武田信玄像 平成20年10月27日

武田信玄 たけだ・しんげん

大永元年11月3日(1521年12月1日)〜元亀4年4月12日(1573年5月13日)

長野県長野市・八幡原史跡公園八幡社でお会いしました。


実名は晴信はるのぶ
甲斐・信濃を中心に勢力圏を築いた。
天文10年(1541年)父・信虎を追放して家督を継ぐ。
翌年、諏訪頼重を滅ぼす。
天文22年(1553年)村上義清を追い、翌年には駿河国の今川氏・相模国の後北条氏と同盟を結んだ。(=善徳寺の会盟)
弘治元年(1555年)木曾義昌を従えて信濃を制圧。
前後に越後の上杉謙信としばしば交戦(=川中島の戦)した。
永禄8年(1565年)長子・義信が叛いたが四子勝頼を嫡子にたて、2年後に義信を切腹させた。
永禄11年(1568年)同盟を破って駿河に進攻、今川氏真うじざねを没落させ、後北条氏と戦った。
後北条氏とは元亀2年(1571年)同盟を復活。
その後、遠江・三河に進攻し、元亀3年(1572年)徳川家康織田信長軍を破るが(=三方原の戦)、まもなく死没した。
内政面では村落掌握を進め、御家人衆・軍役衆を設定。
さらに信玄堤で有名な治水事業、甲州金で知られる金山開発を行い、富国強兵に努めた。


八幡原本陣はちまんばらほんじん再現

ここ八幡原史跡公園は、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いで、武田信玄の本陣がおかれた場所とされています。
信玄は、高坂昌信こうさかまさのぶ(春日虎綱かすがとらつな)率いる別動隊を、上杉謙信が籠こもる妻女山に向かわせ、別動隊に背後を突かれて追われてくる上杉軍を挟み撃ちにするため、この八幡原に本陣を敷いて待ち構えていました。
後世、啄木鳥きつつき戦法と呼ばれるこの作戦は、大河ドラマ「風林火山」の主人公・山本勘助の発案であったとされています。
しかし、信玄の動きを見抜いた謙信は、夜陰やいんに紛まぎれていち早く妻女山を下ったため、9月10日の朝、信玄の本隊は別動隊の到着を待たずに上杉軍との先端を開きます。
激戦のさなか、謙信が信玄の本陣に攻め込み、信玄に向かって三太刀みたち斬りつけ、信玄は床几しょうぎにすわったまま軍配でそれを受けたとされる「信玄・謙信一騎討ち」の伝説もこの戦いで生まれました。

(説明板より)

三太刀七太刀の跡




三太刀七太刀みたちななたち之跡






(平成20年10月27日)

三太刀七太刀みたちななたち之跡

永禄4年(1561)9月10日、ここ八幡原はちまんばらを中心に上杉、武田両軍3万余の壮絶な死闘が展開された。
上杉謙信は紺糸縅こんいとおどしの鎧よろいに萌黄もえぎ緞子どんすの胴方衣どうかたぎぬ、金の星兜かぶとに立烏帽子たてえぼし白妙しろたえの練絹ねりぎぬで行人包ぎょうにんつつみ、長光ながみつの太刀を抜き放ち、名馬放生ほうしょうに跨り戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。
この時の武田信玄は諏訪法性ほっしょうの兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。
この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。
後にこの軍配を調べたところ刀の跡が7ヶ所もあったといわれ、もの一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。

長野市

(説明板より)

逆槐




逆槐さかさえんじゅ






(平成20年10月27日)

逆槐さかさえんじゅ

山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4年(1561)9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。
このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約4百年を経てこの巨木に成長したものと伝えられる。
周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す桝形ますがた陣形跡である。

長野市

(説明板より)

桝形陣形跡
執念の石




執念の石






(平成20年10月27日)

執念の石

武田・上杉両軍3万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅はらおおすみが、傍かたわらにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだした。
苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭さんずをしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔きょうほんし去ったため、信玄は危く虎口を免れることができた。
一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍にあったこの石を槍で突き通したといわれる。

