『終章:明日』 -3
嬉しいばかりで、昼飯を食べ忘れたのに気付いたのは、もう夕方近くだった。二人共、さすがに腹が減っていた。 「俺、買い物に行ってきて、何かつくりますよ。」 「何か取ればいいじゃないか。」 「つくったほうが旨いですよ、俺行ってきます。」
「スーパーはちょっと遠いんだ。 「駄目です、一条さんは今日は留守番しててください。」 「いつまでも病人扱いするな。」 「さっき目を回したじゃないですか。」
なんて…また、痴話喧嘩をしていたところに、ドアチャイムが鳴った。
「おお。元気そうだな。 うわ…椿さんだ…。 「ああ…上がれよ。」
笑いを含んだ一条さんの声が応えている。 「おお、いたな、馬鹿。」 「はい…いらっしゃい、椿さん…」
俺はしかたなく応える。
「邪魔しに来てやったぞ。
と、大きなスーパーの袋を差し出す。
「ちょうど腹減ったところで…助かりました。
「そうだ。早く作ってくれ。 「げ。椿さんも食べるんですか?」 「当たり前だ。」 椿さんの後から戻って来た一条さんが、横で笑っている。 「一条さん、卓上コンロ、あります?」 「雄介…そんなものはない、ある筈がないだろう?」 「…ですよね。じゃあ、レンジでつくって、こっちに鍋ごと運んで食べましょう。」
俺はさっそく、キッチンに食料を運び込む。
「雄介…だと?
椿さんは持参したビールを飲み始め、一条さんもちびちび付き合っていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 「どうなんだ?術後の経過は?」 しばらく黙っていた後、椿さんが訊いていた。 「さぁ。退院させてくれたぐらいだから、いいんじゃないのか?」 一条さんが、人ごとみたいに応えて、椿さんは舌打ちする。
「まったく…おまえは相変わらず自分のことは無頓着で… 「すまない…椿、感謝している…。」
一条さんが、優しくさらりと言って…椿さんが一瞬詰まるのが、俺にはわかった。
そんなことを思って、豆腐の切り方は不揃いになってしまった。 「…後遺症はないのか?」 「左肩に少し痺れがある。もう大分消えてきたが。」 「見せてみろ。」
一条さんは、平気でシャツのボタンをはずしていく。 (一条さん…やめて…) 「おお。派手な傷になったな。勲章か?」 一条さんは、胸まではだけてしまったらしかった。 「勲章にはならない…。」 一条さんが憮然とした声で応え、椿さんは楽しそうに笑った。 「で、肩の痺れは…?このへんか?」 「…つっ…」 俺はもう我慢がならずに、叫んだ。 「椿さん!やめてください!」 キッチンから飛び出すと、一条さんのむきだしの肩を掴んだままの椿さんが、俺を見上げた。口を歪めて少し笑う。 「五代…妬いたのか…?」 一条さんも、心配そうに俺を見上げていた。 「は…い…。」
「馬鹿野郎。俺は医者だぞ。 「雄介…おいで…。」
一条さんが、右手で俺を引き、自分の横に座らせる。 「ここはどうだ?」 「いや…どうもない。」 触診はまだ続くらしくて…俺はトイレに立った。
俺…まだ嫉妬している…。 俺はトイレの中で、さんざんため息をつき、それから水を流して、出た。 出たところで、またドアチャイムが鳴った。 「雄介…出られるか?」 一条さんの声がして、 「はい。」 俺が扉を開けると、目の前は白いバラの花だらけで… 「退院、おめでとうございます!」 今度は、亀山さんだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そういうわけで、結局、鍋は男四人で囲んでいた。 「…それでな、その子は実に骨格がいいんだ。」
椿さんは、また新しい彼女ができたらしかった。 「骨格がいいと、何かいいことがあるんですか?」
亀山さんが真面目に訊いていて、可笑しい。 「そりゃあ、美しいじゃないか!」 椿さんの理屈は相変わらず、よくわからない。
一条さん以外は、みんな女性なんだね、椿さん…。
考えてみると、不思議な状況だ。 と、思った時、亀山さんがふいに一条さんのほうを向いて言った。 「一条さんは…誰か好きな人がいるんですか?」 一瞬、沈黙があって。 「いるよ…。」 一条さんが、応えていた。 「やっと、会えた…。」
沈黙の中に、一条さんの静かな声が沁みた。 「…お付き合いしてるんですか?」 「そうだな…。お付き合いと言えるかどうか…。」
一条さんはちょっと苦笑し、椿さんはにやにや笑っていた。
「じゃあ、アタックしてる最中なんですね。 亀山さんは執拗で…俺はだんだんはらはらしてきた。
「ありがとう。今は、近くにいるんだ。
一条さんは、普通にさらっと言う。
「…そうですか。
最後は、呟きになっていった。 「おい。おまえ、いつから仕事に出るつもりだ?」 椿さんがひょいと話題を変える。 「明日から出ようと思っているが?」 一条さんが応えて…
