『終章:明日』 -5


         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 あらかたティッシュで拭っておいて、俺は一条さんの手を引いた。
 一条さんが起き上がってから、うっかり左手を引いてしまったことに気がついた。

「あ…すみません。痛くなかったですか?」

 左手を俺に預けたまま、一条さんは右手で左肩に触れる。

「痛くはないんだ。動かすのに、なにか鈍い感じがあるだけで…。
 使ったほうがいいんだろう…。」

 俺の手を握った左手に力を入れ、一条さんは立ち上がる。
 そして、そのまま俺の手を引いて、バスルームに入った。

 シャワーの湯を出すのも、一条さんは左手でやっていた。

「一条さん…あまり無理しないでください。」

 一条さんは笑って、俺に湯をかけ始める。

「雄介…そんなにかばってくれなくていいんだよ。」

「でも…」

 濡れた手で、一条さんが俺の頬に触れる。

「俺が…死にかけたりしたから、怖くなった?」

 そう…その通りだった。
 二度となくしたくない、と思って、俺は臆病になっていた…。

「俺は…もう大丈夫だ。
 おまえと一緒に生きていくよ…。
 だから、もう安心してくれ。」

 一条さんは、いつでも俺の傷には敏感だった。
 自分のことはおかまいなしで、俺のことばかり考える。
 じゃあ、俺が一条さんのことを考えよう…それでいい、ね。

「…一条さんは過激だから、心配なんですよ〜」

「おまえに言われたくないな…。」

 と、一条さんが笑う。

「他人の命を守る為に、一番過激だったのは、雄介じゃないか。」

「俺は、一条さんを守りたかったんですよ。」

「俺は、雄介を守りたかったんだ。」

 しょうもないな、と俺たちは笑い合っていた。
 一条さんは、ちょっと首を傾げる。

「そうか…それで、よけいにお互い過激だったんだな。
 惚れないほうが、よかったか…。」

「無理ですよ。」

「なにが?」

「惚れないでいるのは、不可能です。
 それに、一条さんがいなかったら、俺は生き延びられなかった。
 だから、いいんです、あれで。絶対です。」

 俺は強引に決めつけて、笑った。
 あの頃は、本当に必死で苦しかったけれど…もう、過去のことになって笑って話している。

(一条さん…嬉しいよね…)

 俺の決めつけを、一条さんも笑って聞いていた。
 俺の身体にシャワーをかける手を休め、顔を傾けて俺の唇をついばんだ。
 守り合った命を、俺たちは慈しみ合う…。
 きらきらと、瞳が笑う…。

「でも…まぁ…しばらくはおとなしくしているから、安心してくれ。」

「はい。お願いしますよ〜」

 一条さんは、またシャワーを使い始め、俺の腹から下半身に湯をかける。
 精を流す為に触れてくれる一条さんの指が、ぬるぬる滑る。

「うわ…どろどろですね〜」

 一条さんも苦笑している。
 ひざまづいて、腿や股も流し、股間も洗ってくれようとしている。
 一条さんが触れると、また勃ち上がりかけた。

「おい…いい加減にしろ。」

「一日中、ベッドの中でもいいんでしょう?」

 一条さんは口の端を歪めて笑い、立ち上がった。
 俺はシャワーヘッドを受け取り、今度は一条さんの身体を流していく。
 もう…見ても、眩しくなかった。親しく、懐かしく、愛しいだけ…。もっと欲しいだけ…。

 一条さんの身体も派手に汚れている。
 俺もひざまづいて流し尽くす。
 一条さんに触れると、やっぱり反応してくる。
 顔を見合わせて、笑った。
 手を入れて、後ろに触れ、洗う。
 一瞬、身体が揺れたので、空いた手で腕を取って支えた。
 一条さんも俺の腕を掴んで、力を抜いたまま、立っていた。
 そこは、少し沈み込んで、指を誘うような感触に変わっていた。

「雄介…入れるなよ…」

 穏やかな表情のまま、一条さんが俺を見下ろして、笑いを含んで囁く。

「入れません…入れたいですけど…」

 そう言いながら、俺は一条さんを見上げ、ただそこをそっと撫でていた。
 一条さんは身体の力を抜いたまま、俺に任せていた。
 そうやって、触れられることに慣れ、開かれることに備えようとしていた。
 俺を見る表情は、穏やかなまま変わらない。
 けれど、前が次第に勃っていき、目が焦点を失っていく。
 自然に開いてしまった唇が呟いた。

