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安愚羅 —AGURA— 後編
清滝陸春

3.

 ここに一人の少女が居た。名前をJとする。
 Jは物心ついた時から、自分の中に得体の知れない獣が住んでいるという感覚に捕らわれていた。自分の体を檻として飼うには、強靱すぎる獣。
 このまま獣が育っていけば、きっと私はそれによって喰い殺されてしまうだろう。それは嫌だ。そう思ったJは、他の檻を探し始めた。
 そして彼女は『そこ』を見つけた。果てしない広さとあらゆる環境を兼ね備えた最高の檻——インターネットを。自分の心の一部を、そこに解き放った。
 獣は無限に続く夢幻の草原を駆けめぐり、成長していった。獣の檻を移したJも、健やかに育っていった。

 しかし、Jは殺された。

 彼女が高校生になり、学校帰りに暗い夜道を歩いている途中に、横道からいきなりナイフを構えた男が飛び出してきた。とっさに避けることもできず、Jはそのまま脇腹を貫かれた。全ての感覚が一瞬なくなり、その後で激しい痛みだけが膨らんできた。男はナイフを抜き取ると、そのまま背を向けて立ち去っていった。
 Jは路上に倒れ込んだ。もはや彼女の周囲は赤く染まり、出血多量で助からない状態であった。
 ああ、私はもうダメだ——
 彼女が脳裏に思い描いたこと。父。母。妹。学校の友達。片思いだったあの人。そして、
 彼女のカケラである、あの獣のこと。
 あなたは私。でも私はあなたを捨てた。大丈夫、私が死んでもあなたは死なない。
 ——ダメな飼い主で、ごめんなさい。

 獣は察知した。自分の『飼い主』が死んだことを。獣は悲しくて、吼えた。その声は何処までも何処までも、空しく響いていった。

 獣はただ歩き続けた。Jを失って、獣は心に大きな穴が空いたような気がした。彼女は殺されたのだ、ということは理解していた。できることなら、彼女を殺した犯人をこの腕で引き裂いてやりたい。しかしそれは不可能なことだった。その犯人は、この檻の外から悠々と中の世界を観察しているのだろうから。
 歩き疲れて、獣は横になった。

 獣は夢を見た。
 少年が目の前にいた。
『こんにちは』
 誰だろう。『飼い主』以外に話しかけられたことなど、これまでなかったというのに。
『警戒しなくてもいいよ。僕は敵じゃない』
 少年は敵対心のないことを証明するかのように、微笑みを浮かべた。
『君の力になりたいと思っているんだ。君は、君の飼い主を殺した犯人を見つけ出したいんだろう?』
 そんなことができるのだろうか。獣は疑問に思った。
『できるよ。僕はここの中と外を行ったり来たりできるんだ。だから、外でそいつを見つけることもできる』
 夢の中だからだろうか、少年は獣が考えたことに対して返答していた。
 できることならば、自分の手でどうにかしたい。他人に任せるのは忍びないし、やるせない。しかし自分にはどうにもできない。獣のジレンマは最高潮に達した。
『なに、そんなに悩む必要はないよ。もしやってもらうことに気が引けるというのなら、こっちも何か請求することにしよう。それでどうかな?』
 それならば罪悪感も多少薄らぐ。獣は承知した。
『それじゃあ、何を請求しようかな? 何だったら、君が決めてもかまわないよ』

 自分の命を。
 獣は即答した。

 少年は目を丸くして驚いた。
『……本当にそれでいいの?』
 獣に迷いはなかった。元々自分は彼女と同一の存在であり、本来ならば死んでいた。今生きているのは『おまけ』のようなものだ。ならばこの命がいつ果てようと、悔いはない。
『……君はすごいよ。普通の人間だったら、いや、立派な人間でも、滅多にそんなことは言わないのに。よし、分かった。それならば僕も、全力で犯人を捜し出すと約束しよう。代償は全てが終わってからの後払いでかまわないから』
 そう言い残すと、少年は姿を消した。

 獣は目覚めた。そしてまた歩き出す。

4.

「さて、それじゃ早速取りかかるか」
 モニターの前で、少年は呟いた。いつものように『ダイブ』をしていたら、すごいものを見つけてしまった。
 あの獣は真剣だった。たとえプログラムに過ぎない存在だとしても、その真剣さに報いる義務がある。
 まず少年は、最近起きた殺人事件の調査を始めた。ほどなく発見した。被害者はJという女子高生、犯人は捕まっていない。
「特に手がかりはなし、か……」
 他の方面からのアプローチが必要になってくる。そこで少年が選んだのは、ここのところ話題になっている変死事件だった。
 この変死事件、端から見ると相当不可解である。しかしそれは『普通の人から』見ると、ということであって、『ダイブ』ができる少年から言えば、なんと言うことはない事件だった。おそらく、この犯人も、自分と同じように『ダイブ』できるのだろう。

 ダイブ。自らの意志を電子情報に変換し、それをコンピュータの中に送り込む。『気付かない』人があまりに多すぎるが、マウスの動きを反映させるのと大差はない。ただし、意志には入力機器が存在しない。フロッピー差込口に舌を突っ込んでも、スキャナに顔面をスキャンさせても、デジカメで自分の写真を取り込んでも、脳波を信号化させても、現在の科学技術では、そこに『精密に意志を反映させる』ことは不可能なのだ。

