『番外:独白』 -2
「…俺、馬には少し乗ったことがあるので、よけいそのオヤジさんに気に入られたみたいなんです。
五代の呟きは、果てもなく続いている。 不安そうに見上げる五代の赤い目に、頷く。 「呼び続けろ…。」
五代が、痛々しく笑う…。 「はい。」
俺は、また二人に背を向ける。
「ね、一条さん…そろそろ目を覚ましたいでしょう?
僅かに笑いさえ含んで、歌うように…迷いもなく、躊躇いもなく、ありったけの愛が差し出されていく。
負けたよ…。おまえらにはかなわん…。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれ以来、俺はできるだけ登校下校を薫と一緒にするようにしていた。 「俺を…案じているのか?」
隣を歩く薫が、俺を見て言う。 「まぁ…な。」 「自分の身は、自分で守れるさ…」 ちらりと笑った。 「一対一ならなんとかなるかもしれんが…あいつらは、汚い手を使うぞ。」 「…殺すところまでは、しないだろう。」 「…おまえ…」 俺は絶句してしまう。そこまで、考えているのか?この男は? 「生きていられるなら、いいさ…」 投げ遺り…とも違う、不思議な諦観で、薫は淡々と言う。脅えも怖れも見えない。
「…わかっていたのに、挑発に乗った俺が馬鹿だったんだ。 「馬鹿。そんなことができるか。おまえこそ逃げろ。」
俺が腹を立てると、薫は笑う。 「椿…ありがとう。」
また…だ。 「一条…『薫』と呼んでいいか?」 薫は、不思議そうな顔をした。 「別に…いいが…なぜだ?」 「『一条』は長過ぎて、めんどくさい。」 薫は、空に向かって笑う。このへんは、まるで健康な少年の顔だった。 「ははは…勝手にしろ。」 「じゃあ…薫。」 「なんだ?」 「できるだけ、俺と一緒にいろよ。」 薫は少し眉を寄せる。まだ案じている俺が気に入らないらしい。
「名前を呼ばれ、始終一緒にいるのか。 俺を見て、冷たく呟く。誇り高い男だな、と俺は思った。 「そう思われたほうが、安全かもしれない。」 薫は冷たく首を振る。 「椿が危なくなるだけだ。適当にしておいてくれ。」 「ああ…。」
薫は、俺を盾にして、自分の身を守ろうとは考えない。
五代…おまえもそんな気持ちだったのではないか…? ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから十日ぐらいは、俺は注意して、できるだけ薫のそばにいるようにした。
俺は、文化祭の実行委員会だかで、薫と一緒に下校しなかった。 「あ…椿くん…」 「どうした?何かあったのか?」 「え…」
俺は、苛々する。薫に何かあったのか、と怒鳴りたいような気分だった。 「こんな時間に…どうしたんだ?」 俺は、できるだけ穏やかに訊ねた。 「あの…一条くんが…でも、もう帰ったのかも…」 峰岸は、それでも脅えたようにぼそぼそと、とぎれとぎれの言葉しか言わない。 「落ち着いて話せ。一条がどうした?」 「僕…捕まってしまって…それで、一条くんが呼び出されて…」 しまった…。俺は、歯を食いしばった。 「連れて行かれたのか?誰か呼ばなかったのか?」 「僕は…家に帰れって、だから…」 峰岸は、おどおどと言う。
「この馬鹿!!そう言われてのこのこ帰ったのか!
