　どもも軍需品ぐんじゆひんを外砦ぐわいさいへと運はこんでゐた。
　翌日よくじつ、五月ぐわつ七日かにジヤンヌは、パスクルの上あげる供養く　やうを聞きき、恭々しくうやうやしく聖餐禮せいさんれいを受うけた。ジヤツク・ブーシエの家いへは、町役人まちやくにんや、主おもだつた市民等し　みんらに取とり圍かこまれた。疲勞ひ　らうと心配しんぱいとの一夜ひとよを送おくつた後あとで、彼等かれらは首領しゆりやうたちがレ・トウーレルの攻擊こうげきを延期えんきしようとしてゐると云いふ腹立はらだゝしい報告はうこくに接せつしたのである。彼等かれらは大聲おほごゑを揚あげて、この賣うられた、捨すてられた、裏切うらぎられた市民し　みんに力ちからをかしてくれるやうにと懇願こんぐわんした。事實じ　じつはかうである、オルレアン公こうの庶子しよしや、その他たの首領しゆりやうたちは、夜よるの間うちにロワール川がは上流じやうりうに於おけるイギリス軍ぐんの間あいだに大運動だいうんどうが起おこつてゐるのを認みとめたので、之これは、てつきりタルボーが、フランス軍ぐんの左岸さ　がんを占領　せんりやうしてゐる間あいだに、ルナール門附近もんふきんの城壁じやうへきを攻擊こうげきしようとしてゐるのだと思おもひ込こんで了しまつた。日ひの出で頃ごろになると、その夜よイギリス軍ぐんは夕方ゆうがたの間うちに聖せいローランの陣營ぢんえいと、ロンドン稜堡りやうはうとへ集注しふちうされて了しまつたのだ、と信しんじた。市民し　みんは國王こくわうの兵へいが愚圖々々ぐ　ず　ぐ　ずしてゐて、容易よういに包圍はうゐを解とかないので、苛々いらいらしてゐた。實際じつさい首領しゆりやうたちが、餘あまり熱心ねつしんになつて戰爭せんさうを片付かたづけやうとしてゐないのは、疑　うたがひのない事ことであつた。市民し　みんは戰爭せんさうで死しぬのであるが、彼等かれらは戰爭せんさうで生いきてゐるのだ。——兩者りやうしやの懸隔けんかくの總すべては、其所そ　こから生しやうじてゐるのである。町役人まちやくにんは、既すでに手てをつけた救助きうじよを猶豫いうよなく果はたして了しまつてくれるやうにと少女せうぢよに懇願こんぐわんした。彼等かれらは彼女かのぢよに言いつた、
「私わたしたちは相談さうだんしました。 で、あなたにお願ねがひします、神樣かみさまや王樣わうさまから授さづけられた、あなたの使命し　めいを、何どうぞお果はたしなすつて下ください。」
「大丈夫だいぢやうぶですよ、私わたしきつと果はたします。」と、彼女かのぢよは言いつた。そして直すぐに馬うまに打うち乘のり、「吾われを愛あいする者ものは、吾われに續つゞけ！」と云いふ古ふるい文句もんくを叫さけんだ。
　宿やどを離はなれるとき、一尾びの鱒ますが彼女かのぢよのところへ持もつて來こられた。すると彼女かのぢよはニコニコしながら宿やどの主人しゆじんに言いつた、「夕飯ゆうめしには之これを食たべませうよ。イギリス人じんをも一人ひとり連つれて來きますからね、その人ひとも食たべるでせう。」 そしてまた、かう言いひ添そへた、「今晚こんばんは私わたしたちは橋はしから歸かへつて來きますよ。」 この九十日間にちかんと云いふものは、夫それは出來で　きないことであつた。が、幸さいはひにも彼女かのぢよの言葉ことばの通とほりになつた。
