(別称:扇城)
三重県桑名市 九華公園
平成15年11月29日
桑名城の沿革
戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。
戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され、信長の家臣滝川一益かずますの支配を受けました。
豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。
桑名城に初めて天守閣が築かれたのは文禄4年(1595)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれています。
桑名に本格的な城郭が築かれたのは慶長6年(1601)です。
徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。
忠勝は東城があった所を中心に縄張りを行い、近世城郭を造りました。
同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。
忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。
桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができました。
天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが、元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。
門や櫓の数は多く、享和3年(1803)の記録には、本門や路地門などを合わせて63ヶ所、櫓は95ヶ所とあります。
しかし、幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府方に付き、藩主松平定敬さだあきは東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。
その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。
新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓たつみやぐらを焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。
その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。
(説明板より)
桑名藩主一覧(説明板の記述から作成)
代 | 藩主 | 襲封 | 生没年 | 備考 |
初代 | 本多忠勝 | 慶長6年(1601) | 1548〜1610 | |
2代 | 本多忠政 | 慶長15年(1610) | 1575〜1631 | 元和3年(1617)姫路へ移封 |
3代 | 松平定勝 | 元和3年(1617) | 1560〜1620 | 伏見より移封 |
4代 | 松平定行 | 寛永元年(1624) | 1587〜1668 | 寛永12年(1635)伊予松山へ移封 |
5代 | 松平定綱 | 寛永12年(1635) | 1592〜1651 | 大垣より移封 |
6代 | 松平定良 | 承応元年(1652) | 1632〜1657 | |
7代 | 松平定重 | 明暦3年(1657) | 1644〜1717 | 宝永7年(1710)越後高田へ移封 |
8代 | 松平忠雅 | 宝永7年(1710) | 1683〜1746 | 福山より移封 |
9代 | 松平忠刻 | 延享3年(1746) | 1718〜1782 | |
10代 | 松平忠啓 | 明和8年(1771) | 1746〜1786 | |
11代 | 松平忠功 | 天明7年(1787) | 1756〜1830 | |
12代 | 松平忠和 | 寛政5年(1793) | 1759〜1802 | |
13代 | 松平忠翼 | 享和2年(1802) | 1780〜1821 | |
14代 | 松平忠堯 | 文政4年(1821) | 1801〜1864 | 文政6年(1823)忍へ移封 |
15代 | 松平定永 | 文政6年(1823) | 1791〜1838 | 白河より移封 |
16代 | 松平定和 | 天保9年(1838) | 1812〜1841 | |
17代 | 松平定■ | 天保12年(1841) | 1834〜1859 | |
18代 | 松平定敬 | 安政6年(1859) | 1846〜1908 |
※■はパソコン上に無い文字です。
勢州桑名城中之絵図 正保年間(1644〜48)に作成された絵図の一部 (説明板より)
九華公園
昭和3年(1928)、楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後100年祭を記念して、当時の桑名町が桑名城跡の本丸・二之丸一帯を公園として整備しました。
城にはよく地形や形から別の名前が付くことがありますが、桑名城はその形から「扇おうぎ城」と呼ばれました。
桑名城跡には九華きゅうか公園という名前が付いていますが、「九華」は、「くわな」と読ませ、江戸時代から使用されていました。
これは、中国に九華扇という扇があり、扇城の名と「くわな」の読みにかけて付けられたということです。
現在の九華公園は8.65ヘクタールあり、桜・つつじ・花菖蒲はなしょうぶなどの名所として、市民の憩いの場所となっています。
(説明板より)
「三重県指定史跡桑名城跡」の碑 本丸跡の公園に細長くて小さな石の石碑がありました。 ここが桑名城跡だということを示すものはこれだけです。 少々寂しい気がします。 近くに公園の管理事務所がありますが、ここには城跡に関するパンフレット等の資料は置いてありませんでした。 パンフレットぐらい置いてあるといいのにねぇ。 (平成15年11月29日) |
