『番外:独白』 -1
「一条さん…俺、帰ってきましたよ…
一条さん…大好きな一条さん…
ごめんね、ずっと一人にして…
俺、一条さんが俺のこと、待っててくれるなんて知らなくて…
ずっとずっと、愛してくれてたなんて知らなくて…
クウガじゃなくなった俺のことなんか、もういらないのかと思って…」
昏睡状態で、意識なくベッドに横たわったままの一条薫の手を握り、五代雄介が低く話し始めていた。
俺は、簡易ベッドを引き出して、横になり、その呟きに背を向けた。
五代はもう、俺のいることなど、気にしてはいない。夢中になり、必死になり、薫に語りかけていた。
「ずっとずっと、会いたかったのに…
ずっとずっと、我慢して旅をしてた…
馬鹿だよね、俺。
…ねぇ…一条さん?馬鹿って言ってください…
馬鹿野郎って、いつかみたいに笑ってください…」
ああ、そうだ。五代…おまえは大馬鹿野郎だ…。
俺でよければ、何度でも言ってやる。
だが、おまえは薫に言って欲しいんだよな…?
薫は…どんな声で言うのだろう…
薫の心を疑い、見失っていた、この愚かな男に。
怒るのだろうか。叱るのだろうか。なじるのだろうか。恨むのだろうか。
いや…薫は、そんなことはしない。
きっと、優しく言うのだろう…「馬鹿野郎…」と。
五代も、それを知っている。薫が許さないだろうとは、全く考えてはいない。愛だけを注がれてきた信頼が、すでに甦っている。意識のない薫に、素直に甘えて、五代はしゃべり続ける。
あの氷のような薫に、愛だけを注がれてきた…それが、どういうことなのか、五代は知らなかった。
誰にも注ぐことのなかったあの心が、とうとう開かれて、五代だけに傾けられている。それなのに。
悲しいな…薫。
おまえの心を、知らなかったんだぞ、こいつは。
許すのか、おまえは?
…許すんだろうな。
今も美しいその顔を僅かに傾けて、少し微笑んで、優しい声で、言うんだろうな。
「五代…馬鹿野郎…」と。
ちくしょう…。
だが、俺はそれが見たい。
薫…生きろ。生きてくれ…。
「俺のこと、呼んだでしょう?
青空を見て、俺のこと、呼んだんでしょう?
五代…って。いつもみたいに…呼んだよね。
俺、聞こえたよ…一条さんの声、聞こえたよ…
だから帰ってきた…
一条さん…俺を見てください…俺、帰ってきましたよ…」
五代の囁きが、低く病室に続く。
涙声になりかけているが、甘く、優しかった。
薫の愛を、五代はすでに信じ、語り続けていた。
きっと、薫には聞こえている。
そして、薫は帰って来る。
さっきまで、俺は絶望していた。
ついに、もう駄目だと思っていた。
薫は、死ぬ…大勢の人間が最期の時を迎えた筈のこの集中治療室は、春だというのに冷えきっていて、俺は凍えながら薫の手を握り、泣いた。
俺の…青春のすべてを傾け尽くした。
そう言っていいのだろう…。
そして、今も愛し続けている…。
その薫を、ついに失ってしまう…そう、思って泣いた。
それが…今は。
五代の囁きは、この部屋の温度を上げている。
疲れた俺の身体も暖めている。
甘ったれた、柔らかい言葉が、絶え間なく五代の口から流れ出て、ぬくもりが広がる。
希望が、俺の心にも甦る。
大丈夫だ…。
きっときっと、薫は戻って来る。
「一条さん…綺麗な、俺の一条さん…?
目を覚まして…俺を見て…
俺がここにいるの、わかるでしょう?
俺の声、聞こえるでしょう?
