『終章:明日』 -3


         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 嬉しいばかりで、昼飯を食べ忘れたのに気付いたのは、もう夕方近くだった。二人共、さすがに腹が減っていた。

「俺、買い物に行ってきて、何かつくりますよ。」

「何か取ればいいじゃないか。」

「つくったほうが旨いですよ、俺行ってきます。」

「スーパーはちょっと遠いんだ。
 行くなら俺も行く。」

「駄目です、一条さんは今日は留守番しててください。」

「いつまでも病人扱いするな。」

「さっき目を回したじゃないですか。」

 なんて…また、痴話喧嘩をしていたところに、ドアチャイムが鳴った。
 一条さんが一瞬首を傾げ、立って玄関に出て行った。
 ドアを開ける音がして、聞こえてきた声は…

「おお。元気そうだな。
 退院だと聞いたから、来てやったぞ。
 馬鹿はどうした?いるんだろう?」

 うわ…椿さんだ…。

「ああ…上がれよ。」

 笑いを含んだ一条さんの声が応えている。
 椿さんはどんどん上がって来た。

「おお、いたな、馬鹿。」

「はい…いらっしゃい、椿さん…」

 俺はしかたなく応える。
 椿さんは、にんまり笑った。

「邪魔しに来てやったぞ。
 どうせ何もないだろうから、食料付きだ。ほら。」

 と、大きなスーパーの袋を差し出す。
 これは、すごくありがたかった。
 中を覗くと、豆腐やら肉やら野菜やらうどんやら、いろいろ入っている。

「ちょうど腹減ったところで…助かりました。
 鍋…ですか、これは。」

「そうだ。早く作ってくれ。
 俺も腹が減った。」

「げ。椿さんも食べるんですか?」

「当たり前だ。」

 椿さんの後から戻って来た一条さんが、横で笑っている。

「一条さん、卓上コンロ、あります?」

「雄介…そんなものはない、ある筈がないだろう?」

「…ですよね。じゃあ、レンジでつくって、こっちに鍋ごと運んで食べましょう。」

 俺はさっそく、キッチンに食料を運び込む。
 椿さんの脇を通り過ぎた時に、呟きが聞こえた。

「雄介…だと?
 ちっ…また色っぽくなりやがって…」

 椿さんは持参したビールを飲み始め、一条さんもちびちび付き合っていた。
 二人はのんびりと、世間話をしていたけれど…
 でも、俺は鍋の用意をしながら、目を離さなかった。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「どうなんだ?術後の経過は?」

 しばらく黙っていた後、椿さんが訊いていた。

「さぁ。退院させてくれたぐらいだから、いいんじゃないのか?」

 一条さんが、人ごとみたいに応えて、椿さんは舌打ちする。

「まったく…おまえは相変わらず自分のことは無頓着で…
 俺がいなかったら、二度ぐらいは死んでいたんだぞ。」

「すまない…椿、感謝している…。」

 一条さんが、優しくさらりと言って…椿さんが一瞬詰まるのが、俺にはわかった。
 一条さんは何の意識もせずに、普通に礼儀を尽くしているだけなんだろうけれど…。
 言っているのが一条さんだから…あの目で見つめられて、ああいうふうに言われると、みんな何か誤解したくなってしまって、狂ってしまうんだ…。
 ああ…俺、やっぱり前途多難かも…。

 そんなことを思って、豆腐の切り方は不揃いになってしまった。
 椿さんはさすがに慣れているらしくて、一瞬で立ち直った。

「…後遺症はないのか?」

「左肩に少し痺れがある。もう大分消えてきたが。」

「見せてみろ。」

 一条さんは、平気でシャツのボタンをはずしていく。
 俺は…包丁を置いた。

(一条さん…やめて…)

