『終章:明日』 -2


         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 ベッドに腰掛けてもらって、足許にかがみ、まず靴下を脱がした。
 それから、膝立ちになって、シャツのボタンの残りをはずした。

「雄介…自分で脱げるよ…
 左手も、少し使わないと…。」

 一条さんが静かに言う。

「今日は…やらせてください…。」

 俺は、気をつけながらシャツを脱がした。

「痛くないですか?」

「大丈夫…」

 昔、見慣れた筈の一条さんの肌が眩しい。
 少し目を逸らしてしまった俺をからかうように、一条さんが訊く。

「雄介…どうしたの?」

「俺…なんだか、眩しくて…。」

「おまえのだから…ちゃんと見てくれ。」

 一条さんはうっすら笑う。

「もっとも…派手な傷物になってしまったが…」

 一条さんが自分の胸を見下ろしていた。
 クウガのペンダントヘッドのすぐ下の、大きな手術痕は、前にはないものだった…。
 まだピンク色で…少し引き攣っている。

「もう…痛くないんですか?」

「痛くはないが…痒いような、つったような…。
 雄介…いやじゃないか?」

「全然。ただ、痛そうで、ちょっと辛いですけど…。」

 立ってもらって、チノパンのベルトをはずし、ボタンをはずし、ファスナーを下げる。
 風邪をひいてしまうかも、と心配で、欲望は二の次になっていたけれど、それでも久しぶりの一条さんの肌は眩しすぎて…。
 病院でも、身体を拭いてあげたりしてたのに…。
 俺が目を逸らしたまま、チノパンを下げかけると、一条さんは自然に俺の肩に掴まって、足を抜いた。
 最後の下着一枚だけになってしまった一条さんの声が、可笑しそうに言う。

「なんだか、俺まで恥ずかしくなってきたじゃないか…。
 先に入っているから…早くおいで…雄介…」

「はい…」

 一条さんがバスルームに入っていくまで、俺は俯いていた。
 顔が熱くなっているのがわかる。

 俺…どうしたんだ?
 …俺は…また、一条さんに恋しているみたい…。

 前とは少し違った一条さんだった…。
 あの頃時々感じていた、冷たい頑な感じがまったく無くなっていた。
 あれは、俺の為にしていてくれたことだ…と、もうわかってはいたけれど…今日初めて、俺は実感していた。
 今の一条さんは、優しく柔らかく、何も隠さずに、俺に全てを預けていた…。
 そうできるのが本当に嬉しそうに、ためらいなく俺に愛を語り、手を伸ばし…。
 だから一層、長いこと耐えていた一条さんの心が俺には哀しかったけれど…。
 綺麗でかっこよくて静かで優しくて…その上、いじらしくて可愛い…俺だけの一条さん…。
 夜空に光る月であることは同じでも…春の夜の朧月のような一条さんになった…。
 闘いが果てて、俺の命を支える役目が終わって…これが一条さんの本当の姿だった…。

(俺…また惚れてしまった…。)

 飽きる、とか嫌いになる、とかは…ほとんど、とんでもない話だった。
 あの夢のような人が、本当に俺だけが好き…なんて、それさえ時々、まだ信じられなくなる。
 自分のものになった筈の一条さんなのに、憧れが止まらない。俺は一層焦がれていた。
 俺の身体はどこを切っても、全部「一条さんが好き」と書いてあると思う。
 出会って以来、いつだって俺はそうだったのに…おまけに、また恋してしまった…。

(一条さん…何度、俺に恋させるの…?)