大好きですから…お願い…起きて…
俺、帰ってきましたよ、ここに、そばにいる…
目を開けて…俺を見て…
もう一度…俺を呼んで…
死なないで…死なないで…俺も、死んじゃうよ…」
泣きながら、五代は語りかけ続ける。
優しい感情が、俺の胸にもこみ上がり、息が詰まる。
薫を深く愛していたから、この男は見失ってしまったのだ。
さっきまで、まるで抜け殻のようだった。
今、薫の愛を再び確信し、五代は本来の姿を取り戻していた。
五代の優しさと暖かさは特有のもので…俺もしばらく、忘れていた。
これが…必要だったのか、薫。
これに…抱かれていたかったのか、薫。
縮まっていた空間が広がり、強張っていた身体の力が抜けて、ほっと休める日溜まりのような、この男。
優しいままであの未確認どもを滅ぼし、その代償の重さに泣き続けたという、この男の帰りを。
薫…おまえは、待っていたのだな…。
俺は、わかるような気がする。
俺の腕の中では、おまえは憩うことができなかった。
今では、俺はわかるような気がする。
おまえは、この太陽を待っていたのか…。
どんな愛を…おまえは、この男に注いできたのか。
蒼い、透明な、目に見えぬ、ありったけの心を?…おそらく、そうだ。
闘う宿命を背負ってしまった五代を支え続け、ついには生き延びさせて、普通の人間に戻してしまった…それは、おそらく、薫…おまえの力だ。おまえの愛だ。
それが、この男には見えていなかった。
見えない愛だからな。薫は、見せようとはしない…そういうヤツだ。
それでも、愛はある。見せようとしないぶん、深い愛がある。
その愛に支えられて、おまえは生き延びてきた筈だ。
五代…薫はおまえだけを愛し続けている…。
五代…。どれだけ…俺が、その心を欲しかったか、わかるか。
旅の空の下で、薫に焦がれ続けてきた…今のおまえなら、あるいはわかるのかもしれないな…。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薫とは、高校2年で同じクラスになった。
すでに、その美貌で、一条薫は有名人物だったから…俺は、興味があった。
俺はヘテロだ。むさくるしい男のケツの穴を掘る趣味はない。
同じ抱くなら、きゃしゃで柔らかい女性の身体のほうがいいに決まっている。
だが、俺はいわゆる面食いで…と言うか、自分が美しいと思う物に執着する傾向がある。
一条薫は、ひどく美しい…と、思った。
今よりも、美しかった。
今の薫は、成熟し、完成した大人の男の美しさだが…当時は、まだ少年の面影があった。あどけなく、瑞々しく、初々しく…清々しく…。そして、妖しく…。
そのくせ、すでにあの美しさは完成していた。
きゃしゃな身体ではない。女性的なわけではない。それでも「美しい」としか言い様がない。薫は…特別な存在だった。
俺は惹かれたが、単なる容貌の美しさだけでちやほやされる男、と馬鹿にもしていた。接近するつもりはなかった。
だが。同クラスになり、普段の暮らしぶりを知る程に、意外に思うようになった。
一条薫は、無口な人間だった。静かだった。頭脳は明晰だったが、それをひけらかすようなこともなく、決してでしゃばらなかった。花のような容姿をしているくせに、むしろ、地味な男だった。
回りには、あの容貌に引き寄せられた者が絶えずつきまとっていた。が、それに気を良くするでも鼻にかけるでもなく、僅かに煩わしそうに、淡々と応対していた。女生徒の数は少なかったが、一応共学だったから、男も女も、次々に薫に接近した。だが、薫はその誰とも特別に親しい様子はなかった。手紙や貢ぎ物は、開かずに返しているようだった。
俺は密かに観察し、面白い奴だ、と思い始めていた…。
薫と初めて話したのは、いつだったのか…。
ああ…色鉛筆か…。
昼休みに、薫はカッターで色鉛筆を削っていた。次の地理の授業か何かで、使う物だったと思う。