「おお。派手な傷になったな。勲章か?」

 一条さんは、胸まではだけてしまったらしかった。

「勲章にはならない…。」

 一条さんが憮然とした声で応え、椿さんは楽しそうに笑った。

「で、肩の痺れは…?このへんか?」

「…つっ…」

 俺はもう我慢がならずに、叫んだ。

「椿さん!やめてください!」

 キッチンから飛び出すと、一条さんのむきだしの肩を掴んだままの椿さんが、俺を見上げた。口を歪めて少し笑う。

「五代…妬いたのか…?」

 一条さんも、心配そうに俺を見上げていた。

「は…い…。」

「馬鹿野郎。俺は医者だぞ。
 とっくにそんな気はない、と言っただろう?」

「雄介…おいで…。」

 一条さんが、右手で俺を引き、自分の横に座らせる。
 一瞬髪に触れ、大丈夫だから…と目で告げる。
 俺は一条さんの横に膝を抱えて座り、俯いて額でかすかに一条さんの右肩に触れる。
 少しずつ胸のざわめきが引いていき、馬鹿なことをしてしまった…と思うようになる。

「ここはどうだ?」

「いや…どうもない。」

 触診はまだ続くらしくて…俺はトイレに立った。

 俺…まだ嫉妬している…。
 俺…まだ不安なんだ…。
 椿さんはああ言うけど、まだ想いを残していることも、俺は知っていて…
 親友だ、というあの関係にも妬いていた…。
 一条さんに心配させてしまった…。

 俺はトイレの中で、さんざんため息をつき、それから水を流して、出た。

 出たところで、またドアチャイムが鳴った。

「雄介…出られるか?」

 一条さんの声がして、

「はい。」

 俺が扉を開けると、目の前は白いバラの花だらけで…

「退院、おめでとうございます!」

 今度は、亀山さんだった。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 そういうわけで、結局、鍋は男四人で囲んでいた。
 椿さんと、亀山さんは、よく食べた。
 椿さんは、よくしゃべった。