長野市

(説明板より)

首塚




首塚






(平成20年10月27日)

首塚

この塚は以前は屍塚かばねつかと呼ばれ、1561(永禄4)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正こうさかだんじょうが激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。
このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。
ここから東南へ約180mのところにも同じく大きな首塚がある。
昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚はこの二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。

長野市

(説明板より)

 (説明板より)

八幡社



八幡社
(長野県長野市小島田町・八幡原史跡公園)





(平成20年10月27日)
八幡社



八幡社
(長野県長野市小島田町・八幡原史跡公園)





(平成20年10月27日)

川中島古戦場八幡原

川中島合戦は今から4百年前、天文22年より永禄4年に至る13年の永きに亘って行はれたが、後世広く伝えられている川中島合戦は永禄4年の戦いを指している。
この戦は越後の雄将上杉謙信、甲斐の智将武田信玄がこゝ川中島に雌雄を決せんと武田勢は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣をとり、両軍併せて3万3千余、9月10日未明の霧深い中で信玄の「鶴翼かくよく」の配備と謙信の「車懸くるまがかり」の攻撃で双方死斗を盡し、こゝ八幡原は大修羅場と化した。
その中にあって、謙信は只一騎愛刀「小豆長光」を振りかざし武田の本陣に切り込み不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという有名な「三太刀、七太刀」も此の処である。
時に信玄41才、謙信32才であった。
この戦で死傷者7千を数え史上最大の激戦で両将の決戦場こゝ八幡原に現存する土盛りの跡は、武田本陣桝形陣地で当時の一部を物語っている。
両将の戦術は幾多の戦術研究の指針とし現代戦にも多く応用されたと聞く。
武田の居城海津城は東南4粁の松代に、また頼山陽の「鞭声粛々夜渡河」で有名な雨宮渡は東側を流れる千曲川の上流約6粁の地点である。

(説明板より)

 (案内板より)

信玄のおもかげ

信玄と謙信とは、正反対に近い性格をもっていたが、一面かなり似た性格も持っていた。
信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたが、、謙信は信長から和睦を求められた時、延暦寺の復興をその条件の一つとして要求し、信玄も信長を破って上京しようとした時、上京の目的の一つは延暦寺の復興にあると宣伝した。
神や仏を深く信仰し、何か事のあるたびに神仏に祈願することなども信玄と謙信はよく似ており、また天皇や将軍を尊敬した点でも二人はよく似ている。
信玄が慎重で考え深い人だったことは色々な点から知られる。
戦争を始める前に、必ず相手方の家来などを味方につけ、敵が内部から崩れるようにした。
川中島の戦の時も、謙信との正面衝突を避け、ねるべく損害を出さないようにした。
しかし、どうしても信玄の言うことを聞かないで手向かうものに対しては、大変厳しい態度をとった。
安曇の小岩嶽城、佐久の志賀城、小県の和田城などは最後まで抵抗したので、城兵は皆殺しにされ、老人や女・子供は捕虜にされた。
信玄は13歳の時、上杉朝興の娘を妻に迎えたが、翌年妊娠して死んだ。
まもなく京都から内大臣三条公頼の娘を妻に迎え、その後、20歳の頃諏訪頼重の娘を、22歳の時小県の豪族禰津ねつ元直の娘を、また後に甲斐の油川彦八の娘をそれぞれ妾とした。
信玄は学問好きの人だった。
信玄は主に禅僧について勉強し、漢詩が得意でその作品がいくつか得られているし、和歌も好きで自筆の和歌の短冊がいくつも残っている。
また信玄は字もうまく自分で絵も描いた。
信玄は謙信とともに戦国武将としては、かなり教養の高い方であったと伝えられる。
信玄は深く神仏を信じており、戦に出かける前には必ず神仏に祈願するのが例であった。
信玄はまた禅宗に心を寄せ、京都相国寺の惟高妙安いこうみょうあんは信玄に招かれて甲斐恵林えりん寺に来て、信玄に禅を教えた。
また京都天竜寺の策彦さくげん周良を招いて恵林寺住持とした。
この二人の禅僧は当時の一流の人物である。

