『番外:独白』 -2


        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「…俺、馬には少し乗ったことがあるので、よけいそのオヤジさんに気に入られたみたいなんです。
 毎晩、酒呑むのにつきあわされて…すごい酒なんですよ。俺、毎晩べろんべろんになってました。
 ああ、言葉なんて通じないんですけどね、全然。
 お互い、別々の言葉でしゃべってるんですけどね、なんとかわかっちゃうんですよ。
 そのオヤジさんには、娘さんが一人いるんですけどね…俺に婿さんになれって…言うんです。
 俺…その娘さん、嫌いじゃなかったけど…やっぱり、一条さんのこと、忘れられなかった…。
 ある晩、オヤジさんに、一条さんの話を全部して…俺、また泣きました。
 言葉、わかんないのに、オヤジさんは聞いてくれて、俺の肩を叩いてくれた…。
 俺…ねぇ、一条さん…旅先でも、いっぱい泣きました。
 泣くと、また恋しくて…あなたが恋しくて…また泣くんです…。
 あのオヤジさんも、優しかった…でも、あなたのほうがもっと優しい…
 俺はあなたがいい…あなただけがいい…。
 泣くと、あなたに抱かれて泣いたことを思い出して…俺は、また泣きました…」

 五代の呟きは、果てもなく続いている。
 もう深夜だった。俺はまた起きて、チェックした。
 五代が握っていた薫の手の手首を探り、脈を看る。まだ、弱い…が、さっきよりはしっかりしてきたような気がする。
 意識のない顔の表情からも、影が消えかけているように見える。
 五代が来る前は…もっと、苦しそうだった。死んでしまいたい顔を、薫はしていた。半分以上…死にかけていた…。
 五代が来て…表情が変わってきている…。
 薫は、生きようとしている…。

 不安そうに見上げる五代の赤い目に、頷く。

「呼び続けろ…。」

 五代が、痛々しく笑う…。
 笑う目に涙があるが、五代は信じている…薫が帰って来ることを。

「はい。」

 俺は、また二人に背を向ける。
 薫と五代の絆を思い知るような気がした。

「ね、一条さん…そろそろ目を覚ましたいでしょう?
 …椿さんも、俺も、待ってますよ。
 俺と一緒に、長生きしましょ?ね…大好きですよ、一条さん…
 あなたが目を覚ましたら、俺はいっぱい言いたいな…言わせてくださいね…
 大好き…大好き…大好き…だから…目を覚まして…一条さん…俺の、一条さん…」

 僅かに笑いさえ含んで、歌うように…迷いもなく、躊躇いもなく、ありったけの愛が差し出されていく。
 この男は、命を賭けて他人を守ろうとしていた。
 だが、誰よりもまず薫を守ろうとしていたに違いない。
 五代が死ねば、薫は真っ先に先陣になり、未確認どもに向かうことになっただろう。
 それを知っていた五代は、薫を守る為に命を賭けた。

 負けたよ…。おまえらにはかなわん…。
 だが…俺も、あの時には、命を賭ける気でいた…。
 薫を、守るつもりでいたんだ…。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 あれ以来、俺はできるだけ登校下校を薫と一緒にするようにしていた。
 俺には歳の近い兄がいたし、もう盛り場で遊び慣れていたから、それなりに荒っぽい喧嘩事には慣れていた。薫の盾になり、殴られてやることぐらいはできるだろう…と、思っていた。

「俺を…案じているのか?」

 隣を歩く薫が、俺を見て言う。
 風が髪を揺らしていく。

「まぁ…な。」

「自分の身は、自分で守れるさ…」

 ちらりと笑った。

「一対一ならなんとかなるかもしれんが…あいつらは、汚い手を使うぞ。」

「…殺すところまでは、しないだろう。」

「…おまえ…」

 俺は絶句してしまう。そこまで、考えているのか?この男は?