「…それでな、その子は実に骨格がいいんだ。」

 椿さんは、また新しい彼女ができたらしかった。
 桜子さんのことはあきらめたのかな…。
 不思議なカップルになりそうだったのに…。

「骨格がいいと、何かいいことがあるんですか?」

 亀山さんが真面目に訊いていて、可笑しい。
 一条さんは、いつもどおりあまり話さずに聞き役に回り、楽しそうに笑っていた。

「そりゃあ、美しいじゃないか!」

 椿さんの理屈は相変わらず、よくわからない。

 一条さん以外は、みんな女性なんだね、椿さん…。
 きっと、一条さんだけが特別なんだよね、椿さん…。
 一番美しいと思っているのは、きっと今も一条さんなんだ…。

 考えてみると、不思議な状況だ。
 一条さんを好きでしょうがない男が三人も揃って、白バラに囲まれて鍋をつついている…。

 と、思った時、亀山さんがふいに一条さんのほうを向いて言った。

「一条さんは…誰か好きな人がいるんですか?」

 一瞬、沈黙があって。

「いるよ…。」

 一条さんが、応えていた。

「やっと、会えた…。」

 沈黙の中に、一条さんの静かな声が沁みた。
 椿さんはちょっと笑っただけだったけれど、亀山さんは顔を引き攣らせてしまった。

「…お付き合いしてるんですか?」

「そうだな…。お付き合いと言えるかどうか…。」

 一条さんはちょっと苦笑し、椿さんはにやにや笑っていた。
 俺は何気なく、キッチンのほうを眺めることにした。

「じゃあ、アタックしてる最中なんですね。
 うまくいくといいですね。
 東京の人なんでしょう?」

 亀山さんは執拗で…俺はだんだんはらはらしてきた。

「ありがとう。今は、近くにいるんだ。
 うまくいくんじゃないか、と俺は思っているんだが…。」

 一条さんは、普通にさらっと言う。
 椿さんは、顔を背けて苦笑している。
 亀山さんは、またちょっと引き攣る。

「…そうですか。
 一条さんが好きになるんなら、すてきな人なんでしょうね…。」

 最後は、呟きになっていった。
 一条さんは、ただ微笑んで、応えなかった。

「おい。おまえ、いつから仕事に出るつもりだ?」

 椿さんがひょいと話題を変える。

「明日から出ようと思っているが?」

 一条さんが応えて…

「やめろ」
「駄目です」
「無理しないでください」

 三人の声が、一気に重なった。
 一条さんは、笑った。

「おい…そんなに病人に見えるのか?」

「もう二、三日は、家で身体を慣らせ。」

「今は別に事件もありませんから。」

「まだ体力が戻っていないですよ。」

 また総攻撃されてしまう。

「わかった…。しかたない。
 明日は家で静養する。明後日から出る。
 それでいいだろう?」

 椿さんが苦笑して、ため息をつく。

「相変わらず頑固だな。
 過労死が増えているんだぞ、今は。
 肉体労働者だけじゃない、サラリーマンが死ぬんだ。
 おまえみたいな仕事人間は一番危ないんだぞ。」

 それから、椿さんの小言が延々と続き、一条さんは笑って聞いていた。  俺は、一条さんを見ていた。

「…おまえだって、けっこう徹夜続きじゃないか…。」

 言葉にだるい響きが混じってきていた。
 一条さんが疲れてきている、と俺は思う。

「うちの署じゃありませんが、警察でも過労死は時々ありますね。」

「そうだろう?警察なんて、過激なところじゃ無理もないんだ。
 亀山くん、胸が痛かったりするのは危険信号だぞ?」

 話が、椿さんと亀山さんのほうに移った間に、俺は尻をずらし、ベッドに寄り掛かっていた一条さんの横に移動した。

「…疲れたんじゃないですか…?」

 耳許で囁くと、ぼんやりしていた感じの一条さんは俺を見て、ちらっと笑った。
 そして、一条さんはそのまま目を閉じ、すっと俺の肩にもたれてきた。
 俺はとっさに身体を開いて、腕を回して一条さんの頭を肩の窪みのところで受け止めて…一条さんは、一度身動きして安定する場所を見つけ、そのまま俺に重みを預けて…眠ってしまった。
 やっぱり…疲れていたんだ…。

 ふと気付くと、部屋の中はまるっきり静かになっていて…。
 亀山さんが、真っ青な顔をして、俺たちを見つめていた…。

 椿さんが、何気なく言う。

「…主役はお疲れだ。
 亀山くん、そろそろ引き上げないか?」

「五代さんは…?五代さんは、帰らないんですか?」

 亀山さんの声が強張っている。

「俺は…今んとこ帰る家もないので、泊めてもらいます。」

 のんびりした声になるように、俺は応える。一条さんを起こしたくなかった。

「…五代さん…なんですか?一条さんの好きな人…って。」

 どう応えたらいいのか…俺は、少し困った。
 横から椿さんが、応えてくれる。

「邪魔者は消えたほうがいいよ…亀山くん?」

「じゃあ…五代さん、なんですね?」

 椿さんも、俺も、応えなかった。
 亀山さんは、俺にもたれて眠る一条さんと俺を、見つめてた。

「…だって!だって!…五代さんは、男じゃないですか!」

 悲鳴のようだ…と、俺は思う。応える気になれなかった。
 亀山さんの声が大きくなったので…俺は腕の中の一条さんが気になった。でも、起きる様子はない。
 少しビールも飲んだんだっけ…明日出勤なんて…やっぱり無理だよ、一条さん…。

「…亀山くんも俺も男だろう?」

 からかうように、椿さんが言う。
 ちょっと沈黙があり、意味がわかってきて、亀山さんは今度は真っ赤になった。

「僕は!違います!そんなんじゃなくて…」

「違わないさ…。」

 椿さんが呟く。それが聞こえないのか、亀山さんは俺に向かって言う。

「五代さん、あなたはいいかもしれないけど!
 駄目です、一条さんが…男の恋人なんて…。
 あなたのせいで…一条さんが、ホモだって…言われちゃうんですよ!
 それでもいいんですか、五代さん!」