　タルボーや、聖せいローランの敵兵てきへいを恐おそれてはゐたけれども、首領しゆりやうたちは朝早あさはやくロワール川がはを渡わたつてポルトロオーにゐる自分じ　ぶんたちの馬うまや、小姓こしやうや、市民軍し　みんぐんと一緒しよになつた。みんなゐた、庶子しよしも、ゴークウルも、ド・レーも、ヴイヤールも、エチヤンヌ・ド・ヴイニヨールも、それからポートンも。少女せうぢよも彼等かれらと一緒しよであつた。町役人まちやくにんは、有あらゆる種類しゆるゐの矢やや、槌つちや、斧をのや、彈藥だんやくや、長砲ちやうはうや、大砲たいはうや、梯子はしごなど、非常ひじやうに澤山たくさんの戰具せんぐを彼等かれらに送おくつた。攻擊こうげきは早はやくから開始かいしせられた。攻擊こうげきを困難こんなんにしたのは、敵てきの數すうではなかつた。敵てきは五百人餘にんあまりゐるか、ゐない位くらゐであつた。彼等かれらはモレイン卿きやうに指揮し　きせられて居をり、卿きやうの下もとには、ポオイニング卿きやうと、イギリス軍ぐん第だい一の勇者ゆうしやと言いはれてゐるグラスダルとがゐた。攻擊軍こうげきぐんの方はうは、夫それ等らよりも十倍ばいも數すうが多おほかつた。が、騎士き　しは堡壘はうるゐの攻擊こうげきには餘あまり役やくに立たたないし、市民し　みんは熱心ねつしんではあるが、不撓不屈ふ　たうふ　くつなところがなかつた。つまり思慮しりよの深ふかい庶子しよしはその爲ためにタルボーを恐おそれてゐたのである。實際若じつさいもしタルボーがこの事ことを知しつて、やらうとさへしたら、フランス軍ぐんがレ・トウーレルを取とらうとしてゐる間あひだに、町まちを奪取だつしゆすることが出來で　きたのだ。戰爭せんさうは、常つねに不慮ふ　りよの出來事で　き　ごとの連續れんぞくであるが、その日ひは、協同運動けふどううんどうに出でやうと云いふやうな企くはだては、一ひとつもされなかつた。この大軍たいぐんは、誰たれ一人にん、庶子しよしすら夫それを操縱さうじうする術すべを知しらなかつたので必かならずしも強大きやうだいな力ちからではなかつた。その頃ころは、戰爭せんさうの結果けつくわは何時い　つも、至極しごく少數せうすうの戰士せんしの手てにあつた。現げんに前日ぜんじつの如ごときも、萬事ばんじは二三の人ひとによつて決定けつていせられてゐるのである。
　フランス兵へいは、堡壘はうるゐの前まへに集あつまつたが、みんな三四の人ひとが梯子はしごをかけて攀よぢ登のぼらうとしてゐるのを呆然ぼんやりと眺ながめてゐる有狀ありさまであつた。大軍たいぐんでありながら、攻擊こうげきは長ながい間　あひだ一騎打き　うちの形かたちで行おこなはれてゐた。二十囘彼等　くわいかれらは熱心ねつしんに城砦じやうさいへ押おしよせて、二十囘追　くわいおひ返かへされた。少すこしではあつたけれど、負傷ふしやうした者ものや、斬きられた者ものがあつた。一生涯戰爭　しやうがいせんさうをして暮くらす貴族き　ぞくたちは、用心深ようじんぶかいし、首領　しゆりやうたちは、自分じ　ぶんの部下ぶ　かの事ことを氣きにしてゐるし、市民し　みんは戰爭せんさうにあつては、ほんの新米しんまいに過すぎなかつた。唯ただ一人ひとり少女せうぢよだけが全我ぜんがを擧あげて盡つくしてゐた。彼女かのぢよは絶たへずかう言いつてゐた、「勇氣ゆうきをお出だしなさい。退却たいきやくしちやいけません。砦とりでは今いまにあなた方がたのものになりますよ。」
