『番外:独白』 -5
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高校三年になったら、薫とはクラスが違ってしまった。すぐに受験色が濃くなり、俺もいくらか真面目に勉強し始めた。
当然、薫とも、今までと同じように始終一緒にいるわけにもいかなくなった。だが、登下校は、だいたい一緒だった。薫は、相変わらず淡々と生きていた。
少し距離ができて…俺は、楽になったような、逆に苦しくなったような…妙な気分だった。
あの水は、飲めば乾く。ますます欲しくなる。
結局は、クラスが違って、少し離れたことで…俺は、ますます煮詰まったのだろう。一緒にいる僅かな時間、見つめ過ぎてしまわないように、俺は絶えず気を付けなければならなかった。
二学期に入り、俺は補習授業が増えて、薫と一緒に帰ることが少なくなっていた。
「椿…」
同級生の妙に脅えた声に振り返ると、戸口に澤木の姿が見えた。
澤木もまた、薫とも俺とも違うクラスで…滅多に見かけることはなかった。すでに、堂々たる風格の番長の出現に、教室は妙に静かになった。
俺は、苦笑しながら、急いで廊下に出た。
「おまえは…妙に目立つな…」
俺は、笑いかけたが、澤木はにこりともしなかった。
考えてみると、澤木が俺に接近するのは、薫のことでしかなかったから、俺もすぐに声を低めた。
「…一条…か?」
澤木は僅かに頷く。
「他校の野郎がつきまとってる…バスケのコーチだ…
聞いていねぇか…?」
薫が何か話したか…ということだろう。俺は首を振った。
「…最近は、あまり会っていないんだ。補習が多くて。
知らなかった。」
澤木は俺を睨んでいた。
「俺は、おめぇなら…しょうがねぇ、と思う。
ちゃんと…しろ。勉強より…大事じゃねぇのか…?」
俺は、澤木の目を見返して、頷いた。
「そのとおりだ。わかったよ。」
「俺は…出たくねぇ。」
「馬鹿。すごく怒るぞ、あいつは。やめておけ。」
澤木の目の隅に、笑いの影が走ったが…澤木はのっそりと向きを変えて、立ち去った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺は、最後の補習時間をサボり、薫の家に行った。すでに何回か、行き来して、薫の家はよく知っていた。だが、父親が残してくれたという小さな一軒家は、灯が点いていなかった。
薫は、とっくに帰っている筈だ。もともとあまり熱心ではなかった部活も、三年になったら出る必要はないのだから。
薫は、バスケット部だった。運動神経は優れていたし、あの容姿だから、ちょっとした見物ではあったが…。騒がれ過ぎるのを嫌ったのか、あるいは先輩や部員と例の悶着があったのか…二年の時には、すでに幽霊部員だった。それでも、たまの試合などには駆り出されていたから…その、問題のコーチとやらは、対外試合の時にでも会ったのだろう。
暗い家を眺めて、俺はやっと不安になってきた。
あの…岡村の件以来、薫は断りかたがうまくなっていて、俺は安心していた。相手の言いなりに、身体を与えてしまうことは…もう、ないように見えた。
だから、澤木に聞いた時にも、またか…という程度しか、俺は感じなかった。薫に話を訊けば、もうとっくに済んだ…という応えを聞けるような気がしていた。
薫は、夜遊びはしない。盛り場にも行かない。学校から真直ぐに家に帰り、淡々と勉強して眠る。
こんな時間に、いない筈はないのだが。
俺は、一応チャイムを鳴らし、ドアを叩き…留守を確認してから、そのまま待つことにした。ドア脇の暗がりに、俺は立ち、薫の帰りを待った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
とっぷりと暮れて、街灯が点っても、薫は帰らなかった。
あてはなくても、探しに行こうか…と何度めかに思った時、門のあたりに足音が聞こえた。足音は…ひとつではなかった。
「じゃあ…これで。」
薫の声がした。
「本当に…これで、終り?」
知らない声が言った。
「はい…。」
「俺は…いやだ…。」
「お約束した筈です。」
「わかってる…わかってる…じゃあ…」
「さようなら…」
薫の影が門扉を開こうとしたところで、もうひとつの影に引き寄せられ、重なった。
俺は、唇を噛みしめて、立っていた。
「放してください。」
「俺は…本当に好きだった…」
「放してください。」
「君は氷でできた人形のようだな…冷たくて…感情なんかないんだ…」
「……。」
「じゃあ、さようなら…」
「さようなら…。」
未練を残した足音が、遠離っていく。
薫のため息が聞こえ、それから門が開かれた。
薫は、玄関に向かって二歩歩き、それから俺に気付いて立ち止まる。
「誰だ!」
未来の警官らしい、厳しい誰何だった。
俺は、なにかからまってしまったような咳をひとつして、応えた。
「薫…俺だ。」
「椿…」
薫は一瞬、立ちすくんでいた。
「何の…用だ?」
「この頃、あんまり会っていないから…今日は早く終ったから、顔を見に来た。
…留守らしいので、心配になって、ここで待っていたのさ。」
俺は、妙に疲れた気分で、だらだらと応えた。
「そうか…。
…で…見たんだな?今のを…」
薫も疲れた声を出していた。
「ああ…」
俺たちは、暗闇で、しばらく黙って立っていた。
「…上がれよ。コーヒーでも煎れよう…。」
俺の前を通り過ぎ、鍵を開けようとする薫の身体から、湯と石鹸の匂いがした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
簡素すぎるような薫の部屋で、俺たちは黙ってコーヒーを飲んだ。
「あいつと…寝たんだな…?」
俺は、沈黙を破り、要点を質問する。
薫は無表情に俺を見て、僅かに頷いた。
「岡村の後も…こういうことは、あったのか?」
また…僅かな肯定の仕種を、薫は返す。
俺の頭は、煮詰まってきていた…。
「自分を大切にする…と、言ったのはどうしたんだ?」
「…前よりは…減った。」
「相変わらず…他にどうしようもなければ、寝るのか?