「だって…最初から、あいつらは一条くん目当てで… 殴りたかった。だが、峰岸は心配だから、こうやってもう一度学校まで来てみたのだろう…。 「何時頃のことだ。何処に連れて行かれたんだ?校内か?早く言え!」
やはり怒鳴ってしまう。峰岸の頭は、亀のようにコートの襟に沈む。 「授業が終ってすぐ…三時半ぐらい…」 もう二時間も経っている…。 「奴等は…何人いた?」 「澤木くんと…あと四人か五人くらい…」 「一緒に来い!助けが要るかもしれん!」 「僕は…帰らないと…おかあさんに…」 「馬鹿!いいから来い!」
俺は、峰岸を引き摺るように、体育館の方向に向かう。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
クラブハウスを駆け回った後、鍵の壊された体育用品倉庫の奥で…。
薄汚れたマットの上に、薫は俯せに倒れていた。
俺は歯を食いしばりながら、コートを脱いで、薫の身体にかける。 「薫!薫!」 首が力無く仰け反ったので、一瞬ぞっとした。 「ちくしょう…ちくしょう…」
自分でそううめいているのもわからないくらいだった。 「…なんだ?…まだ…やりたいのか…?」 かすれた囁きが、薫の口から漏れた。 「薫!…大丈夫か?」 閉じられていた目蓋が薄く開いて、俺を見る。こめかみに打撲の痕があり、片目が腫れていた。 「椿、か…あまり、だいじょうぶでは…なさそうだ…」 笑おうとすると、唇の端から唾液混じりの血が流れ出た。薫は咳をして、うめく。
「や…はり…椿の、いない時を狙った…らしいな。 口の中が切れている…真っ赤だ…。 「馬鹿か、おまえは。しゃべるな。待ってろ。誰か、呼んでくる。」 寝かせ直して、立ち上がろうとすると、腕を掴まれた。 「待て…椿…」 しゃべるのも苦しそうだったが、薫は話そうとする。
「…澤木にも、事情があるんだ…表沙汰にしないで、くれ… また笑おうとして、口から血が溢れる。
「椿…すまないが…なんとか、連れ帰ってくれるか…? 口の中の血が喉に溜まるのか、薫は咳き込んで…血を吐き出した。 「何も、なかったことにする…というのか…?」
俺は、拳を握りしめていた。 だが、まず薫を救うことが先だった。
「…そう、だ…とにかく…今、起きる…
薫は肘を突き、身体を捻って起き上がろうとした。 「薫!」 俺だって、17歳のガキだった。薫を抱き止めたまま、パニックになりかけた。 「ちくしょう…ちくしょう…ちくしょう…」
俺の薫を…引き裂きやがった… 震え始めた身体をそっと寝かせて、コートをかけ直す。 「…つ、ばき…さむ…い…」
薫の顔は蒼白になり、歯の根が合わない程、震えた。 「誰か、呼ぼう…俺だけでは、無理だ…。」 「…だ、めだ…たのむ…たのむ…つばき…」 「なぜそんなに澤木をかばうんだ。あんなヤツ、停学でも退学でもなってしまえば…」 「…だめ…だ…」
震える身体を、俺は抱いていた。
とにかく暖めなければいけない、と思った。 「一条を見つけた…。おい、コートを脱いでよこせ。」 「な…」 半ば無理矢理、コートを剥ぎ取った。
「それから、教室に行って、一条の鞄とコートを持って来い。 「い…一条くんは…?」 「怪我している。早く。急げ!」
俺に命令され、脅えた顔で峰岸は転げるように走り出す。 「どうだ?少しマシか?」 「ああ…」 いくらか震えが収まってきていた。
「薫、気を失うなよ…気絶したら、俺の手には負えない。 俺は妙に開き直った気分になっていた。 「ああ…気は、確かだ…す、まない…」 小さな声で薫は応え、震えながら、また苦笑する。
「あやまるのは、後でいい。とにかく、ここから連れ出す。 話しかけながら、あちこちに散らばっていた、薫の服を集めた。 「峰岸が…」
「帰れ、と言われて、一度素直に家に帰ってから、心配になってまた来たらしい。 「そうか…峰岸にも…面倒をかけた…」
「馬鹿か、おまえは!峰岸を助けようとして、こんな目にあったんだろうが。 「ああ…頼む…」
薫は、もうあきらめて、俺に身を任せていた。 「目標は…俺だったんだ…峰岸は、巻き込まれただけだ…」 声がしっかりしてきた、と思いながら、俺は平均台の蔭から靴の一方を回収した。 「峰岸までかばうな。腹が立って来る、俺は…」 なんとか下半身の形をつけ、上着を持って、薫の身体を跨ぐ。 「薫…俺の首を掴めるか…?」 伸ばしてくる手で首を巻かせ、抱き合うような格好になった。 「…助けてやるからな…」