　午ひるになると、みんな食事しよくじをしに行いつた。それから午後ご　ゞ一時頃じ　ごろに再　ふたたび働はたらき始はじめた。少女せうぢよは第だい一番ばんに梯子はしごを運はこんだ。そして夫それを砦とりでにかけてゐる時とき、つひ眞近ま　ぢかゝら放はなつた敵てきの矢やは彼女かのぢよの右肩う　けんを打うつて、肉にくを貫つらぬいた。彼女かのぢよは自分じ　ぶんの負傷ふしやうすることを知しつてゐて、前まへの日ひオルレアンの人ひとたちや、附つき添そひの牧師ぼくしなどにその事ことを話はなした。確たしかにこの五日間か　かんと云いふもの、彼女かのぢよは自分じ　ぶんの豫言よ　げんを實際じつさいにしようとして全力ぜんりよくを盡つくしてゐたのである。イギリス兵へいは、少女せうぢよが負傷ふしやうしたのを見みると非常ひじやうに喜よろこんだ。彼等かれらは、さうして血ちを流ながせば、妖女えうじよの力ちからは全まつたくなくなつて了しまふと信しんじてうぃた。フランス兵へいは大變たいへんにその事ことを悲かなしんだ。彼等かれらは彼女かのぢよを他たへ移うつした。パスクルや小姓こしやうたちは彼女かのぢよと共ともにゐた。苦くるしみながら彼女かのぢよは恐おそれて泣ないた。戰士せんしが戰鬪中せんたうちうに負傷ふしやうした場合ば　あひには何時いつもさうするやうに、一群ぐんの兵士へいしは、その周圍まはりに集あつまり、或ある者ものは彼女かのぢよに 呪 まじなひをかけようとした。傷きずをふさぐのには口くちの内うちで呪文じゆもんを唱となへるのが武人等ぶ　じんらの習慣ならはしであつたのだ。 呪 まじなひがかけられたり、呪文じゆもんを書かいた紙かみが用もちひられたりした。けれど夫それは、惡魔あくまの力ちからに賴たよるものであるが故ゆゑに、ジヤンヌは、さうされるのを好このまなかつた。
「死しんで了しまふ方はうが余程好よつぽどいい、」と、彼女かのぢよは言いつた、「罪つみになるやうな事ことや、神樣かみさまの御心みこゝろに戻もとるやうな事ことをする位くらゐなら。」
　彼女かのぢよはまた言いつた、「私わたしは、自分じ　ぶんが死しなゝくてはならないことを知しつてゐるの。でも何時い　つ、何どうして死しぬのか、そりや分わからないけれど。若もしこの傷きずが治なほるものなら、すつかりと治なほれば宜いいと思おもふの。」
　彼女かのぢよの武裝ぶ　さうは取とり除のぞかれた。傷きずには、オリーブ油いうや脂あぶらなどが塗ぬられた。繃帶ほうたいがかけられて了しまふと彼女かのぢよは泣なきながら、呻うめきながら、パスクルに懺悔ざんげした。軈やがて彼女かのぢよは聖せいカトリーヌと聖せいマルガレツトとが自分じ　ぶんの方はうへやつて來くるのを見みた。 彼女かのぢよたちは、
 冠 かんむりをつけ、 快 こゝろよい香かをりを放はなつてゐた。ジヤンヌは心こゝろがさはやかになつた。再ふたたび甲冑かつちうを着つけて、彼女かのぢよは戰場せんじやうへ歸かへつた。
