※きまぐれな管理人の「非日常」なことを書く活動雑記。
 日記では書ききれない出来事や、旅日記に収まらない
 ような活動などをまとめております。
 今ごろ東海大水害ボランティア記録ぅ4 2004/01/11
 作業は着々と・・・というほど進まない。遅々といった方がいいのかも知れない。
 水分を含んだ家財具がこんなに重く、運びにくい物だというのはなかなか思わない。さらに足場も悪く、無理をしてしまえばケガをしてしまう。ボランティア活動でケガをしてしまうなどは極力避けねばならないものだから、そんなことを求める人はいないというのが通常のいわゆる「仕事」と違うので面白いところだ。いや、本当の仕事の姿とはこんな形であるべきかも知れない。

 作業を続けていくと、どんどん玄関側から奥に入っていくのだがすっかり忘れていた存在、「トイレ」が現れた。・・・そう、この水の中にトイレが埋まっていたのである(え?前回トイレが使えないって説明したじゃん。って?いや、私が見たのはこれが最初だから・・・)。別に便器が汚い存在かどうかというのではなく、水に浸かったトイレというのは、その中の下水管とも繋がっていた、と考える事が容易に出来る(逆流しないにしても)。わかってはいたものの、実際に見てみるとただ水浸しになったわけではない、というのが切に感じられる。その関係で行政側が消毒を念入りにするわけだが、人間いざとなったらそういうところでも気にせず作業するものだなぁ、とヘンに感動したりする。もっとも、そのまま住み続ける場合には大きな問題であるが。


 家の裏側まで行けるようになったので(足場があまりないのでまともには行けませんが)、今度は畳などをそちらに出すことにします。布団、衣服などを出しながら作業を進めていき、壁に立てかかったような畳(水に流された)や折れた畳も撤去する。玄関口の広間(居間)と違い、畳が上になっていたり、タンス斜めに畳の上に載っていたりと奥の部屋はめちゃくちゃである。これは水が来た方向の関係によるものであろうが、これだけ離れたところでもこれぐらいの規模となっているのは現場に近いところはどんな感じになっているのか考えてみたりもするが、程度の差はあれど家が使えなくなった(なくなった、ではない)ということは一緒であり、まして昔からの長屋形式の家の方が損傷が激しく(壁は土壁、木材は老朽化)、老後はずーっとそこに住み続けようと思っていただけにきっと大きな痛手だったであろうと思われる。

 さて、あらかた大きな物を運び出したわけだが、細かい物も続々と出てくる。そこで生活していたわけだから当たり前といえば当たり前だ。まして今日昨日住み始めたわけではないのだから出てきて当然とも言える。同じ荷物を出すにしても引っ越しの時とは違うのは予めそんな搬出など考えてもいないことが大きな違いだ。だからその精神的苦労というのも考えると単に労力だけつぎ込んで物事を解決していけばいい物ではない、ということを感じたりもする。


 他の家同様、畳を鉄道側の道路沿いに出すことにしていたのだが、他のところでは鉄道用地の中に物を置いているところもあった。一応一時的な措置だとは思われるが、道路をふさがないようにしてそうした、というのであれば攻めることなど出来ないだろう。線路からの距離がずいぶんあるので利用しているのかも知れないが、利用していいのか悪いのか鉄道会社側もホントは事故などのことを考えるとはっきりした方がいいのであるが、黙認しているのか、鉄道側からは何も言われてないようである。敷地を提供するなら提供するとしてはっきり敷地を用意して欲しいし、もしダメならはっきりと言った方が二次災害が無くなってよいように思うがどうなんだろうか。

 災害時は大概イレギュラーが起こるのでそういう準備をしておけ、などと言ってもそんな準備をしている余裕がある会社など存在しないからそういう事態があるときの体制がどんなになっているか気になるところだ。ダイヤの乱れや駅舎の問題など鉄道側も苦労していると思うが...。

 水で含んだかなり重い畳を今度は線路沿いの道路に出した後、今度は水をたっぷり含んだ布団も出す。こんなことをやっていく内に、水はほとほと人にとって恐ろしいものだと痛感する。古来より急流の多い日本では水害に悩まされ、昔の国の為政者は治水にやっきになった。「信玄堤」などがその代表例とも言えるだろう。

 誤解を恐れずに言えば、現代都市計画では「水害」をさして驚異として捉えてないようにも思う。もちろん、まったく無視しているわけではないが、重視されてはいないように感じる。それはこれまで培ってきた技術が一つの形が出来たからだろう。治水は優先的に行う重要なファクターというよりも、当たり前に行うものになっていると言えよう。江戸時代ほど大規模火災に気をかけなくてよくなったというのと似たようなものだろうか?
 今だとビルが建ち並ぶ時代なので、「地震」が最もフォーカスを集める災害だ。水に関して言えば「水質汚濁」とか「地盤沈下」の方が注目されているようだ。そんな時代背景から、この「実は甘かった」治水を垣間見た気がするが、それはまた次回にでも(・・・するかなぁ?)。


 作業はここまで。4時になったら役所に戻ることになっているので、3人はここで別れを告げる。いたく感謝され、送り出される。あー、終わった。ほどよい疲労感が・・・・というか凄い疲労が・・・。3人だけだったらどうなっていたことやら・・・・。

 町の様子を見ながら役場に。

会社の資材がフェンスまでながされてきた
上にフェンスはぐにゃぐにゃ。水害も恐ろしい

新川沿いには流れてきた草木が
打ち上げられている

堰から流れ出てくる黒いもの・・・・大丈夫?
工場が横だから何か不安になるが

河川敷に降りるスロープは砂まみれ。
鉄柵もよく見ると支柱全てに草がかかってる


 作業完了を告げ、飲み物とカロリーメイトをいただく。アンケートに答えて、一緒にボランティアしたおっちゃんと別れを告げる。実は航空自衛隊で働いているというおっちゃんは、バイクで帰っていった。

 役場の隣にはたくさんの中部電力とNDS(日本電話施設)の車が。おそらく電話の復旧作業か臨時敷設のために作業した後なのだろう。
 一つ改めて思ったのは、災害の後に残るのは災害の爪痕と、人の互助なのかもしれない、ということだった。


 人一人がボランティア活動したところで水を含んだ畳すら運べないと思い知らされたが、これは逆にいい経験であったとも言える。
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