 俺は黙っていた。

「…こいつらは、さんざん苦しんできて、やっと今、ここでこうしている…。
 そのくらいでガタガタするとは思えないがな…。どうなんだ?」

 椿さんが静かに訊いた。

「一条さんの立場が悪くなるのはいやですけど…俺は何と言われても、かまいません。」

 俺も静かに応えた。そんなことは、本当になんでもなかった。

「薫も気にしないだろうさ。
 だが、そっとしておいてやれよ、亀山くん。」

「い…一条さんに聞かないと…僕は納得できません。
 起きてもらって…聞きます!一条さん!」

 亀山さんが近寄って来ようとしながら大声を出したので、俺は一条さんを庇おうとした。

「よせ!」

 椿さんの声が低くなり、亀山さんを手で制止した。

「…あれを見て、わからないのか?」

 そう言って、俺たちを顎でしゃくって示す。
 亀山さんは俺たちを見つめ…泣きそうな顔になった。

「好きならば、幸せを願ってやれよ…。」

「願ってます!一条さんには幸せになって欲しいです。
 すてきな奥さんを貰って、家庭を持って…。
 でも、男同士なんて…駄目です!」

 椿さんは、ため息をついた。

「月並みな結婚なんて、薫は望んでいない…。
 一条薫の幸せは、この馬鹿だけなんだよ…。
 さぁ…帰ろう。そのへんで一杯飲もうか。」

 椿さんは立ち上がり、亀山さんの肘を取って、立ち上がらせた。
 亀山さんはぎくしゃく立ち上がりながら、まだ俺たちを見ていた。

「亀山さん…」

 悲しい憧れで焼けつくようになっている亀山さんの目を見ながら、俺は言う。

「すみません…
 でも…もう、離れられないんです。
 離れたら、生きていけない…たぶん、一条さんも。」

 亀山さんの目が、痛々しく逸らされる。
 椿さんの、落ち着いた声が言った。

「五代、御馳走さん。
 馬鹿のわりには料理がうまいな。」

 俺は苦笑した。

「椿さん、ありがとう…すみませんでした。」

「いい加減に、焼きもち亭主は卒業しろよ。」

「はい。」

 椿さんは笑って、しょんぼりうなだれてしまった亀山さんの肩を叩き、玄関のほうに促しながら、振り返る。

「五代…」

「はい。」

「動かしている間にだんだん治る筈だが、左に僅かに麻痺が残るかもしれん。
 気をつけてやってくれ。」

「はい。」

「このまま帰るからな。ちゃんとベッドに寝かせてやれよ。」

「はい。」

「じゃあな。」

 行こうとして最後に、椿さんは、俺の肩にもたれて眠っている一条さんを見た。
 一瞬、苦しい表情になり、それから、とても優しい目で笑った。
 そして、一条さんから目を離し、亀山さんを押すようにして、玄関に出て行った。

「…亀山くん、俺なんか、もう何年もふられ続けているんだからな…」

 妙ななぐさめかたをしている椿さんの声が聞こえて、やがてドアが閉まり、静かになって…俺たちは、また二人になった。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 一条さんは、すっかり寝入ってしまって、動かない。柔らかく暖かく俺にもたれている。
 その重みが嬉しくて、シャンプーの匂いのするさらさらの髪に、俺は僅かに頬を擦り寄せる。

 ふと思い出していた。
 あの、教会の中で俺が初めて赤いクウガになり、闘った夜が明けた時…。
 気を失っていた一条さんは、やはりこうやって俺の肩にもたれていた。
 身体が冷えないように、と思って俺は自分の身体を一条さんの枕にして、座っていたんだっけ。
 俺は、もうとっくにこの人が大好きで、でも、まだ今程には愛していなかった。
 クウガになってしまった運命を考えながら、俺はあの時も、肩にかかる重みが嬉しくて、なんだか楽しいような気分で、一条さんが目を覚ますのを待っていた。
 ずいぶん…遠い昔のことのように思える。

 今は、あの時よりもずっと嬉しい…。
 この人が安心して、俺の肩にもたれて眠ってくれることが、今は涙が出るほどに嬉しい…。
 でも、この嬉しさには、少しだけ悲しみも混じっている…と、俺は思う。
 もしかしたら、すべての幸福は、少しずつ悲しさを連れているのかもしれない…。