「生きていられるなら、いいさ…」

 投げ遺り…とも違う、不思議な諦観で、薫は淡々と言う。脅えも怖れも見えない。

「…わかっていたのに、挑発に乗った俺が馬鹿だったんだ。
 椿、囲まれたら、逃げろよ。」

「馬鹿。そんなことができるか。おまえこそ逃げろ。」

 俺が腹を立てると、薫は笑う。
 笑って俺を見た。

「椿…ありがとう。」

 また…だ。
 また、薫は真直ぐに俺を見て、礼を言う。
 その度に俺の心は傾いてしまう。もっと礼を言われたくなる。

「一条…『薫』と呼んでいいか?」

 薫は、不思議そうな顔をした。

「別に…いいが…なぜだ?」

「『一条』は長過ぎて、めんどくさい。」

 薫は、空に向かって笑う。このへんは、まるで健康な少年の顔だった。

「ははは…勝手にしろ。」

「じゃあ…薫。」

「なんだ?」

「できるだけ、俺と一緒にいろよ。」

 薫は少し眉を寄せる。まだ案じている俺が気に入らないらしい。

「名前を呼ばれ、始終一緒にいるのか。
 恋人みたいだな。」

 俺を見て、冷たく呟く。誇り高い男だな、と俺は思った。

「そう思われたほうが、安全かもしれない。」

 薫は冷たく首を振る。

「椿が危なくなるだけだ。適当にしておいてくれ。」

「ああ…。」

 薫は、俺を盾にして、自分の身を守ろうとは考えない。
 だが、俺は勝手に盾になるさ…と思った。

 五代…おまえもそんな気持ちだったのではないか…?
 未確認どもと澤木では、だいぶ違うが、な…。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 それから十日ぐらいは、俺は注意して、できるだけ薫のそばにいるようにした。
 だが、何事も起こらなくて…俺の緊張も弛んできた頃、あの日が来た。

 俺は、文化祭の実行委員会だかで、薫と一緒に下校しなかった。
 夕方遅くに、校門を出ようとすると…私服の峰岸がいた。一目でわかるほど、取り乱していた。
 何かあった…俺は、すぐわかった。

「あ…椿くん…」

「どうした?何かあったのか?」

「え…」

 俺は、苛々する。薫に何かあったのか、と怒鳴りたいような気分だった。
 だが、この峰岸という臆病な男に話させる為には、怒鳴ってしまってはいけない。

「こんな時間に…どうしたんだ?」

 俺は、できるだけ穏やかに訊ねた。

「あの…一条くんが…でも、もう帰ったのかも…」

 峰岸は、それでも脅えたようにぼそぼそと、とぎれとぎれの言葉しか言わない。

「落ち着いて話せ。一条がどうした?」

「僕…捕まってしまって…それで、一条くんが呼び出されて…」

 しまった…。俺は、歯を食いしばった。

「連れて行かれたのか?誰か呼ばなかったのか?」

「僕は…家に帰れって、だから…」

 峰岸は、おどおどと言う。

「この馬鹿!!そう言われてのこのこ帰ったのか!
 おまえを助ける為に、一条は連れて行かれたんだろうが!」

「だって…最初から、あいつらは一条くん目当てで…
 僕は、関係ない…」

 殴りたかった。だが、峰岸は心配だから、こうやってもう一度学校まで来てみたのだろう…。

「何時頃のことだ。何処に連れて行かれたんだ?校内か?早く言え!」

 やはり怒鳴ってしまう。峰岸の頭は、亀のようにコートの襟に沈む。
 指が震えながら、薄暗い体育館裏の方向を差している。

「授業が終ってすぐ…三時半ぐらい…」

 もう二時間も経っている…。

「奴等は…何人いた?」

「澤木くんと…あと四人か五人くらい…」

「一緒に来い!助けが要るかもしれん!」

「僕は…帰らないと…おかあさんに…」

「馬鹿!いいから来い!」

 俺は、峰岸を引き摺るように、体育館の方向に向かう。
 校内なら…場所は限られている。クラブハウスか、体育用品の倉庫だろう。
 俺は、走った。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 クラブハウスを駆け回った後、鍵の壊された体育用品倉庫の奥で…。
 俺は、薫を見つけた。奴等は、もう去った後だった。