　太陽たいようは沈しづみかけてゐた。朝あさからの空むなしい攻擊こうげきで、フランス兵へいは疲つかれ果はてゝゐた。オルレアン公こうの庶子しよしは、自分じ　ぶんの部下ぶ　かは疲つかれ、日ひが暮くれて行ゆくのを見みると、聖せいローランの敵てきが怖こはくなつて、兵へいを率ひきゐてオルレアンへ歸かへらうと決心けつしんした。彼かれは退却たいきやくの命めいを傳つたへた。喇叭らつぱは既すでに戰士せんしを、ル・ポルトロオーへと集あつめつゝあつた。少女せうぢよは、彼かれのところへやつて來きて、も少すこし待まつてくれるやうにと彼かれに賴たのんだ。
「大丈夫だいぢやうぶ！」と、彼女かのぢよはかう言いひ添そへた、「だから、少すこし休やすんで、飮のんだり、食たべたりなさい。」
　彼等かれらが休養きうやうしてゐる間あひだに彼女かのぢよは、馬うまに乘のり、旗はたを附添つきそひの者ものに持もたせて置おいて、唯一人ただひとり丘をかを登のぼつた。そして葡萄畑ぶだうばたけに這入は　ひつて行いつた。其所そ　こには、もう小ちひさな若葉わかばが袖そでを開ひらきはじめ、夕暮ゆふぐれの靜しづけさの中なかに、低ひくく垂たれた枝えだが、初春はつはるの溫氣うんきを吸すつてゐた。彼女かのぢよは祈禱いのりをし、そして天てんの聲こゑに耳みゝを傾かたむけた。天使てんしや、聖者せいじやたちの言いふことは、外そとの騒さわぎや、響ひゞきに障さまたげられて、よくは聞ききとれなかつた。彼女かのぢよが彼等かれらの言葉ことばを十分ぶんに會得ゑ　とくすることの出來で　きるのは、獨ひとり淋さびしくゐる時ときか、若もしくは、鐘かねの音ねが遙はるかの彼方かなたから響ひゞいて來くる時ときや、軟やはらかな、 快 こゝろよい夕ゆふべの響ひゞきが野のや牧場まきばから登のぼつて來くる時ときであつた。

　彼女かのぢよのゐない間うちに、ド・オーロンは、その日ひ何どうしても勝利しやうりを得えたいと云いふ望のぞみを捨すてないで、一計けいを案出あんしゆつした。少女せうぢよの旗はたは、砦とりでの前まへに 飜 ひるがへつてゐた。夫それを持もつてゐた男をとこは、疲つかれて持もち切きれなくなつたので、バスクと云いふ綽名あだなの、ヴイヤール部下ぶ　かの一兵卒ぺいそつに渡わたした。僧侶そうりよたちに祝福しゆくふくされた、幸福かうふくを齎もたらすと思おもはれてゐる、この旗はたを見みると、かう云いふ考かんがへがド・オーロンの胸むねに浮うかんだ。——若もし、あれを先頭せんとうに立たてゝ押おし進すゝめば、夫それを愛あいする者ものたちは、續つゞいて來くる、そして、夫それを失うしなはないやうにする爲ために、砦とりでへ攻せめかゝるに違ちがひない。で、彼かれはバスクの傍そばへ行いつて、言いつた、「若もし俺おれが、あそこへ這入は　ひつて、徒歩か　ちで砦　とりでの方はうへ行いつたら、お前まへは俺おれについて來くるか？」
　バスクは、きつと從ついて行ゆくと約束やくそくした。ド・オーロンは直すぐに堀ほりへ下おりた、そして、敵てきの大砲たいはうから放はなたれる石彈せきだんを楯たてで防ふせぎながら、砦とりでの方はうへ進すゝんだ。
　十五分許ふんばかりして、ジヤンヌは、祈禱いのりを上あげて歸かへつて來くると、武人ぶ　じんたちに向むかつて言いつた、「イギリス兵へいの力ちからは盡つきて了しまひましたよ、梯子はしごをおかけなさい。」
