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中学・高校・大学教養課程での思考

1.自然と法則と人間との関連について

全ての問題は人間が考えることによってのみ人間に理解されることにある
自然は法則に支配されず、支配されるのは人間の考え方のみ

自己と他との関係について(別ページ)

2.人生についての考察

いかに悟りを開こうとも
いかに全てを見通そうとも
人は時の流れと共に有り
来るべき幸いと苦難のその両者を
時の流れと共に受けるべきものとして
人は生きそして死してゆく

3.生きることへの意志

時の流れを見切り
世に問いて己を知り
過去の上に立ちて
未来を極めん

4.人生と自然

人は森羅万象に依りて存在し、
森羅万象は人に依りて存在する。
あらゆる存在が相互に関与しあい
過去、現在、未来の宇宙を形成する。
人は己の存在に気付いた時から、
ある時は強大な「意志」の力で他に働きかけ、
ある時は気力を喪失し「虚無」に苛まれる。
人が他人にとって邪魔な存在か、無関心な存在か、必要な存在か
これはその人にとって生きる価値を決定するほどの重大な事柄である。
逃げるか、諦めるか、戦うか、超越するか、他の道を選ぶか
どれを選んでもその人の人生であるばかりではなく、
その結果は森羅万象に影響を与える。
そして、どれを選ぶかは、過去から現在に至るまでの
森羅万象の影響を受け、己が意志を持ってして決定される。
決定しないのもまた人生。
安定して存在しているとき,中間帯を揺らいでいることに気づく。
いかなる苦しみから逃れようとも
我が人生からは逃れ得ず
死も,そして存在するのなら死後も,人生の一部である。

5.生と死 --- 「時代の申し子の嘆き」(1995.12.16の思考より)

適応するか適応させるか、
両者のせめぎ合いの中にのみ
生は存在する。
適応もせず、適応させることもできなければ
自ら死を招くことになる。
時空内で生き抜ける所へ行かねば
破滅するか破壊するかを
選択しなければならない。
共存と民族紛争と
服従と支配と
中傷、名誉、あざけり、うらやみ、妬み、愛、欲望、快楽、不安
いったい何を望んで
生きて行くというのだろう。
越えて行くべきものが
生死であるならば、
生きている内の快楽なぞ望んではならない。
死後の世界なぞ望んではならない。
何かの為に生きようなどと思ってはならない。
「此の世をも、彼の世をも望まない」(スッタニパータ:中村 元 訳,岩波文庫)
死ぬよりも苦しく、難しく、辛く、悲しく、絶望的なゆえ、
それゆえに人は生きていけるのかもしれない。

6.「神」の考察。その1 人生と宗教と ---宗教に囚われても悩める人々に,さらなる悩みを---(1994.9.26の思考より)

なぜ人は宗教を求めるのか、信じるのか、
なぜ人は神を信じるようになったのか、
人々にとって神とはどのような存在なのか、
全ての人にとって同一の神は存在可能なのか、
神が存在するとした場合、
その神は特定の個人のための神なのか、
特定の家族のための神なのか、
特定の国家のための神なのか、
特定の民族のための神なのか、
特定の種のための神なのか、
特定の動物のための神なのか、
特定の生命のための神なのか、
特定の宇宙のための神なのか。
生きることを越えていくことが
そんなにも苦しく思えたことが
つい今し方だというのに
頭の中で悟りを得たとしても
体の苦痛にたいしては
なす術もなく転がりまくる。
何を考えているのだろうか、
生を越え、死を越え、全ての存在を越えた感覚に
生の中にあり、死の前に存在し、何も越えれずに考える己を見つめることが、
般若心経の無限の回転の内に、ゲーデルの不完全性定理を見出したかのように
全ての判断が人間によって考えることによって行われるゆえに、
人は人の考えから抜け出すことが出来ないというのに。