 薄汚れたマットの上に、薫は俯せに倒れていた。
 衣服はほとんど剥ぎ取られ、白いワイシャツの一部しか残っていない。
 だいぶ抵抗したのだろう…身体中が傷だらけだった。手首には縛られた痕があった。
 剥き出しの尻も、投げ出された脚も、血にまみれている。
 動かない薫の身体から、血と…精液の匂いが立ち上る。
 状況は明らかだった。

 俺は歯を食いしばりながら、コートを脱いで、薫の身体にかける。
 それから、仰向けに抱き起こし、名を呼んだ。

「薫!薫!」

 首が力無く仰け反ったので、一瞬ぞっとした。

「ちくしょう…ちくしょう…」

 自分でそううめいているのもわからないくらいだった。
 心臓に耳をつけ、鼓動を聞こうとして、俺はやっと黙った。呼吸も確かめる。
 大丈夫だ…殺されてはいない…生きている…

「…なんだ?…まだ…やりたいのか…?」

 かすれた囁きが、薫の口から漏れた。

「薫!…大丈夫か?」

 閉じられていた目蓋が薄く開いて、俺を見る。こめかみに打撲の痕があり、片目が腫れていた。

「椿、か…あまり、だいじょうぶでは…なさそうだ…」

 笑おうとすると、唇の端から唾液混じりの血が流れ出た。薫は咳をして、うめく。

「や…はり…椿の、いない時を狙った…らしいな。
 だが、椿が…巻き込まれないで…よかった。」

 口の中が切れている…真っ赤だ…。

「馬鹿か、おまえは。しゃべるな。待ってろ。誰か、呼んでくる。」

 寝かせ直して、立ち上がろうとすると、腕を掴まれた。

「待て…椿…」

 しゃべるのも苦しそうだったが、薫は話そうとする。

「…澤木にも、事情があるんだ…表沙汰にしないで、くれ…
 俺も、みっともないだろう…?」

 また笑おうとして、口から血が溢れる。

「椿…すまないが…なんとか、連れ帰ってくれるか…?
 今…何時だ?あまり遅いと…校門が閉まる…塀は越えられそうに、ない…今は…」

 口の中の血が喉に溜まるのか、薫は咳き込んで…血を吐き出した。

「何も、なかったことにする…というのか…?」

 俺は、拳を握りしめていた。
 俺はこのままではすまさない…目が眩むような怒りを覚えていた。
 俺の大切にしているものを、傷つけ、汚した…俺は、許さない…。

 だが、まず薫を救うことが先だった。

「…そう、だ…とにかく…今、起きる…
 服は…無事かな…」

 薫は肘を突き、身体を捻って起き上がろうとした。
 俺がかけたコートが落ちて、傷だらけの痛々しい裸体が現れた。
 それでも…薫は美しくて、俺は助け起こしながら息を呑み、目を逸らした。
 俺に縋って上半身を起こし、更に膝を立てて立ち上がろうとした時…。
 ざぁっと音を立てる程に、大量に出血した。マットにぼたぼた血が落ちる。
 気を失いかけて崩れ落ちる身体を抱き止める。

