『番外:独白』 -4


        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 薫は一週間程、学校を休み、また何事もなかったように登校してきた。

 澤木は、しばらく学校に来なかった。
 そして、あの母親に諭されたのかもしれない…また進級ぎりぎりのタイミングで登校するようになった。
 落ち着いて…妙な貫禄が備わってきていた。何かを越えたことが…俺には、わかった。
 澤木はそれっきり、薫にも俺にも、二度と関わらなかった。
 上級生のグループも、コナをかけてこなかったから…薫と俺は、平穏に過ごした。
 澤木が陰で薫を守っていることは、俺にはわかっていた。薫もわかっていたのかもしれない。
 だが、俺たちは、澤木の話はしなかった。

 俺は、相変わらず薫の隣の席に陣取り、俺は俺で、薫を守っていた。
 すっかり、親友という位置に…俺はいた。そして、俺とツルむようになってからは、明らかに薫に接近してくる連中の数は減っていた。
 俺は満足し…だが、静かに、少しずつ煮詰まってきていた。
 毎日あの顔を見て、毎日あの声を聞く。隣に座り、並んで歩く。話しかけて、応える笑顔を見る。
 それは、この上ない快楽で、この上ない歓喜…そして、拷問だった。それは、麻薬だった。
 もっと欲しくなる…これで満足しなければ、と思いながら、喉が乾く。
 そうだ…五代…薫を求める心は、不思議に乾きに似ている。
 あの、清らかな冷たく光る水を…飲めば飲む程、俺は乾いた。

 やがて、三学期になり…進路決定を迫られる刻限になった。

「薫…おまえ、どうするんだ?」

 進路指導票が配られて、俺は隣に訊ねた。

「俺は、警官になる。」

 いつものように、素っ気なく、簡潔な応えが還ってきた。
 俺は、少し驚き…そして、すぐに納得した。
 薫の父親が警官として殉職したことは、聞いていた。
 この、誰も愛せない孤高の男が、父の跡を継いで、世界の秩序を守る仕事に就きたい、と願う気持ちは、解るような気がした。
 そう言えば、サラリーマンをやる薫は、まるで想像できない。
 めちゃくちゃに不器用なこの男に、技術系も向かないし…俺は考え、少し笑う。

「椿は、どうするんだ?」

 静かに、薫が訊ねる。
 俺は…漠然と、医者にでもなるか…と思っていたのだが。

「監察医にしよう。そうすれば、おまえとも切れずにいられる。」

 ふてぶてしく聞こえるように、俺は言い切る。
 薫が執着を嫌うことはわかっているが、あからさまに明るく表出する執着は薫に負担をかけない。俺はもう学んでいた。
 案の定、薫は笑っていた。

「椿…まさか、今決めたんじゃないだろう?」

「今、決めた。悪いか?」

 薫は珍しく声を上げて笑って…遠い席の澤木が僅かにこちらを見るのが、俺の席から見える。
 すまないな、澤木…。俺は、なんとなく謝りたくなる。一瞬、目が合った。
 でも、薫は笑っている…澤木、喜んでくれよな…?
 澤木は無表情のまま、目を逸らしたが、心は通じた…と、俺は信じた。

「椿…職業は関係なくても、つきあえる。
 俺に合わせるなよ。」

 薫は、優しく言う。瞳にある信頼が、俺は少し苦しい。

「いや、監察医にする。どうせ医学系…とは思っていた。
 考えてみたら、俺に合っていると思う。」

 薫は、幸福そうにまた笑う。

「ならば、いいが。」

「いい。」

 俺たちはまた笑って…澤木がまた、ちらりとこちらを見るのがわかった。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 それから…あの三年生の影が、ちらつくようになった。
 眼鏡をかけたインテリの…もの静かな長身の男だった。
 毎朝、ロッカーや机に入れられた空色の封筒を、薫は鞄にしまった。いつものように、丁寧に郵送で送り返すことを俺は知っていた。
 教室の戸口や、下校時の校門に、佇んでいるのを始終見かけるようになった。
 入試も終り、卒業が間際に迫り、眼鏡は明らかにせっぱつまってきていた。