「やめろ」
三人の声が、一気に重なった。 「おい…そんなに病人に見えるのか?」 「もう二、三日は、家で身体を慣らせ。」 「今は別に事件もありませんから。」 「まだ体力が戻っていないですよ。」 また総攻撃されてしまう。
「わかった…。しかたない。 椿さんが苦笑して、ため息をつく。
「相変わらず頑固だな。 それから、椿さんの小言が延々と続き、一条さんは笑って聞いていた。 俺は、一条さんを見ていた。 「…おまえだって、けっこう徹夜続きじゃないか…。」
言葉にだるい響きが混じってきていた。 「うちの署じゃありませんが、警察でも過労死は時々ありますね。」
「そうだろう?警察なんて、過激なところじゃ無理もないんだ。 話が、椿さんと亀山さんのほうに移った間に、俺は尻をずらし、ベッドに寄り掛かっていた一条さんの横に移動した。 「…疲れたんじゃないですか…?」
耳許で囁くと、ぼんやりしていた感じの一条さんは俺を見て、ちらっと笑った。
ふと気付くと、部屋の中はまるっきり静かになっていて…。 椿さんが、何気なく言う。
「…主役はお疲れだ。 「五代さんは…?五代さんは、帰らないんですか?」 亀山さんの声が強張っている。 「俺は…今んとこ帰る家もないので、泊めてもらいます。」 のんびりした声になるように、俺は応える。一条さんを起こしたくなかった。 「…五代さん…なんですか?一条さんの好きな人…って。」
どう応えたらいいのか…俺は、少し困った。 「邪魔者は消えたほうがいいよ…亀山くん?」 「じゃあ…五代さん、なんですね?」
椿さんも、俺も、応えなかった。 「…だって!だって!…五代さんは、男じゃないですか!」
悲鳴のようだ…と、俺は思う。応える気になれなかった。 「…亀山くんも俺も男だろう?」
からかうように、椿さんが言う。 「僕は!違います!そんなんじゃなくて…」 「違わないさ…。」 椿さんが呟く。それが聞こえないのか、亀山さんは俺に向かって言う。
「五代さん、あなたはいいかもしれないけど! 俺は黙っていた。
「…こいつらは、さんざん苦しんできて、やっと今、ここでこうしている…。 椿さんが静かに訊いた。 「一条さんの立場が悪くなるのはいやですけど…俺は何と言われても、かまいません。」 俺も静かに応えた。そんなことは、本当になんでもなかった。
「薫も気にしないだろうさ。
「い…一条さんに聞かないと…僕は納得できません。 亀山さんが近寄って来ようとしながら大声を出したので、俺は一条さんを庇おうとした。 「よせ!」 椿さんの声が低くなり、亀山さんを手で制止した。 「…あれを見て、わからないのか?」
そう言って、俺たちを顎でしゃくって示す。 「好きならば、幸せを願ってやれよ…。」
「願ってます!一条さんには幸せになって欲しいです。 椿さんは、ため息をついた。
「月並みな結婚なんて、薫は望んでいない…。
椿さんは立ち上がり、亀山さんの肘を取って、立ち上がらせた。 「亀山さん…」 悲しい憧れで焼けつくようになっている亀山さんの目を見ながら、俺は言う。
「すみません…
亀山さんの目が、痛々しく逸らされる。
「五代、御馳走さん。 俺は苦笑した。 「椿さん、ありがとう…すみませんでした。」 「いい加減に、焼きもち亭主は卒業しろよ。」 「はい。」 椿さんは笑って、しょんぼりうなだれてしまった亀山さんの肩を叩き、玄関のほうに促しながら、振り返る。 「五代…」 「はい。」
「動かしている間にだんだん治る筈だが、左に僅かに麻痺が残るかもしれん。 「はい。」 「このまま帰るからな。ちゃんとベッドに寝かせてやれよ。」 「はい。」 「じゃあな。」
行こうとして最後に、椿さんは、俺の肩にもたれて眠っている一条さんを見た。 「…亀山くん、俺なんか、もう何年もふられ続けているんだからな…」 妙ななぐさめかたをしている椿さんの声が聞こえて、やがてドアが閉まり、静かになって…俺たちは、また二人になった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一条さんは、すっかり寝入ってしまって、動かない。柔らかく暖かく俺にもたれている。
ふと思い出していた。
今は、あの時よりもずっと嬉しい…。
ごめんなさい…亀山さん…。ごめんなさい…椿さん…。
一条さんがあなたたちのどちらかを選ぶなら…
けれど…この人は俺だけを愛している…。
俺の命にそれだけの価値があるのか…俺には、わからない。
あきらめて、他の人を愛して欲しい…とは、俺には思えなかった。
でも…できるならば、そうしてください…。 この人は…俺のものです…。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ それから、俺は、現実的な心配もした。
亀山さんにあんなことを言ってしまってよかったのかどうか…俺にはわからなかった。