「薫!」

 俺だって、17歳のガキだった。薫を抱き止めたまま、パニックになりかけた。

「ちくしょう…ちくしょう…ちくしょう…」

 俺の薫を…引き裂きやがった…
 怒りがパニックを越えていく。

 震え始めた身体をそっと寝かせて、コートをかけ直す。

「…つ、ばき…さむ…い…」

 薫の顔は蒼白になり、歯の根が合わない程、震えた。
 俺はどうしようもなく、上着も脱いで、薫を包み、抱きしめる。

「誰か、呼ぼう…俺だけでは、無理だ…。」

「…だ、めだ…たのむ…たのむ…つばき…」

「なぜそんなに澤木をかばうんだ。あんなヤツ、停学でも退学でもなってしまえば…」

「…だめ…だ…」

 震える身体を、俺は抱いていた。
 せつなくて、愛しくて、悲しくて…腹が立っていた。頭が煮えたぎっていた。
 おまえがかばっても…俺は、澤木を、許さない…。

 とにかく暖めなければいけない、と思った。
 思い出して、倉庫の入口で見張りをさせていた峰岸のところまで行った。
 峰岸は小さくしゃがみこんで、まだそこにいた。

「一条を見つけた…。おい、コートを脱いでよこせ。」

「な…」

 半ば無理矢理、コートを剥ぎ取った。

「それから、教室に行って、一条の鞄とコートを持って来い。
 持って来たら、タクシーを探して、校門の横に停めておけ。」

「い…一条くんは…?」

「怪我している。早く。急げ!」

 俺に命令され、脅えた顔で峰岸は転げるように走り出す。
 また逃げないでくれるといいが…と思いながら、薫のそばに戻った。
 震える身体に、峰岸のコートも被せ、くるみ込む。

「どうだ?少しマシか?」

「ああ…」

 いくらか震えが収まってきていた。

「薫、気を失うなよ…気絶したら、俺の手には負えない。
 パトカーでも救急車でも呼ぶぞ。」

 俺は妙に開き直った気分になっていた。

「ああ…気は、確かだ…す、まない…」

 小さな声で薫は応え、震えながら、また苦笑する。

「あやまるのは、後でいい。とにかく、ここから連れ出す。
 峰岸にタクシーを呼ばせた。なんとか歩けよ。」

 話しかけながら、あちこちに散らばっていた、薫の服を集めた。

「峰岸が…」

「帰れ、と言われて、一度素直に家に帰ってから、心配になってまた来たらしい。
 俺が帰るところで、ちょうど出会った。」

「そうか…峰岸にも…面倒をかけた…」

「馬鹿か、おまえは!峰岸を助けようとして、こんな目にあったんだろうが。
 おい、服を着せるぞ。」

「ああ…頼む…」

 薫は、もうあきらめて、俺に身を任せていた。
 下着は裂かれていたから、じかにズボンを履かせた。
 一方の靴下は履いたままだったが、もう一方は見つからない。
 靴を見つけるのは、苦労した。

「目標は…俺だったんだ…峰岸は、巻き込まれただけだ…」

 声がしっかりしてきた、と思いながら、俺は平均台の蔭から靴の一方を回収した。

「峰岸までかばうな。腹が立って来る、俺は…」

 なんとか下半身の形をつけ、上着を持って、薫の身体を跨ぐ。

「薫…俺の首を掴めるか…?」

 伸ばしてくる手で首を巻かせ、抱き合うような格好になった。

「…助けてやるからな…」

 思わず言った言葉だった。胸の中で、必ず…と付け加えた。
 薫の首の後ろを支え、ゆっくりと上体を抱き起こした。
 目を閉じて、薫は歯を食いしばる。また出血したのかもしれない。
 唇が色を失ったが、薫は気を失わなかった。
 また震え始める身体に、急いで上着を着せる。その上に俺のコートを着せ、前ボタンをきっちり閉めた。