「…雄介…もう…よせ…
 このままだと、俺たちは餓死する…」

「…はい…」

 俺は指を離し、立ち上がる。
 一条さんは、一瞬、触れられている時より苦しそうな顔をして、目をつぶった。
 シャワーヘッドを戻して、腰を抱き寄せ、ゆっくりくちづけた。
 優しく唇が、愛を返してくる。

「…また後で続きをしましょうね…」

 一条さんは気持ち良さそうに囁き返す。

「きっと…次はできるよ…雄介…」

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 昨晩の鍋の残りにうどんを入れ、朝食にした。
 一条さんは、つまらなそうな顔をして、それでも全部食べた。

「口に合わないですか?」

「いや、旨いよ、雄介…。
 だが…まだ病院にいるような気がして。」

「じゃあ、夕飯は焼肉かなんかにしましょう!
 あ、すき焼きがいいかな?俺の割下、評判いいですよ〜」

 一条さんは、可笑しそうな顔をする。

「雄介…本当にマメな男だな。」

 俺は思いっきり、にかっと笑ってみせる。

「買い物に行きましょうか。
 一条さん、一緒に行けますよね?」

 昨日よりも、また元気になっている一条さんだった。
 俺は、本当に効き目があるのかもしれなかった。

「もちろん。  ああ、それから…見舞いに来てくれた警察の連中に、快気祝いを買わなければ。
 面倒だが…付き合ってくれる?雄介…?」

「もちろん!」

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 そんなふうに…俺たちは出かけた。
 普通に…並んで、歩いて。
 人が休日にのんびり歩く速度で、俺たちは歩いていった。

「一条さん…」

「なんだ?」

「一条さんって普通に歩けるんだ。俺、パトカーを運転しているか、走っていくところしか見たことなかった…。」

 俺を振り返る一条さんは、部屋の中でより、少しだけ引き締まった顔をしている。
 それでも、俺を見る瞳の優しさは変わらない…。

「五代雄介も…こんな速度で歩ける、とは知らなかった。
 ビートチェイサーで飛んで行く後ろ姿ばかり、俺は見ていたな…。」

「俺たち…のんびり歩くなんてことももなかったんですね〜」

「…一度だけ、深夜の街を歩いたな…」

「ああ…ブランコに乗っていたら、迎えに来てくれて…」

「だが、おまえは、もう死んでいるような顔をしていた…」

「…死ぬことだけを、考えていましたから…」

 一条さんが、振り返って俺を見る。
 お互いに死んでいないことを確かめて、俺たちは笑った。
 そして、明るい昼間の街を、太陽の光に暖められながら、俺たちはまた歩き出す。

 クウガだった記憶、あいつらと闘った記憶が、今こそ過去になっていく…。
 俺は歩いていく…過去から抜け出して、一条さんと手を取って、明日に向かって歩いていく…。

「一条さん…」

 恋人が振り返る。

「手…繋いで歩きたいな、俺…。」

「雄介…。」

 一条さんが笑う。ちょっと困った顔をしていた。

「だって…恋人たちはみんな、手を繋いだり肩組んだりしてるじゃないですか〜
 俺もしたいです〜一条さんと、手を繋いで歩きたいです〜〜」

 俺は、必死な顔をしてみせる。

「あの時は、ポケットの中で手を繋がせてくれたじゃないですか〜」

 一条さんは、ますます困った顔になった。

「しかし…それはな…雄介…」

 あまり困らせるつもりはなかった。
 俺は、笑った。

「…わかってますよ、一条さん。」

「おまえ…今、俺で遊ばなかったか?」

 俺はもう最高ににかにか笑った。
 一条さんは、怒った様子もなく、俺の顔を楽しそうに見ている。
 あの頃から…昔から…見慣れている、一条さんの表情だった。
 俺がふざけ散らすと、必ずこの人は黙ったまま、こんなふうに楽しそうに見ていた。

(俺…すごく甘やかしてもらってるんだな…)

