八坂町は、明治36年から現在に至るまで「川船」を出し物にしている。
もともと八坂町は今石灰町と新石灰町に分かれていたのが、明治になって合併したものでそれまでは別々に奉納踊を出していた。そのため当然踊町にあたる年も違っていたのである。そこで合併後は、新石灰町の踊町の年を八坂町の踊町の年とすることになった。
 新石灰町の踊町の年は、明治元年、同8年であるが、明治4年に今石灰町と合併したので新石灰町単独での出場は、明治元年が最後となる。
しかしこの年は当局の指令により、丸山、寄合両町の奉納踊以外は、傘鉾含めてすべて中止とさせられ、わずかに武者行列での参加だけを強制させられている。この年の踊町にあたった町々は、相当落胆したらしく後世までこの件が語り続けられることになった。(八坂神社参照)

 

 そして7年後の明治8年初めて八坂町として登場する。
この時の奉納踊は「小薩摩」であった。題材は「四季の花12種」である。

この「小薩摩」というのは勝山町の「大薩摩」に対して呼ばれるようになったもので、その背中に背負う指物や山などと呼ばれる人形等の大小により区別される。もとは薩摩踊に端を発した物だろうが、実際の薩摩踊とはこの当時にすでにかなり趣を異にしていたらしい。
「小薩摩」は指し物10人〜12人、「大薩摩」は指し物通常
6であり、他に鐘太鼓がついていてその拍子や歌にあわせて踊るという出し物である。またこの年は同じく合併した興善町が旧後興善町の踊を踏襲し「小薩摩」を出している。小薩摩の指物は「鳥獣12種」である。因みにこの年の各踊町の出し物は、馬町、「米収納駒引きの通りもの」、東上町、「牡丹の引き物で屋根が開き獅子舞」、本古川町、「亀の甲羅つきの引き物で甲羅が開いて浦島の所作」、東浜町、「反り橋高灯篭の引き物に貝拾いの所作」などで凝ったものが多い。

 

 ところでこの「小薩摩」は八坂町の奉納踊として演じられたが、実は、八坂町の前身である今石灰町の奉納踊を継いだものである。(→小薩摩について)
 これは江戸時代末期に書かれた日記の中に、今石灰町の奉納踊の記録が残っているものがあるのだが、それによると「
12人花篭負踊り。この花すべて作り物、立派にして髪も同じように結い、襷、衣も対にして鐘太鼓拍子を揃えて打掛声一同にして、道行には2列なりて踊る」とある。これはまさしく「小薩摩」のことである。評判の出し物だったとみえ、おそらく合併後も八坂町の奉納踊としてそのまま踊を引き継いだものであろう。明治15年も「小薩摩」を出している。

 
 明治
22年には趣向を変え本踊を出した。
前日が「弁天小僧大丸屋店の場」後日が「八犬伝麓村より荒見山の段」であった。踊師匠は人力車で複数の町の師匠を受け持ったといわれる有名な中村福栄。両方とも歌舞伎に題材を採ったものであり、道具仕立ての本格的なものだったが道具の出来具合が今ひとつで、また芝居の内容もほどほどといった評判しか得られず、明治
29年には再び「小薩摩」に戻っている。その時の「小薩摩」指し物は武器類12種であった。


 そして明治36年、出し物を「小薩摩」から「川船」に変える。
その新しい出し物である「川船」は他町とは発想の違う三つ車の川船であった。車には旧陸軍の砲車を用いた物で、この形を提案したのは町内在住の大工である。他町の川船にはない独自のものをと考え出した結果だという。何しろ明治時代、川船はかなりの町から出されていて、多い時はその年の踊町のうち23ケ町が川船を奉納していたのである。

この構造を取り入れたことにより、他の川船に比べて軽快でスピードが早く何回も回転させることができるという特徴を得るに至った。実際、回転途中に三色の座布団が飛んでしまったほどの凄まじさで「コマのような激しい回転」と評され長坂を喜ばせたらしい。このことはその当時、川船は船回しを行っていて、しかもその軽快な回転が特色となり長坂をはじめとする観客に喜ばれていたことを意味していて興味深い。