みんなが正しいと思うが故に正しい行いをしてきた人々に幸いあれ。
神も悪魔も善も悪も、全て人がそうであると判断することによってのみ人に認識されるというのに。

神と直接交信した人は考えればいい。
その対象が神であるという判断はその人がしたのだから。
その人の話しを聞いて信じる人は考えればいい。
神が存在するかどうかを判断したのではなく、その話を正しいと判断したのだから。
神が存在するならば、人は判断の対象として神を見てはならない。
存在すら判断してはならないのである。
判断の対象とした途端、その存在は神ですらなくなる。
単に人の善悪の基準に照らしだされた悪魔に対比されるべき存在としての言葉としての神でしかなくなる。
一方、判断することをしなければ神を信ずることが出来るであろうが、
その時には,人は人としての価値観を持ちあわすことが出来ないということを知るべきである。
それゆえ、神と悪魔の違いすら判断できないことを知るべきである。
ここに記述した神は、人の思考の対象としての神である。
存在するならば人が如何に考えようとも如何に思おうとも存在する。
人よ静かに考えるがいい。
いったい神とは如何なる存在をさして言うのか、
それは他人と共有できる存在でありうるのか、
言葉や、絵や、シンボルや、歌や行いによって他に知らしめることが出来うる存在なのだろうか。
軽々しく神の祝福を垂れ給う人々よ。
罪深き人々よ。
何が真実でありうるのだろうか。
あなたの判断による審判は常に人々にもたらされていると言うのに。
人は一人一人の判断の上に立って善悪を認識し、行動してゆく。
その価値判断の基準は、自己を中心として家族、
自分にかかわりのある地域、動植物、
そして民族あるいは国家、さらに地球、太陽系、銀河系、さらには大宇宙にまで及びうる。
人の思考の及ぶ限り。
しかし、自分との関係の深いものから順に価値判断に及ぼす影響は順に弱くなってゆく。
空間的な配置もさることながら、時間的な事物の価値判断に及ぼす影響も異なる。
今から自分が生きていくであろう未来に関しては多大な価値を見出すであろうが、
自分が死んでから後の未来に関してはそれ程多くの価値を見出さないであろう。
さらには過ぎ去った過去にたいしては、
価値判断の基準を修正する為に,考慮に入れる程度だろう。
人が人として生きていく限り、
争いは絶えず、民族は協力し、紛争を起こし、国家が生まれ連合し分裂し消滅してゆく。
全ての人が信じるべきものを信じたとしても個々の価値判断が異なり、境界が生じ断裂が生まれる。
現象学で説明される思考基盤の共通性は非常に重要な観点に思われる。

7.「神」の考察。その2

今、人の思考を超越した存在が、人との関りにおいて、なにがしかの利益をもたらしたとする。
人々は、喜び、称え、「我等が神よ!」と叫ぶことだろう。
そして、人の思考を超越した存在が、人との関りにおいて、なにがしかの災いをもたらしたならば、
人々は、恐れ、戦き、「我等に災い為す悪魔め!」と叫ぶことだろう。
人々に利益をもたらすものは神であり、災いをもたらすものは悪魔であると、
単純に割り切って考えることが原初の神と悪魔との概念を形作ってきたものと思われる。
この間の水不足の折り(94年秋)、日本のある農村で伝統的な水御いの儀式のTV放送があった。
人々は御神体を川につけ、「雨を降らさないなら、流してしまうぞ!」と何度も脅していた。
そこに古来の信仰の対象である農村の「神」の位置付けを見、さらに「悪」とのぎりぎりの境界で
「神」として捨てきれない心の表れをも見た。「災いを為す神は神ではない」と言いたげであった。
ある環境に住む特定の民族は、常に神の加護の元にあると信じ、災いですら「神が」試練のために
もたらしたものであると信じるに至る。この強大な「神」への信仰は世界に瞬く間に広がった。
一個人の神・悪魔ですら、その人の思考パターン、価値観の変化によって、その境界は微妙に揺らぐ。
しかしながら,家族、民族、国家の形成と共に、「何に」利益をもたらすものを「神」ないし「善」と
判断するのかの明確な規定が必要になる。
一方で,「何に」災いをもたらすものを「悪」とするのかは暗黙の内に人々の心に巣食うこととなる。
場合によって,これらは法によって定義される。
神も悪魔も同じ所から来ていることにすら気付かない人々にとって、悪を排除することは当然のことである。
しかし、悪を消し去ることは決して出来ないことも、人々は気付いていた。
「悪霊」を封じ込める、あるいは退散させる儀式は存在するものの、
消滅させる儀式が,はたして存在するだろうか。
人の子は、「大いなる自然」から生まれ来て、当初,善悪の区別なく育つ。
そして、人間としての思考が始まる時、「善」「悪」の区別が必要になる。
「悪」を排除しようと苦労する時期、「善」をもっと伸ばそうと努力する時期、
しかしながら,いつの日か,人は自分の心の内に「善・悪」の両者が存在することに
「神・悪魔」が存在することに気付く。
人類は,形態学的・解剖学的・生化学的・生理学的に類型パターンを内在している。
特に大脳の類型パターンは,共通の思考パターンを生みだし,
環境因子が近いほど思考パターンは似てくる。
このことは,集団で共有しうる善悪の価値判断の基準を容易に形成する原動力たりうる。
思考パターンの類型は,「神・悪魔」の区別にも類型パターンを生じせしめうる。
すなわち、地域、住民、文化、歴史、言葉、触れ合い、戦争、協力の様々な環境によって、
「神・悪魔」の区別にも類型パターンが生じる。
哲学の領域でこの問題に解決を与えられそうなのは「現象学」であろう(と勝手に考えている)。
人と環境の両者(人をも含んだ大自然)と、それらから生じた「神・悪魔」の区別そのものとの相互作用が
現在の「宗教」とその紛争を生じせしめ、今後も永遠に続いて行くことになりうる。
良しにつけ,悪しきにつけ,地域性を無視したネットワーク上での仮想集団の形成は,
さらなる従来型の「善悪」・「神・悪魔」の区別の崩壊を押し進める。
そして,新種の「善悪」・「神・悪魔」の区別を形成しうるであろう。