　實際じつさいさうであつた。彼等かれらは、もう彈藥だんやくが盡つきて、殆ほとんど裝藥さうやくすることが出來で　きないので、石彈せきだんは手てで投なげる位くらゐしか飛とばなかつた。武器ぶ　きの破片かけらより他何一ほかなにひとつ殘のこつてはゐなかつた。彼女かのぢよは、砦　とりでの方はうへ行いつた。堀ほりのところまで行ゆくと、突然自分とつぜんじぶんにとつては、劍けんよりも貴たつとい旗はたを見知み　しらぬ男をとこが持もつてゐるのを見みつけた。危險き　けんな氣きがしたので彼女かのぢよは、急いそいで夫それを取とり返かへしに行いつた。そして、恰度堀ちやうどほりに降おりるところで、バスクに追おひついた。彼女かのぢよは旗はたの端はしを掴つかんで、かう叫さけびながら力限ちからかぎり引張ひつぱつた。
「あ！　私わたしの旗はただ、私わたしの旗はただ！」
　誰だれが、こんなに上うへから引張ひつぱつてゐるのか分わからないので、バスクは一生懸命しやうけんめいに踏張ふんばつてゐた。貴族き　ぞくや首領しゆりやうたちは、旗はたの揺ゆれるのを見みると、合圖あひづだと思おもつて、元氣げんきを囘復くわいふくした。一方ぱうド・オーロンは、砦とりでに到着たうちやくした。彼かれは、バスクが後あとから從ついて來くるものと想おもつてゐた。が、振ふり返かへつて見みれば、彼かれは堀ほりの向むかう端はしに立たち止どまつてゐるので、大おほきな聲こゑを揚あげて言いつた、「おうい！　バスク、貴樣きさま約束やくそくしたことは何どうした？」
　それを聞きくとバスクは、ジヤンヌを引ひきずるほどな力ちからを出だし
て旗はたを引奪ひつたくり、砦とりでの方はうへ持もつて行いつた。
　ジヤンヌは、その意味わ　けを了解れうかいして、滿足まんぞくした。彼女かのぢよは、自分じ　ぶんの近ちかくにゐた人ひとたちに言いつた、「いつ私わたしの旗はたが砦とりでに觸ふれるか見みませうよ。」
　一人ひとりの騎士き　しが言いつた、「旗はたが觸ふれてゐる。」
　すると彼女かのぢよは叫さけんだ、「もう此方こつちのものよ、 お這入は　ひりなさ
い。」
　貴族き　ぞくや、市民し　みんや、武人ぶ　じんたちは 直たゞちに堀ほりの内うちへ崩なだれ込こみ、恰あたかも
 籬 いけがきを登のぼる鳥とりの群むれの如ごとくに、塞柵さいさくを攀よぢた。そして堡壘はうるゐの中なかへ這入は　ひると、逃走たうそうする部下ぶ　かを掩護えんごしながら退却たいきやくしてゐるグラスダル（フランスではグラツシダと呼よぶ）や其他そのたの首領しゆりやうの高慢かうまんちきな顏かほが見みえた。少女せうぢよは砦とりでの上うへに立たつてゐた。恐怖きようふに打うたれたイギリス兵へいは、血ちを流ながしても力ちからを失うしなはないとは何どう云いふ妖女えうぢよであらうと、驚おどろき怪あやしんだ。ジヤンヌは、優やさしく悲かなしげに彼かれを眺ながめてゐた。そして咽むせび泣なきしながら叫さけんだ、「グラツシダよ！　グラツシダよ！　天帝てんていに降伏かうふくしなさい。お前まへは私わたしを私窩子ぢ　ご　くと呼よんだけれど、私わたしは何どんなにかお前まへや、お前まへの部下ぶ　かの魂　たましひを憐あはれに思おもつてゐる。」