 俺…きっと最初から、すごく愛されてたんだね…一条さん…。

「あっ俺、またバイクを買おうかな〜
 そうしたら、一条さんとタンデムで〜抱き合ったまま走れるし〜」

 一条さんは、一瞬何かを思い出したような、不思議な表情になった。

「そうか…おまえはバイクに乗る雄介なんだな…?」

 俺を見つめた。

「一条さん、なに?俺がバイクに乗ることは…」

「知っているよ、雄介。ごめん。」

 一条さんが、さえぎって笑う。

「バイクに乗らない雄介の夢を見たんだ、おまえの留守の間に。」

「なんですか〜それ?てこてこ走って、未確認を追っかけてたんですか〜?  なんか…それって、すごい間抜け…」

 一条さんは笑って、空を見て…それっきり夢の話はしなかった。
 いつか、聞かせてくれるかもしれないけれど…俺も、それ以上訊かなかった。

 少し歩いてから、一条さんはまたバイクの話題を続けた。

「雄介…俺は、タンデムは苦手だ。自分で転がしたほうがいい。
 バイクを買うのなら、俺も買おう。」

「あっじゃあ、二人でツーリング〜〜〜それもいいですね〜〜
 俺、金持ってますから、今日見に行って買いましょうか?お揃いで〜」

 一条さんがあきれる。

「おい…俺は、バイクを買うなら、じっくり考えて決めたいよ。」

「あっそれもいいですね〜」

 俺は軽薄に同意して、また一条さんは、可笑しそうに俺を見る。

 傷が癒えていく…。
 きっと、一条さんも同じだ…。
 二人で見つめ合って笑い合う度に、苦しかった恋は終わっていく…。
 最初から、俺たちは愛し合ってきた…ひたすらに。
 それは、とても幸福なことで、俺たちは一度も不幸ではなかった…。

「雄介…前から訊こうと思っていたんだが、
 おまえ…どうやって生活してるんだ?」

 一条さんが不思議そうに首を傾げるので、今度は俺のほうが可笑しかった。

「親の遺産がいくらかあります。
 でも、それにはできるだけ手をつけないようにして、ポレポレで店番をすれば、食費は要らないし、バイト料を貰えます。」

「一年以上、海外にいる間は収入がなかっただろう?」

「どこに行っても、喰うことと寝る場所には、俺、あまり困ったことないんですよ。
 今回も、旅費だけでしたね〜かかったのは。
 それも、現地で適当にバイトして。それでOKです。
 あと、百年ぐらい、旅してられましたよ、俺。」

「雄介…俺は、百年は待たないぞ…」

 一条さんが、落ち着いた声で、優しくたしなめた。

「嘘です…。その前に、焦がれ死にしますよ…」

 俺も静かに応えた。
 本当に手を繋ぎたくなって、一瞬困った。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 俺たちは、池のある公園を横切っているところだった。
 春の日射しが水面に反射して光っている。新緑が風に揺れる。
 俺は、周りに人がいないのを確かめてから、一条さんの手を握り、引いた。

「ちょっと座りましょうよ。ね。」

 ちょうど、ベンチがあったんだ。

「おい…買い物…。」

「いいじゃないですか。
 公園でデート…初めてなんですから〜」

 一条さんは、俺のするままに並んでベンチに座り、空を見た。
 俺は、明るい光と新緑を背景にした一条さんの横顔を楽しんだ。
 背を伸ばし、一条さんは目を上げて、青空を見ていた。

 静かに…生命力と自信が戻ってきていた。
 一条さんが、また輝き始めている…。
 銀の光が全身から溢れ出していくのを、俺は見とれていた。

 それから…一条さんは、俺を見て、話した。

「…なぜだろう?俺は…雄介さえいれば、ひどく調子がいい。
 欠けていたピースが埋まって、俺は完成する…。
 穴が塞がって、命の水が満ちていく…。
 死にかけても生き返るし…今は永遠に生きられそうな気がする…。
 すまないが…依存は深いよ、雄介…。
 おまえは俺の命に欠けていたピースだから…。」

「依存してください。俺も、離れられない…。」

 一条さんは、俺を見つめ、生き生きと笑った。
 その瞳に飲み込まれそうだった。
 この人の魅力に絡み取られて、俺はもう逃れられない…突然、そう悟った。
 俺はもう自由な旅はできない。
 二度と気ままな放浪はできない。
 見知らぬものへの情熱に突き動かされて、旅立つことは、もうないだろう…。