嫌いではなければ…求められれば、寝るのか?」
俺の執拗な質問に、薫は少し怒って俺を睨み、低く応える。
「そう…だ。」
干渉するな、と薫の瞳は言っていた。
「心配させていることは…わかっている。
だが、俺は大丈夫だよ…椿。」
苛立ちをおさめて、薫は宥めるように言う。
そうだ…おまえは…大丈夫なのかもしれない。
腹立たしい程に…おまえは、汚れない。
今までに、何人と寝たんだ…十人か?二十人か?百人か?
それでも、おまえは汚れない。誰も…愛さないからだ。落ちないからだ。
ただ、愛された哀しみだけが、おまえの身体に積もる。人を落とした頽廃が積もる。
それでも、おまえは頽廃に溺れず、一層高く美しく輝いて、人を狂わせる。
また愛されて、愛せなくて、おまえは他の男や女にその身体を与え続ける…。
(駄目…だ。)
ついに切れてしまった自分を、俺は知った。
駄目だ…もう、耐えられない。
…もう、言おう。
「薫…大丈夫じゃないのは、俺だ。」
薫は、驚いた顔で俺を見る。
「椿…?」
「薫…頼めば…俺とも寝てくれるか…?」
「つ…ば…き…」
薫は、呆然と俺を見ていた。
それから、気を取り直して、少し笑った。
「…そういう…冗談は、よせ。
…男は趣味じゃないんだろう?」
「おまえだけは…別だ。
俺は、ずっと惚れていた…。」
「椿…嘘、だろう…?」
薫の目に顕われていく絶望が辛くて、俺は歯を食いしばる。
だが、俺も限界を越えていた。ここで、関係を変えなければ…俺が潰れる。
俺は、歯をくいしばったまま、真実を告げる。友情を裏切る。
「おまえに…惚れている。
おまえと寝たい。おまえを抱きたい。そういう類いの性愛の対象として…おまえを愛している。」
薫は、首を振り、抱えた膝に顔を埋めてしまった。
「俺は…やっぱり、呪われているんだ…。」
「薫…俺を…愛せないか?」
そのまま、首は振られていた。
「椿…おまえを好きだよ、俺は。
どれだけ、救われてきたか、わからない。
でも…友情なんだ。そういう…愛情じゃない。」
「知らないくせに…区別がつくのか?」
追いつめたくはなかったから…俺は、ゆったりとからかうように言った。
「椿と、寝たいと思ったことはない…」
悲しい声が、俯いた姿勢の薫から発せられた。
「なぁ…薫。おい…顔を上げてくれ。
俺は、そのままだ。何も変わらない椿だよ。」
薫は顔を上げ、疲れた、悲しい目で俺を見る。
かすかに、また首を振った。
「聞く前には…戻れない…」
「薫…俺は、他の連中とは違う。
今まで、ずっとツルんできただろう?
