『番外:独白』 -4
薫は一週間程、学校を休み、また何事もなかったように登校してきた。
澤木は、しばらく学校に来なかった。
俺は、相変わらず薫の隣の席に陣取り、俺は俺で、薫を守っていた。 やがて、三学期になり…進路決定を迫られる刻限になった。 「薫…おまえ、どうするんだ?」 進路指導票が配られて、俺は隣に訊ねた。 「俺は、警官になる。」
いつものように、素っ気なく、簡潔な応えが還ってきた。 「椿は、どうするんだ?」
静かに、薫が訊ねる。 「監察医にしよう。そうすれば、おまえとも切れずにいられる。」
ふてぶてしく聞こえるように、俺は言い切る。 「椿…まさか、今決めたんじゃないだろう?」 「今、決めた。悪いか?」
薫は珍しく声を上げて笑って…遠い席の澤木が僅かにこちらを見るのが、俺の席から見える。
「椿…職業は関係なくても、つきあえる。 薫は、優しく言う。瞳にある信頼が、俺は少し苦しい。
「いや、監察医にする。どうせ医学系…とは思っていた。 薫は、幸福そうにまた笑う。 「ならば、いいが。」 「いい。」 俺たちはまた笑って…澤木がまた、ちらりとこちらを見るのがわかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから…あの三年生の影が、ちらつくようになった。 「一条…呼んでるぞ」
休み時間にクラスの男が薫に声をかけ…戸口にあの男がいるのを認め…薫は、廊下に出て行った。 (よくない…止めろ…止めろ…) そう言っている目だと、俺は思う。だが、俺も首を振る。 (薫が行くなら…止められない…) 澤木がまた首を振り、僅かに廊下のほうに顎をしゃくる。 (行け…止めろ…おまえが守れ…) 奇妙な通信だった。だが、間違いはない。裏は澤木が守っているが、普通の生徒には、澤木の力は及ばない。それは、俺の守備範囲な筈だ…と、澤木は言っていた。言葉ひとつない、奇妙な連盟が…いつの間にかできあがっていた。
俺は立ち上がり、廊下に出た。 「もう…めてください。俺にはこた…ません。」 俺は通り過ぎ、また引き返した。
「おい、薫。もうじきカバが来るぜ。
馬鹿馬鹿しいことを言って、話しかける。 「椿、先に戻ってくれ。俺は、もう少し話がある。」 俺にはどうしようもなかった。俺は教室に戻り、また澤木の視線に出会う。僅かに首を振って、応える。 (駄目だ…止められない…)
澤木がきつく俺を睨む。俺は目を逸らし、席に戻った。 「椿…練習問題か?」 「ああ…」
真面目に予習してある、薫のノートを写しながら、薫を横目で見ていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 「誘われても…行くなよ。」
一緒に校門を出ながら、俺は突然言った。 「まだ…大丈夫そうだ…。」
眼鏡はまだそこまで煮詰まっていない…と、薫は言っていた。 「いや…かなりキている。もう、毎日だろう?」
廊下で話して以来、毎日、眼鏡は通って来る。ほとんど休み時間のたびに廊下に立っている。 「ああ…」 薫は煩わしそうに、空を見ながら少し笑った。 「行くなよ…薫。」 俺は、その横顔に繰り返す。 「行きたくない。だが…」 「なぜ、おまえが他人の為に、やりたくないことをしなくちゃならないんだよ!」
俺は、苦しくて言っていた。このままでは、薫はあいつに抱かれる…。 (行くな…おまえは俺のものだ…) (いけない…俺は…。) 「他に…どうしたらいいか、わからない…」 薫は呟く。どうしようもなく、頭が煮える。 「駄目だ!やめろ!」 声を荒げた俺に、薫は振り向く。目を細めて、表情が凍った。 「椿。俺に、命令するな。」
誇り高い男だった。これだけ俺のそばにいるのに、決して助けは求めなかった。一人で…薫は、事態を解決しようとしていた。 「心配はさせろ!」