　之これと同時どうじに、町まちの城壁じやうへきや、ラ・ベル・クロワの堡壘はうるゐから、砲彈はうだんは雨あめのやうにレ・トウーレルに注そゝがれた。石彈せきだんが飛とんで來きたり、百二十封度ポンドもある彈丸だんぐわんが投なげ込こまれたりした。レ・トウーレルは、橋はし（町まちに通つうずる）の側がはからも攻擊こうげきされた。いち早はやく乘のり込こんで、その方面はうめんの塞柵さいさくに火ひを放はなつたものもあつた。力盡ちからつきた六百のイギリス兵へいは、かうして前後ぜんごに敵てきを受うけてゐた。のみならず、陰險いんけんな怖おそろしい方法はうはふで度々たびたび彼等　かれらは下したからも攻擊こうげきせされた。オルレアンの市民し　みんは、松脂まつやにだとか、麻屑あさくずだとか、粗朶そ　だだとか、古靴ふるぐつだとか、樹脂じゆしだとか、馬骨ば　こつだとか、硫黄ゆ　わうだとか、オリーブ油ゆだとか、かう云いふ火ひや煙けむりの出でやすいものを艀はしけに積つみ込こみ、レ・トウーレルと堡壘はうるゐとの間あひだの木橋もくけうの下したへ運はこんで、火ひをかけた。艀はしけから揚あがる火ひは、恰度ちやうどイギリス兵へいが退却たいきやくしてゐる時ときに、その橋はしへ燃もえ移うつつた。煙けむりや焔ほのほに襲おそはれながら六百のイギリス兵へいは、燃もえてゐる橋板はしいたの上うへへ差さしかゝつた。今度こんどは、一番最後ばんさいごに堡壘はうるゐを去さつたグラスダルその他た三四十人にんの首領しゆりやうたちの渡わたる番ばんとなつたが、もうその時分じ　ぶんには橋梁けうりやうは炭すみになつてゐて、彼等かれらが足あしを載のせると共ともに崩くづれ落おちた。みんなロワール川がはの淵ふちに卷まき込こまれて了しまつた。
　ジヤンヌは、グラスダルや其他そのたの溺死できしした人々ひとびとを憐あはれに思おもつて、涙なみだを流ながした。彼女かのぢよと共ともにゐた首領しゆりやうたちも、また同樣どうやうに之これを悲かなしんだ。彼等かれらの溺死できししたのは、フランス方がたにとつて非常ひじやうな損害そんがいであると思おもつたのである。何故な　ぜと云いふに彼等かれらを捕とらへて了しまへば、莫大ばくだいな贖償金ばいしやうきんが取とれるから。堡壘はうるゐを逃のがれて、燃もえてゐる橋はしに差さしかゝつた六百のイギリス兵へいは、橋上けうじやうでフランス兵へいに襲おそはれて、四百は斬きられ、二百は捕とらはれた。この日ひフランス方がたの損害そんがいは僅わづかに百人にんであつた。
　墨すみのやうな闇やみの中なかを、赤々あかあかと火ひに照てらされたロワール川がはの堤　つゝみに添そうて最後さいごの勝利しやうりの叫さけびが消きえて行いつた。自分じ　ぶんたちの勝かつたのに面喰めんくらつたフランス方がたの首領しゆりやうたちは、まだタルボーが復讐ふくしうの爲ために出擊しゆつげきして來きはしないかと怖々びくびくしながら聖せいローランの方はうを眺ながめてゐた。日出ひのでから日沒にちぼつまで續つゞいたこの長ながい攻擊こうげきの間あひだ、タルボーや、その部下ぶ　かは、自分じ　ぶんたちの陣營ぢんえいを出でなかつた。レ・トウーレルを落おとして了しまつてからも、フランス方がたでは、タルボーを氣きにして見張み　はりをしてゐた。が、フランスの子供こ　どもにさへ怖こはがられてゐるタルボーは動うごかうともしなかつた。彼かれは、レ・トウーレルを救すくふ爲ために自分じ　ぶんの兵へいを動うごかせば、その隙すきに西方せいはうにある自分じ　ぶんの砦とりでや陣營ぢんえいを占領せんりやうせられて了しまひはしないかと、夫それを恐おそれてゐたのである。