 幸福な疼きに耐え兼ねて、目を閉じる。
 それから、立ち上がって、急いで服を脱いだ。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 浴室に入っていくと、一条さんはもう浴槽の湯の中で身体を伸ばしていた。
 閉じていた目を開けて、俺を見る。一瞬、驚いたような表情になった。

「どうしました…?」

「いや…」

 曖昧に笑う。

「一条さん…なんでも話して?」

 俺は、浴槽の脇にひざまづいて、一条さんを覗き込んだ。
 濡れた手が浴槽の中から伸びて、俺の髪に触れた。
 一条さんは、苦笑していた。

「少し離れると…雄介がいるのか、いないのか、わからなくなるんだ…。」

「俺、いますよ。ほら…」

 軽く頬にキスした。やっと一条さんは微笑む。

「雄介こそ、いやに時間をかけて…どうした…?」

「いえ、なんでも…」

 と言いかけて、俺も今は、素直に心のままに話せばいいことに気が付き、笑った。闘いの中で、心の柔らかい部分を言葉にできなかったのは、俺も同じなのかもしれない…。

「…一条さん…」

 浴用椅子に座って、シャワーを浴びながら、俺は話すことにした。

「…ん?」

 浴槽の縁にもたれ、一条さんは俺を見つめ、俺の言葉を待っていた。
 離れていた時間が辛かったのは、きっと同じなんだ…。

「俺…また、一条さんに恋しちゃったみたい…。」

 一条さんは、とけるような笑顔になった。本当に朧にかすむ月のようで…。

「何度でも…雄介…。
 俺も何度でも…惚れるから…。」

 そして、腕に顎を乗せる。
 自分で洗い始めた俺の身体を、一条さんの目が辿っていた。欲望ではない、遠い、懐かしむような目で…。
 それから、不思議に幼い顔になって笑う。

「本当に…夢のようだね…雄介…
 もうあの東京のマンションではないが…また、おまえと二人で浴室にいる…
 俺は…夢を見ているのかな…
 目が覚めると、俺はまた一人なのかもしれないな…」

「一条さん…のぼせないうちに出て…」

 また悲しみがこみあがる。
 どうして…この人を一人にして、俺は彷徨っていたのか…俺もまた一人で…ひとりぼっちで。

 俺はまず動いてみる。試してみる。一歩踏み出す。歩き出す。
 そうしてきた筈なのに…なぜ…帰れなかったのか…。
 愛しすぎて…苦しくて…焼けつくようだった日々を思い出す。

 一条さんは軽く首を振った。

「とても…ぬるくしたんだ…。
 久しぶりだから…長く入っていられるように。
 五代…洗ったなら…おいで…二人で入れる…ここなら…」

 いつの間にか、「五代」に戻っていた…。
 俺は不安になった…。

「はい…」

 少し迷った。
 一条さんを後ろから抱けるほうがいいのか…顔が見られるほうがいいのか…。
 結局、一条さんの前に…両足の間に入って、座って湯に浸かり、俺は手を伸ばして、一条さんの腰を抱き取った。
 湯の中の一条さんはとても軽くて…恥じらいもせずに、俺の腿の上に尻を乗せて来る。
 少し見下ろす位置になった一条さんの瞳は相変わらず遠いままだった。手を上げて、俺の髪を梳いた。

「五代…よく…おまえの夢を見たよ…
 最初の頃は…おまえはいつも泣いていた…
 寂しい場所で、一人で膝を抱えて、泣いていた…
 抱いてやりたいのに、俺はそこまで行けなくて…
 俺には助けられなかったからだと…俺はまた、夢の中で思い出すんだ…

 そのうち、おまえは少しずつ笑ってくれるようになった…
 優しい笑顔…俺の大好きな、太陽のような笑顔が戻って来たのは嬉しかった…
 だから、俺は…夢の中でおまえを呼んだ…五代…よかったな…五代…でも…」

 一条さんは話しやめて、また俺の髪を梳く。
 微笑はすっかり消えてしまった…。
 遠い哀しい目が、俺を見つめる…。

「一条さん…こんなに肩が出て…寒くない?」

 俺は囁いたが、一条さんはうわの空で首を振った。
 内側を見つめる、憑かれたような目になってきていた。

「でも…どうしたの?」

 俺は静かに訊いた。

「でも…俺がそうやって呼ぶと…
 五代は振り返るのに…」

 一条さんは苦しそうに、目を閉じた。
 引き寄せて抱くけれど、一条さんは、夢の中の俺を追って行く…。

「…嬉しそうに、五代は振り返るのに…俺が見えない…
 一条さん、どこ?一条さん…どこ?…そう言って…
 俺を探そうとして、見つけられなくて…そのうち…
 せっかく笑っていたのに…おまえはまた泣き出してしまう…
 一条さん、どこ?俺には見えない…そう言って…
 立ちすくんだまま、おまえの涙が落ちていく…
 俺はそれが悲しくて…また呼ぶ…
 呼べば、またおまえが泣くのに…また呼んでしまう…」