「…学校の…備品を…派手に、汚してしまった、な…」

 意識を手放すまいとして、薫は話す。

「かまうことはないさ。立てるか?立てよ…」

「立つ…さ、なんとかして…。」

 薫の片手を肩に回させて、身体を支えた。立とうとする薫の膝が、揺れる。

 入口で、かたり、と音がする。
 奴等が戻った?…振り返ると、峰岸だった。
 薫の鞄とコートを持ち、立ちすくんでいた。

「タクシーは?」

「校門の横に…あの、一条くん、だいじょぶ…?」

 おろおろと、峰岸は言う。
 俺はまた苛々した。

「早く!こっちに来てくれ。一条を立たせる。」

 峰岸に手伝わせ、両側から支えて薫を立たせた。

「う…」

「自分で歩けよ、薫!おまえが言い出したんだからな!」

 俺は声をかけ続け、気を失いかける薫を引き摺るようにして、タクシーまで連れて行った。
 尻の下に、峰岸のコートを敷いて座らせる。
 伯父のやっている病院の名を、運転手に告げた。

「峰岸、もういいぞ。良い子は、おうちにお帰り。」

 皮肉を込めて言い、薫の鞄とコートを受け取った。

「あの…僕のコートは?」

「ちょっと借りておく。」

 血まみれになるだろうが、知るものか…。

 反対のドアからタクシーに乗り込む。

「どうしたの?学生さん…喧嘩?」

「はい、まぁ…内緒にしといてくださいよ。」

 俺は調子を合わせる。
 立ち尽くす峰岸を残して、タクシーは走り出す。
 がっくりと俯いている薫の肩を抱き寄せた。

「…椿…ありがとう…」

 かすかな囁きが聞こえる。

「もう少しだからな。がんばれよ。」

 俺の身体に寄り掛からせて、俺も囁き返した。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 暴行は通報しなければ、と言う伯父を、俺はなんとか宥めすかした。
 裂傷以外は、たいしたことはないらしい。
 今夜一晩入院して、明日頭部のレントゲンを撮る、と言う。
 本人の望みなら内密にする、と約束を取り付け、俺は薫の病室に向かった。

 まったく…昔から、俺は病室の薫を見舞ってばかりいる…。
 過激な男だよな、薫…。
 自分の命に無頓着だ…周りにいる人間は、たまらんのに。
 五代…たまらんよな。まったく…。
 いや、無頓着過激組の親玉は、おまえだったか、五代…やれやれ…。

 澤木と薫の話は…五代、おまえには聞かせられない…。
 おまえも、傷だらけだ…知れば、また悲しいだろう…。
 これは、薫と俺と…それから、澤木だけが、知っている話…。


「どうだ?」

 顔の血も拭われ、こめかみの傷も綺麗に手当てされていて…俺はほっとする。
 ベッドに横たわった薫が、俺を見上げて頷く。

「ああ…ずっと…楽になった。」

 感謝を込めて、疲れ果てた顔が僅かに微笑む。

「今夜は帰れないぞ。」

 薫は、顔を顰めた。

「家に連絡してやろうか。」

「いい。母は今夜は夜勤だ。帰らない。
 ちょうど…よかった。」

 看護婦をしている母親と、二人だけの家庭であることを、俺はもう知っていて、頷く。
 母親には、知られないようにするのだろう…薫は。

「ここは、俺の伯父の病院だ。
 口止めをしておいた。」

 薫は僅かに頷いた。

「保険証が要るそうだが…」

「鞄に入っている。」

 いつも持ち歩いているのか…?
 あまりにも準備がいいので、驚いてしまった俺を見て、薫は言う。

「必要になる気がして…持ち歩いていた。
 まさか、輪姦されるとは思っていなかったが…。」

 表情が冷たく凍り、自嘲して笑う。投げ遺りな影が目にあった。

「薫…交通事故にあった、と思え…。」

 他になぐさめようもなかった。
 俺は許さないがな…と思いながら、俺は言った。
 薫は俺を見て、うすく笑う。

「いいんだ…椿。こういうことは、初めてじゃない。俺は…慣れている。
 まぁ、こんなにひどいのは…初めてだが…」

 初めてじゃない…?
 慣れている…?
 俺には、薫が何を言っているかわからず、それからだんだん意味が沁み込んでくる。
 前にも…あったというのか?こんなことが?