そして…また、椿さんに助けられてしまった…。
しばらく、そうやってあれこれ考えながら、俺は眠る一条さんを抱いて座っていた。
俺は、まだ幸福に慣れていなかった。
でも…そろそろ起こして、ちゃんとベッドで眠ってもらわないと…。 「…一条さん…」 とうとう決心して、俺は呼びながら、静かに揺する。 「…一条さん…起きて…ベッドで寝てください…」
眠りが深い。 「…一条さん…起きて…」 腕の中の一条さんが、身じろぎする。 「…雄介…?」 「…一条さん…起きた?ベッドで眠ってください…」 俺にもたれて抱かれたまま、一条さんは呟く。 「俺…寝ていた?」 「はい…ビールも飲んだから…」
「ああ…少し、酔ったかな…
一条さんの表情は見えないけれど、声はぼんやりしていた。 「はい…」 俺は、亀山さんのことを話そうかどうか、迷った…。
「何か…騒いでいなかったか? 少しずつ、声がしっかりしてきていた。 「はい…。」 「何か…言われたの?雄介…。」 「…俺たちは…ホモだ、と…。」 「ホモ…か…。」 一条さんは、俺に身体を預けたまま、静かに笑っていた。 「雄介も俺も男なんだから…確かに俺たちはホモなんだろうな…」
一条さんは身体を起こそうとした。 「雄介…重くなかった?」 「いえ。俺、嬉しかったです。」 一条さんはまた笑って頭を傾け、俺の頬に軽くくちづけた。 「おまえが来てくれたので、安心して眠ってしまった…。」
俺は、一条さんにただ見惚れていた。 「雄介…おまえはホモなの?」
いつものように直線的に、静かに訊いてくる。
「いえ…俺は、男でも女でも気になりません…女の人も、抱けます。 一条さんは、首を傾げて聞いていた。
「そうだな…俺もそんな感じだ。 一条さんは、くすくす笑っている。
「一条さん…いいんですか?
「さぁ…どうかな。俺はどうでもいい。 「はい…。」
亀山さんのことを、もう少し訊こうか、と俺は一瞬思った。 「雄介…おまえはいいの?」
「俺は全然かまいません。何か言う人もいないでしょう。 「そうか…。」 一条さんは俺に微笑み、それからベッドによりかかって両手を上げ、大きく伸びをした。
「ああ…気持ちがいい…。 「やめてください。せめて明日は休んで…。」 一条さんが笑って俺を見る。
「わかっているよ…雄介…。 また顔を傾けて、俺に軽くくちづける。
「あまり、心配するな…雄介。 「はい。なんだか、どんどん元気になってますね。」
傷が治っていくのが、見えるみたいだった…。 「俺には雄介が一番効くんだ…。」 笑顔が輝く。俺もただ嬉しくて笑う。
「でも、今夜は着替えて、もう寝てください。 「すっかり家政婦になってしまったな。」 「けっこう好きですから…嬉しいんです、俺。」 「あまり世話をされると、甘え癖がつきそうだ。」 「甘えてください。」
一条さんはまた笑い、礼代わりにまた軽くくちづけて立ち上がる。
「さぁ、じゃあ邪魔しないように、俺は寝よう。 「はい。」 「ああ…おまえのパジャマが、どこかにあるよ。」 「あ、俺、もう見つけました。持って来てくれたんですね。」
当たり前だろう?という顔をして、一条さんは服を脱ぎ、パジャマに着替え始める。 (今夜は抱かない…) 俺は決めていたのだけれど、一条さんの肌を見ると、また暴走してしまいそうだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
片付けを終えて、パジャマに着替えて、戸締まりを確かめ、キッチンだけにしていた灯を消した。
二人共、無言だった。 「…眠って、いなかったの?」 俺は囁く。 「うん…うとうとしていた…。」
一条さんも小さく応える。 「一緒に眠るのは…久しぶりだ…。」 「はい…俺も、そう思ってました…。」 「雄介…しあわせ?」 「はい…とても。」 暗闇の中で、一条さんが満足そうにため息をつく。 「俺も…とても、しあわせだ…。」
少し目が慣れてきていた。
「雄介…勃っているよ。 俺も笑って腰を引く。
「駄目です。触らないで…。 「俺は…元気なのに。」 「明日…本当に元気だったら…」 「うん…」 一条さんが少し身動きして、俺の腕の中で眠る姿勢を探す。 「雄介…」 「はい…」 「雄介…」 「はい…」 「愛しているよ…」 「はい…俺も…とても愛しています…」 額を探して、軽くくちづけた。 「雄介…目が覚めても…いてくれる?」 「いますよ…明日の朝も、あさっても…ずっと…」
一条さんも、まだ幸福に慣れていない…。
俺は、戻って来た。何も、あなたには触れさせない。すべてのものから、俺は守る…。 「…おやすみ…雄介…」 「はい…おやすみなさい…」
呟きが果てて、一条さんが静かに眠りに落ちていく。
あの頃も、あなたは俺の腕の中で眠った。 一条さんの髪にひとつくちづけて、俺も目を閉じた。 |