『終章:明日』 -2
ベッドに腰掛けてもらって、足許にかがみ、まず靴下を脱がした。
「雄介…自分で脱げるよ… 一条さんが静かに言う。 「今日は…やらせてください…。」 俺は、気をつけながらシャツを脱がした。 「痛くないですか?」 「大丈夫…」
昔、見慣れた筈の一条さんの肌が眩しい。 「雄介…どうしたの?」 「俺…なんだか、眩しくて…。」 「おまえのだから…ちゃんと見てくれ。」 一条さんはうっすら笑う。 「もっとも…派手な傷物になってしまったが…」
一条さんが自分の胸を見下ろしていた。 「もう…痛くないんですか?」
「痛くはないが…痒いような、つったような…。 「全然。ただ、痛そうで、ちょっと辛いですけど…。」
立ってもらって、チノパンのベルトをはずし、ボタンをはずし、ファスナーを下げる。
「なんだか、俺まで恥ずかしくなってきたじゃないか…。 「はい…」
一条さんがバスルームに入っていくまで、俺は俯いていた。
俺…どうしたんだ?
前とは少し違った一条さんだった…。 (俺…また惚れてしまった…。)
飽きる、とか嫌いになる、とかは…ほとんど、とんでもない話だった。 (一条さん…何度、俺に恋させるの…?)
幸福な疼きに耐え兼ねて、目を閉じる。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
浴室に入っていくと、一条さんはもう浴槽の湯の中で身体を伸ばしていた。 「どうしました…?」 「いや…」 曖昧に笑う。 「一条さん…なんでも話して?」
俺は、浴槽の脇にひざまづいて、一条さんを覗き込んだ。 「少し離れると…雄介がいるのか、いないのか、わからなくなるんだ…。」 「俺、いますよ。ほら…」 軽く頬にキスした。やっと一条さんは微笑む。 「雄介こそ、いやに時間をかけて…どうした…?」 「いえ、なんでも…」 と言いかけて、俺も今は、素直に心のままに話せばいいことに気が付き、笑った。闘いの中で、心の柔らかい部分を言葉にできなかったのは、俺も同じなのかもしれない…。 「…一条さん…」 浴用椅子に座って、シャワーを浴びながら、俺は話すことにした。 「…ん?」
浴槽の縁にもたれ、一条さんは俺を見つめ、俺の言葉を待っていた。 「俺…また、一条さんに恋しちゃったみたい…。」 一条さんは、とけるような笑顔になった。本当に朧にかすむ月のようで…。
「何度でも…雄介…。
そして、腕に顎を乗せる。
「本当に…夢のようだね…雄介… 「一条さん…のぼせないうちに出て…」
また悲しみがこみあがる。
俺はまず動いてみる。試してみる。一歩踏み出す。歩き出す。 一条さんは軽く首を振った。
「とても…ぬるくしたんだ…。
いつの間にか、「五代」に戻っていた…。 「はい…」
少し迷った。
「五代…よく…おまえの夢を見たよ…
そのうち、おまえは少しずつ笑ってくれるようになった…
一条さんは話しやめて、また俺の髪を梳く。 「一条さん…こんなに肩が出て…寒くない?」
俺は囁いたが、一条さんはうわの空で首を振った。 「でも…どうしたの?」 俺は静かに訊いた。
「でも…俺がそうやって呼ぶと…
一条さんは苦しそうに、目を閉じた。
「…嬉しそうに、五代は振り返るのに…俺が見えない…
目を開けた一条さんは、俺を見なかった。
「…おまえを泣かせるのは俺なのか…俺が、泣かせてしまうのか…
一条さんは、ふと笑った。 「ただの夢だよ…雄介…」
一条さんの背を撫でた。長いこと、憧れ続けた肌だった。
「どこか…繋がってるんですね…俺たち… 俺は小さな声で言う。
俺も…夢を見た。モンゴルのパオの中で、中国の安宿のベッドで、誰かを抱いて眠った夜にさえ。
「雄介…ごめん…変な話をした…
俺は首を振る。 俺は、一条さんの胸の傷を見つめていた。
「悲しませたのは…俺のほうです。 俺の髪を撫でながら、一条さんが笑う。
「雄介…これは、俺のしくじりだったんだ。
一条さんが、俺の額にくちづけてくれる。
あなたの傷も深い…もしかすると、俺の傷より深い… 俺に…この傷が癒せるだろうか。
それでも…あなたは俺を愛し続け、生き延びてくれた…。
言葉にするのは、やめた。 「…触ってもいいですか?」 胸の傷を見つめて、俺は訊いた。 「いいよ…」
俺は指の先で傷に触れ、ずっとなぞった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 一条さんが笑って、身じろぎする…。 「雄介…くすぐったい…」 俺の首に腕を巻いてくる。 「…感じる場所が増えてしまったのかもしれないな…」
