「海軍飛行予備学生 慰霊塔」 (愛知県名古屋市・愛知県護国神社) (平成15年11月28日) |
海軍飛行予備学生概要(銘板)
満洲事変のさなか昭和9年に入隊の1期生から第二次世界大戦末期昭和19年入隊の15期生まで 生徒は同18年入隊の1期生と同19年入隊の2期生で操縦偵察各専修と飛行要務にわかれた
入隊者10,932名 うち戦没2,437名で期別内訳下表の通り
期別 | 入隊者 | 戦没者 |
1期 | 5 | 0 |
2期 | 14 | 5 |
3期 | 17 | 1 |
4期 | 12 | 6 |
5期 | 19 | 9 |
6期 | 26 | 10 |
7期 | 33 | 24 |
8期 | 43 | 27 |
9期 | 34 | 22 |
10期 | 98 | 61 |
11期 | 85 | 68 |
12期 | 61 | 29 |
13期 | 4726 | 1605 |
14期 | 1954 | 395 |
1期生徒 | 1393 | 159 |
15期 | 1854 | 16 |
2期生徒 | 558 | 0 |
永沢道雄・著『ひよっこ特攻』では、飛行予備学生の人数等について上記と多少違いがあるので、参考までに抜粋整理して下に記します。(平成16年6月5日記)
年 | 期 | 人数 | 解説 |
昭和 9年 | 1期 | 5 | 6名採用したが途中で1名失格。予備少尉任官は5名。 1年間の教育後予備少尉に任官と同時に民間へ戻る。 |
昭和10年 | 2期 | 15 | |
昭和11年 | 3期 | 17 | |
昭和12年 | 4期 | 14 | この期から予備少尉任官と同時に即日充員招集で軍務に就く。 |
昭和13年 〜 昭和16年 |
5期 〜 8期 |
年平均30 | |
昭和17年 | 9期 | 38 | |
昭和17年 | 10期 | 100 | 初めて募集した一般兵科予備学生から飛行科に転科した者。 |
昭和17年 | 11期 | 101 | |
昭和17年 | 12期 | 70 | 第2期一般予備学生から飛行科へ転科した者。 |
昭和18年 | 13期 | 5200 | 7万人の志願者から選抜された。 昭和18年9月から土浦・三重航空隊で基礎教育。 飛行要務専修者217名は三重航空隊で教育を受ける。 |
昭和18年 | 14期 | 3323 | ”学徒出陣組” 今までの志願兵ではなく義務兵役で徴集した者から選抜。 飛行専修者は昭和19年2月から土浦・三重航空隊で4ヶ月間 の基礎教育を受ける。 飛行要務専修者は鹿児島航空隊で教育を受ける。 |
昭和18年 | 1期予備生徒 | 2360 | ”学徒出陣組”のうち大学学部以外の大学予科、高等学校、 専門学校在学中の者。 飛行専修者は昭和19年2月から土浦・三重航空隊で4ヶ月間 の基礎教育を受ける。 飛行要務専修者は鹿児島航空隊で教育を受ける。 |
以下略 |
第14期飛行予備学生
基礎教程(土浦航空隊)から次教程へ (昭和19年5月) | ||
種別 | 人数 | 移動先 |
操縦専修(中間練習機教程へ) | 1120 | 出水航空隊(517名)・矢田部・第2美保・博多・鹿島・ 北浦・詫間航空隊 |
偵察専修(中間練習機教程へ) | 790 | 大井航空隊(550名)・徳島航空隊 |
要務要員(改めて搭乗不適とされた者) | 280 | 土浦・百里原・矢田部・北浦航空隊 |
基礎教程(鹿児島航空隊)から次教程へ (昭和19年5月) | ||
種別 | 人数 | 移動先 |
要務専修(術科教程へ) | 不明 | 鹿児島・第2美保・宇佐・大井・青島(中国)等30ヶ所 |
中間練習機教程から実用機教程へ (昭和19年9月) | ||
操縦専修学生(陸上機組)約900名 | ||
種別 | 人数 | 移動先 |
戦闘機組 | ||
艦上攻撃機組 | 64 | 宇佐航空隊 |
艦上爆撃機組 | 46 | 宇佐航空隊 |
