取り残された5%の子ども共に
「高校全入」を




 高校への進学率が95%に達していると言われてずいぶんたちます。
 これからの社会を生きていく上で、誰にも欠かせないものとして、高校教育が考えられているからです。
 どの子も、どの親も、「せめて高校は」という願いを持っています。

 中学校を卒業して、すぐに自分の可能性を開き、生活を支えていくには、あまりにも「むつかしい世の中だな」と誰もが思っています。
 同じ年頃の仲間とともに過ごす時間がもう少し欲しいと、どの子も望んでいます。
 子どもの幸せのために、もう少し学校の中で自分を伸ばし、将来の準備をさせたいと願わない親はいません。

 それでも、長い間95%の壁は破れていません。
 取り残された5%の子どもと親がいます。
 高校の門を閉ざされ、高校教育から排除されてきた5%の子どもたちの多くは、社会的矛盾や差別、家庭崩壊や経済的困難など生きることのむずかしさをいっぱい抱えています。

 15才にして、一人で抱え込むには重すぎる矛盾や困難に引き裂かれている彼らに、「低学力」「非行」「障害児」「不登校」などのレッテルを張って、高校の入口を閉ざしています。
 少数のエリートを育てるための競争主義が働くためには、少数の切り捨てがたえず求められ、目の前でのみせしめが必要とされるものです。
 彼らを「高校で学ぶ資格のない者」として排除することで教育における能力序列主義・管理主義は維持されているのではないでしょうか。
 これらの子どもらを排除せず受け入れ、自立を援助するとともに、彼らの「痛み」と「優しさ」を共感できる学校づくりが進められていたのが、市芦高校でした。


 そんな中で、1986年までの10年の間に50名を越える障害を持つ子どもも卒業していきました。
 「共生」への手探りが始められていたのです。子どもらと共に、学校改革はいろんな面で進められていきました。
 時には一人の子どもが学校に来れるために、時には一人の子どもの進路を開くために、教育行政に対してもきびしい要求がなされました。
 「生徒の教育権を守ろう」ということを運動の原則にしていたのが教職員組合でした。





「市芦処分」とは



 こうした歩みを「生徒と共に」進めてきた教員を排除し、学校つぶしを強行したのが「市芦処分」でした。

 「行政改革」という名で教育・福祉の切り捨てが行われていますが、わざわざ「手のかかる子」を入学させていては投資効果があがらない、というのが「市芦処分」の理屈です。
 芦屋ブランド「国際文化住宅都市芦屋の市立高校」には「手のかかる子」はふさわしくないというのです。そこには子どもの人権を、教育権を考える姿勢は少しも感じられません。
 論理も乱暴ならやり方も乱暴です。
 その実行者が1986年7月就任した松本教育長です。

 「今の日本の癌になるのは国鉄と日教組や」という松本教育長は、「市芦処分」「市芦つぶし」を、まず、組合つぶしから進めました。

 1986年10月1日、突然、組合委員長・書記長が停職1ヶ月の処分を受けました。
 その理由は、それまで労使の合意の上で、学校運営に影響を及ぼすことなく勤務の割り振りによって組合機関会議へ出席したことを「無断職場離脱」としてです。
 それも1年半前にさかのぼってです。
 処分資料となった学校日誌は校長が市教委の指示で偽造していたのものですし、生徒の奨学金の交渉や校外学習のための出張を不承認とすることで無理矢理「無断職場離脱」をデッチ上げてのものです。
 処分者の言う「無断職場離脱」の累計は2日弱であり、市の処分基準(「訓告」にあたる)からも異常なものです。
 同じ日、1時間目の授業を終えて職員室へ戻った社会科の教師を、突然、同日付けで体育館へ異動させました。
 理由は、2年後にある高校総体ヨット競技宿泊者の旅館手配のためと市教委は言います。
 3人の教員は同じ1学年で、学年が軌道に乗り始めた2学期半ばにして、1学年は突然3人の教員を失ったのです。