(参考:龍虎発行『川中島古戦場』冊子より)

武田方の将

武田左典厩信繁
信虎の次男で信玄の弟。
左典厩というのは左馬助のことである。
信虎は信玄よりも信繁を愛し信繁に家をゆずろうと考えていたといわれる。
武田軍の副将軍ともいうべき地位にあった。
永禄4年9月10日、川中島で戦死した。

武田刑部少輔信廉
信虎の三男、信玄の弟。
画がうまく、信廉の描いた信虎及び大井夫人(信玄の母)の像が残っている。
天正10年甲府で織田軍に殺された。

海野竜芳
信玄の二男。
生れつき盲人で、聖道様といわれていたが、信濃の海野氏を継いだ。
天正10年自殺。

仁科五郎盛信
信玄の五男。
信濃の仁科氏を継いだ。
のち伊那郡高遠城主となり、天正10年2月、織田軍の大軍を迎え討ち、奮戦して死んだ。
武田王国の崩壊に当たり、武田の一族、諸将は争って織田軍に降り、またはほとんど無抵抗のまま殺され、奮戦したものは盛信等わずかの人だけだった。
(盛信を信盛と伝えるのは誤り)

板垣駿河守信方
信玄の重臣。
諏訪頼重が信玄に殺されて後、上原城にいて諏訪郡を治めた。
天正17年、小県郡上田原の戦で村上義清に敗れて戦死した。

飯富兵部少輔虎昌
信玄の重臣。
彼の率いる一隊は赤一色の軍容であったので、赤備えといった。
のち徳川家康は、武田氏の浪人を井伊直政に属させて赤備えの部隊を作らせたが、これは飯富の赤備えにならったものであるという。
佐久郡内山城将であったこともある。
永禄8年、信玄に殺された。
信玄の長男義信と親しかったためである。

山県三郎兵衛昌景
虎昌の弟。
はじめ飯富源四郎といったが、兄の死後、山県と改称した。
勇将として有名で、またよく部下を愛したという。
長篠で奮戦し、鉄砲の弾が当たったが落馬せず、采配を口にくわえたまま死んだという。

小山田備中守昌辰
はじめ上原伊賀守といった。
天文15年7月、佐久郡内山城将となる。
天文20年、名を小山田備中守と改める。
昌辰は城の守備がうまかったので、新しく武田の手に入った城はまず昌辰に守らせたという。

高坂弾正忠(春日虎綱)
虎綱は甲斐石和いさわの大百姓の子で、春日源助といい、16才で信玄に仕えた。
信玄が家を継いでまもなくの頃である。
美少年であったらしく、信玄は深く源助を愛した。
このように信玄の「愛人」であったため、どんどん出世して、武田家の有力な武将の一人になり、信濃の名族の姓を継いで高坂と名乗った。
温厚な性格で特に民政に通じていたため、海津城将として占領後の北信濃の経営に努力した。
天正6年海津城で没す。

馬場美濃守信春
身分の低い武士であったが、信玄に引き立てられ、甲斐の名族馬場氏を継いだ。
はじめ民部少輔といったが、のち美濃守に改めた。
40年間戦場を駆け巡り、一度も傷を受けなかったという。
のち更級郡牧の島城将となる。
長篠の戦いで戦死。

真田幸隆(一徳斎)
真田氏は小県郡真田の武士で海野氏の支族である。
武田信虎・村上義清の挟みうちにあい、上野に逃げたがのちに信玄に属し、その智将として信濃攻略を助けた。
ことに村上氏の攻略は幸隆の力によるところが多い。
戦いに出ること数知れず、身に35ヶ所の傷の跡があったという。
天正2年、真田で没す。