　フランス軍ぐんは、町まちへ歸かへる用意よういをした。燒やけ損そんじた橋はしは三時間じかんのうちに、通とほれるだけに修復しうふくせられた。暗くらくなつて幾時間いくじ　かんか經たつてから少女せうぢよは、豫言よげんして置おいた通とほり、橋はしを渡わたつて町まちへ這入は　ひつた。彼女かのぢよの豫言よげんは、その實現じつげんが偏ひとへに彼女かのぢよの勇氣ゆうきと果斷くわだんとにかゝつてゐる時ときには、同おなじやうに何時い　つも成就じやうじゆせられたのである。首領しゆりやうたちは、部下ぶ　かや、捕虜ほりよを連つれて彼女かのぢよの後うしろに從したがつた。町まちでは鐘かねが鳴ならされた、僧侶そうりよや市民等し　みんらは感謝かんしやの歌うたを唄うたつた。神かみや聖母せいぼの次つぎに彼等かれらは聖せいエーニヤンと聖せいウーヴエルとに有あらゆる感謝かんしやのを捧さゝげた。彼等かれらは之これ等らの聖者せいじやたちの救助きうじよを少すこしも疑うたがはなかつた。レ・トウーレルの攻擊こうげきの際さいに、砦とりでの上うへを舞まつてゐる二聖せいの輝かゞやかしい姿すがたが大空おほぞらに望のぞまれた。
　ジヤンヌは、ジヤツク・ブーシエの家いへに歸かへつて來きて、其所そ　こで再ふたゝび軍醫ぐんいの手當て　あてを受うけた。彼女かのぢよは、酒さけと水みづとに浸ひたした麵麭ぱ　んの四片五片よ　きれいつきれを喰たべたゞけで、他ほかに何なにを取とらうともしなかつた。
　翌日よくじつ、五月ぐわつ八日かの日曜日にちえうびは、聖せいミカエルの祝祭おまつりであつたが、イギリス軍ぐんが西部せいぶの稜堡りやうはう——彼等かれらに殘のこされた總すべての稜堡りやうはう——から出でて、町まちの濠ほりの前まへに戰列せんれつを敷しいてゐる、と云いふことが、朝あさの間うちに町まちぢうへ擴ひろがつた。オルレアンの人々ひとびとは、武人ぶ　じんも市民軍し　みんぐんも共ともに、夫それに打うちかゝつて行ゆき度たくてならなかつた。曉方あけがたにド・ブーサツクと幾人いくにんかの首領等しゆりやうらは、營所えいしよを出でて、敵てきに對たいして陣地ぢんちを構かまへた。
　少女せうぢよは、僧侶そうりよたちと共ともに田舎ゐなかへ出でて行いつた。傷きづの爲ために胸甲　むねよろひは着つけられないので、「ジヤズラン」と呼よばれてゐる鎖帷子くさりかたびらを着きてゐるだけであつた。
　武人等ぶ　じんらは、彼女かのぢよに尋たづねた、「今日け　ふは安息日あんそくびですから、戰爭せんさうをしてはいけませんか？」
　彼女かのぢよは答こたへた、「供養く　やうを聞きかなくてはいけません。」
　彼女かのぢよは敵てきが襲擊しふげきしやうなどゝは思おもはなかつた。「神聖しんせいな安息日あんそくびなんだから、戰爭せんさうするのはお止よしなさい。イギリス兵へいを攻擊こうげきするのはいけません。でも、イギリス兵へいの方はうから攻せめて來きたら、大膽だいたんに防禦ばうぎよなさい。心配しんぱいしなくても、大丈夫勝だいぢやうぶかてますよ。」
　田舎ゐなかの、四辻よつつじになつてゐる阪さかの所ところで、僧侶そうりよたちの旅たびに持もつて出でて來きてゐた、神かみに捧さゝげた四角かくな平ひらたい石いしの一ひとつがテーブルの上うへに置おかれた。司會しくわいの僧等そうらは嚴　おごそかに、讃美歌さんび　かを唄うたつたり、祈禱いのりをしたりした。少女せうぢよは、武人ぶ　じんたちと共ともに、この供養く　やうを聞きいた。
