※きまぐれな管理人の「非日常」なことを書く活動雑記。
 日記では書ききれない出来事や、旅日記に収まらない
 ような活動などをまとめております。
 今ごろ東海大水害ボランティア記録ぅ 2001/6/21
 つーわけで、今更ながらかなり昔にいった東海大水害ボランティアの記録を記すとしよう。

 ・・・・なによそれ?と思われる方も多いかもしれないが、昨年の9月に発生した東海広域大水害(通称東海豪雨)というそれはもう、凄いのがあった。そこへボランティア参加したんだ。名古屋住民だからな。でも、この辺の人じゃないとピンとこないかもしれません。全国でも報道されたから知っているとは思いますが・・・あの川の決壊したやつですよ。西枇杷島町の。

 思い出せない人はいいです。これ読んで思い出してください。
東海豪雨の説明
 東海地域に200年に一度クラスの大雨が降る。名古屋だけではなく、東海地域に広域に渡って床下浸水の水害が発生。そして、新川が決壊、天白川が増水して多くの民家を床上浸水にした。また、山間部では山崩れが発生し、被害者を出した。知多地方に竜巻も発生して伊勢湾台風以来の記録的な水害となった。新川周辺の西枇杷島町、新川町、名古屋市西区などは水が退くのに二日かかった。
 その様は全国的に報道されて、あたかも「名古屋が沈んだ」とまで思わせるほど浸水しているところばかりを報道していました(実際は名古屋全域ではなく、名古屋一部と、名古屋周辺が浸水した)。

 これを読んでいただければわかると思うが、二百年に一度の雨とか何とか騒がれているとおりひどい雨で、かなりの家が浸水しました。・・・説明や分析はまた別の機会にすることにして、ボランティアにいった記録を書いていきましょう。


 さて、災害発生の後、やっと水が退きました。といっても私の家は大丈夫です。私の所は前々心配ありません。
 というわけで余裕のある暇な大学生としてはボランティアに行かなくてはならない。ましてや(歩いてはいけないけど)すぐ近くのことなんだから、それはもう行くべきだ。といって勝手にボランティアに行くことにした。

 水害の被害が特にひどかった地区は、決壊した新川沿いの西枇杷島町、増水した天白川沿いの名古屋の野並地区、あと大府市、東海市などがあったわけだが、時代が時代なのでインターネットでホームページを確認して、どこが人手が足りないとかを確認して一番ひどそうな西枇杷島町へ行ってみることにした。

 当日、名古屋市西区枇杷島(似ているが西枇杷島町ではない)の知人と一緒に自転車で現地まで行く。ホームページによると(西枇杷島町は沈んだので)新川町の役場に来い、ということだった。あ、車でボランティアに行く人はちょっと考え直した方がいい。いや、マジで。っていうか常識です。車は色々な作業に使うためよく通るためである。また、置く場所もバカになりません。とくに今回は水害ということで大量のゴミが出ます。どのみち周辺の道路は封鎖中で全然通れませんが。


 

それでも非常品を販売するのが
コンビニの使命なんだろう
庄内川を越えてたどり着いたのは西枇杷島町。いきなり橋を越えたら砂まみれの町となった。飛び交う風も砂っぽい。連れは「これは中国みたいだなぁ」といっていたが、まさにその通りだ(と最近知った)。砂まみれの道、家から出される水で濡れた家財具、家の壁に残った水面の痕、完全にオシャカになった車・・・痛々しすぎる町並みだ。どうしてこんなに庄内川を越えただけで異なるのか、それはそのうち書くことにしてとりあえずそんな町並みを見ながら役場へと急いだ。
 しかし、被害者は震災などに比べて少ないとはいえ、ほとんどの家の一階にあった家具はもはや粗大ゴミ決定だ。必死に片付けをする市民の背中がつらそうだった。コンビニなんて1階にすべてがつまっているから商品はすべてゴミとなった(それでも商売は外でやっている)。


 新川町役場へ到着。かなり人がいる。ボランティアの人も大勢いるようだ。学校が休みなのか学校が許可をしたのかはわからないが高校生や中学生もいた。結構なことである。さてさて、まず受付に行くと「ボランティア保険に入れ」といわれたのでいくらか払って保険に入る(覚えてない)。まぁこれはいいだろう。そんで次に名札の代わりにガムテープにマジックで名前を書いて胸に貼れ、ということだ。これぐらいはおやすいご用だ。んで、なにやら書類書いたら今度は仕事を探さなければならない。


ボードの中から不動産物件を
見つけるかのように探す
 そう、仕事を探すのである。ボランティアだから自由に選べる権利があるということだろう。なるほど、では体力の余っているデカイ男二人組は人手がなさそうな仕事を選ぼうってことで「西枇杷島町、独居老人宅、濡れた家財の片づけ、3名ほど希望」と書いてある仕事を選ぶことにした。・・・一人足らんな。そうすると横にいたおじさんが加わって無事三人が揃う。そんで、地図を渡されて現地へと向かう。

 現地への道のりでそのおじさんが実は我々のいっている大学がある町に住んでいて、よくボランティアとかいくらしい。ナホトカ号の原油流出、阪神大震災の話も聞いた。息子は全然関心がないんだわ、という話も聞いた。う〜ん、すげぇ人おるなぁ。しかも航空関係だからな。



 現場は結構離れていて、いくまでにちょっと時間がかかった。


 その中役場から現場へ向かう途中は来るときに見た景色よりもかなりひどいものだった。町中の至る所に水面はゆうに2mを越えたところに来たという痕が付いていた。公園には捨てられた家財具が集められ、濡れた畳は変形して外に出されており、川は多くの漂流物を打ち上げていた。

写真中央あたりが2M
これほどたくさん残る
のは、それだけ長い
こと浸っていた証拠
でもある

↑公園の広場にはうち捨てられた家財具
が山積みとなっている。これからまだ
増えそうな町の雰囲気だった。
右に見えるのは滑り台、手前は砂場

↑おわかりになられるだろうか?
これは鉄道駅用の地下通路である。
水が退いて二日も経っているのに
下の階には今も水が貯まっている


 あ、スペースねぇや。また次回に続くとしよう。
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