おまえのことは、よく知っている。
俺は、おまえを追いつめない。無理強いはしない。決して。
基本的には、友人のままだ。俺は何も変わらない。
ああ、愛してくれ…とも、二度と言わないつもりだ。
今までどおり、そばにいるさ、友人のままで。」
遠くなってしまった瞳に、俺は語り続ける。
「ただ…他の奴と寝ないでくれないか。
おまえはそう思っていなくても、俺を恋人だということにしてくれないか。
そうすれば、寄って来る奴は、だいぶ減るだろう。
とにかく…おまえが、好きでもない相手と寝ていると思うと…俺は…駄目なんだよ…」
話している間に、また頭が煮えてきた。
「おまえが…好きな相手なら、俺はあきらめる。
喜んでやる。…本当だ。
くやしいが…そこで嫉妬に狂う程、俺は愚かな愛し方はしないつもりだ。
だが…好きでもない相手は…やめてくれ。頼む…薫…。」
手が震えてきたので、額に当てた。
俯いたまま、俺はしゃべり続けた。
「できれば…惚れて欲しいが、無理なのかもしれないな、薫。
それは…しょうがない。惚れられたら、惚れ返さなければならない法は…ないものな。無理なことは、俺は望まない。本当だ。
だが、せめて…あれを防がせてくれないか、俺に。
おまえが強いことは知っているが、俺は、もう見ていられない。
せめて…おまえは怒るだろうが、せめて…守らせてくれないか…。
俺は、友人のままでいるから。あれだけは…やめてくれ、頼む。」
途中で、薫の沈黙が怖くなり、顔を上げられなくなっていた。
俺は、両手で額を支えて、しゃべり続け…やがて、黙った。
薫は何も言わない。沈黙が突き刺さる。
痛い。
(拒絶される…)
薫は、俺に心を閉ざす。俺は、この美しい男を失ってしまう。
二度と…薫は俺と語らず、俺に笑わない…。
言うんじゃなかった。俺は、耐え続ければよかった。なぜ、俺はこんな馬鹿なことをしたんだ。
薫のそばにいられなくなる…。
恐怖と絶望が、やって来つつあった。
薫を愛し抜いていることを…俺は、改めて悟った。
全てを撤回しよう。今すぐ。全部、冗談だった、と…いや、もう駄目だ。
手首を掴まれる感触があった…。
「椿…顔を上げてくれ…。」
優しい声が、静かに言った。俺は首を振った。
「…言ってしまったら、怖くなった…。
薫…さっさと判決を言ってくれ。俺は、このまま聞く。」
少し笑った気配があり、手首を掴んでいた手が引いていった。暖かい、愛しい感触が残った。
「椿…俺は、全然気付いていなかった…ごめん。
俺の乱行についても…すまない。」
「あやまるな…。俺の、嫉妬だ。」
俺は、頭を抱えたまま、うめいた。
この男は…また、ここで自分に背負って、俺を責めない。
そんなふうに美しいから、忘れられなくなる…。
お願いだ…何か、醜い部分を見せてくれ…汚点を、欠点を見せてくれ…。
友情を裏切った、と俺を責めろ。そんな目で見ていたのか、と怒れ…。頼む…。
だが…きっと、薫はそんなことは言わない…。
「椿を…愛せれば、いいんだろうな…そう、思う。
椿は…優しい。優しくて、大きい…いい男だ…。」
ほら見ろ…薫はやはり、薫のままだ…。
ゆっくりゆっくり…薫は、応えを探して話す。
俺は、待つ。
「俺は…ごめん、愛してはいない、と思う。
それでも…椿を、あきらめられない。
おまえの友情を…あきらめられない。
そばに、いて欲しい。友で、いて欲しい。
だが…それでは、椿が苦しい…だろうな…。」
悲しそうに…薫の声が聞こえている。
なぜ…一番悲しませたくない者を、俺は悲しませているんだろうな…。
「俺が、いさせてくれ、と言っているんだ。
俺にとっても、大事な友だ。それは変わらない。
同情は…するな。そのままでいい。
ただ…少しだけ…受け入れてくれ。おまえを守らせてくれ。
おまえの為じゃない、俺の為に…。」
俺も、一言ずつ、絞り出すように話した。
また、沈黙があった。
また、俺は待った。
「…わかった…。
じゃあ…そばにいてくれ、椿。
おまえに守ってもらう。決めた…。」
俺は、ようやく顔を上げて、薫を見る。
薫は、ベッドにもたれて膝を抱えたまま、天井を見ていた。
「同情はしない。おまえが望んだんだからな。
俺はもう、誰とも寝ない。そのほうが楽だからな。
椿…追い払え…追い払ってくれ…すべて…。
俺は、もう正直うんざりしている…。」
薫は…あまり楽しそうではないのに、楽しそうに呟いていた。
俺は、おまえを闇に堕としてしまったのかもしれない…俺は、苦しく、薫を見つめた。
こんなことを…俺は、望んでいたのだろうか…?
また迷った時、薫が俺を見た。
「だが…辛くなったら、やめてくれ。頼む。」
真直ぐに俺を見ていた。
そうだ…その瞳が、おまえだ…。
「ああ…約束する。
薫…ありがとう…。」
薫は、少し首を傾げ…戸惑うように呟く。
「本当に…椿を愛することができればいいのに…な?」
俺を見つめて、優しく優しく、薫は呟いた。
俺は、たまらなくなって、薫の腕を引き、抱き込んで、一気にくちづけた。
「すまない…少しだけ…少しだけ…我慢してくれ…。」
唇を離し、俺は夢中に囁く。
「これ以上のことはしない。ただ…少しだけ、抱かせてくれ。
俺は…溜まってしまっているんだ…薫…。」
俺が震えるように笑うと、腕の中の薫も、少し笑った。
辛そうで、悲しそうで…また、抱きしめてしまう。
抱き返さない身体を、冷えたままの身体を、俺は抱きしめて、閉じられた唇をこじ開けていた…。
どうしようもなく苦しく、俺は抱きしめていた…。
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