「おまえにとっては…俺は何?」

 根源に触れる質問を、軽く頭を傾げ、この人は尋ねる。
 とっくに捕らえられている自分を、俺はまた知る。

「憧れ、なんです。俺の全ての…。
 焦がれて死にそうに…求め続ける…。」

 一条さんは、手を伸ばして俺の髪に触れた。

「雄介…それではおまえはどこにも行けなくなってしまう…。」

「行かない…どこにも行きません…。
 俺は…あなたのそばにいます…。」

 俺も一条さんの目を見つめ、囁いた。
 一条さんは、俺を見て…次第に瞳が厳しく、冷たくなる。
 けれど、俺はもう知っていた。
 この人は、俺の為に冷たく凍るんだ…。
 俺はもう怖れなかった。もう迷わず、もう疑わなかった。
 この人は冷たく、そして…とてもとても優しい…。

「それは、駄目だ。雄介…。
 それでは、おまえが枯れてしまう。
 俺は、普通の人間だ。よく見て…。
 そして、また旅に出るんだよ…雄介。」

「今は…行けません…。」

 冷たい目が緩み、一条さんが笑う。
 和んだ銀の光を播き散らしながら…。

「まだ行かないでくれ。
 まだ…おまえの傷も、俺の傷も、塞がりきっていない。
 今は…まだ、駄目だよ、雄介。
 そばにいてくれ…近くに。」

「はい…。」

 この人は…ちゃんと知っている。自分の傷も、俺の傷も…。
 大丈夫だ…。
 もう微笑は透きとおらない。
 この青空と新緑は、一条さんによく似合った。
 深夜の月光よりも、水面のきらきらした反射に似て、一条さんの笑顔は健康だった。

「おまえが治るまで、俺が治るまで…一緒にいよう。
 一緒にいるのが当たり前になるまで…そばにいよう。
 お互いの生きている姿をいつも見て、近くで暮らすことに慣れきってしまうまで。
 そうだろう?雄介…おまえも…そして、俺も…まだ怖い…。」

 俺は、頷いた。
 そうだ…俺は、怖い…まだ、怖い。

「それからは、自分のことを考えてくれ…。
 …いや…うまく言えないな。
 こういう場所だと、色仕掛けもできないし…厄介だな。」

 一条さんは苦笑していた。

「なんでも…思い付くままに、言ってください。
 色仕掛けされると、話を聞けなくなるから…ここのほうがいいですよ。」

 俺は笑い、一条さんも笑った。

「そうか…そうだな。」

 それから、一条さんは少し黙り、言葉を探していた。

「…雄介…おまえが帰ってきたから、俺はまた走る。
 おまえがいてくれるから、俺はまた走れるんだ。
 …一緒に闘うクウガは、もういないけれど。」

 そうか…この人はまた走っていく。
 世界の為に走っていく。
 未確認はもういない。あんな闘いは二度とないだろうけれど…
 人々の笑顔の為に、この人はまた走る。
 でも、俺はもうついていけない…。

「俺…また一緒に行きたい…」

 一条さんは首を振った。

「雄介…おまえの道は、もう違ってしまっている。
 俺は、俺の道を行くよ。俺の闘いを続ける。…おまえがいてくれるから、俺はまた闘う。
 だから、おまえも…自分の道を歩いて…闘ってくれ。
 旅がおまえの道ならば…行ってくれ。」

「一条さん…。」

 俺をまた旅立たせるの?
 また、手を離してしまうの?