思わず言った言葉だった。胸の中で、必ず…と付け加えた。 「…学校の…備品を…派手に、汚してしまった、な…」 意識を手放すまいとして、薫は話す。 「かまうことはないさ。立てるか?立てよ…」 「立つ…さ、なんとかして…。」 薫の片手を肩に回させて、身体を支えた。立とうとする薫の膝が、揺れる。
入口で、かたり、と音がする。 「タクシーは?」 「校門の横に…あの、一条くん、だいじょぶ…?」
おろおろと、峰岸は言う。 「早く!こっちに来てくれ。一条を立たせる。」 峰岸に手伝わせ、両側から支えて薫を立たせた。 「う…」 「自分で歩けよ、薫!おまえが言い出したんだからな!」
俺は声をかけ続け、気を失いかける薫を引き摺るようにして、タクシーまで連れて行った。 「峰岸、もういいぞ。良い子は、おうちにお帰り。」 皮肉を込めて言い、薫の鞄とコートを受け取った。 「あの…僕のコートは?」 「ちょっと借りておく。」 血まみれになるだろうが、知るものか…。 反対のドアからタクシーに乗り込む。 「どうしたの?学生さん…喧嘩?」 「はい、まぁ…内緒にしといてくださいよ。」
俺は調子を合わせる。 「…椿…ありがとう…」 かすかな囁きが聞こえる。 「もう少しだからな。がんばれよ。」 俺の身体に寄り掛からせて、俺も囁き返した。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
暴行は通報しなければ、と言う伯父を、俺はなんとか宥めすかした。
まったく…昔から、俺は病室の薫を見舞ってばかりいる…。
澤木と薫の話は…五代、おまえには聞かせられない…。
顔の血も拭われ、こめかみの傷も綺麗に手当てされていて…俺はほっとする。 「ああ…ずっと…楽になった。」 感謝を込めて、疲れ果てた顔が僅かに微笑む。 「今夜は帰れないぞ。」 薫は、顔を顰めた。 「家に連絡してやろうか。」
「いい。母は今夜は夜勤だ。帰らない。
看護婦をしている母親と、二人だけの家庭であることを、俺はもう知っていて、頷く。
「ここは、俺の伯父の病院だ。 薫は僅かに頷いた。 「保険証が要るそうだが…」 「鞄に入っている。」
いつも持ち歩いているのか…?
「必要になる気がして…持ち歩いていた。 表情が冷たく凍り、自嘲して笑う。投げ遺りな影が目にあった。 「薫…交通事故にあった、と思え…。」
他になぐさめようもなかった。
「いいんだ…椿。こういうことは、初めてじゃない。俺は…慣れている。
初めてじゃない…? 「薫……」
「…俺は…もっと強くなりたい。 薫は、天井を見て呟いていた。冷たい、暗い、強い目をしていた。
「椿…今日は、本当に助かった…
「厄病神は、澤木だろう!
病室だということも忘れ、俺は大声を出した。
「いや…俺、なんだ。 「どういうことだ?」
「わからなくていいんだ、椿。
冷たい瞳の中に、哀しみがある…と、俺は思う。 「俺が嫌いか?」 「いや…そんなことはない。」
近付くな、と言いながら、嘘はつけないらしい。不器用な男だ。
「いやだね。俺はへそ曲りだからな。 笑う俺を見上げて、やっと薫も笑う。切れた口の中が痛むのか、少し顔を顰めながら。
「…なんなんだ、その自信は…。 「人生は楽しむもんだ、と俺は決めているんだ。」 薫は爆笑しかけて…身体の痛みにうめいた。
「つ…ああ…また血が出る…
吐き捨てるような露骨な物言いに、さすがに俺は怯んで…そして、気が付く。 「…看護婦を呼ぼうか?」 「いや、いい。…たいしたことはない。」
容姿に似合わぬ、硬派な男だった。
二度と、こんなことはさせない…。
俺はヘテロだ。だが。 また出血したせいか、だるい表情になって、薫は俺を見る。 「椿…とにかく、ありがとう。いろいろ…。」
俺は、肩をすくめてみせた。 「もう…眠れ。明日、また来てやる。」 「放課後なら、たぶん、もういないぞ。」 「サボるからいい。」
俺も…これから怪我をするかもしれないからな、と俺は思った。 止めても無駄だ、と思ったのか…薫は何も言わない。 「じゃあな。」 「椿…」 帰りかける俺を薫が引き止める。 「まさか、仇討ちは考えていない、な?」
図星だよ、薫…俺は、これから仇討ちをする。 「…まさか…。」
勝手に盾になるつもりだったのに、俺は盾になれなかった。 俺は、見送る薫に手を振り、病室を出た。 |