この話は須くしてフィクションであり、お話であることは疑いようがない。現実に起きたことだなどと勘違いすると、お話にならない。
とある地方の都市で、学校帰りの女子高生が刺殺されるという事件が発生した。めぼしい証拠なし、目撃者なし。司法解剖から死因は出血多量、凶器はおそらく刃渡り十五センチ程度の大型のナイフであるということ。またそのことから、青少年による犯行ではないかという見通しが立っているが、容疑者の特定はできていない。
件の都市の住宅街。その一角のアパートの一室。テーブルがある。パソコンがある。テレビがあって、事件のニュースを流している。血まみれで路上に倒れた少女の写真が壁に貼ってある。時計の二本の針が真上と真下を正確に指している。テーブルの上にはナイフ。壁には精密な市街地の地図が貼ってあり、上から文字や数字が書き込まれている。
そして、ナイフをじっと見つめる男。
この男こそが、件の少女刺殺事件の犯人なのだった。
彼をKと呼ぶことにする。Kはこれまでにも何度か殺人を犯してきた。
「警察か…馬鹿だな。捕まえられるわけがないというのに。そこらの道路を歩いてる奴らも馬鹿だ。自分は襲われたりしないと思っている。——そんな訳あるか。死は全ての上に平等に降りかかってくるものなんだよ」
Kは独りぼそぼそと呟いた後、くくく、と堪えるような気味の悪い笑みをしばらく浮かべていた。
どれくらい時間が経ったろうか。笑いが止み、Kはナイフを手にして立ち上がった。
「……さて、出掛けるか」
ここのように規模の大きな都市では、少なくとも同様の手口で連続して殺人が起こらないと、警察は厳戒態勢を敷かない。そしてKは、これから警察にそれをさせるつもりなのだった。平たく言うと、
彼は、今から人を殺しに行く。
Kは元来臆病な性格であった。しかし太陽が沈むと彼は激変する。闇のマントをまとい、鋼の鋭い牙で獲物の血をすする。ホラー映画などに登場する殺人鬼そのものとなる。二重人格というわけではない。いつもは卑屈なくせに、自分が有利になるとつけあがるのであった。
今夜身を潜める場所は大体決めてあった。できる限り怪しまれないように、普通の通行人を装ってそこに向かう。やがてだんだん街灯が少なくなり、辺りは闇が支配するようになった。
「くく……ここらでいいかな」
Kはアタリをつけ、辺りを見回し、街灯の影となる横の路地に滑り込もうとした。
先客がいた。
死は全てに平等に降りかかってくる。
そう言ったのはK本人であった。そして今、死は彼の上に降りかかろうとしていた。
鋭いものがKの脇腹をかすめ、ポケットに入れておいた右腕に突き刺さった。
「——なに!?」
理解する間も痛みを感じる間もなく、とっさに体が動いていた。バックステップをして街灯の下へ。白いシャツは右肘から下だけ、どす黒く見えた。視覚で認識することによって、急速に鈍痛が増してきた。それでもKはポケットから右腕を引き抜き、掴んでいたナイフの鞘を抜いて、左手に持ち直した。
路地から音も立てずに少年が姿を現した。
「なんなんだよ、お前は! どうして俺の邪魔をするんだ!」
目の前で軽いパニックに陥っている男を、少年は冷静に観察していた。
この少年の名をSとしたい。SはKのことを知っていた。KもSのことを知っているはずであった。直接の面識はないが、あるウェブサイトの掲示板を通して交流を深めていた。SにとってKは尊敬できる人物であった。それはKが開設している『あるウェブサイト』の内容に起因する。
殺人サイト『安愚羅(アグラ)』。俗に『アンダーグラウンド』と呼ばれる、インターネットの深淵の彼方に位置するイリーガル(違法)サイト。K自身が犯した殺人の手口を、細かく解説してあった。こういうものは、本当に人を殺したことのない奴が知ったかぶりをして書いて、殺す勇気のないチキンが見て興奮を味わう、いわば狂友による疑似体験の共有であることが多い。しかしこの場合は、管理人のK——ハンドルネーム『KITE』は本当に人を殺しているし、常連であるS——ハンドルネーム『Surge』も人を殺す勇気を持ち合わせていた。
SはKと同じ都市に住んでいた。Kが本当に人を殺しているというのも印象で分かっていた。彼は勘がいい、というか、事物に『印象』を持つ。そしてその印象は例外なく正しいのであった。今回の場合も例に漏れない。
ここでSは思った。『KITE』に会ってみたい。あるいは、尊敬する彼をいっそこの手で——
しかし実際に現実で会った『KITE』は、取るに足らない男であった。Sは落胆した。そして決心した。
『KITE』には悪いが、Kにはこのまま死んでもらう。
もはやKはマントを剥がれ、裸の王様であった。それでも夜という条件からか、あるいは腐らせていたほんのひとかけらの勇気が息を吹き返したのか、彼の性格にしては比較的冷静にSを観察していた。
そして気付いた。Sの手が——手だけでなく全身が小刻みに震えていることに。これは自身に有利な点として働く、Kはそのことに自信を持った。
「お前は俺の模倣犯だな、……はぁん。お前、人を殺したことがないんだろ。震えてるぞ」
そう、Kにある唯一のアドバンテージ。それは『人を殺したことがあるかどうか』ということだった。
口での挑発。KはSの中にあるわずかな躊躇いと恐れから傷口を広げようと思ったのだ。