 目を開けた一条さんは、俺を見なかった。
 暗く、深い夢の闇の中を見つめたまま、呟く…。

「…おまえを泣かせるのは俺なのか…俺が、泣かせてしまうのか…
 …それならば、俺は…」

 一条さんは、ふと笑った。
 俺を見る目は、もう元通りだった。

「ただの夢だよ…雄介…」

 一条さんの背を撫でた。長いこと、憧れ続けた肌だった。
 けれど、今は悲しくて…俺は一条さんを宥めようとしながら、自分も宥めた。

「どこか…繋がってるんですね…俺たち…
 その通りでしたよ…俺…」

 俺は小さな声で言う。

 俺も…夢を見た。モンゴルのパオの中で、中国の安宿のベッドで、誰かを抱いて眠った夜にさえ。
 俺が呼ぶ…一条さんは振り返る…大好きな笑顔で、優しく俺を見て。
 「五代…おいで」…一条さんは、そう言って歩き出す。
 …でも、一条さんはどんどん行ってしまう。俺は追いつけない。
 「はやくおいで…五代…こっちだよ…」…声が遠くなる。俺は走ろうとするのに、足が動かない。
 呼んでも呼んでも、一条さんは遠離る。
 ずっとずっと遠くで、一条さんはもう振り返らず、誰かと笑い、誰かと抱き合いながら、歩み去っていく。明るい世界に行ってしまう。見えなくなる。
 俺は闇の中に取り残され、ずっと呼び続けて…泣く。泣きながら、目を覚ます…。

「雄介…ごめん…変な話をした…
 悲しませてしまったな…」

 俺は首を振る。
 俺の夢の話は、またいつかにしよう。あれは…嫉妬の夢。
 一条さんを見失っていた、哀れな俺の夢。
 一条さんは、ずっと呼んでくれていたのに…。
 ずっと待っていてくれたのに…。

 俺は、一条さんの胸の傷を見つめていた。

「悲しませたのは…俺のほうです。
 もっと早く帰れば…きっと一条さんは、こんな傷を負うことも、死にかけることも…なかった。
 俺がいれば…こんなこと…させなかった…。」

 俺の髪を撫でながら、一条さんが笑う。

「雄介…これは、俺のしくじりだったんだ。
 自分のせいにして、傷つかないでくれ…
 おまえは、もう充分傷ついて、苦しんだ…
 これ以上増やさなくて、いいよ…」

 一条さんが、俺の額にくちづけてくれる。
 俺はまだ、小さく首を振り続ける…。

 あなたの傷も深い…もしかすると、俺の傷より深い…
 …俺を愛した為に、ずっとずっと耐えて、この人はずたずたに切り裂かれ続けてきた。
 おまけに旅立った俺は、帰って来なかった。
 自分のせいで…と、思っていたのなら。
 「それならば、俺は…」の先は…。
 消極的な自殺…と、椿さんが言っていたのは、もしかしたら正しいかもしれなかった。

 俺に…この傷が癒せるだろうか。

 それでも…あなたは俺を愛し続け、生き延びてくれた…。
 信じよう…あなたは強い人だから…きっと治ってくれる…。

 言葉にするのは、やめた。
 一条さんは、たぶん自分の傷には気付いていない。
 気付いても、気にしない。この人は、自分を庇わない。
 俺の傷だけを気遣って…あの頃から、ずっとそうだった…。
 そういう…本当に美しい人だった…。

「…触ってもいいですか?」

 胸の傷を見つめて、俺は訊いた。

「いいよ…」

 俺は指の先で傷に触れ、ずっとなぞった。
 悲しくて、そして愛しい傷だ、と思った。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 一条さんが笑って、身じろぎする…。