近くを通り、薫の手許を見て、あまりの不器用さに俺はあきれ、立ち止まってしまった。
俺の視線を感じ、薫は顔を上げた。ふと微笑んだ。
「どういうわけか、みんな折れてしまうんだ…。」
あんな繊細な顔だちをしている人間が、あんなに不器用でいいのだろうか…。
俺は、思わず言っていた。
「貸せ。やってやる。」
俺は、薫の前に空いていた椅子に後ろ向きに座り、薫が持っていた色鉛筆を削ってやった。
「うまいもんだな。ええと…椿、だったか?」
「一条が不器用すぎるんだ。」
薫は、気を悪くした様子もなかった。
「そうかもしれない。だが、努力してもこればっかりは、な。」
静かに笑っていた。とても美しかった。
俺はもっと薫の微笑を見たくなり、惨憺たる有様だった色鉛筆を次々に削った。
「椿、もういい。なんとかするさ、自分で。」
途中で、薫は笑った。へそ曲りな俺は、もっと関わりたくなった。
「今度は俺に言え。削ってやる。」
俺の指は元来とても器用なのだが、薫に見つめられ、手許に集中しないと指を切りそうな気がした。
削り終って、すべてを箱に並べると、薫は感心したように眺めていた。
「すごいな…。椿、ありがとう。」
普通に、さらりと言われた礼の言葉だった。
だが、薫は俺の目を真直ぐに見て、静かに真面目に礼を言う。媚びるでも照れるでもなく、普通に静かに真直ぐに。
「また折れたら、俺に言えよ。」
俺は、席を立った。
恋に落ちるかもしれない…と、思った。
…今でも、そうだ。
目を覚ましてくれるなら、薫は言うだろう。
「椿、ありがとう。感謝している…。」
静かに真直ぐに言うだろう。
…言ってくれなくてもいいんだ、薫。
ただ、生きてくれ。
おまえのいない人生は、ひどくつまらないような気がする…。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「それで…俺、そこの寺院にしばらくいたんですよ。
掃除とかをさせてもらって、メシ食わせてもらって…お堂のすみっこで寝せてもらって。
いろいろ…考えてました。あいつらのこととか…。
それから、あなたのことも…俺、しょっちゅう思い出していた…。
月が綺麗なんですよ、空気が澄んでいるから…
だから、夜、よく月を見て、あなたのことを考えた…。
どうしても、大好きで…俺、あいつらのことでもしょっちゅう泣いていたけど、あなたを思い出してもよく泣いていました…。
離れて…忘れようとして…忘れられなくて…。
馬鹿だよね…俺。
一条さん…聞いてる?聞こえてる?
目を覚ましてください、ね?…そして、俺の話、聞いてください。
俺は、もう離れない…だから、逝ってしまわないで。
俺を置いて行かないで。
俺…すごく泣くよ、きっと。あなたが死んだら、俺…一条さん…ねぇ…お願い…」
子守唄のようだった五代の声がとぎれたので、俺はうたた寝から目を覚ました。
起き上がって、薫の様子を見て、血圧計と心電図を確認する。変化はなくて…僅かにほっとする。
五代は変わらずベッドの脇に座り、薫の手を両手で握って、俯いていた。
ぱたぱた…と、リノリウムの床に、五代の涙が落ちる音がする。
「五代…泣いていないで、話せ。
きっと、聞こえている…。」
俺は、目を逸らしながら、呟く。
もう、五代に賭けるしかない。
俺が何を言っても、きっと薫は帰らない。
薫を呼び戻せるのは、この馬鹿な男だけだろう…。
「…は…い…。」
涙漬けの返事を聞きながら、俺はまた横になる。
「…そう、いう…寺院とか、教会とか…落ち着く感じが、したんです…。
俺は…いっぱい殺しちゃったから、ですよね、きっと。
できれば、あいつらのストゥーパとか位牌みたいなもの…つくって欲しかった。
でも…名前がわかんないんですよね。
26号とか42号とか…そういうんじゃない名前が…きっとありましたよね、あいつらにも…。
わかってたのは…あいつ…ダグバ…だけでしたっけ?
