『番外:独白』 -3
俺は、病院から一度家に戻り、名簿で澤木の家の住所を確かめて、また家を出た。
澤木の家は、酒屋だった。 「なにか…したかね?また…」 澤木の母は、心配していた。 「いえ…」 俺は、何も言う気はなかった。
「あんな子じゃなかったんだけどねぇ…すんませんね… 「いえ…」
母親とあまり話すと、萎えてしまいそうだ…と思った。 一時間程して…もう、夜の8時か9時頃になっていたが、俺の前を澤木が通り過ぎた。 「おい…」
呼び止めると、振り返る。 「椿…か…」
澤木は、顎をしゃくる。俺に付いて来い、という仕種で、背を向ける。 「澤木…こっちを向け…」
向きかかる顎を殴る。澤木は僅かに後ろに下がり、次の一発を手で受け止めた。 「ちくしょう…」
しょうがねぇ、実力が違いすぎるからな…と、俺はナイフを出した。 澤木は、登山ナイフの刃を左の掌で受け止めた…。
ナイフを握る俺の手首を、右手で握る。締め上げられる。痺れてきて…俺は、ナイフを放した。
俺を放し…澤木はその手を見る。 殺られるか、と一瞬思ったが、澤木はそのまま、ナイフを俺に差し出す。 「まだ…刺してぇだろ?」 「…な…に?」 「やりたきゃ…やれよ…」 俺は、しかたなくナイフを受け取り…畳んでポケットにしまった。 「一条を…助けてくれた、か?」 澤木は、奇妙な狂ったような目つきで…囁いた。 「…無事か…?生きているか…?」 また、頭に血がのぼる… 「てめぇがぁ!やったんだろうが!何言ってやがる!」 また思いきり殴った。澤木は少しぐらつき…だが、やはり殴り返そうとはしなかった。
「…なぁ…教えてくれ…椿… 「言うな!」
俺が飛びかかると、澤木は後ろに倒れ、俺は馬乗りになって、殴りまくった。 「なぜ…殴り、返さない…?」 澤木が起き上がって、血混じりの唾を吐く。 「椿…あんまり効かねぇよ…」 「じゃあ、またナイフにしてやろうか…」 「…なぁ…教えてくれよ…一条は…無事か?助けてくれたんだろ?」 また、澤木は訊いていた。どうしても応えを聞きたいようだった…。
「なぜ…気にするんだ?傷つけたくて、傷つけたんだろう?
「俺…じゃない…俺は、したくなかった… 「この…馬鹿野郎が!教えるか!おまえなんかに!」
「あんなに…抵抗しなければ…大人しく殴られてくれれば…
澤木は地面を這うようにして、俺に縋り付いてきた。 「おまえが、させたくせに!何を言ってるんだ!」 澤木はうずくまって、血が出ている掌で、頭を抱えた。
「あんな…教室で、あんな派手なことをしなければ… 「それでも…やったんだろうが!」
「俺を見上げて…言っていた…止められないなら、やれ…澤木、やれ… 「同じじゃねぇか!おまえもよ!」
俺は、うずくまったままの澤木を蹴った。何度も。
「…ひっひっひ…でも、したかったのかもしれねぇな… 花? 俺は、蹴るのを止めた。ふいに、何か…わかってきた。 「…なぁ…教えてくれよ…無事なのか?」
また…俺を縋るように見上げる。 「…ああ…病院にかつぎこんだ。無事だ。傷は…ひどそうだが…。」 澤木の顔が歪んだ。血だらけの手で顔を覆って、澤木はうめく。 「ひでぇのか…ひでぇのか…うぅ…い、ちじょう…ひでぇのか…」 「おまえのことを、ずっとかばっていた。誰にも言うな、と。」 澤木が、血と涙でめちゃくちゃになった顔で、呆然と俺を見上げる。そして…また、顔が歪む。 「…くそぉっっ」 澤木は、傷ついていない右手で拳をつくり、何度も何度も地面を殴る。傷ついて…泥と血が混じる。 「澤木…一条に…惚れているのか…?」 凄まじい面相の澤木は、俺を見て…また、笑い出す。 「…ひっひっひっひ…へへ…はははは…ひっ…ひっ…ひっ…」 泣きながら、澤木は笑う。笑いながら、地面を打ちつけていた。
「…泣きながら、笑うのはよせ。 俺は、許す気はなかった。 「へへへ…椿…おまえもだろ?おめぇも、惚れているんだろ?」 俺は、応えなかった。澤木の醜い顔を蹴ってやろうか…と思い、やめた。
「…やらせて、もらえよ、おめぇも。あいつは…頼めば、させてくれるぞ…。 「…薫を…これ以上、汚すな…」
俺は、歯を食いしばっていた。そんなことは…信じられない。
「薫…か…薫…薫…薫…俺の手ん中に…いたんだ…あん時は… 澤木は、ぐちゃぐちゃになった自分の手を見ていた。
「狂っちまったんだ…俺は。 澤木は、ぶつぶつしゃべり続ける。 「忘れ…られなかったのか…?」
「忘れる…どこじゃねぇ…忘れ…られるか、あんなもん… 澤木は、また下品に笑い、俺を見上げる。
「俺…だけじゃねぇよ、椿。 厄介を引き付けてしまう体質…このことか、薫…。
