中庸 総てに通じるもの


 僕は何時でも、自分で感じた事を拙い言葉でしゃべっているだけです。他意はありません。絵であろうと、文章であろうと、音楽であろうと 自分でしゃべりたい事を拙かろうがなんであろうが、しゃべりたいのです。 伝えなければならない事があるのです。差別に拠る価値観ではなく、歓喜です、中庸です。 善悪、美醜、神と悪魔、生と死、相対としての存在そのものが、それらの生命そのままに、この現実の世界あるがままに、完全、永遠、普遍の生命そのものなのです。どんなに下らない存在でさえも輝き溢れる完全な生命そのものなのです。  爆発する歓喜、躍動、安心感、静寂。相対の壁が崩壊し、総てに通じると感じたのです。すべてを抱き、すべてに抱かれていると。総ての束縛より解放された歓び。 伝わろうが、伝わるまいが、誤解されようが、しゃべるしかないのです。 伝えられない、伝わらない悲しみ、情けなさもしゃべらなければならない、これは利己的な事かもしれないけれど、ただ歓びだけの作品より、そのような作品に共鳴、感動するし、それを表現したいのです。 色々な人がいます、僕の言葉や僕の絵や音楽に感動する人もいるのです。バカにする人、軽蔑する人もいます。
 人には、縁もあるし相性もあります。それでいいと思うのです。
 僕のすべてに通じるもの、それはどんな物、どんな人にも分け隔てなく永遠、完全、普遍の生命、無差別、無作為の神、仏の生命が存在している、いや、あるがままに大いなる生命そのものなのだと言う事、あるがままそのままにすべては許されているのだと言う事です。
 僕自身が歓喜を持って感じた事なので、理屈に合おうが合うまいが、、、、僕にとっては真実なのです。
すべてとすべてはただ一つ。 相対的な存在ではなく、総てが完全な生命そのものなのです。
 爆発的な感動そして静寂、今だにそれだけを伝えたいと思っているし、いや伝えなければならないと、蹴飛ばされているのです。その悲しみ、苦しみ、ありがとうを。歓喜を。


丹正雅晴


思いつくままに

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