 ごめんなさい…亀山さん…。ごめんなさい…椿さん…。
 あなたたちも一条さんを愛しているのに…。とてもとても愛しているのに…。
 俺の想いだけが報われる…不公平、だよね。
 だけど、俺も愛してる…とてもとても…。

 一条さんがあなたたちのどちらかを選ぶなら…
 この人が幸福になるのなら…俺はこの手を離す。
 俺…きっと、嫉妬はするだろう。
 それでも、手を離す。
 苦しくても、あきらめて、この人無しで生きていく…。
 もう、それくらいの覚悟はできた…俺にも。

 けれど…この人は俺だけを愛している…。
 そう、一条さんは不公平だ…俺だけを愛してくれる…。
 深く、強く、この不思議に美しい心を、俺だけに傾ける…。
 俺だけに総てを開き、この人は微笑む…。

 俺の命にそれだけの価値があるのか…俺には、わからない。
 それでも、俺はこの贈り物を、二度と手離さない。
 愛して、愛し合って、俺たちは生きていく…。
 だから…許してください…。

 あきらめて、他の人を愛して欲しい…とは、俺には思えなかった。
 この人を想い始めてしまったら、やめることなんか誰にもできない…。
 俺は、自分がそうだったからなんだけれど、そう思う。
 忘れようとして離れても、焦がれ続けるしかなかった俺は、そんなふうに思う。
 あきらめられないよね…。

 でも…できるならば、そうしてください…。
 こんな人はもう決していない。もう二度と会えない。
 たったひとつ、暗い夜空にかかっている月だから。他に、月はないから。
 でも…きっと、他の愛もある…。
 ごめんなさい…俺は、祈ります。幸せを祈ります。
 あなたたちが手にできない幸をもらった俺を、許してください。

 この人は…俺のものです…。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 それから、俺は、現実的な心配もした。

 亀山さんにあんなことを言ってしまってよかったのかどうか…俺にはわからなかった。
 適当にごまかしたほうがよかったかも…。
 でも、もともと一条さんがこんなふうに眠ってしまったから、あんなことになったので…一条さんは、俺以上に気にしていないのかもしれない…そんな気もした。

 そして…また、椿さんに助けられてしまった…。
 俺はしょうもなく妬いたりしたのに…。
 嫉妬の虫…いなくなってくれないかな…。
 でも、一条さんは綺麗すぎて…無防備なような気がして…信じているのに、一生心配しそうな気がした。
 最後に一条さんを見た椿さんの優しい目を思い出し、俺は思わずため息をついた。
 もうちょっと…もうちょっとだけでいいから、一条さん…どこか綺麗じゃないとこがあると、俺は助かるんだけどな…。
 と、俺は妙なことを考えて苦笑し、やっぱり綺麗な一条さんが俺も好きなんだ…と、またため息をつく。
 想いが叶っても、まだ俺の心配は続くらしかった。

 しばらく、そうやってあれこれ考えながら、俺は眠る一条さんを抱いて座っていた。
 心が揺れて、不安になって、それでもまた、俺の腕の中に一条さんが眠っていることが幸福で…それだけが幸せで。また澄み切って、満たされていく。
 帰ってきて、一条さんが目覚めて以来、俺はずっとこんな感じで揺れている、と思う。

 俺は、まだ幸福に慣れていなかった。
 だけど…こんな、幸せ過ぎる幸福に、慣れることなんかあるんだろうか…。
 このまま、ずっとこうしていたい…そうすれば、少しは慣れるかもしれない…。

 でも…そろそろ起こして、ちゃんとベッドで眠ってもらわないと…。
 …起こしたくなくて、でも、風邪をひかせるのもいやで、俺は悩んだ。
 こんな悩みも、とても幸せだ、と思いながら…。