「雄介…くすぐったい…」

 俺の首に腕を巻いてくる。

「…感じる場所が増えてしまったのかもしれないな…」

 俺の悲しい気持ちを払う為なのか、いたずらで色っぽい表情になっていた。
 俺は翻弄される。
 昔だって…この色気に抵抗できたことなんかないのに…今はまるで全開だ…かなう筈がない。
 一条さんに煽られて、俺のスイッチが入った…さっきの悲しみが、欲望の背中を押す…。
 あなたの悲しみは、俺がきっと追い出す…。
 俺の為に傷ついたあなたの痛みは、俺が必ず治す…。

「また…苛めてあげます…」

 俺の声はかすれてしまう。

「うん…。」

 びしょ濡れになった俺の女神が、胎内のような温い湯の中で俺の腿に乗っている…。
 狂うくらい好きなその顔を傾けて、優しく淫らに微笑みながら、俺にくちづけようとしている…。
 この女神には乳房がなくて、胸には俺がつけてしまった傷を刻み、俺の名の銀だけを光らせて…。

 久しぶりだし、退院したその日だから…暴走だけはするまい、と俺は思っていた。
 けれど、突然、全然制御できなくなって、俺は奪われかけた唇を奪い返し、奪い尽くした。濡れた手で、腕も肩も背中も撫でまわす。頬を舐め、顎を辿り、髪を掴んで仰け反らせて、喉に噛み付く。抱きすくめて、隙間なく引き寄せる。

「ああ…あ…雄介…」

 一条さんも喘ぎながら、俺の首を抱いていた。湯の中で、互いの昂りが擦れ合った。
 首筋を噛んで吸い上げながら、背中を撫で降ろす。一気に後ろの蕾に到達した。指が侵入しようとすると、一条さんが腕の中で跳ね上がる。蕾は反発し…俺を拒んでいた。

 そこで…俺は、ようやく暴走を止めた。
 腕の中の一条さんは、崩れかけている。目を閉じて、口を半ば開け、喉を反らして喘いでいた。
 俺は蕾をそっと撫でながら、しっかり抱いて囁く…。

「…駄目、ですよ…一条さん…誘惑したら。俺、強姦しちゃいそうだった…」

 目の前の肩にゆっくりくちづけて、息を鎮める。俺の心臓は瀑走していた。

「…合意の場合は…強姦とは、言わないんだ…」

 一条さんは、うっすらと目を開いて、俺を見て笑う。まだ後ろに触れ続けているので、時々虚ろな瞳になりかける。

「ああ…抱いてくれ…雄介…」

 焦れて、俺にせがむ。
 憧れ続けた身体だった。焦がれ抜いてきた肌だった。
 俺だって…したくてしたくて、歯ぎしりしてしまう。
 でも、俺は飢え過ぎていて…これでは、きっと傷つけてしまう。
 …やっとのことで、抑えて言う。

「…駄目ですよ…久しぶりだから、これじゃあ、怪我してしまう…。
 また、病院に逆戻りです。いやでしょう?」

 一条さんが笑って、蕾が少し窄んだ。
 反応した身体に、一条さんはまた喘ぐ。

「…一条さん…俺のいない間…どうしてたの…?」

 凄まじい色香に迷わされて、唾を呑みながら声を出す。

「…自分で、していたさ…浮気は、してないぞ…」

 一条さんが喘ぎながら笑う。

「オカズは…俺?」

「…他に、いないだろう…。
 俺は…おまえ以外には、感じたことはないんだ…。
 快感がないことはないんだが…なにか…ただ、出すというだけで…駄目だった…
 今も、同じだろう…試す気もない…」