俺は、間髪入れず怒鳴った。
「椿…ありがとう。
怪我と苦痛を案じているのだと…薫は思っている。
薫…おまえを誰にも触れさせたくない…。 珍しく、俺は迷い…懊悩した。言葉を失った。
薫が信じている友情を裏切りたくはなかった。 だが、俺は…。 「椿…心配するなよ…」 薫はちらりと笑い、俺の先に立って、歩き始めていた…。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日。薫が席をはずした休み時間に、俺は澤木のそばに行った。 「眼鏡のクラスと名前…」 「…二組、岡村…」
俺よりも低い囁きが、すぐさま応える。 「ちょっと、保健室に行って来る。」
次の休み時間に、俺は薫にそう言い、席を立った。 「腹が…壊れた。薬をもらってくる。」
ちらりと笑い、早く行けよ…と、頷いた。
素直な薫…何も疑わない。 俺は、三年の校舎に行き、二組の戸口で、岡村を呼び出した。 「なに…?」
眼鏡の岡村は、怪訝そうな表情で、俺を見下ろした。
「…一条薫のことで、話があります。
俺は、学校から少し離れた公園を指定した。 「一条くんの…使いなのか、君は?」 「いえ、俺は一条の友人です。一条は、このことを知りません。」 「な、なんの話だ。話すことなんか、ない。」 暴力沙汰でも怖れているのだろうか。岡村は俄かに脅えの色を見せた。
「俺が、話したいことがあります。他には誰も来ません。
愛しているのなら…と言いたかったが、俺は言わないでおいた。 「わ…かった…。」 「噴水のところにいます。」
俺は、急ぎ足で教室に戻った。 俺は…少し後ろめたく、笑い返した。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 「一条のことは、あきらめてください。」
公園の噴水前…もう薄暗かった。 「君は…何の権利があってそんなことを言うんだ?」
岡村先輩は、けっこう冷静な人らしい。
「俺は、友人だと申し上げましたよ。
どうも、この口調は話しにくいが…一応先輩だからな、と俺は思う。
「一条は…御存じでしょうが、惚れられやすい。
俺は、辛抱強く、言い重ねた。
「違う…苦しいのは、僕のほうだ…。
この手の男か…。
「好きになったのはあんたの勝手で、受験に失敗したのは、あんたの実力だろう。
敬語を使うのは、もうやめた。
「だって…最初に誘惑したのは、一条くんなんだ。
岡村は、べたべたとめそめそと言い続ける。
「一条は、あんたを誘惑したりしない。
だいたいの想像はついた。
「そんなことはない。僕にはわかっている…。
なんだ…こいつは。壊れていやがる…。
「一条は、あんたを好きではない。
俺は、吐き捨てるように言う。最低だな…こいつは。
「君は、一条くんじゃないからな。
岡村は、俺の言葉をまともに聞こうとはしない。きっと聞こえないのだろう。 「そうかよ…聞く耳持たねぇってわけだな…?」
声を低くして、ドスを利かせ、いきなり岡村の胸倉を掴む。 「いいから…手を引け。ぼこぼこにされてぇかよ。」
なんだか、澤木のしゃべりかたに似ている、と思った。
「ぼ、暴力か。僕は、負けないぞ。
へっ。言ってろよ…馬鹿。 「愛が強いわりには、震えてらっしゃいますね…先輩?」
俺は、岡村に背を向けて歩き出した。
岡村の襲撃はなかった。
薫…おまえがいくら優しいとしても、あいつにまで同情するにしても…。 俺は、心に決めた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そのまた翌朝だ。
「…最低な奴だ。
俺の呟きに、澤木は僅かに頷いた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ところが…だ。 「薫…明日の数学も写させろ。」