「…一条さん…」

 とうとう決心して、俺は呼びながら、静かに揺する。

「…一条さん…起きて…ベッドで寝てください…」

 眠りが深い。
 もう一度呼んだ。

「…一条さん…起きて…」

 腕の中の一条さんが、身じろぎする。

「…雄介…?」

「…一条さん…起きた?ベッドで眠ってください…」

 俺にもたれて抱かれたまま、一条さんは呟く。

「俺…寝ていた?」

「はい…ビールも飲んだから…」

「ああ…少し、酔ったかな…
 椿たちは?…帰ったのか…」

 一条さんの表情は見えないけれど、声はぼんやりしていた。
 寝惚けた一条さんなんて、前は想像もつかなかったけれど…。

「はい…」

 俺は、亀山さんのことを話そうかどうか、迷った…。

「何か…騒いでいなかったか?
 あれは…亀山か…。」

 少しずつ、声がしっかりしてきていた。

「はい…。」

「何か…言われたの?雄介…。」

「…俺たちは…ホモだ、と…。」

「ホモ…か…。」

 一条さんは、俺に身体を預けたまま、静かに笑っていた。

「雄介も俺も男なんだから…確かに俺たちはホモなんだろうな…」

 一条さんは身体を起こそうとした。
 俺も少し手伝って、一条さんは起き直って髪を掻き上げる。
 酔いも眠気も、もうすっかり醒めたような表情だった。
 喉を反らして、気持ち良さそうにもう一度、髪を掻き上げ、微笑を含んで俺を見る。

「雄介…重くなかった?」

「いえ。俺、嬉しかったです。」

 一条さんはまた笑って頭を傾け、俺の頬に軽くくちづけた。

「おまえが来てくれたので、安心して眠ってしまった…。」

 俺は、一条さんにただ見惚れていた。
 僅かの睡眠で回復して、一条さんは柔らかく、生き生きしていた。
 一条さんは身体を伸ばして座り直し、俺を見る。

「雄介…おまえはホモなの?」

 いつものように直線的に、静かに訊いてくる。
 俺は首を振って、真直ぐに応えた。

「いえ…俺は、男でも女でも気になりません…女の人も、抱けます。
 だから…バイセクシャル…なんでしょうか。
 ただ俺は一条さんが好きなだけで…その一条さんが男だった、という感じなんです。」

 一条さんは、首を傾げて聞いていた。

「そうだな…俺もそんな感じだ。
 たまたま惚れた雄介が男だった…そして、惚れ続けている。
 他の人間に惚れる予定はない。
 だから…俺はホモなんだろうな…。」

 一条さんは、くすくす笑っている。

「一条さん…いいんですか?
 警察での立場が悪くなったりしません?」

「さぁ…どうかな。俺はどうでもいい。
 言いたいやつには言わせておくさ。
 あれこれ言わせないだけの仕事を、俺はしているつもりだよ。
 俺が動じなければ、そのうちに黙るだろう…。」

「はい…。」

 亀山さんのことを、もう少し訊こうか、と俺は一瞬思った。
 亀山さんも、一条さんを愛しているんですね、と。
 でも…どうしようもないことだった。
 一条さんが誘っているわけでは、絶対にない。
 俺を愛してくれても…この人は、黙っていた。
 きっと、俺が強引に迫らなかったら、この人はあのまま、何も告げずに死んでいた…。
 そんなふうに、冷たくて、美しくて、優しい人だから…みんなが焦がれてしまう…。
 どうしようもないことだった…。
 俺が妬き、心配してしまうことも…。