 ああ…やっぱりそうなんだ…一条さん…。
 俺、いっぱい想像して、嫉妬して…馬鹿だよね…。

「だから…浮気は論外なんだよ、俺は…。
 時々は…おまえを思い出して、自分でしたが…
 それも…あまり、良くなかった…」

 けだるく、一条さんは自嘲して笑う。

「ここは…?」

 俺は、窄まりを少し突いた。

「ああっ!」

 一条さんが仰け反るのを抱き止める。

「雄介…する気がないなら…やめてくれ…。」

「自分では、何もしなかったの?」

 俺は、しつこく撫でながら訊く。

「…知っている、だろう?自分では、できない…」

 耐えかねて、唇を噛む。
 本当に…なんて可愛い人なんだろう…。
 俺は、すごく損してきたみたいだ…。

「する気はあるんですけど…
 怪我させる気はないんです…
 また、ゆっくり開かないと…」

 言いながら、俺は指を離して背を撫でる。

「…雄介…」

 恨んでにらむ目がまた色っぽくて…

「駄目ですよ。退院したてなんです。
 無理はさせません、絶対。」

「うん…。」

 甘く応えて、素直に頷く…

「これから…いっぱいいっぱいしたいですから…
 今日、無理するのはやめましょう、ね?」

「将来の生活設計なのか、これも…」

 無邪気に笑って、首を傾げる…

「そうですよ、さぁ、出て。
 全部洗ってあげます。」

 まず立たせておいて、俺も立ち上がった。
 可愛くて可愛くて、目眩がした。
 いや…少し、のぼせたのかもしれない。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 椅子に座ってもらって、髪を洗った。
 長くなったぶん、時間がかかる。
 でも、丁寧に梳きながらシャンプーするのを、俺は楽しんだ。
 一条さんの髪は、真直ぐでなめらかで…触ると気持ちがいい。
 髪を洗ってあげるのも、ずいぶん久しぶりだ…と、思った…。

「流しますね…」

「うん…」

 シャワーの湯で、丁寧に流す。耳に入らないように気をつけて…。

 あの、東京の一条さんのマンションの、狭い浴室で、俺はよくこうやって一条さんの髪を流してあげた。
 一条さんの世話をして、触れることができるので、俺はいつもねだって…一条さんの髪を洗ったんだ。
 でも…最後の日には、一条さんが洗ってくれた…。

「はい…もういいみたいですよ。
 顔、上げてください。拭きますから…。」

 ああ…俺、昔よりもまた一段とおせっかいになっているのかもしれない…。
 あまりしつこく世話を焼くと、うっとおしいと思われるかもしれなかった。
 でも、今日は…やらせて…一条さん。

 一条さんは、別に煩わしい顔もせずに、俺のするままになっていた。

「洗ってもらうのは…久しぶりだ…。」

 ああ、一条さんも、同じことを考えていたんだ…。

「はい…あの、古い家では、いつも俺が洗ってもらってばかりだったし…。」

「東京での最後の夜も、俺が洗った…。」

「クウガの最後の夜でしたね…。」

 俺は静かに言って、手にソープを取って、一条さんの身体を洗い始める。
 久しぶりではあったけれど、二人とももう手順は慣れていて…一条さんは、俺に身を任していた。

「あの夜は…」
「あの夜は…」

 二人で、同時に同じことを言って、俺たちは笑った。

「なに?雄介?」

「いえ、一条さんは?」

「いや…ただ、あの夜は辛かったな…と。」

「はい…俺も、辛かったです…。」

 少し、俺たちは黙って…洗う手だけを、俺は進めた。

 あの夜のことは…「辛い」という言葉では、表せない…。
 愛することは、生きることだから。そして、俺たちは愛し抜いていたから。
 愛と生の真只中で、俺たちは引き裂かれて、死んでいこうとしていた…。
 今生の別れ…あれは、「辛い」などというもんじゃなかった…。
 けれど、無理矢理に言葉にして、俺たちはあの夜を過去のものにする…。
 あの夜…辛かった、ね…一条さん…。

「一条さん、立って…」

 二人とも、慣れた動作だった。俺は、一条さんの前に膝立ちになって、下半身を洗った。

「足を…」

 俺の頭に片手を預けて、一条さんは、足を上げる。俺は、膝の上で綺麗に洗い尽くす。
 流して、もう一方の足も貰って…洗う。また流す。
 それから、ソープを取り直して、半立ちだった一条さんに触れた。