俺の悲しい気持ちを払う為なのか、いたずらで色っぽい表情になっていた。 「また…苛めてあげます…」 俺の声はかすれてしまう。 「うん…。」
びしょ濡れになった俺の女神が、胎内のような温い湯の中で俺の腿に乗っている…。
久しぶりだし、退院したその日だから…暴走だけはするまい、と俺は思っていた。 「ああ…あ…雄介…」
一条さんも喘ぎながら、俺の首を抱いていた。湯の中で、互いの昂りが擦れ合った。
そこで…俺は、ようやく暴走を止めた。 「…駄目、ですよ…一条さん…誘惑したら。俺、強姦しちゃいそうだった…」 目の前の肩にゆっくりくちづけて、息を鎮める。俺の心臓は瀑走していた。 「…合意の場合は…強姦とは、言わないんだ…」 一条さんは、うっすらと目を開いて、俺を見て笑う。まだ後ろに触れ続けているので、時々虚ろな瞳になりかける。 「ああ…抱いてくれ…雄介…」
焦れて、俺にせがむ。
「…駄目ですよ…久しぶりだから、これじゃあ、怪我してしまう…。
一条さんが笑って、蕾が少し窄んだ。 「…一条さん…俺のいない間…どうしてたの…?」 凄まじい色香に迷わされて、唾を呑みながら声を出す。 「…自分で、していたさ…浮気は、してないぞ…」 一条さんが喘ぎながら笑う。 「オカズは…俺?」
「…他に、いないだろう…。
ああ…やっぱりそうなんだ…一条さん…。
「だから…浮気は論外なんだよ、俺は…。 けだるく、一条さんは自嘲して笑う。 「ここは…?」 俺は、窄まりを少し突いた。 「ああっ!」 一条さんが仰け反るのを抱き止める。 「雄介…する気がないなら…やめてくれ…。」 「自分では、何もしなかったの?」 俺は、しつこく撫でながら訊く。 「…知っている、だろう?自分では、できない…」
耐えかねて、唇を噛む。
「する気はあるんですけど… 言いながら、俺は指を離して背を撫でる。 「…雄介…」 恨んでにらむ目がまた色っぽくて…
「駄目ですよ。退院したてなんです。 「うん…。」 甘く応えて、素直に頷く…
「これから…いっぱいいっぱいしたいですから… 「将来の生活設計なのか、これも…」 無邪気に笑って、首を傾げる…
「そうですよ、さぁ、出て。
まず立たせておいて、俺も立ち上がった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
椅子に座ってもらって、髪を洗った。 「流しますね…」 「うん…」 シャワーの湯で、丁寧に流す。耳に入らないように気をつけて…。
あの、東京の一条さんのマンションの、狭い浴室で、俺はよくこうやって一条さんの髪を流してあげた。
「はい…もういいみたいですよ。
ああ…俺、昔よりもまた一段とおせっかいになっているのかもしれない…。 一条さんは、別に煩わしい顔もせずに、俺のするままになっていた。 「洗ってもらうのは…久しぶりだ…。」 ああ、一条さんも、同じことを考えていたんだ…。 「はい…あの、古い家では、いつも俺が洗ってもらってばかりだったし…。」 「東京での最後の夜も、俺が洗った…。」 「クウガの最後の夜でしたね…。」
俺は静かに言って、手にソープを取って、一条さんの身体を洗い始める。
「あの夜は…」 二人で、同時に同じことを言って、俺たちは笑った。 「なに?雄介?」 「いえ、一条さんは?」 「いや…ただ、あの夜は辛かったな…と。」 「はい…俺も、辛かったです…。」 少し、俺たちは黙って…洗う手だけを、俺は進めた。
あの夜のことは…「辛い」という言葉では、表せない…。 「一条さん、立って…」 二人とも、慣れた動作だった。俺は、一条さんの前に膝立ちになって、下半身を洗った。 「足を…」
俺の頭に片手を預けて、一条さんは、足を上げる。俺は、膝の上で綺麗に洗い尽くす。 「う…ん…」 久しぶりの感触に、一条さんが怯んでうめく…。
「壁にも掴まっていてください…。
後ろまで綺麗に洗い尽くす頃には、一条さんは膝が揺れていた。 「一条さん…ちゃんと座っていて…」 「雄介…俺だけ?」 「俺も…一緒にいきますから…」 俺は見上げて笑い…舌で捕らえ、くわえた。 「あぅ…」
一条さんが小さく叫ぶ。 「ああ…雄介…いい…」
一条さんがゆるく叫び、俺の髪を掴んで、かき混ぜる。 「ゆうすけ…もう…いく…ああっ…」
一条さんが寸前になったところで、俺は堪えられず達した。 顔を上げると、余韻の残るとろけた顔が、少し困っている…
「…雄介…飲んでしまったの?