「薫……」

「…俺は…もっと強くなりたい。
 はやく大人になりたい…。」

 薫は、天井を見て呟いていた。冷たい、暗い、強い目をしていた。

「椿…今日は、本当に助かった…
 だが、もうあまり近付かないほうがいい。
 俺は…厄病神なんだ…」

「厄病神は、澤木だろう!
 おまえは被害者だ!」

 病室だということも忘れ、俺は大声を出した。
 薫は俺を見て、僅かに首を振っていた。

「いや…俺、なんだ。
 厄介を、引き付けてしまう体質らしい…俺は…。」

「どういうことだ?」

「わからなくていいんだ、椿。
 とにかく…あまり近付くな、もう…」

 冷たい瞳の中に、哀しみがある…と、俺は思う。
 俺は、笑い飛ばしてやった。

「俺が嫌いか?」

「いや…そんなことはない。」

 近付くな、と言いながら、嘘はつけないらしい。不器用な男だ。
 真剣に俺を見上げている瞳を、愛しい…と思った。

「いやだね。俺はへそ曲りだからな。
 俺を巻き込むことを怖れているなら、心配無用だ。
 おまえよりは、喧嘩慣れしているぞ、俺は。
 おまえが売られた喧嘩なら、俺も一緒に買ってやるさ。」

 笑う俺を見上げて、やっと薫も笑う。切れた口の中が痛むのか、少し顔を顰めながら。

「…なんなんだ、その自信は…。
 妙に太い男だな、椿は…。」

「人生は楽しむもんだ、と俺は決めているんだ。」

 薫は爆笑しかけて…身体の痛みにうめいた。

「つ…ああ…また血が出る…
 ちくしょう…これでまた糞をする度に、血まみれになるんだ、俺は…」

 吐き捨てるような露骨な物言いに、さすがに俺は怯んで…そして、気が付く。
 また…またって、何なんだ?薫?

「…看護婦を呼ぼうか?」

「いや、いい。…たいしたことはない。」

 容姿に似合わぬ、硬派な男だった。
 いや…合っているのかもしれない。硬派、という言葉では語れない。
 一条薫は、ただすべてが一条薫で…汚い言葉を口にしても、まだ美しかった。
 犯され、穢された筈なのに…ますます美しかった。高く、冷たく、輝いていた。何物も汚せない、魂の中の金剛石を、薫は持っていた。

 二度と、こんなことはさせない…。
 唇を噛みしめて、俺は、思っていた。
 もう「また」はない。俺がいるから。
 おまえは俺が必ず守る。再び、誰にも傷つけさせはしない。

 俺はヘテロだ。だが。
 俺にとっての一条薫は、性別を越えていた。
 この男の命を、俺はとっくに愛していた。性愛も欲望も越えて…俺の心の中に、一条薫はすでに息づいていた。これ以上に美しいものを、俺は見出せない…と、思っていた。
 そして、結局…今も、その想いは、続いている…。

 また出血したせいか、だるい表情になって、薫は俺を見る。

「椿…とにかく、ありがとう。いろいろ…。」

 俺は、肩をすくめてみせた。
 もう、礼は言わないでいい…俺は、おまえの命に惚れている。

「もう…眠れ。明日、また来てやる。」

「放課後なら、たぶん、もういないぞ。」

「サボるからいい。」

 俺も…これから怪我をするかもしれないからな、と俺は思った。
 明日は、たぶん学校に行くどころではないだろう。
 死んだら来られないが…それならば、許してくれ。

 止めても無駄だ、と思ったのか…薫は何も言わない。

「じゃあな。」

「椿…」

 帰りかける俺を薫が引き止める。

「まさか、仇討ちは考えていない、な?」

 図星だよ、薫…俺は、これから仇討ちをする。
 許せない…絶対に。

「…まさか…。」

 勝手に盾になるつもりだったのに、俺は盾になれなかった。
 だから、これから勝手に仇討ちをするつもりだ…。

 俺は、見送る薫に手を振り、病室を出た。

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