「雄介…。  ああ、俺はどうして、こう不器用なのかな…」

 一条さんが、また素早く俺の傷に気付く。
 人目をかまわず、俺の手を握ってくれた。

「旅がおまえの道ならば…と言ったんだ。
 きっと、そうなんじゃないか…と俺は思っているんだが。
 そうではないのなら、それでもいいんだ。自分の道を歩いてくれ。
 何をするにしても…俺は止めない。俺は縛らないよ、雄介…。
 おまえに自由でいて欲しいんだ。
 好きな時に好きなところに行き、おまえの為すべきことをして…そして、帰ってきてくれ。
 おまえらしく…生きてくれ。そして、俺の元に帰ってくれ。
 俺は…いつでも、愛している…。
 俺は…いつも、ここにいる…。」

 一条さんは、俯き、言葉を探しながら、真剣に話していた。
 俺も、俯いて聞いていた。
 今までは痛くて、ちゃんと見つめられなかった自分の傷が見えてきていた…。

「一条さん…。
 俺は…怖い…。あなたを失うことが、一番怖い…。
 あなたが俺を愛さなくなる…あなたが死んでしまう…
 そばを離れたら、俺はまた見失う…誰かに奪われてしまう…
 目を閉じることさえ、怖い…。
 あなたを失うことが…俺は怖い…。
 もう二度と、失いたくない…。
 俺は…生きていけない…。」

 未確認との闘いが終わり、俺は傷ついて旅立った。
 殺した傷…俺はぼろぼろになり、すべてをなくした…。
 俺は治す為に彷徨い、そして、笑顔を取り戻した。
 けれど、俺の傷はもうひとつあった。
 一条さんを愛した傷…愛と背中合わせの怖れ…。
 深く愛した人を失うかもしれない…一条さんも、ずっとその怖れに引き裂かれてきた。
 俺は、闘いが終わり、旅立とうとした時に、一気に呑まれてしまった。俺は、見失った。
 旅は、殺した傷を治したけれど、愛した傷を悪化させた。
 それは治らなかった…一人では、治せない傷だったから。
 そして、ようやく帰ってきたら、一条さんは死にかけていて…俺はさらに怖れた。
 俺は…こんなに怖れてきたんだ。あなたを失うことを…。

 一条さんの静かな声が、今、俺の傷に触れ、癒そうとしていた…。

「俺は今、生きている…。
 そして、おまえを愛している…。
 ずっと変わらず、おまえだけを愛している…。
 おそらく、生きている限り、おまえを愛していく…。
 俺を失うことは、もうないんだ。俺はおまえのものだ。
 生きている限り。そして、死んでも…。
 そばにいなくても。離れても。どこにいても…。
 …だから、おまえは自由なんだよ。
 雄介…俺を信じて…?
 もう一度、俺を信じて、くれ…。」

 一条さんが顔を上げ、俺の横顔を見つめていた。

「俺にとっても、おまえは憧れだ。
 自由に青空を飛ぶおまえが、優しいままで闘えるその心が…好きだよ、雄介。
 俺への執着で、自分を縛らないでくれ。
 俺を信じてくれ。
 俺は、いつでも愛している。
 俺は、どこにも行かない。ここに、いる…。」

 俺は顔を上げて、爽やかな五月の大気を吸った。
 空を見て…クウガだった時の勇気と信頼を、思い出していた。
 望みを叶える為に、どこまでも走って行こうと思ったことを。
 もう一歩、少しでも高く、心を伸ばし、昇ろうとしたことを。
 あの…力の満ちていく感覚。そして…
 必ず、この人だけはいてくれる、どこまでも見届けてくれる、と信じたことを。
 光に包まれ、祝福を受け、暖かい風に後ろから押されるように…。
 どこまでもどこまでも一緒に駆けていける、と信じたことを。

「一条さん…」

「なに?雄介…?」

 強く優しい俺の恋人が、俺の名を呼んでいた。
 俺は、空を見たまま、呟いた。

「俺…キスしたい…」

 苦笑する気配がする。
 周りを見回す間合いがあって、指が俺の顎を捕らえて、向きを変える。

「わかってくれた?雄介…?」

 俺が見つめて頷くと、優しい唇が俺の頬をかすめた。

「続きは帰ってからだ…。
 行くぞ…五代。」

 耳慣れた司令官の呼び声に、俺は反応する。

「はい。」

 立ち上がった俺を見上げ、一条さんは笑った。
 微笑が…俺を照らす。

「元どおり、『五代』のほうがいいのかな?」

 俺は首を振って、一条さんの手を引いた。

「クウガだった『五代』は、『雄介』になりました。
 これが最後の変身…これで完全、これで最強です。
 行きましょう、一条さん…。」

 クウガになる前の俺、クウガだった時の俺、クウガではなくなってからの俺…。
 三つの自分が融合してひとつになり、完成されていくのを、俺は感じた。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 ゆっくり買い物をした。
 スーパーのワゴンを押しながら、あれこれ二人で選びながら、時には言い争いながら。
 そんなことも、もちろん初めてで…。