「雄介…おまえはいいの?」

「俺は全然かまいません。何か言う人もいないでしょう。
 みんな、俺が幸せなら、きっと喜んでくれます…。」

「そうか…。」

 一条さんは俺に微笑み、それからベッドによりかかって両手を上げ、大きく伸びをした。

「ああ…気持ちがいい…。
 やはり、明日から仕事に行こうかな…。」

「やめてください。せめて明日は休んで…。」

 一条さんが笑って俺を見る。

「わかっているよ…雄介…。
 明日は、一日、二人で過ごそう…。」

 また顔を傾けて、俺に軽くくちづける。

「あまり、心配するな…雄介。
 俺は、もう元気だよ。」

「はい。なんだか、どんどん元気になってますね。」

 傷が治っていくのが、見えるみたいだった…。
 胸の傷も、心の傷も…。

「俺には雄介が一番効くんだ…。」

 笑顔が輝く。俺もただ嬉しくて笑う。

「でも、今夜は着替えて、もう寝てください。
 俺も後片付けしたら寝ますから。」

「すっかり家政婦になってしまったな。」

「けっこう好きですから…嬉しいんです、俺。」

「あまり世話をされると、甘え癖がつきそうだ。」

「甘えてください。」

 一条さんはまた笑い、礼代わりにまた軽くくちづけて立ち上がる。
 本当に、見違える程、身ごなしが軽くなってきていた。
 すごい…俺、本当に効くのかな…。

「さぁ、じゃあ邪魔しないように、俺は寝よう。
 雄介…片付けはいい加減にして、早くおいで。」

「はい。」

「ああ…おまえのパジャマが、どこかにあるよ。」

「あ、俺、もう見つけました。持って来てくれたんですね。」

 当たり前だろう?という顔をして、一条さんは服を脱ぎ、パジャマに着替え始める。
 俺はあわてて目を逸らして、テーブルの上を片付け始める。

(今夜は抱かない…)

 俺は決めていたのだけれど、一条さんの肌を見ると、また暴走してしまいそうだった。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 片付けを終えて、パジャマに着替えて、戸締まりを確かめ、キッチンだけにしていた灯を消した。
 さすがにまだ、暗くなってしまうと勘がない。
 手探りでベッドに辿り着き、一条さんの横に滑り込む。
 一条さんが俺のほうを向く気配がする。
 気をつけながら手を伸ばして、頭を抱き取る。
 一条さんが身体を寄せて、俺に預ける。

 二人共、無言だった。
 暗い部屋のベッドの上で、俺たちは抱き合って、横になっていた。
 いくつもの夜を越えて…俺たちはこうやってまた、一緒に眠ろうとしていた。

「…眠って、いなかったの?」

 俺は囁く。

「うん…うとうとしていた…。」

 一条さんも小さく応える。
 今は、どんな声でも聞こえるだけ近くに、俺たちはいるから…。

「一緒に眠るのは…久しぶりだ…。」

「はい…俺も、そう思ってました…。」

「雄介…しあわせ?」

「はい…とても。」

 暗闇の中で、一条さんが満足そうにため息をつく。

「俺も…とても、しあわせだ…。」

 少し目が慣れてきていた。
 一条さんの顔を探り、唇に軽くくちづけた。
 一条さんの手が俺の股間に伸びて、俺に軽く触れていった。
 笑いを含んだ声で、一条さんが言う。

「雄介…勃っているよ。
 今夜は抱いてくれないの?」

 俺も笑って腰を引く。

「駄目です。触らないで…。
 今夜は…おあずけです。」

「俺は…元気なのに。」

「明日…本当に元気だったら…」

「うん…」

 一条さんが少し身動きして、俺の腕の中で眠る姿勢を探す。

「雄介…」

「はい…」

「雄介…」

「はい…」

「愛しているよ…」

「はい…俺も…とても愛しています…」

 額を探して、軽くくちづけた。

「雄介…目が覚めても…いてくれる?」

「いますよ…明日の朝も、あさっても…ずっと…」

 一条さんも、まだ幸福に慣れていない…。
 肩に頭を寄せて来る一条さんを、俺は少しだけ深く抱き込み直した。

 俺は、戻って来た。何も、あなたには触れさせない。すべてのものから、俺は守る…。
 実際には、そんなことはできはしないのだけれど…そんなふうに、俺は思う。
 せめて、あなたの安らかな眠りを、俺は守る…。守りたいから…。守らせて…。

「…おやすみ…雄介…」

「はい…おやすみなさい…」

 呟きが果てて、一条さんが静かに眠りに落ちていく。
 俺も、その寝息に呼吸に合わせて、自分を鎮めていった。

 あの頃も、あなたは俺の腕の中で眠った。
 眠りに落ちていく前、俺を呼んで…。
 「五代…」と、遠い声で、ただ繰り返し俺の名を呼んで…。
 ようやく…あなたは、その先を言えたね…今…。
 「愛しているよ…」と。
 あなたは、ようやく言えたんだね…。

 一条さんの髪にひとつくちづけて、俺も目を閉じた。

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