「一条…呼んでるぞ」

 休み時間にクラスの男が薫に声をかけ…戸口にあの男がいるのを認め…薫は、廊下に出て行った。
 俺は、その後ろ姿を見送り…そして、また澤木と目が合った。
 珍しく、澤木は目を逸らさず、俺を見つめ、僅かに首を振った。

(よくない…止めろ…止めろ…)

 そう言っている目だと、俺は思う。だが、俺も首を振る。

(薫が行くなら…止められない…)

 澤木がまた首を振り、僅かに廊下のほうに顎をしゃくる。

(行け…止めろ…おまえが守れ…)

 奇妙な通信だった。だが、間違いはない。裏は澤木が守っているが、普通の生徒には、澤木の力は及ばない。それは、俺の守備範囲な筈だ…と、澤木は言っていた。言葉ひとつない、奇妙な連盟が…いつの間にかできあがっていた。

 俺は立ち上がり、廊下に出た。
 隅で、眼鏡と話していた。わざわざ近くを通ると、薫の低い声が聞こえた。

「もう…めてください。俺にはこた…ません。」

 俺は通り過ぎ、また引き返した。

「おい、薫。もうじきカバが来るぜ。
 俺、当たるから見せてくれよな。」

 馬鹿馬鹿しいことを言って、話しかける。
 だが、薫は俺をちらりと見て…言う。

「椿、先に戻ってくれ。俺は、もう少し話がある。」

 俺にはどうしようもなかった。俺は教室に戻り、また澤木の視線に出会う。僅かに首を振って、応える。

(駄目だ…止められない…)

 澤木がきつく俺を睨む。俺は目を逸らし、席に戻った。
 じきに薫も戻って来て…だが、席について俯いていた。それから、顔を上げ、俺に笑った。

「椿…練習問題か?」

「ああ…」

 真面目に予習してある、薫のノートを写しながら、薫を横目で見ていた。
 薫は、冷たい表情で…窓の外の空を見ていた。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「誘われても…行くなよ。」

 一緒に校門を出ながら、俺は突然言った。
 薫は少し目を見張り…すぐに、何のことかを察する。
 けだるく俺を見て…僅かに首を振る。また空を見た。

「まだ…大丈夫そうだ…。」

 眼鏡はまだそこまで煮詰まっていない…と、薫は言っていた。
 俺は、首を振る。

「いや…かなりキている。もう、毎日だろう?」

 廊下で話して以来、毎日、眼鏡は通って来る。ほとんど休み時間のたびに廊下に立っている。
 また、噂になり始めていた。だが、眼鏡にはもう人目も気にならないのだろう。
 薫に対する恋情は、度を越え始めていた。

「ああ…」

 薫は煩わしそうに、空を見ながら少し笑った。

「行くなよ…薫。」

 俺は、その横顔に繰り返す。

「行きたくない。だが…」

「なぜ、おまえが他人の為に、やりたくないことをしなくちゃならないんだよ!」

 俺は、苦しくて言っていた。このままでは、薫はあいつに抱かれる…。
 いつか見た、しなやかな裸体が脳裏に浮かんでいた。引き裂かれて、薫が流した血も。
 俺は、自分が苦しくて言っていた。誰にも触れさせたくなくて、言っていた。

(行くな…おまえは俺のものだ…)

(いけない…俺は…。)

「他に…どうしたらいいか、わからない…」

 薫は呟く。どうしようもなく、頭が煮える。

「駄目だ!やめろ!」

 声を荒げた俺に、薫は振り向く。目を細めて、表情が凍った。

「椿。俺に、命令するな。」

 誇り高い男だった。これだけ俺のそばにいるのに、決して助けは求めなかった。一人で…薫は、事態を解決しようとしていた。
 だが、俺は許せなかった。

「心配はさせろ!」

 俺は、間髪入れず怒鳴った。
 俺たちは、僅かの間睨み合い…やがて、薫の表情が緩んだ。

「椿…ありがとう。
 だが…大丈夫だ。この前のようなことには、ならない…。」

 怪我と苦痛を案じているのだと…薫は思っている。
 だが、これは違う。これは、俺は…嫉妬していた。

 薫…おまえを誰にも触れさせたくない…。
 あいつに抱かれるなら…俺が奪ってしまいたい…。
 薫…俺を、愛してくれないか…。

 珍しく、俺は迷い…懊悩した。言葉を失った。

 薫が信じている友情を裏切りたくはなかった。
 俺も実は、あいつらと同じようにおまえを求め、欲しているのだとは…知らせたくなかった。
 知ったら…薫は傷つく。充分苦しんできた傷の上に、傷を重ねる。