「だから…おまえのものにならないから…傷つけたのか? 「椿…おめぇも…狂えば、わかるさ…」 俺はまたかっとして、殴ろうとしたが、澤木はうっとおしそうに後ろに倒れ、大の字に横たわった。
「一条には…もう、手出しはさせねぇ。 澤木は横になったまま、手で顔を覆った。 「傷つけて…すまねぇ…俺は、もうあきらめると…伝えてくれ…」 悲しい声だった。俺たちはしばらく動かなかった。
「…わかった…。澤木…帰って、手の手当てをしろよ。 「ああ…いい。かえってあきらめがついた。」 「じゃあな…。」
俺は、寝転がったままの澤木に背を向け、歩き出す。 「椿…おめぇも、そのうちわかるぜ…」 「わかってたまるか!」
俺は背を向けたまま、叫び返した。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…それからはずっと、中国にいました。
目を開けると、五代の静かな声が聞こえてきた。
そう…渇望は、だんだん強くなるものだ…。
俺は起き上がって、血圧と心拍を確認する。
「少し…手が暖かくなってきたような気がします。 真剣に問いかける五代に、俺は頷く。 「頑張れよ、馬鹿。」 「はい。」
信じきった笑顔で返されてしまった。
薫の表情を見る。 俺はまた簡易ベッドの薄い毛布に潜って、回想の中に滑り込む…。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺は翌朝、伯父の病院に行った。 「椿…やっぱりサボったのか?」 俺は肩をすくめてみせる。 「帰れそうなのか?」
「ああ、レントゲンも異常ないそうだ。 「…出血は…」 今度は、薫が肩をすくめる。 「今は、止まっている。」 だが糞をする度に、とはもう言うなよ…と、俺は身構えたが、さすがに薫は言わなかった。 「薫…」 なに?と振り向いた表情が、無防備だった。 「澤木から、伝言がある…。」 すっと冷たい表情になる。口数は少ないが、頭の回転は速い男だ。 「傷つけてすまない、俺はもうあきらめる…と、言っていた。」 薫は、少し黙っていた。 「会ったのか?いつ?」 「昨晩だ。」 「椿…」 俺の顔を見回す。怪我はないか、と探っているのがわかった。 「話しただけだよ、薫。お互いに少し、手を傷めたがな。」
俺は、笑いとばしてやった。薫は気に入らない表情で俺を睨む。 「俺の話を…したんだな?」 「ああ…厄病神、という意味がわかった…」
はっきり言ってやったほうがいい、と思った。
「モテる…と言えば、聞こえがいいが… 小さな声だった。俺に聞かせたくはなかったのだろう。
誘っているわけでもないのに…惚れられてしまう…それも、激しく。 「俺に、近寄るな、というのもそういうことか?」 薫は俺を見て頷き、それから笑った。 「だが、椿は違う。そうだろう?」
だから、嬉しい…と、薫の瞳は言っている。 椿…おめぇも、そのうちわかるぜ… 「俺は、男を抱く趣味はない。俺は、女が好きだ。」
とりあえず、こう言っておこう…と思う。 俺の断言に、薫は楽しそうに笑って頷いた。 「薫…。頼まれたら寝る…というのは、本当なのか?」
笑ったところで、酷な質問をしてしまった。笑顔は…消えた。 「ああ…」 非難するならしろ…と、瞳が言う。頑固な男だ。 「なぜ…そんなことをするんだ?セックスが好きなのか?」 俺はどんどん露骨に訊く。気が短いし…妙な思い遣りは、この際邪魔だ。どうせ薫も、直線の言葉でしか応えない。俺も直球を投げてやる…と思う。 「いや…。むしろ苦痛だ。だが…」 薫は、冷たいままの顔を伏せる。俺は、待つ。
「…拒むばかりだと、なにか…ますます狂わせるようなんだ。 「強姦…?自殺…?」 薫は俺を見て…頷く。瞳が冷たく…暗く翳る。 「ひでぇな…それは…。」
俺は…こんなことしか言えなかった。 「俺が…何か、いけないのかもしれない…。」 「それは…違うぞ。」
俺は、首を振った。 そうか…それと、もうひとつ。 「薫…おまえはどうなんだ?」 「俺が…なにを?」
いつもの癖で、首を傾げた。やはり…美しくて…素直な表情ごと、愛しくなる。
「誰かを…男でも女でもいいから、好きにならなかったのか? 一瞬…薫は、途方に暮れたような顔をしていた。
「俺は…愛は、よくわからない…。 「そう…か。」
一条薫の心は、閉じてしまっている。固く、凍ってしまっている。
誰かを…愛してくれないか、薫? 痛々しく、そしてやはり美しいと思い…俺は、願っていた。
俺を…愛してくれないか? 澤木と同じ地獄に堕ちると知りながら…俺は、堕ちかけていた…。 |