「そんなところまでは、やっていない。 その時に、戸口で岡村の声がした。 「一条くん、一緒に帰ろう。」 妙に朗らかな声…また一段と、イっちまってる、と俺は思う。
薫は振り向いて、岡村の姿を見て、立ち上がった。 「俺は、椿と帰ります。一人で帰ってください。」 岡村は、俺を見た。 「ああ…椿くん、と言うのか。昨日はどうも。」
薫がきつい目で、俺を振り向いた。
「俺に手を引け…とか、わざわざ言いに来てくれたんですよ、ね。 「俺の友人の悪口は、言わないでください。」 薫の声が凍ってきていた。
「ああ…ごめんごめん…君が強情を張っているから、友人たちに誤解させるんだよね。
気狂い野郎が、薫の手を取ろうとした、その時に。 「俺に触るな…。」
氷の声だった。
「岡村さん、俺はあなたが嫌いです。 「そ…んな…一条くん…」
「まだわかりませんか?あなたの考えているような人間じゃないんですよ、俺は。
薫は素早く岡村に近付いて、胸倉を取った。もう一方の手が拳になり、下から突き上げられる。 「二度と…俺に近付くな!」
最後に、薫はついに叫んだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺は、心で快哉を叫んでいた。 「椿!なめるなよ!」
岡村に怒鳴った勢いのまま、薫は大声で叫んだ。 「薫…すまん…」
俺は、ぼそぼそ謝った。 「あっはっはっは…椿、なんて顔だ。」 俺は情けない顔のまま、苦笑して薫を見る。
「俺は…嫌いなヤツの誘いにまでは乗らない。
もう静かな声に戻り、話しながら、薫は席に戻って来て座った。
「椿…。 「薫…それは…当たり前だ…死ぬほうが、悪いんだ…」
慰めになるのかならないのかわからないことを、俺も呟き返す。
「必死に…愛してくれるんだ…死んでしまう程。それが、悪いとは思えない。
「そういうふうに考えるのは、よせ。 薫が顔を上げ、俺を見て微笑む。 「椿…そのくらい割り切れると、いいな。」 俺は首を振る。 「当事者じゃないから、言えるんだ、俺は。」 それでも、助かっている…と、瞳が笑って、俺を見る。
「だが…さっきのあいつは、そんなことのできる人間じゃない。 薫は静かに笑っていた。 「綺麗に決まったな…俺は、拍手喝采してしまいそうだった。」 俺はまた思い出してにやにや笑い、顔を見合わせる。 「…あまり…いい気分、ではないが…」
薫は、岡村を殴った手を上げて、ガラスで切った傷を舐めた。
「いい気分だったら、危ないさ。 薫は、頷く。
「椿…ありがとう。 「ああ…そうしてくれ。」
薫は少し変わった…と思いながら、俺は頷き返していた。 「だが…」 暖かく、俺を見ていた瞳が厳しくなる。 「もう、するなよ。俺のいないところで、話をつけようとするな。」 完敗なので、肩をすくめた。
「おまえがあんなことができる、と知っていたら、やらなかった。 だが、必要なら、俺はまたおまえを守る…と、俺はどこかで思う。 「椿…俺はこれでも、硬派のつもりなんだぞ。」 薫は、また笑い出していた。 「知っているさ。へたすると、俺よりずっと過激だよ。」 なんとなく俺たちは腰を上げ、帰り支度を始めた。
「助けて欲しい時は、言う。
言いながら、薫は教室を見回し、澤木がまだいるかどうかを確かめ、言葉を選んでいた。 「わかったよ。薫…ごめん。」 俺は、すんなり頭を下げる。おまえは、俺の誇り高い女王だ。悪い時は、いくらでも謝るさ…。 「いや、俺は…」 顔を上げると、少しはにかんだ顔で、俺を見ていた。 「椿がいてくれて、本当に嬉しいよ。」 微笑む…きらめく氷の花のように。
おい…よせ。そんな瞳で俺を見つめるな。
俺は…嫉妬の為にあいつを遠ざけようとしていたのさ。 薫…俺も、そろそろ限界だ…。 |