 だが、俺は…。

「椿…心配するなよ…」

 薫はちらりと笑い、俺の先に立って、歩き始めていた…。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 翌日。薫が席をはずした休み時間に、俺は澤木のそばに行った。
 鋭い目付きで、俺を見上げる澤木に、低く囁く。

「眼鏡のクラスと名前…」

「…二組、岡村…」

 俺よりも低い囁きが、すぐさま応える。
 俺は僅かに頷き、澤木を離れた。スパイ活動のようで…俺は、苦笑した。
 さて…後は、薫に知られないように、岡村を捕まえるタイミングだが…。

「ちょっと、保健室に行って来る。」

 次の休み時間に、俺は薫にそう言い、席を立った。
 表情の変化はほとんどないが、瞳に心配を宿した薫が、俺を見上げる。

「腹が…壊れた。薬をもらってくる。」

 ちらりと笑い、早く行けよ…と、頷いた。
 俺は、足早に廊下に出る。

 素直な薫…何も疑わない。
 暗く哀しい影は背負っていたが、明るく優しい光に向かおうとする魂の力は失っていなかった。必死に、真直ぐに生きようとしている薫が、俺は愛しくてしょうがなかった。
 だから…もう二度と、これ以上の荷は背負わせたくなかった。どこまでの負荷に、薫の心が耐えられるのか…俺は、怖かった。折れたら一気に闇に堕ちそうな気がして、何処までも荒れ果ててしまいそうで、恐ろしかった。そのままの、汚れない笑顔でいて欲しかった。
 過保護なのかもしれなかった。俺の嫉妬もあった。
 だが…おまえを守れずに、何の為にそばにいるのか、俺にはわからない。
 おまえが知れば、怒るだろう。だから、俺は知られないように…暗躍することにする。

 俺は、三年の校舎に行き、二組の戸口で、岡村を呼び出した。

「なに…?」

 眼鏡の岡村は、怪訝そうな表情で、俺を見下ろした。
 俺は、単刀直入に言うことにした。

「…一条薫のことで、話があります。
 夕方…五時頃、会ってください。」

 俺は、学校から少し離れた公園を指定した。
 薫の名を聞いて、岡村の顔が引き攣る。

「一条くんの…使いなのか、君は?」

「いえ、俺は一条の友人です。一条は、このことを知りません。」

「な、なんの話だ。話すことなんか、ない。」

 暴力沙汰でも怖れているのだろうか。岡村は俄かに脅えの色を見せた。

「俺が、話したいことがあります。他には誰も来ません。
 一条のことを…考えているのなら、来てください。」

 愛しているのなら…と言いたかったが、俺は言わないでおいた。
 岡村は黙り、そして、頷いた。

「わ…かった…。」

「噴水のところにいます。」

 俺は、急ぎ足で教室に戻った。
 薫が、俺を見て笑う。大丈夫か…?と目が訊ねていた。

 俺は…少し後ろめたく、笑い返した。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「一条のことは、あきらめてください。」

 公園の噴水前…もう薄暗かった。
 現れた岡村に、俺はいきなり言った。

「君は…何の権利があってそんなことを言うんだ?」

 岡村先輩は、けっこう冷静な人らしい。
 それなら話しやすい、と思った。

「俺は、友人だと申し上げましたよ。
 友人として、見ていられないから、言っています。
 一条から、離れて、忘れてください。
 一条自身も、あきらめてくれ、と言ってるんじゃないですか?」

 どうも、この口調は話しにくいが…一応先輩だからな、と俺は思う。
 岡村は黙っていた。

「一条は…御存じでしょうが、惚れられやすい。
 あいつは、誰にも惚れていませんが、優しい男だから、いちいち苦しむ。
 好きなのなら、あいつのことを思い遣ってください。
 もうあきらめて、引いてやってください。」

 俺は、辛抱強く、言い重ねた。
 しばらく待っていると、岡村は俯いたまま、しゃべり始めた。

「違う…苦しいのは、僕のほうだ…。
 好きで好きで、辛くて…。
 受験だって…失敗して…志望校をすべったんだ…。
 僕の苦しみを知っていて、一条くんは…ひどい。」