 この変死事件の犯人は、『気付いている』。人間の精神という入力方法に気付いている。
 なかなか面白いヤツだ、と思った。

 犯人を特定する作業に入る。少年にとっては簡単なことだ。『ダイブ』して、『意志のある情報』を待ち伏せしていればいい。この能力、そんなにたくさんの人が持っているわけではないのだから。
 少年は世界の中心で待つことにした。
 無数の情報が飛び交っていく。意志のある情報は一目で分かる。意志のない情報は白い。意志のある情報は、その意志に応じた色が付いている。仮に殺人衝動だとするならば、おそらく色はああいう感じの赤——
 少年は猛スピードで走る赤い情報を見つけた。
 あれか!
 赤い情報が来た方向に、少年は走り出した。跡が残っているので、それを逆に辿っていけばいい。

 少年はやがて洞窟の奥へ奥へと進んでいく。下りのスロープが続く。しばらく進むと、唐突に大きく広がった地下空洞に出た。俗に言う『アンダーグラウンド』だ。
 その中のある建物に、赤いヴェールのような物がかけられていた。おそらく、殺人衝動で作り上げた結界だろう。ここが変死事件の犯人の本拠地のようだ。
 殺人衝動を情報として読みとる。『ダイブ』しているのであれば、受け取るのはあくまで人間が本を読むときに受け取るような情報であり、脳に走る命令となる電気信号の前段階であるから、直接影響は受けない。パソコンで言うと、スクリプトとそれによって実行されるプログラムの違いだ。
 結界の持続は半日。触れる者全ての脳に意志を変換させた電気信号を送り込み、脳の基質を変化させて本来生成されないはずの物質を作るように設定されていた。さらにそれを経由させたパソコン内のデータを全てクリアさせるような命令もあった。
 決壊させる。
 少年は力を込めた。意志で書かれたスクリプトを、意志によって改竄する。
 成功。どうやら犯人は、中途半端にしか『ダイブ』できないようだった。防御専門で、自分から攻めに出るということができないらしい。
 入り口の横にある看板を見る。
 殺人サイト『安愚羅』。
 ドアを開けて中に入っても、客は誰もいない。当たり前ではあるが。中に展示してある情報を、適当に閲覧する。えぐい。そんな大量の情報に混じって、件の女子高生殺害事件の手口と思われる情報を発見した。プロフィールに書いてある管理人の出身地と事件の起きた都市が同じ。事件の発生と更新の日付も一致。
 さて、それじゃ連絡しようか。

 獣の目の前に、夢で見た少年が姿を現した。
『やあ。見つけたよ、君の仇』
 少年は地図を取り出し、指でなぞる。
『今君はこの草原にいる。ここを突っ切って、洞窟に入り、地下のこの建物まで来るんだ。ここに犯人がいる』
 少年が消えるや否や、獣は風のように走り出した。
 自分にも、いよいよ死ぬときが来たのだ。別に怖いとは思わない。生きとし生けるもの、形あるにしろないにしろ、どうせいつか死に、消え去るものなのだから。

「……さて」
 犯人にしろ、何も知らないまま死ぬのは本望ではないだろう。偉そうなことを言っておいて、本当は死ぬ覚悟なんてできていないに決まっている。何が『どうせ俺もお前も死ぬ』だ。心の中で自分だけは死なないとか思ってるんだろ。
 少年はこの犯人に死ぬ覚悟をさせてやろうと思った。
 掲示板に書き込む。


 面白い能力だけれど、生き続ける価値はなし。


「これでよし、と」
 その時、ちょうど獣が到着した、ドアを突き破り、飛び込んでくる。
「ちょうどよかった。さあ、あそこだ。あの暗い穴の向こうに、あいつはいる」
 室内の一番奥まった所にある穴を、少年は指さした。獣の肩をぽんと叩く。
「がんばって」
 獣は穴にとびかかった。腕を穴に突っ込み、そのしなやかでたくましい筋肉をつけた前足を使って思い切り引っ張る。手応えがあったようだ。しかし存外に苦戦している。犯人の生への執着が強いのだ。
 やっぱりそうなんじゃないか。所詮そんなものなんだよ。生きることをよしとし、死にたくないと願う。殺戮鬼であっても、所詮はただの人間なんじゃないか。
 穴の奥の方で、何かが銀色に光った。
「危ない!」
 少年はとっさに駆け寄り、獣の一歩手前でそれを止めた。受け止めたそれは、おそらく人の血を吸ってきたであろうナイフを持った腕であった。
「最後まで殺戮鬼でいようというわけか——面白い。君! 一気に引っ張り込むぞ!」
 少年の右腕は、ナイフをねじり落としてから頭らしきところを、獣の両腕は肩を抱えた。
「せーの!」
 一人と一匹はぐっ、と精一杯の力を込めた。
 それで決まりだった。
 なす術もなく、男が引きずり込まれてきた。しりもちをついた男は辺りを見回す。少年は声を掛ける。
「やあ、こんにちは——そして、さようなら」
 その声に応じて彼が少年の方を向いた瞬間、

 獣の爪がその体を三つに分割した。

『閉鎖』の看板がかかった『安愚羅』の前で、少年と獣が向き合う。
「さて、それじゃ請求をしようか。何か残しておきたいものは?」
 獣は首を横に振った。
「そうかい……それじゃ、さよなら」
 獣のプログラムに終了の命令をかける。
 獣は消えた。

 どうせいつか僕も死ぬ。できることなら、悔いのない死に方をしたいものだ。

 少年はそう思った。





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