 すぐに生徒全員が、「先生を返してください」と署名で教育長や校長に求めましたが、市教委の答えは、さらに8人の教員を生徒から奪うことでした。





教員排除から生徒切り捨てへ



 市教委は、1987年3月に定数条例を改悪して、教員の定数を大幅に引き下げ(43名から32名へ)、市芦教育を支えてきた条件を根こそぎ破壊しました。
 それも議会へウソの資料を出したり、ウソの答弁をくりかえしてのことです。
 かんじんの「教員定数の算定」「いわゆる過員数」「新カリキュラムに必要な教員数」「教員の担当時間数」「障害児の教育保障」「指導主事としての配転」等の事柄にわたってウソの答弁を繰返していたことが、議会議事録で明らかになっています。


 「条例改正」を口実に、異動の強要や分限免職の脅しが教員にかけられました。
 これに抵抗する組合に対して、会議室を使ってはならぬ、放送を使ってはならぬ、印刷機や掲示板も使ってはならぬ、話し合いはすべて拒否する等のありとあらゆる陰湿なイヤガラセが繰り返されました。
 身分や異動にからめての組合脱退工作も行われました。
 1987年4月には、市芦教育を支える10年を超える教職経験豊かな教員6名が教壇を追われ、事務職員に異動させられました。
 かれらが特定される理由はなに一つありません。
 「ベテランであること、教育熱心であること、旧3年に所属していたこと」以外市教委ですら理由をあげられません。
 これを機に、一気に市教委による学校現場に対する直接管理が始まります。
 前田校長は「私は禁治産者です」と言い、職員会議は以後一度も開かれず、一切の校務運営が職務命令で行われます。
 一方的に任命された主任を前に立てて、秘密裡のままにカリキュラムが決まり、生徒が処分され退学させられる、という学校に変えられてしまいます。
 1987年から三度にわたって、市教委と管理職は入試において定員内にもかかわらず大量の不合格者を出させました。
 1987年は141名定員のところ33名が、翌年には25名が「高校で学ぶ資格がない」として定員内で切り捨てられました。
 かれらの中には、障害を持つ子、部落の子、朝鮮人の子、経済的に困難な子、家庭が崩壊している子らがたくさんいました。
 入学した生徒にとっても、受験校の形だけをまねた能力別クラス編成や臨時の時間講師による選択制授業は、学習意欲をそぎ人間関係を裂くものでした。
 処分にだけ頼ろうとする生徒管理が横行し、教室から温もりを奪い取っていきました。




破綻する「教育改革」



 さらに、1988年には、組合委員長ら2名が「人事交流」という理由で、事務職員に強制配転させられました。
 かわりに新卒教員を採用してまで強制配転した理由は、力づくで進められる「教育改革」に生徒とつながりながら抵抗する教員を排除することにありました。

 生徒会を中心とする「教育改革」に抗議する声はおしつぶされ、自主活動は窒息させられていきました。
 市芦で積み上げられてきた就学保障や進路保障の教育運動は「教育改革」の趣旨に反するものとして放棄されていきました。

 10余年に及ぶ生徒と教員が作り上げた遺産をすべて押しつぶした「教育改革」は、ただ教育破壊をもたらしただけでした。
 「教育改革1回生」は、改革3年後、卒業にこぎつけたのはわずか74名(定員141名)であり、看板とされた大学進学者はわずか2名(改革直前は27名)という結果に終わりました。

 改革1回生の卒業から1955年にいたるまで、生徒は入口で切捨てられ、入学後も卒業にこぎつけられず、卒業生は激減しました。
 「個性に応じた進路の保障」という「教育改革」のうたい文句にもかかわらず生徒の進路は閉ざされていきました。
 「教育改革」がいかに多くの生徒を犠牲にし、無惨な失敗に終わったかを示しています。

