霞拳志郎もびっくりの魔都上海と北京ダック番外編

     十四日目〜雑感 「魔都」上海〜
最終更新日
2004/10/15
 
 (かなり無茶苦茶)
 電車の中で、ウトウトしながらこんなことを考える。

 「上海は魔都だったのか?」と。

 上海が「魔都」と呼ばれたのは、アヘン戦争以降、ヨーロッパ、そして日本の植民地(租界※)となった時代のことである。アジア最大の港湾都市として栄える一方で、アヘンを中心としたマフィアと各国の軍が入り交じることによって、魔都と呼ばれる巨大都市へと成長した。いうなれば、侵略戦争によって形成された部分が大きい。
 言うなれば、現在の先進国が争って入ったがために「魔都」が作られたワケだ。



租界時代の名残でもある外灘
 時代も変わり、現代では、租界時代の跡と言えば、外灘(バンド、ワイタン)周辺のヨーロッパ的建築群ぐらいだろう(右写真)。しかしそれも、単なる見せ物であり、景観を楽しむだけのものとして残っているに過ぎない。
 ただそこには、上海が抱えた「魔都」のあとが残っていることを如実に表しているようにも見える。

 それはすなわち、外国人との関わりあいを持たねばならない、港湾都市、そして国際都市としての顔を持ち続けるという宿命を未だに持ち続けている、ということでもある。こういった性格の都市には「魔都」的な魅力がついて回る。経済と犯罪、海外の空気と自国の象徴・・・さまざまな物と意思が絡み合い、独特の空気をもたらす。

 今、外灘の建築物の多くがホテルや銀行など、外国人を含めた「都市外の人間」が利用している。言うなれば今も上海の外灘は外国の影響を色濃く受けていると言うことだ。これは「魔都」と呼ばれた時代の上海と変わりのない部分なのかもしれないが、逆に言ってしまえば今も上海人にとっては、必ずしも生活者主体の都市ではない、という証かもしれない。







※:警察権と行政権を持つ地域のこと。フランス租界、などある。なぜ別れるかというと、アヘン戦争が共同戦争だったから分配したわけ。その後、日本だけの租界地になる。

日本の古本屋で見つけた租界時代の上海の地図
(大阪朝日新聞「上海戦局全図」 昭和12年刊)
見にくいが、左上が上海全図、右下は上海を含めた周辺四省の地図

「佛租界」はフランス租界のこと。
その上は英・米・日などの共同租界。
中央の「競馬場」が今の人民公園である。「城内」は今の「豫園」周辺

川の東側が浦東地区、西側が外灘。この当時の浦東地区の川岸には舟運会社がならぶものの、都市としては発展していなかった。


 港湾都市として大きく栄えた上海。しかし現在、港のボロさや、港への交通アクセスを見る限り、今後の上海がその港湾性を大きく活かすような都市行政をしていくようには見えなかったので、それも結局古い遺物になっていくのだろうか。まだ大きな輸送船が来るので、上海の「開発」が続けばまだそれも利用されるのかもしれない。

 とはいえ、今の上海は、観光や外資参入と相変わらず国際都市感を漂わせてはいるが、それは船によるものではなく、都市力の大きさによるものであるからである。だからといって、港湾都市ゆえに生まれた、他文化が怪しげに共存する─「租界時代」の「魔都」としての─上海はもはや過去のものになりつつあるのだろうか?

 ・・・それは正しいかもしれない。だが、犯罪や他国との縁がそう簡単に断ち切られるほど、都市とは変われるものだろうか?


 次々と生み出される現代的で(持続性という意味で※2)未来的ではない高層建築ビル群。これはアジア諸国で、いや、過去の日本で行われた乱立する高層ビル街そのものの写しである。
 現在、ヒートアイランド(※3)や日照問題、過密、景観破壊など問題を多く抱えていると指摘されながらも、高層ビル化の流れを止めるということは経済のグローバリズムの流れに逆らうことでもあり、国際都市として無価値であるということにも繋がりかねない。まして、経済発展途上国において、経済が最優先されるのは必然的である。

 それゆえに、「尖塔」を用いることで「個人的な発展」をシンボライズされたポストモダン建築(※4)がもてはやされ、今この時も新しい尖塔を持ったビルが建てられている。尖塔から見える上海は、中国の建築ではなく、外灘のヨーロッパ建築である。
 上海は、植民地の時代が終わっても、上海ではなくヨーロッパを選択したのである。

 こういったところに私は「魔都」と呼ばれた時代の上海から脱しきれない、「外国列強の力のモーメント」に振り回されながらも、方法論を選ばずに抵抗しながらも吸収する上海の独自性が色濃く見えるのだ。だからこそ、活力があり、貧困などの闇の部分も消えないのではないだろうか?とさえ思うのだ。



新しい高層マンションも道路を距てると
スラム街が立ち並んでいる
 とにかく建設ありき、として調和のない建築物を次々と建てる上海都市部。

 その高層ビルから見下ろしたすぐそこには典型的なスラムが立ち並び、そこから視点を移せばアメリカ型の、同じ形をしたマンション群や中密度の住宅街が並ぶ。
 これは、「現代都市計画(※5)」を地でいく考え方で、なにも上海だけに限ったことではないことだが、上海の目指す物が遠い未来でなく、現代の続きとしての近い未来を見ているということだろう。