神戸櫓跡 (平成15年11月29日) |
神戸かんべ櫓跡
戦国時代、この付近には伊藤武左衛門ぶざえもんが治める東城があったが、織田信長の伊勢侵略の時 伊藤氏は降伏し、その後城主は度々替わった。
文禄ぶんろくの頃(1592〜1596)一柳直盛ひとつやなぎ・なおもりが城主となると城郭が築かれ、その時、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれている。
江戸時代、初代藩主本多忠勝ほんだ・ただかつは城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたが、神戸城の天守閣は櫓として残され「神戸櫓」と呼ばれた。
文化財を大切にしましょう
平成13年 桑名市教育委員会
(説明板より)
桑名城二の丸跡 (平成15年11月29日) |
天守台跡ですが、石垣は当時のものではないそうです。
桑名城三の丸(新城)跡 (平成15年11月29日) |
桑名城三之丸御殿(新城)及桑名紡績工場跡(説明板より)
慶長6年(1601)、本多忠勝が桑名城主となり、城下町割りと共に、本格的な城の建設を行った。
本丸の北には新城(三之丸)と呼ばれる一郭が築かれ、城主が住んでいる御殿が設けられた。
度々の火災などで建物は変遷していると思われるが、明治維新以降に建物は取壊された。
明治29年(1896)に新城跡地一帯に桑名紡績工場が建設され、付近の内郭堀は埋められた。
紡績工場は煉瓦造りで建てられた。
桑名紡績は三重紡績・東洋紡績と変わったが昭和20年(1945)の空襲により破壊された。
新城及び紡績工場跡地の一部は、平成元年に吉之丸コミュニティパークとなった。
「七里の渡し」から見た蟠龍櫓 水門統合管理所は蟠龍櫓を模して平成15年3月に建てられました。 素晴らしい配慮だと思います。 1階部分は国土交通省管轄の管理事務所ですが、2階部分は桑名市管轄の展望台になっていて中に入ることが出来ます。 展望台には絵図などのパネル資料が展示されています。 (平成15年11月29日) |
水門統合管理所の概要(説明板より)
管理所周辺は、城跡や名所旧跡レクリエーション等が整備された公園として、市民や観光客の憩いの場となっています。
揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し陸川および川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして景観に配慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。
これら三つの水門は高潮警戒時に操作する防潮水門で、安全性・効率性・迅速性を考慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました。
管理所は、かつて桑名城の隅櫓すみやぐらの一つである蟠龍櫓ばんりゅうやぐらが建っていたところに位置するため、建物の設計にあたってこの櫓の外観復元を目指すこととなりました。
伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史的資料は限られましたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけるよう推定復元しました。
4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701)に天守が焼失して以降、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。
蟠龍櫓ばんりゅうやぐらについて(説明板より)
桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。
このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。
歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保しょうほ年間(1644〜48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。
蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和きょうわ2年(1802)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。
この絵では、単層入母屋造たんそういりもやづくりの櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。
龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟びょうなどの装飾モチーフとして広く用いられています。
蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。
文化3年(1806)刊の「絵本名物時■蛤」という書物「臥龍がりゅうの瓦は当御城門乾いぬい櫓上にあり、この瓦名作にして龍影りゅうえい水にうつる。ゆへに、海魚往ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。
※■はパソコン上に無い文字です。
蟠龍瓦 (平成15年11月29日) |
「七里の渡し」跡 揖斐川河口にあり、東海道五十三次の四十二番目の宿、桑名の玄関として尾張熱田の宮から海路七里あったことから俗に「七里の渡し」と言われました。 これより伊勢路に入るため大鳥居は「伊勢の国一の鳥居」と称されています。 (観光協会の散策マップ内の説明文より) (平成15年11月29日) |
桑名名物の「焼蛤やきはまぐり」 (平成15年11月29日) |
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