8.破滅か破壊か適応か改革か ---そんなことを考えなくても生きていけるのに---(1995.3.14)

何を求めて生きているのだろうか?
その答えを求めて、様々な書物を買いあさり読みふけり、そして思考の渦に身をゆだねてきた。
生きるために適応していかねばならないこの社会と自然界とを受け入れようとしながら、
生きることの目的とは何なんだろうと、心の底から常に問い続けている。
環境を受け入れるだけでは生きていけない、環境を積極的に変えようとすることこそ生きるということだと、
どこかで知っていながら。
個人としての自殺願望なのか、日本人としての自殺願望なのか、人類としての自殺願望なのか。
今の自分をむしばんでいるものが、そのようなものであることを感じとっている。
よりよく生きていこうとするときに、現在の環境では生きていけないとき、人は何を行うのか。
愚かな戦争か、愚かな自殺か、いわゆる民主主義か、
あらゆるイデオロギーは理性を、理論を絶対的なものとして、それを基本として成り立っている。
人は「感情を持つ故に人たる」ことを無視して、理論、理知的な思考がすべてを統一することが可能だと
うぬぼれている。
そして、自らの理論が完璧であることを、論じ、発表し、言葉の論理性に頼って争い、そして破局に向かうのだろうか。

大衆の理論も,一見,論理的である故に,人間性・感情を無視した巨大な流れを生み出しうる。
人には限られた時間しかなく,不完全で,過ちを犯すものであるという前提条件を組み込んで,考えねばならないのに。

言葉の論理性。それは、理論的であればあるほど、そして完璧に無矛盾を目指すればするほど、
ゲーテルの不完全性理論が頭をもたげてくる。
言葉に含まれる曖昧さが日常生活言語レベルでの不完全性を阻止する。
人は一人一人、感情を有する存在であるとともに、論理的思考レベルでも微妙に食い違っていることを知るべきである。

不完全でありながら、限られた範囲では非常に完全だと思われる論理性と、圧倒的な情報伝達力を合わせ持っている「言葉」を、限られた範囲で共通の意味を見いだす集団が社会の基本的な機能単位として、活躍していく。
その中で生きていくものにとって、その社会での「言葉」の絶対的な優位性は、非常に強力なバックボーンとして
存在し、それに反することは、その社会に適応できなくなる故の自らの死か、その社会からの離脱か、
その社会を変革しようとすることしかなく、同じことを他の社会に対して求めていることを知らない。
緩やかな共同体は「言葉」の問題をしりつつ、絶対的な存在を否定し、発展してゆくのだろうか?

9.観念的な「生」と「死」との狭間。(思考33歳より、1995.9.2)