「う…ん…」

 久しぶりの感触に、一条さんが怯んでうめく…。

「壁にも掴まっていてください…。
 綺麗になったら…口でしてあげる…。」

 後ろまで綺麗に洗い尽くす頃には、一条さんは膝が揺れていた。
 とても…立ったままでは無理だった。
 シャワーで流した後、浴槽の縁に座ってもらった。

「一条さん…ちゃんと座っていて…」

「雄介…俺だけ?」

「俺も…一緒にいきますから…」

 俺は見上げて笑い…舌で捕らえ、くわえた。

「あぅ…」

 一条さんが小さく叫ぶ。
 すぐに硬くなってくる一条さんを舐めて、こね回して、追い上げる。
 久しぶりの一条さんは可愛くて…とても美味しかった。
 不安定な姿勢に一条さんが震えるので、手を回して腰を支える。
 もう一方の手で、自分を握った。

「ああ…雄介…いい…」

 一条さんがゆるく叫び、俺の髪を掴んで、かき混ぜる。
 優しく、ゆっくり、俺は追い上げた。
 焦らして疲れさせるつもりはなかったけれど…二人とも楽しめるぐらいに、ゆっくり。
 どうしたら一条さんが感じるのか…俺はよく知り抜いていた。
 懐かしい、恋しいもの…俺は次第に深く含んで動く。
 喘ぎが切羽詰まってくると、俺も昇りつめた。

「ゆうすけ…もう…いく…ああっ…」

 一条さんが寸前になったところで、俺は堪えられず達した。
 次の瞬間に一条さんが放ったものを、俺は呑み尽くす。
 久しぶりの味だった…俺は自分もまだ溢れさせながら、一条さんを舐め尽くした。
 一滴もこぼすまい、としていた。
 全部…俺の愛しいもの、だから…。

 顔を上げると、余韻の残るとろけた顔が、少し困っている…

「…雄介…飲んでしまったの?
 俺にはさせたがらないのに…」

 俺は笑いながら、シャワーの湯で一条さんを流し、自分を流し、辺りを流す。
 浴室に、精の匂いが篭っている…。

「だって…もったいなくて…。」

「今度は、俺にもさせて?」

「…一条さんにしてもらうのは…なんだか、申し訳ない気がして…」

「俺だって、したいんだ…。」

「じゃあ…元気になったら…」

「俺はもう元気だよ、雄介…」

 文句を言う一条さんに、浴槽にもう一度沈んでもらう。
 俺も入って、今度は背中から抱いた。

「冷えちゃいましたね…少し、沸かしましょうよ。」

 だんだん暖かくなる湯の中で、大切な人を抱いて、肩にくちづける。
 傷に触らないように…でも、しっかり俺は抱いていた。
 幸福で、幸福すぎて…苦しい。

「一条さん…」

「なに、雄介…」

 湯気の中の声が甘かった…

「俺…しあわせ…」

「うん…やっぱり、夢みたいだな…」

「夢じゃないよね…俺も怖くなってきた…」

「俺はちゃんといるよ、雄介…」

 振り向きかけた濡れた頬にくちづけた…。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 風呂から上がって、俺は丁寧に一条さんの全身を拭いて、服を着せた。
 一条さんは可笑しそうな顔をしていたけれど、俺がしたがっていることを知っているから、身を任せてくれている。
 それから、ベッドに寄り掛かった一条さんの髪を、ドライヤーで乾かした。

「雄介…おまえも髪を乾かさないと…風邪をひくよ…」

 どうせ言うことを聞かないだろうな、という苦笑を交えながら、一条さんが言う。

「いいんです、俺の髪は適当で…」

 

「俺の髪も適当でいいんだよ…?」

「駄目です。」

「もういいって…。」

 そう言いながらも、一条さんは、俺に頭を預けたまま、笑っている。

「駄目ですってば。風邪をひきます。」

「この…強情っぱり…」

「したいんだから、させてくださいってば。」

「まったく…誰に似たんだ?」

「だから、あなたに似たんですってば〜!」

 まぁ…つまり、俺たちはこうやって幸福にじゃれていた。
 いつかは、二人でいることも当たり前になっていくのかもしれないけれど、俺たちには初めての、普通の日だった。これが明日の始まりだった。