 この手の男か…。
 すぐに悟って…俺は、うんざりした。

「好きになったのはあんたの勝手で、受験に失敗したのは、あんたの実力だろう。
 一条のせいにするな。」

 敬語を使うのは、もうやめた。
 己ばかりが可愛くて、愛さえも己をかばう言い訳にする人間が、俺は大嫌いだ。

「だって…最初に誘惑したのは、一条くんなんだ。
 それなのに、あきらめろ…なんて、僕は信じられない…。」

 岡村は、べたべたとめそめそと言い続ける。
 殴りたくなってきた。

「一条は、あんたを誘惑したりしない。
 あんたの思い違いだ。」

 だいたいの想像はついた。
 何かの時に、偶然に目が合っただけなのだろう。それとも、一言ぐらい話したのか。あの真直ぐな瞳で、礼でも言われたか。
 それだけで、人を狂わせる…。
 薫…おまえの美しさは、厄介だ…。

「そんなことはない。僕にはわかっている…。
 本当は、僕のことが好きでしょうがないんだ…。
 僕が受験生だから…僕の為に言ってくれたんだ。
 もう、素直になってくれていいのに…。
 東大は確実だって言われていたのに…落ちた。
 …一条くんのせいだ。
 それを、気にしているのかもしれない…。
 僕は、許してあげるのに…。」

 なんだ…こいつは。壊れていやがる…。
 俺はむかむかしてきた。

「一条は、あんたを好きではない。
 たぶん、あんたのことは、かなり嫌いだと思うな。」

 俺は、吐き捨てるように言う。最低だな…こいつは。
 自分可愛さに、妄想も混じっている…受験のプレッシャーごときで、イカれたのか?
 こんなヤツでもかばうのか…薫?
 こんなヤツと寝てやるのか…薫?

「君は、一条くんじゃないからな。
 何を言われても平気だよ。
 僕たちは愛し合っている。
 さぁ、帰ってくれ。
 ああ、わかった…君、妬いているんだな?」

 岡村は、俺の言葉をまともに聞こうとはしない。きっと聞こえないのだろう。
 そして、急ににくにくしく開き直る。
 俺は、最後の手段に訴えることにした。

「そうかよ…聞く耳持たねぇってわけだな…?」

 声を低くして、ドスを利かせ、いきなり岡村の胸倉を掴む。
 殴りかけて、顔の前で止めた。

「いいから…手を引け。ぼこぼこにされてぇかよ。」

 なんだか、澤木のしゃべりかたに似ている、と思った。
 岡村は、蒼白になって、がたがた震え始めた。

「ぼ、暴力か。僕は、負けないぞ。
 ぼ、僕たちの愛は強い…殴ってみろ…訴えてやる。」

 へっ。言ってろよ…馬鹿。
 俺は、岡村を放した。殴る価値もない。

「愛が強いわりには、震えてらっしゃいますね…先輩?」

 俺は、岡村に背を向けて歩き出した。
 後ろから襲われる可能性が僅かにあったが…まぁ、そうなっても、なんとかなるだろう。喧嘩慣れしている奴だとは思えない。
 むしろ…俺に殴りかかるぐらいの根性のある奴なら、まだ救われるが、な。

 岡村の襲撃はなかった。
 噴水前の広場の角を曲る時、振り返ってみると、岡村は腰を抜かして座っていた。

 薫…おまえがいくら優しいとしても、あいつにまで同情するにしても…。
 俺は、おまえをあいつには抱かせない。
 決して。
 どんな汚い手を使っても…あんな奴には渡さない。

 俺は、心に決めた。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 そのまた翌朝だ。
 薫はまだ来ていなかったから…俺は、澤木が座る席に近付いた。
 澤木は俯いたままだったが、俺の接近に気付いていた。