俺…全部と取っ組み合いして…殴ったり、蹴ったり、刺したり、射抜いたりして…殺した…その感じは…覚えてました。全部…覚えてました。
…でも、それじゃあ、位牌はつくれないんですよね…。」
位牌…か。
遊戯だと言って人々の命を奪ったあいつらを、五代は悼んでいる。
あんな奴等ではあったが、生きている命ではあった。それを奪ったことを、五代は悲しみ続ける。
俺ならば、怒っただろう…憎んだだろう…。
だが、この男は怒りも憎しみも越えて、それでも闘い続けた。
優しいままで、守り続け、殺し尽くした。
辛い…だろう。
俺も、あの時、殺していたら…悔やみ続けただろうか。
俺は、五代とは違う。怒りのままに、憎しみのままに、殺したい…と、思った。
あいつ…澤木。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
色鉛筆の一件以来、一条薫と俺は、時々話すようになった。
薫のほうから接近したわけではない。最初の頃、話しかけたのは、いつも俺だったような気がする。
だが、拒むでもなく、自然に薫は振り向き、俺の言葉に応え、笑う…だから、なんとなくツルんでいることが多くなってしまった。
一条薫は、孤高の男だった。人にも物にも執着がない。今は学生だから、と淡々と知識を積み重ねる。負わされた義務や責任も淡々とこなす。いつも冷静で、感情は表に出ない。他人との関わりかたは、薄く、浅い。
それでも、周りのことはよく見ていた。冷たい表情の下で、薫は優しい男だった。
「椿、すまないが、教科書を見せてくれるか?」
席決めは自由だったから、俺はいつも薫の隣に陣取っていた。
そう…俺は、その頃には、もうとっくに執着していた。
あの美しい男のそばにいたかった。誰よりも、一番近くにいたい、と思っていた。
薫は俺を拒まず…だから、俺は自然と薫のそばにいた。
…何の授業だったか…そうだ、数学だった。薫は、教科書を持っていなかった。
授業の前に、薫は俺を見て、何か頼む時の癖で、僅かに首を傾げて言う…。
「どうしたんだ?」
真面目な薫にしては、珍しいことだった。
「忘れてきたんだ。」
薫は少し口を歪め、自嘲するように笑って言う。それで説明は終わりだ。
俺も黙って、机を動かした。
「いや、いい。必要な時だけ見せてもらう。
机を付けると、目立つだろう。」
「かまわないさ、目立っても。」
案の定、ヒステリックな数学の教師に注意された。
「そこ。なんだ?俺の授業は、しゃべくり時間じゃねぇんだよ。
椿か?ベッピンの一条クンとツルみたいなら、休み時間にするんだな。」
普段からねちねちと粘液質な教師だったが、特別に毒があった。
薫が、静かに立って言った。
「私が教科書を忘れてきましたので、見せてもらっています。
私語は慎しみます。」
薫の態度に、数学教師は気押された。
「…ふん…妙におモテになるようだが、調子に乗るなよ。
以後…気をつけろ。」
「はい。」
薫は、元通りに座って、平然と授業を受けた。
薫は調子に乗ってなどいない…。俺は、机の下で、拳を握っていた。
目立つ容姿の為に、一条薫は騒がれ過ぎていて、教師たちにも目を付けられていた。
俺は、むしろ気の毒だ…と、思い始めていた。
俺もあの容姿には惹かれていた。だが、容姿だけではない。それだけで、俺が惚れる筈はない。
一条薫は、信頼できる、誠実な男だった。心も美しかった。いつも一人で真直ぐに立っていた。
直線的な言葉、シンプルな生きざま、花が咲くような笑顔…俺は、すでに惚れていた。
