八坂神社の起こりは、寛永3年佐賀の高学院という天台宗の山伏が、牛頭天王を京都祇園社
から勧請し八幡大菩薩、山王権現を相殿として今篭町に一宇を建てたのが始まりという。
この寛永3年(1626)という年は、諏訪社で初めて祭礼として湯立神事が行われた年でもある。
今篭町に建てられた一宇は「延壽院」といい、祇園社から勧請されたので祇園延壽院と呼ばれる
ようになった。
 その後、町が発展してきたのを機会に市周辺に移ることとなり現在の地に寺を構えることになる。
そして寛文7年(1667)、江戸東叡山の末寺となり「現応寺」と称し明治維新まで続いた。
明和3年(1766) 西古川町から発生した大火事により建物全焼。この教訓から火事から守るため社地
の上段を開墾して階段をつくり現在の形になった。
また上部の山門は文化元年(1804)油屋町の寄付により建立されたものである。


 明治元年、神仏習合が廃止され牛頭天王は神号を廃止、住職は還俗し八坂神社となる。
八坂神社と命名したのは中央からこの地を治めるため派遣された沢宣嘉総督である。
京都で祇園社が神仏習合が廃止されたのを機に、その辺りが古には「八坂郷」と称されていた
ことから八坂神社と名称変更したのに倣ったのであろう。


くんちと沢提督

 ところでこの沢総督はくんちに一大変革をもたらした人物である。その内容はというと、
とても市民に受け入れられるものではなかった。明治元年、まず秋月藩士坂田諸遠を遣わして
くんちについて調べ上げ神事とは程遠いと断定。
 これによりまず従来の傘鉾および奉納踊を全廃。ただし丸山、寄合両町のみは神事の事初め
から参加している伝統を重んじ傘鉾、奉納踊とも従来のままとした。また古に帰るのを基本とし
諏訪,住吉,森崎の3社の神輿のうち森崎の神輿は渡御せずとした。
 これは森崎の神輿は、くんちが始まった寛永11年(1634)に「日数不足で神輿が完成しなかった」ため諏訪,住吉だけが渡御し森崎は渡御しなかったのである。以来、これが慣習とされ実に延宝3年(1675)まで3社揃っての渡御はなかった。しかも森崎の渡御に至っては勅許までもらった上での渡御となっている。これを元に戻したというわけである。
 また当時くんちの日程は、将軍家の忌日に関わるという事で7日9日が9日11日に変わっていたが、これを7日9日に戻した。もとより徳川家に関して変更した日程など新政府が認めるはずもなかった。

 傘鉾は直径約1.2mの傘で鉾のところに町名だけを記し、垂れに晒布を巻いただけのものを新調し神事後は諏訪社に保管。来年の踊町が町名を変えて使用する。奉納踊はなしで替わりに各踊町3人ずつ武者姿でのお供、衣装は傘鉾同様使いまわしということになった。

   こういったことは市民を相当怒らせたらしい。何しろ踊町は7年に一度だからこの機を逃す
   と出れない人も出てくる。この年の踊町だったところでは、実に約100年後の昭和30年代まで
   この件で悪口を言っている人がいたと言う。


八坂神社と千団子神事

 江戸時代に行われた神事としては、「千団子神事」というのがあった。
これは小枝つきの枝に団子をくっつけそれを参拝者にふるまったところからこの名がついている。
この神事は、元禄15年悪疫退散予防のために行われたのが最初である。神輿が出て壮丁は
石灰町、油屋町、高野平郷の一部から供奉し付近の町々を回っていた。お参りすると疱瘡に
かからないとされ結構な人出だったという。
 その後元文2年より神輿は全市を回ることとなった。
またこの神事は別名「チョウサイヤ」とも呼ばれていた。これは神輿に供奉する少年達が
「チョウサイヤ、チョウサイヤ」と掛け声をかけることから来たものである。
「チョウサイヤ」は「長祭哉」とも書かれるというが、そうではなく「招財」と書くのが正しい。
実は「チョウサイヤ」という掛け声は、かつてはくんちの「庭先廻り」にも使われていたのである。
    (→チョウサイヤ」について
その後明治に入ると賑わいのあったこの「千団子神事」はすたれ、鎮花祭の中に取り込まれる
ようになってしまったのである。


 ところで江戸時代にはこの八坂神社(祇園社)で奉納が行われていたのだろうか。というと当時は踊場所には入っていない。江戸時代の末頃の踊場所は、諏訪社、西役所、立山役所、お旅所、町年寄宅、代官所、岩原屋敷、出嶋前が大体のところで、この外に中入りとして各町乙名宅が入ってくるくらいである。
ただし当時は弁当所として寺などを利用することが多かったため、場所を提供してくれた寺などには踊を奉納することが一般的だった。そのためそういった形での八坂神社(祇園社)への奉納はあった可能性は高い。
 現在、八坂神社にも踊町による奉納が行われるが、明治時代以降は7日と9日両日にわたって
奉納が行われていた。しかし戦後は中日もしくは後日の1日に短縮されている。




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八坂神社について
江戸東叡山寛永寺のあった付近
沢宣嘉の墓(東京伝通院)