今生きている、何もいらない


 小さい頃、私は誰が見ても恵まれた家庭の中で育った。誰もが羨(うらや)む家だったけれど、怒鳴り声が響かない日はなく何時もびくびくしていた。誰にも言えない苦しさ、悲しみがあった。そして、病気入院、自己嫌悪、頭の中を死がうごめいていたけれど自殺する勇気も力も無くなっていた。 「何かもっと大切なものが。」と言う問いが心の中に芽生えうつろい、偽善と思われるかもしれないけれど、自分が救われると言うより、すべてが救われる何かが、永遠性、絶対性、普遍性を孕(はら)んだ何かがあるはずだと、ある確信に近い物が渦巻き、その事が苦しさをより深く、訳の解らない物にして行った。 それは精神でも本能でもなく、もっと奥深い所から発せられて来る叫び、深い欲望のようで「そんな物あるはずが無い、今の現実に対していればいいのだ。」という内なる声があるにも拘らず、現実から逃げていたのかもしれないけれど求めていた。 あらゆる物が空しく満足する物は何も無い。その何かを求めている内に現実からはぐれ、他からと己からとの双方からの蔑(さげす)みを受け「死」にも値しない自分を見つけたのです。 今ではその屈辱感が人間としての差別感の衣を一枚一枚剥(は)ぎ取って行ってくれたと思えるのですが、、、、。 その頃すべてが色褪(いろあ)せ、ただボーッとしてその日その日を送っているだけでした。ところがある夜、いつもの様にボンヤリと椅子に腰掛けていた時、突然それまで静かだった山が何の前ぶれも無く爆発し噴火し、真っ赤に燃えたぎる溶岩が炎を噴き上げながら静かに堂々と流れて来たのです。 今までの自我すべて、一瞬に吹き飛び、ゼロとなって歓喜に包まれたのです。「私は今、生きている。」永遠の今を今生きているのです、生かされている。生も死もない、すべては輝きの中に一つになり、しかもすべてはあるがままに個は個として、きらきらと輝きあふれ存在しているのです。なにもかもすべてに抱かれ、すべてを抱き、すべてが愛おしくてたまらない。今まで何を苦しんでいたのか、一体何を悲しみ悩んでいたのか、自分はなんて我が儘(わがまま)な人間だったことか。すべてが光を放ち、歓びあふれ流れ、もう何も無い、何もいらない。今すべてに感謝したいのです、ありがとう、ありがとう、ありがとう。涙が溢れ流れ、心と身体は躍動し空に舞い上がっていました。 自分が何を求めていたのか今はっきりとわかったのです。すべては光に満ち、不完全な姿そのままに救われ満たされているのです。答えなど何も無い、あるはずが無い、答えなど何もいらない。すべてはあるがままに永遠の生命そのものなのです。どんな情けない人間、どんなろくでなしでも、あるがままに光り輝く生命そのもの。善も悪も、美も醜、真理もうそっぱち、死も生もすべてが輝きあふれている。 永遠の生命、完全な生命の部分品では無く、永遠の生命そのものなのです。激しい歓び、歓喜と静まり返った安心安堵、静寂が同時であり、何もせず一人で静かにその歓びを噛み締めていたい欲望と、人に伝えその歓びを分かち合いたい欲望が働き始めたのです。(その感動はすべての人が感じる事ができる感動であるにも関わらず、誰にでもなかなか感じる事が出来ない物である事を何か感じるのです。)伝えなければならない!。歓喜が要求するのです、すべての人が歓喜に包まれなければならない。 「永遠なる生命・幸福?」そんなものある訳が無いじゃないか。お前のような奴に何が分かる、バカにされ冷笑されるばかり。歓びは溢れ孤独を生んだ、歓喜と悲が同時に流れた。誰にも理解されない。もう人に喋(しゃべ)るのはやめようと何度思った事か、けれど歓喜は許してくれない。歓喜は要求する、分ってくれようがくれまいが伝えなければならない。 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ニ長調。高校ニ年、弟が聞いていたレコードが突然「お前の事は俺が本当によく分かっているよ。」と語りかけてくれたのです。背筋がゾクゾクと体中に震えが走り、涙が溢れて止まらない。初めて自分の事を理解してくれる人間に出会えたのです。 大原美術館(私は倉敷で育った)ブールデルのべ−ト−ヴェン像。エル・グレコの受胎告知の前に立った時にも優しく抱きしめられ、大勢の人の前で涙が溢れて止まらなかった。ただの聖なる物では無く、人間の欲望のままに救われているのです。飾りは何も無くすべてを飲み込んでしまう歓喜と静寂、美も醜も何も無いすべてがすばらしいのです。苦しみも悲しみも乗り越えて、いや、あるがままそのままにすべてを受け入れているのです。そしてその歓喜と静寂を表現し創造する人間の人間的欲望(差別感と破壊し創造する欲望)が今又生まれ。理解されない孤独感と苦悩、己の力の足り無さ情けなさ。己の生命、すべての生命の永遠性を否定する人達への悲しみが織り込まれているのです。 「すべてはあるがままに救われている、そのままですばらしいのだ。」内なる声は聞こえます。「なるようになる。なるようにしかならない、それでいいのだ。」しかし表現せずにはおれないのです。上手いとか下手とかどうでもいい、何でもいい、創らなければならない。  



 人間は悲の器です。すべてを愛したい、すべてに愛されたい大きく深い欲望があるのにもかかわらず何かを否定せずには生きられない、殺さずには生きていけない、、、。その現実の中に生きて、刹那の欲望に身を任せるしか無い。永遠の生命、大きく深い愛を忘れる為に欲望の炎に身を焦がすのだ。しかし刹那の愛は語る、すべては空しい。次々と空しさは生まれ来る。そして叉、空しさを忘れる為に刹那の欲望に身を任せるのだ。 大いなる愛がその姿を現して来る。深い苦悩が生まれる。自分が壊れてゆく、何も解らない。歓喜が爆発する。


 生も死も、ゴミ箱の中の腐った生ゴミでさえも輝きあふれ、生命の歌をうたい、人間の欲望でさえ自由に解放され、永遠の輝きを歌っている。表現したい、表現せずにはいられない。歓喜と孤独が始まるのです。


丹正雅晴


思いつくままに

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