中型陸上攻撃機 | ||
グライダー | 11 |
第1期飛行予備生徒(14期飛行予備学生と同期の学徒出陣組)
基礎教程(三重航空隊)から次教程へ (昭和19年5月) | ||
種別 | 人数 | 移動先 |
操縦専修(中間練習機教程へ) | 850 | 筑城・冨高・虎尾(台湾)・第2美保・第2河和・大津航空隊 |
偵察専修(中間練習機教程へ) | 570 | 鈴鹿航空隊 |
要務専修(術科教程へ) | 940 | 鈴鹿・高知・徳島・鹿児島・三重航空隊 |
白鴎顕彰之碑 (京都市・京都霊山護国神社) (平成19年3月17日) |
白鴎顕彰之碑
学徒出身戦没海軍飛行科予備士官の霊に捧ぐ
大東亜戦争は航空決戦が祖国の存亡を決する戦況となり、旧制大学、高等・専門学校を卒業または在学中の学徒たちは、緊迫した祖国と同胞を護るために敢然と海軍飛行科予備学生・予備生徒を志願し、学窓から大空の決戦場へ赴きました。
短期間の猛訓練に耐え、航空隊指揮官として英知と勇気をもって戦い、2485名が雲ながるる果てに散華されました。
そのなかで神風特別攻撃隊士官搭乗員の85%実に658名が学徒出身海軍飛行科予備士官でありました。
学徒たちが戦争の矛盾を感じつつも、一心に祖国の安泰と、家族の平安を信じ「後を頼む」の一言を託し、生死を超越して戦った精神こそ、この国を継ぐ者への指標であります。
こうした痛恨の史実を語り継ぐため、戦後日ならずして生存同期生相集い海軍航空隊を象徴したその名も白鴎遺族会を結成、今日英霊の永遠なる在世を希い『白鴎顕彰之碑』を建立し、深く哀悼の意を捧げ、世界の平和を祈るものであります。
2001年(平成13年)5月27日
白鴎遺族会
(碑文より)
慰霊碑 (大阪護国神社) 海軍第一期飛行専修豫備生徒 (平成20年6月15日) |
碑誌
海軍第1期飛行専修予備生徒は、戦雲急を告げる昭和18年12月10日、学業半ばにして臨時現役兵として應召し、各海兵団を経て、三重及び鹿児島の海軍航空隊に於て基礎訓練を受け、中練教程の後、予備士官として実戦に参加した。
主として沖縄特攻、その他数々の戦場に於いて我々は同期165名を失った。
戦後30年ここにその名を銘記し、今は亡き戦友の御霊を永遠に弔うものである。
海軍予備学生制度
海軍が予備学生制度を創設したのは昭和9年。
ただし、これは飛行科(当時は航空科と称した)要員に限られたものであった。
それまでは、高等商船学校航海科卒業者は卒業と同時に海軍予備少尉に、機関科卒業者は海軍予備機関少尉に任官する制度で、海軍予備士官といえば、高等商船学校出身者を指すものであったが、一般大学出身者を、海軍予備士官に任官させる制度は、この時に初めて制定されたものである。
名称は第1期〜第4期が航空予備学生。
第5期〜第7期が飛行科航空予備学生。
第8期〜第12期が飛行科予備学生。
第13期以降から飛行専修予備学生。
と名称が変わる。
当初の海軍航空予備学生制度は、大学卒業後の兵役を海軍で予備士官として務めさせ、その後はいったん社会に帰して、有事の際に予備員とすることを目的とした。
しかし、まもなく日華事変が始まり、第4期航空予備学生は、大学卒業後約1年間の教育ののち、予備少尉に任官と同時に予備役編入、即日充員召集という形で、そのまま終戦まで海軍に勤務することになった。
(参考:田中知之著『八重の潮路の果てに〜第1期海軍兵科予備学生の記録〜』)
(平成20年12月20日追記)
同期の桜 六助 海軍飛行科予備学生生徒 (福岡県福岡市・福岡県護国神社) 昭和46年5月16日 財団法人 白鴎遺族会 福岡支部 (平成20年11月25日) |
誌 雲流るゝ涯に 散った 亡き戦友を偲んで こゝに櫻を植樹する 入隊五十周年を記念して (札幌護国神社) (平成22年5月26日) |
【碑文】(裏)
第十三期海軍飛行予備学生
在住北海道有志一同
(人名略)
平成5年5月13日