「雄介…皿も買おう。ふたつ。」

 スーパーを出たところで、一条さんが俺を振り返って言う。
 ああ、やっぱり覚えていたんだね…。

「はい…すき焼きにも、おでんにも使えるのにしましょうね〜」

 一条さんが笑って頷く。

「なんか…夢みたいですね…」

「そうだな…」

 たかが皿を二枚買うことを、俺たち以上に嬉しく思う人は絶対いない、と思う。
 でも、本当にこんな日が来るなんて…俺たちには思えなかったから。
 一条さんは黙って、食器屋の棚の前で、二人で選んだ皿を見つめていた…。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 ハンバーガーとコーヒーで昼飯にして。
 すき焼きの用意と、快気祝のハンカチの包みとを二人で抱えて帰って来たのは、けっこう午後遅くになっていた。
 今度、玄関で一条さんの首にかじりついたのは、俺だった。

「おい…荷物…」

「そのへんに置いて…」

「靴も脱いでない…」

「こっちが先です…」

「すき焼きは…」

「飢えてるなら、まず俺を…」

「雄介…おまえを喰うと腹が減るんだ…」

 そんなじゃれ合いをしながら、また俺たちはくちづけ合っていた。

「やっぱり…公園よりいいです…キスできる…」

「だから、言っただろ…?」

 昨日はまだ残っていた、病院の味はもうなかった。
 一条さんは、太陽と青葉の匂いがした。

「一条さん…一条さん…好き…大好き…
 俺をまた、空に放してくれるの…?」

「雄介…自由に翔んで…自由に帰っておいで…」

 そう言ってから、一条さんはまた笑う。

「ただ…連絡はしてくれ…
 あまり放っておくと、俺は狂うぞ…」

「はい…でも、俺、どこに行ってもすぐに帰って来そう…
 できるだけ、あなたのそばにいたい…」

「じゃあ…そばにいてくれ…おまえの望むままに…」

 一条さんは、銀の透明な水で、俺の焦げ付いた心を洗っていた…。
 焼け付くような切迫感が、消えていく…。
 「離れられない」ではなく、「離れたくない」へと。
 「そばにいなければ」から、「そばにいたい」へと。
 あなたは、俺を縛らない。
 俺を縛っていたのは、俺自身だった。
 俺はまた自由になる…どこにでも行ける…また闘う…俺の闘いを。
 あなたの愛を得て、一層自由に、俺は翔ぶ。
 自由への扉の、鍵はとても単純だった…。

「俺…あなたを信じます…。」

 俺は一条さんを見つめて、言う。

「あなたは何も変わらないのに…俺は見失った…。
 もう一度、信じます。
 いつもいつも、いつまでも、どこまでも信じます。
 それで、俺は自由だ…あなたも自由だ…。
 一緒に生きていきましょう…ね。」

 一条さんは、微笑む。
 俺の…銀の神…。

「信じてくれ。俺は、裏切らない…。
 おまえを信じているよ、俺も。
 いつも、いつまでも、どこまでも…。
 共に生きよう…な、雄介。」

 一条さんは、優しくそう言って、ずっと俺を見つめていた。
 静かな深呼吸を、ひとつした。
 それから俯いて、ゆっくりと足許に荷物を置く。

 そして、目を上げた一条さんの瞳は…不思議な凶暴な色を宿していた。
 いきなり手を伸ばして、俺の髪に差し入れて掴む。
 髪を掴んで、乱暴に俺を仰け反らせたのは左手で、力は強かった。