ニーチェ、ユング、ゲーデル、ナウシカを越えて.....
(新興宗教は言うまでもなく)
私は、
愛することも、
愛されることも、
拒み続けて生きてゆく。
「私が求めるものは、
過去に消え去り、
もはや未来には存在しない。」
そう思いながらも.....。
私は自らの「思考・思い」に死を宣告しないし、
他人によっても死を宣告されない。
この時空の流れの中にあって、
浅はかな人智を、
拒むことも受け入れることもしない。
それでも、私は
未来に、
何かを求め続けて生きていく。
何かを.....。
人は、
同じ大地に根を生やした大木の幹から派生した、
個々の枝の、
さらにその先の梢の、
さらにその先の葉の、
一枚一枚に似ている。
時空の流れが、地面から上空に移動する平面のごとくある時、
その断面に存在する幹、枝、梢の切り口が、
個々の民族、
個々の家庭をしめし、
その断面に現れた葉のほんの1枚が、
この私を表す。
木々は、
季節に応じて、
その姿を、
ユングの「共時性」などという言葉すら知らないのに、
一斉に、変化させる。
あたかも、
同時代の人々が、
同様の考えを、
同時期に思い描くかのごとく、
また、同様の感受性を同時代に有するがごとくに。
同じ大地から発生したにもかかわらず、
単に、時空の一断面だけを見ているが故に、
また、ほんの少し、紅葉する時期がずれ、
花を咲かせる時期がずれ、
日に当たる時間がずれた故に、
個々に散らばる枝の断面あるいは個々の木々どうしは、
それぞれが異なる民族だと思っている。
同じ大地に根を持つものなのに.....。
戦争をしようと思えば、
相手もまた戦争をしようと思うだろうし、
奪おうと思えば、
相手もまた奪おうと思うだろう。
同じ大地から生じたということを知らずに。
私が神という存在に心を傾けるとき、
相手もまた神という存在に心を傾けるだろう。
神が我らを救い賜うと思うとき、
彼らもまた同じことを思うだろう。
実に争いの治まるところを知らない。
人は、神を信じるなら、
その神についてもっと深く考えるべきである。
たとえ、否定することになろうとも。
神について深く考えずに信仰するものは、
神に対してこれ以上ない冒涜を犯すものである。
神が人智を越えて存在するならば、
神に対して深く考えれば考えるほど、
その神はさらに奥深い存在となることは、
自明のことである。
人に考える能力を与えながら、
人の考える能力の中に自らを埋没させるなど、
神が存在し、
人智を越えて存在するならば、
決してあり得ないはずであろう。
人は、「ヨブへの答え」を、
いや、「神の御言葉」と言われるあらゆる書物を、
また、「ブッダの言葉」と言われるあらゆる書物を、
もっと深く読み解くべきである。
それら全ては、
人の思考を越えて書かれたものなどないことを、
もっと深く読み解くべきである。
書き手の思考を越えて書かれることなど、
決してないことを知るべきである。
たとえ、自動筆記が為されたとしても、
その文章が、人の理解できる文章ならば、
それは、人の思考を介して書かれた文章であることを、
知るべきである。
神が人の思考を越えているのならば.....。
人は家族なしでは生きてはいけない。
民族なしでは生きてはいけない。
極限状態では、何らかの助けと、
身の安全を確保しなければならない。
たとえ、他人、他民族を犠牲にしてでも。
あらゆる生命は、
過去からの無数の犠牲の上に存在し、
これからも生きていく。
人は、刹那的な利益を求めるよりも、
さらに奥深い読みをすることで、
爆発的な繁栄をすることができた。
しかし、
感情が沈静化し、
理性が感情に勝利したと思えたとき、
愛は理性の中に埋没し、
理性の壁に押し込められ続けていた
感情の密かな反乱が生じる。
愛は理性の中にはなく、感情の中にこそある。
新皮質と旧皮質を合わせ持ち、
生まれ来たりて死に行くものの定め.....。
知恵が、自然のバランスを越えるとき、
人自らにも刃を突きつける両刃の剣と知りながら、
「人工物」が「自然」の一部であることを認識することすらできない人々の間に存在しても,
それでもなお、生き続けなければならない。
何かを求めて.....。
私は、
愛することも、
愛されることも、
拒み続けて生きてゆく。
それゆえに、
愛することも、
愛されることをも、
求め続けて生きてゆける。

10.生きる(1996.2.25)

私は,未来に生きるもののために生きる。
たとえ,彼らが「滅亡」であろうとも,「希望」であろうとも。
私が,「最良である」とか「こうあるべきだ」とか,
「私」が判断した基準に基づいて生き抜く。
何かを求めて,事を為さない。
「この世をも,かの世をも望まない」
神も,仏も,悪魔も,天国も,地獄も,輪廻転生も,望まない。
時が逆行しない限り,未来のために生きる。

 独り言(2001年からの記述)

人は矛盾する故に自らを滅ぼし,
人は矛盾する故に生きてゆける。
人はゲーデルの不完全性定理によって,
自らの思考を越えることが出来ないということを,
深く考えるべきであり,
自らの思考を越えた存在によって生きていけるということを,
深く知るべきである。
それは,貴方の回りに生きている人々であり,
動植物であり,
空気であり,
水であり,
貴方が忌み嫌うものであり,
貴方が愛するものであり,
貴方が何ら関心を示さないものである。
ある人は、その存在を「神」と呼び、
ある人は、その存在を「自然」と呼び、
ある人は、その存在を「大宇宙」と呼び、
ある人は、その存在を「悪魔」と呼び、
ある人は、その存在を「同胞」と呼び、
ある人は、その存在を「敵」と呼ぶ。