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気づき、タオの教え

比較について・・・

  比較は、それが差別的な要素を帯びるとき生命を破壊しています。
 比較されることが、また比較をうみだします。
 わたしたちがよく知っている悲しみです。
 「比較してはいけない」という教えや説得だけでは解決できないことは、長い人類の歴史が語っています。
  自分の幼い頃より当たり前に思って来た、心の動きや、
 感情のわがままを新しく見直して観ることが必要になっているのではないでしょうか。

  比較する事ができるのは、優劣抜きのひとりひとりの個性の部分で、比較できないのは、
 人間の持っている根本のところのエネルギーなのではないでしょうか。
 熱かったり、柔らかい感じだったり、内に秘めていたり、あらわれ方はさまざまでも、
 そのエネルギーの源は共通の、ひとつの場所だということです。
  落ち着いて人との関係をあらためて見つめてみたいですね。

孤独について・・・

  『孤独』に見えるのは、人が外面、能力で、他者と比較し優劣をレッテルにして、
 ひとりひとりを、うまく整理しておきたがる社会の癖、長い間の習慣化した条件付けに、
 みんなが無意識に流されて、ほんとうに見ることを、そのまなざしを忘れているところから作られ、
 巨大化してしまった、幻想の『孤独』のほうが大きいのではないのでしょうか。
 そのような偽りの、幻想の孤独を見極めて、がんじがらめの呪縛から解き放った自分と対面したときに、
 それまで思い込みだった、渇いた飢えのような、モンスターのような孤独から解放されて、
 ほんとうの意味でのひとりでいることの自然な充足感、自分に対しての愛情、落ち着き、
 信頼などを思い出すことができるのかもしれません。
 そのような人間が、他者と自分を分け隔てして争い、苦しみを作り出し、モンスターの孤独を生みだす世界から、
 ひとりひとりのくつろいだ、自然なつながりをひろげていける社会を生みだせるのではないかと思います。

  えらそうなことを書いていますが、みなさんもお気付きのように、
 誰かに書いたり読んだりして聞いてもらうことは、
 自分自身にも、自分のためにも語りかけているということなのです。
 どうしても理想的に聞こえることばかりになりがちですが、でも大事なことというのは、
 きっと今、日常でおきることのなかにあるのでしょう。



正直になれない。つくろってしまう。ということ。

  たとえば、自分を正直にさらけだすことが必要だな、と感じたとします。
 そうすると、さらけだせない自分というものが、
 かえって際立って見えてきて、なんだか自分がとても不正直に思えたりします。
 でも、それはあたりまえのことで、新しいことに気付くときは、そんな痛みがともなうものでしょう。
 
  そんなときは、まず、さらけだせないという自分を、
 「そんな自分があるなー」と気付いて、できれば微笑んで見てください。
 それはむずかしいよというかもしれません。
 でも、もし、ともだちが同じことを悩みとしてあなたに告白したとしたら、あなたはどうするでしょう。
 たぶんそれは、「みんながけっこうそう思って悩んだりしているよ。」と、親しみをもって話すでしょう。
 あなたも自分だけが悩んでいるわけじゃないと気付いて。
 それと同じで、自分に対してもそうすることができればよいのですが、
 けっこう自分のことは、責めてしまいがちです。
 でも、責めてしまうと、(親子で経験済みでしょうが)ぜんぜんうまくいきません。
 かえってぐれたり、重症になります。
 ともだちに相談されたときのように、自分の相談にのってあげられないでしょうか。
 「何に、こだわっているんだろう。今はこだわっていることに気付いたことだけでもたいへんな進歩だな」と。
 ・・大問題にしてしまわないで、相談相手として付き合って行ける自分が発見できるといつか、
 自分にも他人にもやさしくなれている自分をみつけられると思います。

  実はこれは、大人の多くも、なかなか忙しくて忘れてしまっていることでしょう。
 ふんずり返った、開き直った、傲慢な、ひとの気持ちが、
 想像すらできない大人になって取り替えしの効かない時が来ない前に
 自分にやさしく、のんびりとつきあっていく時間をちょっとだけためしてみては。と、思います。

自分の『存在価値』ということについて。

  以前、印象的に思えた話しを紹介引用します。
  『あるごく普通の主婦である婦人が、むずかしい夫とよき結婚をなしとげ、
 成熟した人格を何とか作り上げてきていたが、
 自分は社会的には何もなしえなかった、なんの価値もみいだせないと婦人は不平をもらした。
  相談されたひとは、彼女に中国の賢者による話しをしました。・・・


 大工の師匠が旅の途中、杜のそばにある大きな古い木を見て、その大木に感嘆している弟子に、

 「これは無用な木だ。船をつくればすぐにくさってしまうし、道具をつくればこわれてしまうだろう。
 この木ではなにも有用なものがつくれない。だから、こんな古木になったのだ。」といった。
 
  しかし、その夜、師匠の夢にその大木が現われて言った。
 お前はどうして、わたしを梨やりんごなど実のなる木と比較したのだ。
 それらは実が熟さないうちにさえ、人間に攻め荒されてしまう。大枝は折られ、小枝はさかれる。
 自分たちの長所と思われるものが自分自身に害をなしていて、天寿を全うできない。
 これはあらゆるところに生じることで、このためにこそ私はまったく無用であろうと、長年つとめてきたのだ。
 
  愚かな人間よ、もし私が何らかの点で有用であれば、これだけの大きさになり得ただろうか。
 そのうえ、お前も私も自然の創造物にすぎない。
 たんなる創造物がいかにして、他の創造物よりも上に立って、その価値判断をくだせるのか。
 お前、無用な人間よ、お前が無用の木について何を知ることがあろう。
 
  大工は目覚め、その夢について想いをこらした。
 弟子が、どうしてこの木が杜の保護につとめているのかと彼にたずねたとき、彼は、
 「だまれ、何も言うな。その木はここに意図して生えているのだ。
 もし他の場所であれば人間がよくは取り扱わなかっただろう。
 もしそれが杜の木でなかったならば、切り倒されていたかもしれない。」と言った。』※



  このあと心理学的な難しい話が続くのですが、それは省いて、
 この話は、あるひとの存在価値は誰も決められないし、自分でも簡単に答えてしまえない、
 また、どの時点で決められるのかさえはっきりできるのだろうか?。ということを含んでいるようでもあります。
 有名であったり、社会的に名誉、成功のあることだけが、
 また、他者から才能をもてはやされることが、ほんとうに自分自身の価値というものなのだろうか。
 という、そんな問いかけでもあるでしょうか。

※荘子の話しのなかにあるお話しです。老子・荘子はタオ「道」の教えとして有名です。
(この文は受験塾の生徒さんとの出会いで生まれた私信を修正したものです。)


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