東京都千代田区
平成17年11月13日
特別史跡 江戸城跡
江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。
以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域を「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。
この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きくその規模はわが国随一のものであることから、昭和38年5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。
環境省皇居外苑管理事務所
(説明板より)
大手門 (平成17年11月13日) |
旧大手門渡櫓の鯱しゃち |
旧大手門渡櫓の鯱
1945年(昭和20年)4月、戦災で消失した旧大手門渡櫓わたりやぐらの屋根に飾られていた鯱しゃちです。
頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)で消失した後、再建された際に製作されたものと推定されます。
今の大手門渡櫓は、1968年(昭和43年)に再建されたものです。
(説明板より)
同心番所 (平成17年11月13日) |
同心番所
「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、大番所とこの同心番所の3つが残っています。
城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。
ここには同心が詰め、主として、登城する大名の供の監視に当たっていました。
(説明板より)
百人番所 (平成17年11月13日) |
百人番所
本丸と二の丸へ通じる要所である大手三之門の前に設けられた番所です。
鉄砲百人組と呼ばれた、甲賀組、伊賀組、根来ねごろ組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めていました。
各組には同心が100人ずつ配属されていました。
(説明板より)
大番所 (平成17年11月13日) |
大番所
「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、同心番所とこの大番所の3つが残っています。
中之門の側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていました。
前の坂を上ったところが本丸の入り口で中雀ちゅうじゃく門がありました。
(説明板より)
本丸跡 太田道灌の江戸城はこの本丸跡に位置します。 地下2メートル余りのところに戦国時代の江戸城が眠っているといわれています。 (平成17年11月13日) |
天守台 (平成17年11月13日) |
天守台
最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しましたが、その後大修築され、1638年、三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。
外観5層、内部6階で、地上からの高さは58メートルありました。
しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、飛び火により全焼し、以後は再建されませんでした。
(説明板より)
松の大廊下跡 (平成17年11月13日) |
松の大廊下跡
赤穂浪士あこうろうし討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのりの吉良上野介義央きらこうずけのすけよしなかへの刃傷にんじょう事件(1701年〔元禄14年〕)のあったところです。
廊下に沿った襖ふすま戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれます。
江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。
(説明板より)
富士見櫓 (平成17年11月13日) |
富士見櫓
「櫓やぐら」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。
今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っています。
その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓です。
明暦の大火(1657年)で消失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています。
(説明板より)
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