明治39年出場時の蛇船。このころはまだ四つ車である。

現在でも三つ車を採用しているのは、八坂町と西浜町の蛇船だけであるが、西浜町の蛇船は大正時代になってから三つ車になったものでそれ以前は
4つ車であった。おまけにブレーキまでついている。









舟の下にもぐりこむ「舵取り」
八坂町の川船は、回転する時に根引きの
1人が下にもぐりこんで、ハンドルを操作することで舵を切る。
船の動きは舵次第なので、舵を取る根引きは重要ポジションであると供に相当のプレッシャーがかかる。
他の船でもそうだが通常は根引きは回した回数を数えているのではなく全力で回す。後はひたすら笛の音と添根引きの足の動きでその動作を決定するのである。



車輪の上に乗り軸をつける根引き

また八坂町の川船の場合、ひとつの車輪を軸にして回転させるのでその軸を安定させるために、根引きの
1人が車輪に飛び乗り軸が動かないようにする。これも特徴のひとつである。つまり車輪が外付けになっているのである。

ところで現在の引き物は、八坂町と西浜町を除くと車輪は内付けになっているが、明治初年頃の引き物は外付け車輪になっているものが多かった。
しかも当時の町は狭く人があふれ、そのため引き物を引く者がその車輪でよく怪我をしたらしい。
しかし当時の引き物の多くは派手に回転させる物ではなく、単に囃し方の乗り物といったものが多かった。これを当時の長崎
では「車樂」と呼んでいた。これは明治頃から「段尻」などと
呼ばれるようになる。
もしかすると八坂町の川船の構造も、
これらの外付け車輪の多かった当時の引き物を参照にしたのかもしれない。

 


八坂町明治
36年川船初登場の際は、網打ち船頭が本物の魚を使っての網打ちであった。また明治時代は網打ち船頭が複数出てくるのが一般的で、町によっては5人という所もあったのである。
だが現在ではどの町も
1人となっている。網打ちが終わると網打ち船頭はズッキャンキャン(肩車のこと。小薩摩の章を参照)をされて退場していく。




宙を飛ぶトップ。まさしく「飛根引き」である。
このあと船は前後に動いた後、大きく回転する。八坂町の川船はいったん回し始めたら船を前後に動かすのではなく、前進してすぐ回転の連続となる。そして回転の際先頭の「トップ」といわれる根引きが激しく宙を飛ぶ。ここの川船は
3輪であるため見ている以上に早く回転しているためにタイミングを取るのが難しく、またうっかり手が離れてしまったらそのまま飛ばされて大怪我をしてしまう。




 平成8年には初めて囃子に女子を入れ、男子の囃方と女子の囃方の2組に分けるという試みを行い、さらには平成15年の踊町のとき初めて,根引きとして「トップ」に女性が採用された。女性の根引きは全町含めて初めてのことである。「飛ぶ」のであれば体重が男より軽めで花のある女性にも活躍の途があるかと思う。実際、彼女が先頭に立つと会場が沸いていた。特に「カッコイィ〜」と叫ぶ女性達の声援がすごかった。また彼女の明るく真摯な態度にも好感が持てた。

ところで八坂町の川船は小型である。船津町にせよ東古川町にせよ昔の川船はみな小型であった。近年まで東古川町の川船が最古参であったが、水害で傷んだこともあり新調され大きくなってしまった。江戸、明治などに比べ体格がよくなった現代人が引くと船が小さく見えてしまうことも船が大型化する理由のひとつだが、そんななか八坂町の川船だけが往時の姿を残しているといってもよい。
やはり川船は古風な小型がいい。小型であってこそ川船といえる気がする。

 

 






明治39年出場時の蛇船。この当時はまだ四つ車である
舟の下に潜り込む「舵取り」
車輪の上に飛び乗り軸を作る根引き
激しく飛ぶトッブ。まさしく「飛び根引き」である。
八坂町の出し物について
 INDEXに戻る