フフフ

投稿者:うさ
投稿日時:2002年01月15日 23時17分43秒

>「たましい」としての「自己」を認識するには「神経系・脳」を経由しなければならないと考えています。
>一般的に、視覚にしても、聴覚にしても、「脳」というフィルターを経由するのです。これは、悲しむべきことです。

効果器なんだよ。運動器ともいう。手や足、消化器とかのこと。
手や足だけを取り出して人間とは言わない。
脳も効果器と考える。最高位の中枢ではなく。

>いったん、唯物論的な「脳」を介在してしまうのです。
>相手と話をするとき、「空気の振動」という唯物論的存在を介します。
>いったん、自己が認識したものについて、「自己内部」ないし「他者」との情報交換をする段階で「唯物論的存在」を介さねばなりません。

しかし、空気の振動をことばとはいわないでしょ。
スプーンを曲げるときにアルファー波が出るからといって、
アルファー波を超能力とは言わない。それはただの脳内の活動電位の変化を観測しているだけのこと。

>ここで問題なのは、「唯物論的存在」を介するからといって、「たましい」は「否定」されうるか?という問題です。

言語ゲームを勉強して。
「唯物論的存在」は将棋の駒のようなもの。
それはただ観察の対象でしかない。
「唯物論的存在」の運動の分析にどんな意味があるの?

>一本の弦が、存在します。
>この弦は「唯物論的存在」です。
>弦を弾きます。
>「音」が発生します。
>空気の振動が、物理的に伝わり、鼓膜を振動させ、脳を刺激します。
>同じことなのに、「楽しい音楽」や「悲しい音楽」や「ジーンとする音楽」が、存在します。
>そういったものは、物理的現象を如何に分析しても、出てこないでしょう。
>ただ、そのような感情を呼び起こす「パターン」を、「音楽的」に見出すこと
>ができるだけだと思います。

それは違う。プラトンと同じ誤謬。
善のイデアは普遍の「パターン」と比べているのではない。

>楽器を分解しても、「人に訴えかける音楽」は、明らかになりません。楽器と人を結ぶ空間には、「音」を伝える「物質としての空気」しかないのです。それでも、「感情」を共有することができます。なぜなのでしょう?

西洋哲学は全部忘れなさい!!!
でないとこの迷道からは逃れられない。


>たとえば、「感じるだけ」でなく、(他の人に見えない)対象物を、「見える」と感じているときには、「視神経」に繋がる「脳」の機能局在部を介して「感じている」はずです。

たまに網膜に残像が出現する。霊視の一種。
念写の原理らしい。網膜に霊の姿を写すの。
立体的で生きているかのようにリアル。
普通の残像よりもハッキリしていて、顔の表情もわかる。
霊が私に意志表示するときにそれをする。
それは物理現象との狭間にあるものだね。

>細胞一つ一つのレベルから「生命」が宿っていると考えることを、否定しているわけではありません。むしろ、それは「後天的な智」として、「知った段階」から、積極的に自己内部で「肯定」して生きていくべきものと、思います。

細胞の一つ一つに前世があって業があり、物質化する以前は関連はなかった。人の体として生まれることで、自らに意義を持つようになる。

>個々の細胞が、「反乱」を起こしたとたん、「生命体」としての「個人」は、成り立たなくなります。

個々が反乱を起こすというのは貴方がすべてを見ていないから。
もっと高見から観察したら?

>「脳」を中心とした生命体であるがゆえ、もし、細胞なり、臓器なりが切り離された段階でも、「脳」を中心とした生命体としての「たましい」は、切り離されないのです。個々の細胞は、もとは一つの細胞が分裂したものであり、その中のいくつかは、発生段階で「積極的な死」を担う。そうしなければ「手の指」は分離されない事実。しかしながら、そういった事実は、「生まれながらにして認識」はしていないのです。悲しむべきことです。「教えられて、知る」のです。皮膚も、内臓粘膜も、順々に産まれては死んでいく細胞があってこそ、「生命」を維持しうるのです。それは、脳が指令することでも、統合することでもない、皮膚の細胞に備わった機能なのです。指をかむ癖のある人は、その分だけ、指の皮の細胞を酷使しているのです。
もし、「切り離された」細胞なり、「器官」が、自己の「たましい」から、分離した「たましい」を有していたとすれば、その叫びは自己に残った「たましい」に四六時中叫び続け、「生きていることも出ないくらい」うるさいことでしょう。一日のうち、いったいいくつの細胞が生まれ、死んでいくのか、考えたことがあるでしょうか?


だからさ、
肉体は器なの、乗り換えるの。脳もだよ。
使えなくなったら別の肉体を探す。
ただそれだけのこと。
その過程で物質になる部分と魂の一部になる部分があるわけ。

死んだら物質になって滅ぶものと、
魂の一部になって霊となるものがあるわけ。



『だからといって、「たましい」が、「脳」にだけ、局在するかのごとく錯覚するのはおかしいことです。先ほどの、「楽器」で一番大切な部分が「弦」であるからといって、「弦」だけを取り外しても、「音楽」を奏でることができないのと同じです。

「たましい」の広がりは、個々の人が「そのように感じる」だけの「広がり」をもっているものと思われます。「脳」だけの人、「脳から、体全体」の人、「自分にとって大切なもの」にまで及ぶ人。「たましい」の広がりが広い人ほど、その広がりの対象物が「なくなって」しまったときに受ける「こころ」の傷は、深いのです。

物質としての人体は、スポンジのようなもの。基本的な骨格以外の物質は、常に入れ替わっているのです。骨ですら、その構成成分であるCaの沈着・吸収を繰り返しています。そういった、「唯物論的」存在の構成要素一つ一つに、分析的に「たましい」を追い求めるのは、無意味です。「一つの固体」としての「たましい」を考えるからこそ、意味があり、そうすることで、個々の細胞や、臓器は、より「生き生き」としてくるはずです。そうして、固体の各要素は、「唯物論的」にも、「生命体」としても、繋がっているのです。でなければ、「切り離しても」「切り離した部分」として、「たましい」を持っているはずだから、「勝手に生きよ」などという考えにすら、たどり着きかねないと思います』

その思いは西洋哲学とともの捨てるの。
¨ここはどこ〜、私は誰?〜¨になろう。


>粘菌の各細胞を多細胞生物になぞらえる場合があります。たしかに、粘菌は、そういった意味で興味深い存在ですが、蜂の集団や、小魚の群れを、多細胞生物になぞらえることはしません。人間の集団を扱う場合、その集団をして「多細胞生物」になぞらえないのと同じことです。どこか「違う」という思い」を、皆が持っているはずです。

フフフ
粘菌には粘菌の霊的世界がある。
人間には計り知れないけど、地球生命の直結している。
広大な世界だよ。
人間が認知できないだけ。

確かにこの指の細胞は自分の一部だけど、
内的世界は別。細胞達は別の世界に生きているの。


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