だが残念ながら、Sのただ一つの弱点は、現在のSにとっては逆効果となった。
「……黙れよ、人『しか』殺したことがないくせに」
なんでこんな奴に馬鹿にされなければならないんだ。
全ての迷いがSの中から消えた。震えが止まった。その顔にはとびきり残酷な笑みが浮かんでいた。そこに当人の喜びは感じられても、決して共感できない笑み。叫喚の笑み。
Kを『殺人鬼』とするならSは『殺戮鬼』だった。ここにKは王の地位を剥奪されたのである。
Kの心臓は凍りついていき、どうしようもない恐怖を感じた。生物としての格の違い。補食される関係。
「あ……ああ……あああぁぁぁぁ!」
ナイフを捨てて逃げ出そうと試みるが、しかしもはや不可能であった。Sのナイフは、今度こそ正確にKの右脇腹を貫いた。
Sが家に帰ると、居間のテレビでニュース速報が流れるところだった。
『○○市で男性が腹部を刺され死亡。連続殺人の可能性あり。犯人は逃走』
Sは気にも留めず、パソコンの前に向かった。
Kのマンションで発見した、『KITE』が所持しているユーザーIDとパスワード。これでSにも『安愚羅』の更新ができる。彼の目的は一つ。
理想の『KITE』になりすますこと。
Sは早速『安愚羅』の更新を始めた。がサイトのトップに掲げる『心掛け』に、どうしても気に食わない部分があったので、修正する。そして次の一文を追加した。
どうせいずれ俺もお前も死ぬ。
『安愚羅』には毎日十人程度が来訪していた。掲示板やチャットにも、毎晩何かしらの書き込みがあった。
Kが管理人だった頃は。
Sが『KITE』に成り代わってから一ヶ月が経過した。その間来訪者カウンターの回り方は依然と大して変わらなかったが、掲示板やチャットへの書き込みはすっぱりと途絶えていた。常連であった人たちも、姿を見せなくなっていた。
それと時を同じくして、全国で若者の変死が相次いでいた。被害者は皆一様にパソコンの前のデスクトップから転げ落ち、心臓マヒを起こしていた。手がかりになるかと思われるパソコンはクラッシュしていて、情報は何も得られなかった。結局、ほとんどが事故として片付けられた。
これが奇妙な偶然の重ね合わせでないことを知っているのはSだけだった。理由は簡単だった。彼らを殺したのは、Sなのだから。
Sが初めて殺した人はKだが、それ以前にSは他の動物たちを殺したことがあった。犬。猫。鳥。虫。他にも様々な生命を絶ってきた。故に『殺戮鬼』。Kはそれとは違い、人を殺すことでしか欲求を満たせない男だった。
それらを殺すための手口は様々だったが、多分今回の変死事件ほど不可思議で不可解で不合理で不条理で、非現実的な手口は存在しないだろう。
Sはモニターの前に座る。マウスを握って、今『安愚羅』を閲覧している人、正面のモニターの向こう側、通信回線の反対方向にいる人をイメージする。それから、自分が無数の粒子になるさまを脳裏に思い描く。
そして最後に、果てしない殺人衝動を吹き込む。
これで、その後半日の間に『安愚羅』を閲覧した人は死ぬことになる。さらに、パソコンもクラッシュして、データが全て飛ぶ。何が何だか分からないが、とにかくそういうものなのだ。当のSも「なぜ」という問いには答えられない。なるべくしてなる、と答える他にない。これを昼と夜の一日二回行っていた。
Sは、街に出て人を刺そうとは思っていなかった。決して姿を他人に見せず、気付かれずに『殺す』というのが、Sの理想とする『KITE』なのだから。
もはや人間の能力を超越していることなど、Sは気付いていなかった。
そして、人間を超越したがために、それでも他の人間と同じように、Sの上にも死が降りかかってくることとなった。
ある晩、Sは例の『コロシの手口』を行った後で、とりあえず自サイト巡回に入った。チャットは相変わらず参加者零人。掲示板も——
「……!」
Sは息を呑んだ。あり得ないことだった。
つい一分前に書き込みがあった。
投稿者——(匿名)
面白い能力だけれど、生き続ける価値はなし。
それだけだった。それだけだが、Sはすさまじい戦慄を覚えた。
まず、この投稿者は自分の能力のことを知っている。
さらに、自分の能力はこいつに効いていない。
そして——こいつは俺を殺す気だ。
Sは立ち上がった。『どうせ俺もお前も死ぬ』と偉そうなことを言っておきながら、Sは死ぬことに恐怖を感じていた。
背後を振り向く。周囲を警戒する。誰も居ない。物音一つしない。Sが一瞬気を抜いて油断した瞬間、
後ろから口を塞がれた。
彼はパソコンの後ろを振り向いたのだから、そのまた後ろというのは——Sは必死に後ろを見ようとする。
そして、見た。モニターの画面からしゅるしゅると伸びる、二本の腕を。恐怖の叫びを上げようとしたが、口を塞がれていては「むー、むー!」という情けない音しか出ない。大体、助けを求めようにも、先ほど誰もいないことを確認したばかりではないか。
——くそ、くそ、なんなんだこいつは! 殺す。『殺戮鬼』の名にかけて——
ポケットからナイフを取り出し、背後のモニターに突き立てる。
ガラスをぶち破る——寸前で、止められた。三本目の腕によって。三本の腕はそれぞれ、Sの頭と両肩を掴んで、引っ張ってくる。モニターの中に引きずり込む気だ。必死で抵抗するS。しかし無駄だった。腕はさらに力を増して、ぐいっとSを引っ張った。
そしてSの肉体はこの世界から消滅した。