「雄介…おいで。」

 ドライヤーから解放された一条さんが、俺の手を引く。
 ベッドの向こう側の窓際に、俺を連れて行った。

「なに…?一条さん…?」

 一条さんは、笑いながら、ベッドによりかかって座った。

「座って…雄介。」

「はい…」

 きょとん、としながら、俺も隣に座る。

「で、空を見るんだよ、雄介。」

 一条さんは、広い窓に射す青空の反射の中で、笑う。
 俺は、まだ意味がわからなかった。俺の表情が可笑しかったのか、一条さんはまた笑った。
 こんなに緊張の解けた、自由な一条さんの笑顔は見たことがなかったから…俺は見とれた。

「違う。俺じゃなくて、青空を見るんだよ、雄介。ぼぉっと。」

「ああ…!そうか…俺の…。」

「俺と一緒に、ぼぉっと空を見たい…と言っていただろう。」

「はい…。」

 柔らかくもたれてきた一条さんの髪に頬を寄せて、俺は本当にぼぉっと青空を見上げてしまった。
 青い…。
 旅先で、たくさんの青空は見てきた。俺は、大好きだった。
 けれど、一番見たかった青空は、ここにあった。

「あの時は…こんな日が来るとは思えなかったけれど、夢を…見たかったから。言ったんです…。」

「…わかっていたよ、雄介。」

「どこで見ようか、一条さん?…って、思っていた。でも、悲しかった…。」

「俺は…祈っていた。ただ…。」

 表情の見えない一条さんが、静かに呟いていた。

「一条さんの望みは叶ったの?」

 俺は…明るく言った。

「ああ…普通の空き巣とかっぱらい、か?もう山程捕まえたさ。
 だけど…言っただろう?こっちのほうが、何倍もいい…。」

 つまらなそうな声の調子に、俺は笑ってしまって…また髪に頬を寄せる。

「山とか、海とか考えて、俺、最後に…思ったんです。二人の部屋で?って…。
 これ、叶っているのかな?」

「そうなんじゃないのか…?」

 今度は、一条さんのほうが笑っていた。

「ここに…住みついちゃって、いいですか?
 それとも、近くに部屋を借りましょうか、俺。」

「それなら、俺が押しかけて住みつくぞ。」

 押しかけ一条さん…それもいいなぁ、と思って、俺は笑った。腹筋の動きに一条さんも揺すられて、起き上がって俺を見る。

「そばにいてくれるんだろう?雄介?」

 微笑んで、俺を見ていた。

「はい、いさせてください。」

「じゃあ…ここにいてくれ。あまり広くはないが…。」

 この直線的な言葉が…俺は、好きだと思う。一条さんは無駄なことは言わない。

「どうせ、くっついてばかりいるんだから、場所は取りませんよ。」

「それもそうだな…。」

 くすくす笑って、一条さんは、軽くくちづけてきた。

「だが、東京にもちゃんと顔を出せ。みんな、おまえを待っている…。」

「はい…。」

「そして、また戻ってきてくれ…ここに。」

「はい。俺…もしかして、プロポーズされてます?」

「病院にいる時から、ずっと口説いているつもりだが?」

 少しむっとした口調に俺は笑ってしまって、一条さんも笑っていた。
 見つめ合って、またどちらからともなく、くちづけていた。

「言葉が足りなくて、待たされるのは、もういやなんだ…」

 唇を離すと、今度は真剣に俺を見つめていた。

「俺、もう離れません。見失いません。でも、しゃべってくれるのは…嬉しいです。」

 頷いて、深くくちづけてくる。俺も返して…すぐにまた、俺たちは夢中になる。

 俺たちはずっと肌を触れ合っていた。触れては話し、くちづけては話し、また触れた。
 病院でもずいぶん話したけれど、こんなふうにキスの合間にしゃべるようなことはできなかったから…このほうが何倍も嬉しかった。
 時々、キスが加熱してしまう時があって、俺はすごく辛かったけれど…そうやって、我慢していることも、幸せだった。
 トイレまで付いて行こうとして、俺は一条さんに怒られ、また二人で笑った。

 そんなふうに、ゆるやかに穏やかに幸福に…俺たちは最初の一日を過ごした。

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