「教育改革」が、教育行政本来の責務である教育条件整備を目的としたものではなく、教員と生徒の切り捨てを目的として行われたことは、その結果を見れば明らかです。
 定員内にも関わらずたくさんの不合格者を出すことは今日まで続いており、1995年度入試では阪神大震災で生活を根こそぎに奪われた子も容赦なく切り捨てられています。
 公私立を問わず被災生徒の進路を保障しようという県下の取り組みに逆行してまででした。

 震災は多くの生徒・親の生活を直撃しています。
 失業に追込まれたり、過労で倒れたりする親、仮設住宅で生活せざるを得ない生徒等困難をきわめています。
 この教育困難に立ち向えるのは、市芦高校が取組んできた就学保障、学力保障、進路保障をひとつながりのものと考え「共に学び、共に生きていく」学校を再生することです。




教員身分を奪う事務職員(「指導員」)への転職処分、教育基本法違反は明白


 図書館や体育館、市民センター等に配転された8名の教員は、「指導員」という職名で一般行政事務職員としての勤務を命じられています。
 「指導員」というのは、市規則にその職名記載があるだけで身分・職務内容についてなんら法的規定のない事務職員です。

 市教委も「教員ではなく事務職員」であり、「指導員は教員免許資格がなくてもよい」と証言しています。
 教員と指導員とでは一方が教育職で他方が事務職と、職種が異なるのですから、採用区分や採用資格は当然違います。

 教員から事務職員への「転職」には、本人の同意が必要です。8名の教員は教員の仕事をその一生の仕事としてえらんだのです。
 しかし、市教委は「教員としてのみ採用したわけではなく、地方公務員として採用したのだから教員も事務行政職員に命じられても当然である」と無茶苦茶なことを言い、教員身分を奪うことを正当化したつもりでいます。
 誰も教員採用試験を受けるときに行政職員になることを了解しているわけではないのです。

 こんな言い分がまかりとおるのでしょうか。
 また、市教委は「教員の身分を保有したまま指導員を命じているから不利益処分でなく、本人同意は必要でない」とくりかえしています。
 現職の教員がその身分を持ったまま他の仕事が出来るのは、地教行法19条4項に規定される「充指導主事」の場合だけです。
 市教委の主張は言い逃れにもなっていません。

 市教委が学校を「直営店」にするために、「意に添わぬ教員」を排除する手段として人事権が使われ、教員を学校から永久追放するために「指導員」への転職が行われているのです。

 しかも、この間に市芦高校では多数の教員が転出し、強制配転した教員を現場復帰させる機会は何度もあったのですが、一人をのぞき全員が戻れぬまま10年がたとうとしています。
 現場復帰にかわって、一般事務職現場を文字通りたらい回しにされています。
教育基本法は、第6条において教員身分の保障と第10条において教育の自主性保障を定めています。
 今回の処分は教育法制の根本を侵す違法な処分です


長い間、私たちに支援をありがとうございました。
お陰様で、懲戒処分は一部修正で終わりましたが、強制配転は完全勝利しました。


処分内容
●1986年10月 停職1ヶ月処分
 河村央也(数)組合委員長
 深沢 忠(理)組合書記長
●1986年10月 強制配転(指導主事)
 鈴木教諭(社)高校総体事務局  
  88年 再配転  愛護センター
  99年 現場復帰
●1987年 4月 強制配転(指導員)
 森村教諭(英)図書館
  94年 文化財係 
  95年 市民センタ−
 滝山教諭(社)社会教育文化課文化財係
  94年 図書館
 小川教諭(社)学校教育課 みどり学級
  92年 市民センター 
 麻田教諭(体)学校教育課(1年間県に出張研修)
  88年 体育館
  96年 市芦高校復帰
 石橋教諭(理)同和教育課(市長部局に出向併任)上宮川文化センター
  92年 図書館 
 吉岡教諭(美) 同 上
  92年 美術博物館  
  99年 現場復帰
●1988年 4月 強制配転(指導員)
 深沢教諭(理)学校教育課 教育研究所(後、打出教育文化センター)