真田昌幸
幸隆の三男で、はじめ甲斐の旧族武藤氏、次いで武藤喜兵衛と称したが、2人の兄の戦死により、真田家を継いだ。
武田氏滅亡後、上田城によって独立。
天正13年昌幸が上田城に籠って徳川家康を退け、また慶長4年、徳川秀忠の大軍を防いで関ヶ原の合戦後、高野山に流され、そこで死んだ。
次男信繁(幸村)は大坂城に籠って豊臣氏のために大いに奮闘して戦死した。
幸隆・昌幸・幸村を真田三代という。

穴山梅雪信君
甲斐の名族で、その母(穴山信友の夫人)は信玄の姉である。
天正10年、勝頼に背いて織田信長に降り、のち本能寺の変の時に土民に殺された。

山本勘介
山本勘介は武田の軍師で、片目で足が不自由だったが策戦は非常にうまかったといわれる。
川中島の戦の時、きつつきの戦法を信玄にすすめ、それが失敗して武田軍が苦戦に陥ったので責任を感じ奮戦して死んだ。
しかし、勘介については疑問の点が多い。

(参考:龍虎発行『川中島古戦場』冊子より)


千曲川



千曲川

川の向かって右側が八幡原(川中島古戦場跡)




(平成20年10月27日)

広瀬の渡し



広瀬の渡し
(長野県長野市松代柴・千曲川河畔)





(平成20年10月27日)

広瀬の渡し

武田信玄が甲斐より海津城に入る時、海津城を出て八幡原に陣を構える際に渡った。
また、江戸時代には全国から参詣に来た人々が信州柴阿弥陀堂を経て善光寺へ至る時渡った。

(説明板より)


【武田信玄】

信玄の父、武田信虎という人は偉い人であったけれども、非常に乱暴で、暴虐な人でしたが、信玄はこれを隠居させて親戚の今川義元の処へ追いやって自立した。
この信虎の妹、信玄からいうと叔母に当たるわけですが、この人が諏訪頼重の夫人になっている。
ですから頼重は、信玄からいうと義理の叔父になるわけで、つまり親戚関係にあった。
諏訪頼重という人は諏訪湖のわきに城を持っていたのですが、両者は親類でありながら当時敵対関係になっていた。

信玄は自立しますと、弟の信繁を使いにやって「今までは親類同士いさかいをして仲が悪かったけれども、外にも敵があるのであるから仲良くしようではありませんか」と言って、叔母及び義理の叔父を甲府に連れてきたのです。
頼重は久しぶりに甥の処へ来たので、くつろいで「信玄も独立したか」といって、よい気持ちで御馳走になっているところを、ひそかに伏せていた家臣をして殺させてしまうのです。
これは、ある本には自殺を強いたと書いてありますが、『日本外史』には、やはり殺したと書いてあります。
また、『甲陽軍鑑』の方には、その殺した模様を詳しく書いてあるのです。

そして諏訪湖のわきにある頼重の領地を信玄は奪い取ったのですが、頼重には娘がいた。
これが非常な美人でしたが、信玄から見れば従妹に当たるこの娘を妾にしたのです。
そしてその腹に生まれたのが勝頼なのです。
信玄の正妻は京都のさるお家柄の関白格の人の娘ですが、その正妻との間に生まれたのが太郎義信で、これが嫡男です。
ところが、成人するにつれて、妾腹の勝頼の方を信玄は可愛がるので、義信の不平はつのり、彼は川中島では大功を立て、よく働いたのですが、その不平のゆえに親の信玄に謀叛を起こし、結局、腹を切らされ、勝頼がその後を背負ったというわけです。

ところが恐るべきは天です。
信玄は川中島の合戦で謙信から三太刀受けるのですが、その傷の療養に温泉に行き、間もなくそこから引き揚げて来る途中、かの愛妾は突然病気で亡くなるのです。
信玄の落胆はいうまでもない。
いくさでは謙信に肩を斬られ、また自分の弟の信繁は川中島で戦死し、今また愛妾は病死したのです。

(参考:山梨勝之進 著 『歴史と名将〜戦史に見るリーダーシップの条件〜』 毎日新聞社 昭和57年2月第9刷発行)

(平成29年5月5日 追記)




 トップページに戻る   銅像のリストに戻る