「一条さん…左手…いたたた…」

「ふふ…雄介が欲しくて…どんどん治る…」

 仰け反った俺の喉に、一条さんが噛みついてくる。

「腹が減った…喰わせてくれ…」

 俺の喉を噛んだまま、右手は俺のTシャツの下に入り込み、肌をまさぐり始めている。

「あっ食いついたのは俺なのに…」

「…飢えてるなら、食えと言ったじゃないか…」

 歯が首筋に移動していく。ぞくぞくした。

「…一条さん…髪、放して…」

「…いやだ…」

 Tシャツの下の指は脇腹から胸に這い上がる。歯は耳を狙っているらしい。

「…一条さん…肉を冷蔵庫に…」

「…いやだ…おまえを食べることにした…」

「ひどい…俺が、食べる筈、だったのに…ああっ!!」

 とうとう、壁に押し付けられて、耳を噛まれてしまった。
 それから、容赦なく耳の中に舌が差し込まれた。仰け反らされたままで、濡れた音と感触に、俺は喘いだ。

「…雄介だって…耳は弱いじゃないか…
 俺の耳、ばっかり、喰って…」

 舌でねぶられながら、耳許で囁かれる声がたまらない。
 一条さんは左手で俺の髪を掴んで仰け反らせ、右手は胴に巻いて抱きしめてくる。
 おまけに、両足の間に脚までねじ込んで来て、刺激する。

「い、ちじょ…さん…!」

 俺は、片手にスーパーの袋を持ったまま、悶えた。
 唇が耳を離れ、また首筋に落ちて噛み、きつく吸われる。

「ああ…そんなところに…つけないで…」

 吸われる痛みが快感だった…。

「…雄介…美味しいよ…」

 攻めに転じた一条さんは、めちゃくちゃに俺を挑発する。
 とっくに勃ち上がった息子が、ジーンズの中で痛い。

「い…一条さん…許して…」

 とうとうギブアップした。

「後で…ちゃんと食べさせてあげるから、髪、放して…」

 俺の髪を掴んでいた指が緩み、そのまま腕が首に巻き付いて、一条さんは俺に頬を擦り寄せる。
 俺の耳許で、息が弾んでいた。

「痛かった…?ごめん…でも、喰わせて…本当に…」

 俺は、自由になった頭を巡らして、一条さんの頬に唇を押し当てる。
 顔を上げた一条さんは…完全に発情して、僅かに震えていた。
 燃えるような上目使いで俺を見ていた。唇がまくれ上がり、歯を剥いている。歯の間に、濡れた舌が覗いている。舌の先で自分の歯をなぞり、自分の唇を辿っていた。

「今…?」

 声がかすれてしまう…。
 いつだって、情事の時の一条さんは最高に色っぽかったけれど…こんなに欲情を剥き出しにした一条さんは初めてだった。青白い炎が一条さんの全身から立ちのぼっているようだった。

 「信じる」という鍵の言葉は、俺を自由にして…同時に、一条さんも解き放った…。

 一条さんは、苦しそうに眉を寄せて、目を細め、うっすら笑う。

「肉を…しまうまでなら…待ってやる…」

 それでも、一条さんは、全身で俺に絡み付いたまま、離そうとしない。
 俺を見つめたまま、おそろしく淫靡に微笑みながら、俺の唇を舐め、柔らかく舌を入れて来る。両手は俺の首と身体をまさぐり、腰を寄せ昂りを擦り合わせる。

「おまえ…好きだ…好きだ…とても…好きだ…欲しい…食いたい…」

 顔を舐め回しながら、合間に絶え絶えに囁く。
 一気に温度が上がっていた。
 過激な挑発に俺は悶えて狂い、とうとう抑制が完全に外れて、吹っ飛んでしまう…。

 まだ片手に持っていたスーパーの袋を離し、思いきり抱きしめて、誘う唇をむさぼる。そうしながら、スニーカーを脱ぎ捨てた。一条さんもなんとかして、靴を脱いでしまったらしい。からまり合いながら、ベッドへと向かう。くちづけ合いながら、引きむしるようにシャツを脱がし合っていた。
 もう言葉もない。ふたつの荒い息遣いだけが聞こえる。無我夢中だった。
 何か布が裂ける音がしたけれど、二人ともかまわなかった。ジーンズもチノパンも、いつの間にかファスナーを降ろし合い、脱がせ、脱ぎ捨てていった。ベッドの前でシャツをはがし合い、靴下も下着も蹴り捨てて、とうとう二人共裸になって、もつれ合ってベッドに倒れ込んだ。
 俺が上になろうとすると、態勢を入れ替えられ、押さえ込まれた。

「駄目だよ…俺が食う…食わせて…」

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