「…最低な奴だ。
 どうしようもなくなったら、脅してくれ。
 脅すだけでいい。たぶん…力には弱い。」

 俺の呟きに、澤木は僅かに頷いた。
 澤木の席からさり気なく離れながら、自分の暗躍ぶりに笑った。
 だが…真剣だった。
 あんな奴には…汚させない。決して。薫。おまえを。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 ところが…だ。
 その日の放課後、岡村は自分で押し掛けてきやがった。
 教室には、もう何人も残っていなかった。
 俺は…岡村がどこかで薫を待っているような気がして、なんとなくぐずぐずと薫を引き止めていた。
 澤木も…窓のところで、子分に取り巻かれて、煙草を吸っていた。

「薫…明日の数学も写させろ。」

「そんなところまでは、やっていない。
 椿…もう、帰ろう。」

 その時に、戸口で岡村の声がした。

「一条くん、一緒に帰ろう。」

 妙に朗らかな声…また一段と、イっちまってる、と俺は思う。

 薫は振り向いて、岡村の姿を見て、立ち上がった。
 岡村に近付き、静かに言った。

「俺は、椿と帰ります。一人で帰ってください。」

 岡村は、俺を見た。

「ああ…椿くん、と言うのか。昨日はどうも。」

 薫がきつい目で、俺を振り向いた。
 ヤバい…俺は、首を竦めた。
 目の隅で、澤木まで首を竦めるのがわかった。

「俺に手を引け…とか、わざわざ言いに来てくれたんですよ、ね。
 一条くん、友人は選ばないといけないよ…。僕は殴られかけた。椿くんは、ひどい奴ですよ。
 でも、一条くん…君も、そろそろ素直にならないと…さぁ、帰ろう。」

「俺の友人の悪口は、言わないでください。」

 薫の声が凍ってきていた。

「ああ…ごめんごめん…君が強情を張っているから、友人たちに誤解させるんだよね。
 僕はとっくに許してあげているんだよ。さぁ…」

 気狂い野郎が、薫の手を取ろうとした、その時に。
 取られかけた手を返して、岡村の顔面に、綺麗な裏打ちが決まった。眼鏡が片方割れた。

「俺に触るな…。」

 氷の声だった。
 岡村は、呆然としていた。ガラスの破片で頬が切れ、血が一筋垂れかける。

「岡村さん、俺はあなたが嫌いです。
 最初から嫌いだったけれど、今はもう大嫌いですよ。
 お帰りください。そして、二度と俺に近付くな。
 また来たら、また殴ります。今度は…鼻を潰してやる。
 訴えますか?俺も逆に訴えてやる。
 さぁ…帰れ。」

「そ…んな…一条くん…」

「まだわかりませんか?あなたの考えているような人間じゃないんですよ、俺は。
 それとも…まだ足りないかな…?」

 薫は素早く岡村に近付いて、胸倉を取った。もう一方の手が拳になり、下から突き上げられる。
 薫…やり過ぎるな、と俺は思ったが、岡村の鳩尾の手前で、薫の拳は止まっていた。
 悲鳴を上げる岡村の身体を、薫は突き放し、御丁寧に軽く腰を蹴る。

「二度と…俺に近付くな!」

 最後に、薫はついに叫んだ。
 岡村はみじめに腰を砕けさせながら、転げるように逃げて、廊下に消えた。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 俺は、心で快哉を叫んでいた。
 が…薫が振り向いたので、あわてて目を逸らした。

「椿!なめるなよ!」

 岡村に怒鳴った勢いのまま、薫は大声で叫んだ。
 俺はまた首を竦めた。惚れた弱味だ。机の下に潜り込んででも、薫の怒りから身を隠したくなる。
 後ろで、澤木も同じような気分だろう…と思った。

「薫…すまん…」

 俺は、ぼそぼそ謝った。
 と、薫は大声で、気持ち良さそうに笑い出していた。

「あっはっはっは…椿、なんて顔だ。」

 俺は情けない顔のまま、苦笑して薫を見る。

「俺は…嫌いなヤツの誘いにまでは乗らない。
 だが、あいつはしつこくて…どうしたらいいか、わからなかったんだ。
 椿が殴りかけた、というのは、いいヒントになった…。
 口で言ってわからない相手には…力で脅すしかないんだな…。」

 もう静かな声に戻り、話しながら、薫は席に戻って来て座った。
 薫は、俯いた。どんどん声が低くなる。

「椿…。
 強姦と…自殺で…俺は臆病になっていた、と思う。
 相手を追い詰めて、強姦されるぐらいなら、自分から与えたほうが楽だ…と、考えていた。
 自殺されるのも…苦しい。ひどく、苦しい。
 愛することができないにしても…そういう振りでもしていれば、と思った。
 だが…俺には、できない…。」