だが、友人の枠を越えようとはしていなかった。友人としても…貴重な男だ、と俺はもう知っていて…関係を壊すのが怖かった。
数学の授業が終ると、薫はすぐに机を元に戻した。
俺には、礼は言わなかった。すでに信頼は築かれつつあり、余計な礼を言わない薫が、俺は嬉しかった。
休み時間に俺は席を立ち、トイレにでも行ったのだろう。
教室に戻ってふと見ると、薫の席の横に、あいつ…ああ、何と言ったか…峰岸だ、峰岸がいた。
峰岸は、数学の教科書を薫に差し出し、何度も頭を下げていた。
薫は僅かに首を振って受け取り、鞄にしまった。席に戻った俺と目が合ったが、何も言わなかった。
あの…高校2年のクラスは、厄介だった。
次期番格だと言われている澤木と、その取り巻き二人が顔を揃えていた。
一学期はほとんど登校して来なかったが、進級が怪しいと教師に脅されたのか、二学期からは澤木は、一応まともに授業を受けていた。まともに…と言っても、澤木のおかげで、教室の空気は最悪だった。
でかくて、乱暴で、荒んだヤツで…性格は陰湿だった。弱いものを苛め抜くのが得意だった。生徒たちはいつも戦々兢々として過ごしていた。
あの頃は、臆病で、おどおどした性格の峰岸が、格好の標的にされていた。
数学教師にもいつもいびられている峰岸を知っていて、たぶん澤木たちが峰岸の教科書を隠すか何か…したのだろう。
薫は何も言わなかったが…俺には、だいたいの推測がついた。
薫が峰岸をかばった…そうすると、澤木の恨みは薫に向かう…。
俺は、何気なさを装って、教室を見回した。
後ろの窓際で、例によって取り巻きに囲まれて、ふてぶてしく煙草をふかす澤木が、薫を睨んでいた…。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その数学の教科書の一件以来、峰岸は隠れ場所を求めるように、薫と俺の席の周りを徘徊し、何かと話しかけてくるようになった。
薫は、普通に言葉を返していたが、俺は普通ではいられなかった。
薫も俺も徒党を組まない一匹狼だった。澤木の地位を脅かすつもりはなく、毅然としてさえいれば、それまでは大きなトラブルはなかった。峰岸は、俺たちのそばにいれば、澤木に手出しされない。
だが、澤木はどんどん苛々してきて、子分どもさえ怖がるぐらいになっていた。教室の空気は張りつめていた。
平常通りの生活をしていたのは、薫だけだったような気がする。
このままではすまない…そういう予感を、誰もが覚えていた。
騒ぎは、じきに起こった。
澤木の機嫌が悪くなっていくのと共に、ますますびくびく暮らしていた峰岸が、昼休みに、澤木の子分の机脇を通ろうとして、脚をかけられ、転んだ。澤木と子分たちは、逆に言いがかりをつけ、峰岸をいびり始めた。最初は言葉で。それから次第に手や足が出始めた。峰岸は鼻血を出して泣き始め、暴力はエスカレートした。教室には、まだ大勢の生徒が残っていたが、静まりかえった。
「ええ?どうしたんだ?泣いているのかよ?」
澤木が、血の出ている峰岸の鼻を、拳骨で潰していた。
「おまえみたいな、情けないヤツが、よく生きてるなぁ…ええ?なんとか言えよ…」
峰岸は、ただ泣いていた。
「助けを求めたらどうだ?ええ?いつものように、一条くん、助けてぇって…」
俺は、横目で薫を見た。
薫は、頭を上げ、冷たい表情で、澤木を見ていた。
「お綺麗な一条くんが、好きなんだろう?ええ?舐めさせてもらったらどうだ?やらせてもらえよ…なぁ、峰岸…」
下劣な言葉が、澤木の口から漏れる。俺は歯を食いしばっていた。…俺は短気な男だ。そのうちに耐えきれなくなる、とわかっていた。