 この動きを支えているのは中国自体の経済発展であると同時に、日本も含む海外、それも先進国の投資家や企業、そして我々観光者である。すなわち、上海は、今も租界時代と同じように、それらの国々の思惑や空気を入れながら、現実的な未来と格闘しているのである。

 それが必然的に、不平等を生むことになっても、調和のない建築群ができることになっても、自国の文化性が観光としてしか存続できないようになっても、外国人の方がいい生活をできるようであっても、現実と戦おう、そして発展をしよう、というエネルギーを生んでいるのだと思われる。


 都市としての上海は、魔都だった頃と何が変わったのだろうか?
 戦争の形が変わったように、時代の流れで植民地という形は消えたものの、各国の「植民地化」を生んだ思想が消えただろうか?

 様々な国の人間が集まり、対外的に合わせてメイクアップした都市。急激な変化に市民の意思は見えず、国家的都合に振り回される都市。ポストモダン建築に負けじと、中国の思想を組み入れた不可思議な建物が建てられる都市。警察が目を光らせる中にも、イリーガルな部分がそこかしこにある都市。公共のバス同士でも追い抜きをし、我先にと生存競争を繰り広げる過酷な都市。
 上海のメイクは、まだ、雑誌の見よう見真似をしているだけにも見える。ただ、豫園を見る限り、中国らしさを優先している所はそれが守られていて、ほっとする。

 そういう意味でも、「必ずしも完璧で美しい」街にならないと言う意味でも、貨幣経済における陰の部分も残しているという意味でも、上海は今も「魔都」であり続けているといえるのではないだろうか?


 それが、上海市民(特に貧民層)にとって好ましいことなのかどうかはわからない。だが、好む好まざるとに関わらず、「魔都」と言われた都市が「魔都」となりえた部分を無くすことなどできないのだ。少なくとも私には、そう思える。



 高層ビルの窓は、砂で汚れていた。

 これからの時代、「都市化」「砂漠化」「温暖化」により黄砂(※6)などがさらに増えることは必然である。しかし、中国の置かれている状況はそれに対してあまりにもネガティブだ。

 安い木材・炭として森林は伐採され輸出される、植樹された木からは花粉症がもたらされ、地面はアスファルトで固められ、人々は消費を拡大しゴミを増やし、エネルギーも大量消費することになっており、国土的に、日本などが支援することで簡単に防げる規模ではない。

 期待できることがあるとすれば、中国の教育熱によって、将来的にその意識が高まり、行動を起こすことである。しかし、環境問題などは、それを意識する経験がなければなかなか進まないことが多い。そのときに手遅れになっていないか、という懸念もある。上海の急激な都市化はその逆を行ってるようで少し恐ろしくも感じる。
 そのような状況を、日本の歴史の繰り返しだと指摘する声も多い。


 これからは、省資源・省エネルギーの都市が求められるようになる。
 しかし、上海で行われていた省エネは地下鉄駅構内の電気を消すことだった。まだ、省エネルギーをベースにした発想や技術(※7)がない、ということだろうか。

 現代と格闘している上海には、いざ未来に向き合ったとき、いかなる選択を取るだろう?そして取れるだろうか?「魔都」的な部分を持ち続ける上海は、本当の意味でまだ「魔都」から脱していないのではないだろうか?それとも、アジア諸国に同じ状況を持つ「魔都」がいくつもできているからだろうか?



 今回の旅では旅行者というより観光者としての視点でしかそういう部分を見て来られなかった部分に悔いが残る─でもきっとそれは、いくら住民と親交を深めようが、人が永久に掴めないことかもしれないが。

















※2:「持続可能な発展」という考えがある。簡単に言うなら環境負荷を考えるということだろうか。
それは、言葉としてはおかしいが、わざ2しなければできない、という意味でもある。

※3:高層ビルは表面積が大きくなるのでヒートアイランド現象拡大に一役買う。

※4:こういった「とんがった」デザインを持ったりするのは、大体「ポストモダニズム建築」。景観破壊感がついて回る、個人主義的建築。
四角い箱ビルの「モダニズム建築」へ反抗でもあった。
アジア諸国でのポストモダニズム建築の嵐は、さながら建築家のコンペ会場。
個人的には嫌いだが、実際目の当たりにしてみたりすると感動したりする。でも美しくはないと思う。だからアジア旅行をしない私。


※5:ようはシムシティ(わかりやすいな)。
都市とは建築物の集合体である、という建築から規制・活用・発展を考える。
だから都市計画は「建築学部」に入っていることが多い。今は徐々に変わってきている・・・はずだが・・・。
※6:日本でも最近お目にかかることが多い(特に西日本)。中国内陸部のゴビ砂漠やタクラマカン砂漠などから砂が風に乗って飛来してくるらしい。だから、砂っぽくなるので、のどや髪、衣服など注意が必要だ。








※7:どうやったら、光を無駄なく使うのか、とか。最近は太陽光を何度か反射させて建築内に取り込むものも出てきた(日本の話)。まず、作ってから対策、という発想ではない、ということ。






 なんてことホントに列車内で考えたのか?オイ

 (・・・実は寝てました。当時は「見くびっていたよ!中国!」って感じだけ)
 
 
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