　それから彼女かのぢよは、イギリス軍ぐんの行動かうどうを觀察くわんさつするやうにと彼等かれらに言いつた。「敵てきが此方こちらへ顏かほを向むけてゐるか、背せを向むけてゐるか、見みてお出いでなさい。」
　敵てきは背せを向むけて、立たち去さりつゝあるとの事ことであつた。
「今日け　ふ仕事し　ごとをするのを神樣かみさまは喜よろこばれない」と、彼女かのぢよは言いつた、「また何時い　つかやつつければ宜いいですよ、さァ、神樣かみさまに感謝かんしやしませう。」
　イギリス兵へいは、去さりつゝあつた。彼等かれらは、前夜ぜんや會議くわいぎを開ひらいて、退却たいきやくすることに決きめたのである。退却たいきやくするのを分わからなくして、遮斷しやだんせられないやうにする爲ために、彼等かれらは一時間許じ　かんばかりオルレアンの市民し　みんに面おもてを向むけてゐたが、今いまや秩序整然ちつじよせいぜんとして行進かうしんしてゐるのであつた。エチヤンヌ・ド・ヴイニヨールとド・ローレエとは、彼等かれらが何どの道みちを取とるか、後あとへ何なにか殘のこして行ゆきはしないか、夫それが知しり度たさに百人許にんばかりの兵へいを連つれて、三四哩まいるの間あひだその後あとを追おうた。イギリス兵へいは、ミユンの方はうへと退却たいきやくしてゐた。
　市民し　みんたちは、打うち捨すてられた砦とりでへと押おしよせた。そこには、病兵びやうへいと捕虜ほりよとが殘のこしてあつた。餘あまり上等じやうとうでもなければ、量　りやうも僅　わづかであつたが、彈藥だんやくや糧食　りやうしよくもあつた。武器ぶ　きや、大砲たいはうや、臼砲きうはうは町まち
へ運はこばれ、砦とりでは、もう敵てきに利用り　ようせられる恐おそれのないやうに、毀こぼたれて了しまつた。
　その日ひ、町まちでは盛大せいだいな、禮拜らいはいの行列ぎやうれつが催もよほされ、首領しゆりやうたちも、武人ぶ　じんも、役人やくにんも、貴族き　ぞくも、僧侶そうりよも、市民し　みんも、みんな敎會　けうくわいへ行いつた。人々ひとびとは萬歳ばんざいを叫さけんだ。
　かうして、五月　ぐわつ八日かの朝あさオルレアンの町まちは救すくひ出だされた。包圍はうゐされてから二百九日目か　め、少女せうぢよが來きてから、九日目か　めのことである。［203頁↑］


　　　　　＜レ・トウーレルの奪取とオルレアンの救助　了＞

　　　　　　　　　　［（十四）へ続く]


底本：　ジャンヌ・ダルク　1917年　早稻田大學出版部
譯者：　吉江 孤雁 （喬松たかまつ）(1880.09.05 - 1940.03.26)

原著：　Vie de Jeanne d'Arc　　ジャンヌ・ダルク　の　生涯　1908
著者：　Anatole France　アナトール・フランス (1844.04.16 - 1924.10.12)

※　203頁末尾から六行目、誤植と判断し、訂正。
　　『糧も僅かであった』⇒『量も僅かであった』

注）ル・ポルトロー（Le Portereau）は、ロワール川南岸のオーギュスタン砦（修道院）の西に広がる一帯を指す地名らしい。