峰岸の血で汚れた拳骨で、澤木は軽く峰岸を小突く。峰岸の喉から、かん高い悲鳴が漏れ始める。
たまらずに、教師を呼びに行こうと立ち上がった女子生徒がいたが、いつの間にか、子分の一人が戸口を閉め切って塞いでいた。
「ほらぁ!言ってみろよ!一条くぅん、舐めさせてぇってよ!ほら!そこにいるぜ!」
澤木は執拗だった。血を見て、暴力に酔ったようになってきていた。
「言わねぇかぁ!」
とうとう、拳を振り上げて峰岸を殴ろうとする。
たまりかねて、俺が立ち上がりかけると、横から手が出て、制止された。
「澤木。もうよせ。」
薫の静かな声が、聞こえた。
薫は、立ち上がって、前に出た。
澤木の頭が回って、薫を見た。
「いい加減にしろ。澤木が殴れば、峰岸の鼻が折れる。」
薫は、淡々と言っていた。
…澤木は、竦んだように見えた。
「なぁにおぉ!このやろう!」
調子付いて、薫に向かっていったのは、子分の一人だった。名前は…もう忘れたな。
澤木が止めるような動作をしたが、子分は止まらず、薫の襟を掴もうとしていた。
俺も椅子を蹴って前に出ようとした。女生徒の悲鳴が聞こえた。
あれは…何処がどうなったのだろう。
襟を取られた瞬間、薫の身体が沈んだように見えて、子分の身体は宙に飛んで、床に叩きつけられていた。
驚愕と痛みで、息が止まったようになった子分を、投げた薫は気遣う目で見る。
子分はすぐに起き上がる。戸口を塞いでいたもう一人の子分もあわてて飛んできて、澤木の顔を伺う。
澤木は、峰岸を投げ出し、子分どもに首を振った。
「よせ…」
「でも、澤木さん…」
女生徒が、廊下に出て、駆け出して行く。
澤木が、薫を見た。薫も澤木を見ていた。
空中で、火花が散っているような気がした。
「一条…」
澤木が、うめくように言う。
「…このままでは、済まないぜ…」
「ああ…」
薄く笑って、薫は応えた。
それから、澤木はゆっくり踵を返し、教室を出て行った。
「覚えてろっ!」
子分どもが、薫に向かって使い古された台詞を吐き捨てて、澤木の後を追って行く。
三人が充分に遠離って、教室にはため息と歓声が上がる。
「一条くん、すご〜〜い!」
またこれで薫のファンが増えてしまったな、と俺は笑う。
だが…これで、済む筈がない。
澤木は三年生の番格どもと、きっちりツルんでいる。連中は、地域のヤクザとも通じている、という噂だった。俺は、薫が心配だった。
「しまった…おとなしく殴られればよかった…」
薫も、投げてしまった自分の手を見つめ、呟いていた。
それから、忘れられていた峰岸を助け起こす。
立たせておいて、無造作に頭を掴んで、峰岸の顔を点検する。
「大丈夫だ…どこも折れてはいない。
鼻血だけだよ、峰岸…。
顔を洗えば、元通りになる。」
峰岸は、まだ泣いていた。
優しく掴まれている筈の薫の手にも脅え、よろめいて教室から出ていく。
薫は、何事もなかったように、席に戻って来た。
「一条…おまえ、さっきどうやったんだ?」
教室はまだざわめいているが、授業開始のチャイムが鳴って、皆席に戻っていった。
俺は、隣に座る薫に囁いた。
「中学から、柔道をやっている。あれは、背負い投げだ。
思わず投げてしまった…。」
「澤木も言っていたが、このままでは済まないぞ。」
「なんとかなるさ、椿。心配するな。」
いつものように、薫は淡々と応え、花のように笑って、俺を黙らせてしまった。
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