俺は笑いながら、シャワーの湯で一条さんを流し、自分を流し、辺りを流す。 「だって…もったいなくて…。」 「今度は、俺にもさせて?」 「…一条さんにしてもらうのは…なんだか、申し訳ない気がして…」 「俺だって、したいんだ…。」 「じゃあ…元気になったら…」 「俺はもう元気だよ、雄介…」
文句を言う一条さんに、浴槽にもう一度沈んでもらう。 「冷えちゃいましたね…少し、沸かしましょうよ。」
だんだん暖かくなる湯の中で、大切な人を抱いて、肩にくちづける。 「一条さん…」 「なに、雄介…」 湯気の中の声が甘かった… 「俺…しあわせ…」 「うん…やっぱり、夢みたいだな…」 「夢じゃないよね…俺も怖くなってきた…」 「俺はちゃんといるよ、雄介…」 振り向きかけた濡れた頬にくちづけた…。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
風呂から上がって、俺は丁寧に一条さんの全身を拭いて、服を着せた。 「雄介…おまえも髪を乾かさないと…風邪をひくよ…」 どうせ言うことを聞かないだろうな、という苦笑を交えながら、一条さんが言う。 「いいんです、俺の髪は適当で…」 「俺の髪も適当でいいんだよ…?」 「駄目です。」 「もういいって…。」 そう言いながらも、一条さんは、俺に頭を預けたまま、笑っている。 「駄目ですってば。風邪をひきます。」 「この…強情っぱり…」 「したいんだから、させてくださいってば。」 「まったく…誰に似たんだ?」 「だから、あなたに似たんですってば〜!」
まぁ…つまり、俺たちはこうやって幸福にじゃれていた。 「雄介…おいで。」
ドライヤーから解放された一条さんが、俺の手を引く。 「なに…?一条さん…?」 一条さんは、笑いながら、ベッドによりかかって座った。 「座って…雄介。」 「はい…」 きょとん、としながら、俺も隣に座る。 「で、空を見るんだよ、雄介。」
一条さんは、広い窓に射す青空の反射の中で、笑う。 「違う。俺じゃなくて、青空を見るんだよ、雄介。ぼぉっと。」 「ああ…!そうか…俺の…。」 「俺と一緒に、ぼぉっと空を見たい…と言っていただろう。」 「はい…。」
柔らかくもたれてきた一条さんの髪に頬を寄せて、俺は本当にぼぉっと青空を見上げてしまった。 「あの時は…こんな日が来るとは思えなかったけれど、夢を…見たかったから。言ったんです…。」 「…わかっていたよ、雄介。」 「どこで見ようか、一条さん?…って、思っていた。でも、悲しかった…。」 「俺は…祈っていた。ただ…。」 表情の見えない一条さんが、静かに呟いていた。 「一条さんの望みは叶ったの?」 俺は…明るく言った。
「ああ…普通の空き巣とかっぱらい、か?もう山程捕まえたさ。 つまらなそうな声の調子に、俺は笑ってしまって…また髪に頬を寄せる。
「山とか、海とか考えて、俺、最後に…思ったんです。二人の部屋で?って…。 「そうなんじゃないのか…?」 今度は、一条さんのほうが笑っていた。
「ここに…住みついちゃって、いいですか? 「それなら、俺が押しかけて住みつくぞ。」 押しかけ一条さん…それもいいなぁ、と思って、俺は笑った。腹筋の動きに一条さんも揺すられて、起き上がって俺を見る。 「そばにいてくれるんだろう?雄介?」 微笑んで、俺を見ていた。 「はい、いさせてください。」 「じゃあ…ここにいてくれ。あまり広くはないが…。」 この直線的な言葉が…俺は、好きだと思う。一条さんは無駄なことは言わない。 「どうせ、くっついてばかりいるんだから、場所は取りませんよ。」 「それもそうだな…。」 くすくす笑って、一条さんは、軽くくちづけてきた。 「だが、東京にもちゃんと顔を出せ。みんな、おまえを待っている…。」 「はい…。」 「そして、また戻ってきてくれ…ここに。」 「はい。俺…もしかして、プロポーズされてます?」 「病院にいる時から、ずっと口説いているつもりだが?」
少しむっとした口調に俺は笑ってしまって、一条さんも笑っていた。 「言葉が足りなくて、待たされるのは、もういやなんだ…」 唇を離すと、今度は真剣に俺を見つめていた。 「俺、もう離れません。見失いません。でも、しゃべってくれるのは…嬉しいです。」 頷いて、深くくちづけてくる。俺も返して…すぐにまた、俺たちは夢中になる。
俺たちはずっと肌を触れ合っていた。触れては話し、くちづけては話し、また触れた。 そんなふうに、ゆるやかに穏やかに幸福に…俺たちは最初の一日を過ごした。 |