「薫…それは…当たり前だ…死ぬほうが、悪いんだ…」

 慰めになるのかならないのかわからないことを、俺も呟き返す。
 薫は、僅かに首を振った。

「必死に…愛してくれるんだ…死んでしまう程。それが、悪いとは思えない。
 でも、俺は返せない。俺は…何か、呪われているのかもしれないな…。」

「そういうふうに考えるのは、よせ。
 惚れられたら、惚れ返さなければいけない、という法なんかないぞ。」

 薫が顔を上げ、俺を見て微笑む。

「椿…そのくらい割り切れると、いいな。」

 俺は首を振る。

「当事者じゃないから、言えるんだ、俺は。」

 それでも、助かっている…と、瞳が笑って、俺を見る。

「だが…さっきのあいつは、そんなことのできる人間じゃない。
 強姦する程に俺に惚れているわけじゃない。自分が可愛いだけなんだろう。
 自分が可愛いんだから、自殺もしないさ。
 それならば、俺が我慢する必要はないのだ…と、突然気付いて…キレてしまった。」

 薫は静かに笑っていた。

「綺麗に決まったな…俺は、拍手喝采してしまいそうだった。」

 俺はまた思い出してにやにや笑い、顔を見合わせる。

「…あまり…いい気分、ではないが…」

 薫は、岡村を殴った手を上げて、ガラスで切った傷を舐めた。
 俺もさっきから気付いていたが、たいしたことはなさそうだ。

「いい気分だったら、危ないさ。
 だけどな…殴る側の痛みなんて、わかるヤツじゃない…」

 薫は、頷く。

「椿…ありがとう。
 俺は、もう少し、自分を大事にしようか…と思う。」

「ああ…そうしてくれ。」

 薫は少し変わった…と思いながら、俺は頷き返していた。
 今までも、薫は強かった。が、氷柱のように折れてしまいそうな脆さを秘めていた。
 それが、今…しなやかな強さも、加わり始めている。俺は嬉しかった。
 そうだ…薫。自分を大事にしてくれ…。

「だが…」

 暖かく、俺を見ていた瞳が厳しくなる。

「もう、するなよ。俺のいないところで、話をつけようとするな。」

 完敗なので、肩をすくめた。

「おまえがあんなことができる、と知っていたら、やらなかった。
 すまん…もう、しない。」

 だが、必要なら、俺はまたおまえを守る…と、俺はどこかで思う。

「椿…俺はこれでも、硬派のつもりなんだぞ。」

 薫は、また笑い出していた。

「知っているさ。へたすると、俺よりずっと過激だよ。」

 なんとなく俺たちは腰を上げ、帰り支度を始めた。

「助けて欲しい時は、言う。
 前にもあったことだから…必ず、言うから。」

 言いながら、薫は教室を見回し、澤木がまだいるかどうかを確かめ、言葉を選んでいた。
 澤木たちは、とっくにいなくなっていた。
 嫌いなヤツの誘いには乗らない…と、言っていた言葉を聞いたかな…と、俺はふと思った。
 澤木…薫は、薫なりに、おまえのことが好きなんだよ…。知っているかもしれないけどな…。

「わかったよ。薫…ごめん。」

 俺は、すんなり頭を下げる。おまえは、俺の誇り高い女王だ。悪い時は、いくらでも謝るさ…。

「いや、俺は…」

 顔を上げると、少しはにかんだ顔で、俺を見ていた。

「椿がいてくれて、本当に嬉しいよ。」

 微笑む…きらめく氷の花のように。

 おい…よせ。そんな瞳で俺を見つめるな。
 岡村の気持ちもわかるような気がするよ…俺は。誘惑されている、と思いたくなる。
 頼むから、もう少しだけ、どこか汚くなってくれないか…と、俺は妙なことを思う。
 だが、おまえは美しく、冷たい氷の女王だ…愛を知らない、孤高の女神だ。

 俺は…嫉妬の為にあいつを遠ざけようとしていたのさ。
 それを、おまえは知らない…。

 薫…俺も、そろそろ限界だ…。

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