『終章:明日(2002年5月23日〜)』 -1


 とうとう…一条さんの退院の日が来た。
 俺は嬉しくて…朝から荷物をまとめて、せっせと働いていた。

「雄介…そんなにがんばらなくてもいいんじゃないか?
 昼までに片付ければいいんだ。
 食事をしておいで?」

 一条さんは、すっかり俺のことを「雄介」と呼ぶようになってしまった。
 どうやら…クウガだった頃から、旅立つ前の俺が「五代」で、帰って来た俺は「雄介」…そんな感じらしい。
 俺は…「一条さん」のままだった。
 薫、と呼べば?…と、一条さんは言ってくれたのだけれど、椿さんを思い出してしまって、とてもそれはできない。
 「薫さん」というのも…なんだかとても恥ずかしくて、呼べなかった。一度呼んでみたんだけれど、一条さんは平気だったのに、俺のほうが真っ赤になってしまって…。
 だから、俺にとって、一条さんは、やっぱり「一条さん」だった…。

「だいたい、まとめちゃいたいんですよ〜。
 あ、これ、一条さん、着替えです。」

「ああ、ありがとう。」

 一条さんは受け取って確認していたけれど…そのうち、ポケットなどに手を入れて、何か探し始めた。

「雄介…これは、母がマンションから持って来てくれたのかな?」

「はい、そうですけど…?」

 一条さんのおかあさんは、あの後も何回か来てくれて、俺も会った。
 俺がいるのが当たり前、みたいな顔をして笑ってくれたので、一条さんも俺も、何も説明しなかった。
 二日前にまた来て、一条さんの退院のことを知り、マンションに戻って、服を整えてくれた。
 それを今、渡したんだけれど…。

  「…着ていた服は、どうせ全滅、か…。」

 一条さんは、まだ服の間をさぐっている。

(あっ)

「一条さん!もしかして…」

「なんだ?」

 一条さんは、なんだか機嫌が悪そうな顔で、俺を振り返った。
 俺はあわてて、バックパックを探り、おかあさんから預かっていた封筒を取り出した。

「もしかして…これ、探してます?
 俺、ずっと前におかあさんから預かっていたのに、すっかり忘れてて…。」

 一条さんは手を伸ばして受け取り、封筒の中から手の平へ、あのクウガのペンダントを滑り落とした。
 それを見つめてすごく嬉しそうに笑う。

「…よかった。なくなってしまったのか、と気になっていたんだ。」

 そう言って、すぐに首にかけようとする。

「一条さん…」

「…ん?」

 と言いかけて、一条さんは、顔をしかめた。金具がうまく止まらないらしい。

「くそ…指まで不器用になって…。
 雄介…やってくれる?」

「一条さん、俺…もっといいの、買いますから。
 いえ、一条さんが似合いそうなの、俺がつくりますから。
 だから…そんながらくた、もうやめてください。」

 俺は、けっこう必死になって言ったんだ。
 だけど、一条さんは、笑って首を振る。

「俺は気に入ってるんだ…。
 俺の恋人の紋章だから。
 雄介、やって。」

 恋人、と呼んでくれるのは、すごく嬉しい。
 でも、一条さんには、もっと繊細でシンプルなデザインのほうが似合う、と俺は思うんだ、けどな…。

 …いや、違う。

「俺…もう、クウガじゃないんですから…。」

 でも、一条さんは、もうペンダントを俺に押し付けて、ベッドの上で後ろを向きかかっていた。
 右手で、首にかかる髪を掻き寄せながら言う。

「ほら、雄介…はやく。」

 俺の掌の上のペンダントを見る。
 クウガだった頃につくったんだけれど、俺はあまり気に入らなくて、ほとんど身につけなかった。
 そんなにいい出来じゃないんだ。確か…ほら、このクウガの角のところが歪んでいる…。
 俺はこれを、別れの意味で、あの古い家の座卓の上に置いて来た。クウガだった自分と別れるような気持ちもあった。…一条さんが身に付けてくれるなんて、思っていなかった。
 一条さんの血がついていたこのペンダントは、一条さんが死んでしまったら、形見になる筈だった…。
 でも、目を覚まして、生きてくれるとわかって…俺は洗面所で、歯ブラシを使って綺麗に血を落とした。そして、磨いてしまいこんで、すっかり忘れていたんだ…。

 クウガだった俺だけが愛されているようで、別れの意味だった品であることが辛くて…一条さんの血を吸ったことも憎かった。
 でも、ずっといなかった俺の代わりに、これは一条さんの肌に寄り添っていてくれたんだ…。

「はい…。」

 金具を止めてあげながら、一条さんの首筋から目が離せなくなってしまった。
 白い肌に、銀の鎖がよく映える。どきどきしてきた。

「雄介…クウガだった記憶は忘れたい?」

 後ろ向きのまま、一条さんは静かに言う。

「いえ…忘れられません。」

 金具が止まって、ペンダントヘッドが一条さんの胸に光るのが、肩越しに見える。
 大きく胸に刻まれてしまった手術の痕のすぐ上だ。
 一条さんが慣れた動作で、ヘッドの位置を直す。

「五代雄介はクウガだった。俺は誇りに思っている…。
 俺は…忘れない…。」

 一年二ヶ月前に俺が手放したペンダントは、驚く程に一条さんの肌に馴染み…よく似合った。
 銀に光るクウガの名が、一条さんの胸に揺れる…。俺の名前だ…。

 一条さんが、ヘッドを握り込んで呟く。

「ああ…やっぱり、これがあると、落ち着くな…。」

 おそらく…俺が旅立った朝からずっと、あなたはこのペンダントを身につけ、俺を待った。
 俺が、忘れようとして、彷徨っている間。
 ずっとずっと…あなたの胸には、俺の名が揺れていた。
 こんなに似合って、あなたの肌で温まっていた…。

「はい…。ごめんなさい…よく似合います…。」

 言いながら、たまらなくなって、首にキスした。

「…んっ」

 一条さんが、僅かに仰け反る。このへんは一条さんの性感帯だ…。
 ここが病院だということはわかっているんだけれど、もう少しだけ…。
 後ろから手を廻して、一条さんの身体をそっと抱く。胸の怪我があるから…そっとだ。
 それから、首のくちづけを、少しだけ深くした。
 少し痩せてしまったけれど…一条さんの身体は暖かい。
 ひさしぶりに…本当にひさしぶりに、一条さんが俺の腕の中にいた。

「…雄介…。」

 一条さんの、咎める声がする。

「…わかってます。でも…もう少しだけ…。」

 僅かに吸いながら噛んだ。一条さんが息を詰めて身じろぎする。

「…雄介、いいかげんにしろ。」

 ちょっと怒った声だったので、俺は唇を離した。
 でも、廻した腕はもうちょっとだけ…。髪にそっとくちづける…。

「雄介…俺を食うのはマンションに戻って、風呂に入ってからにしてくれ。」

 俺の一条さんは、最近すごいことを言うようになってきてしまった…。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 朝食の後に、退院の手続きをした。
 昼までなんか、とても待てない。一条さんをこの病院から連れ出して、二人きりに…はやくなりたかった。

「ありがとうございました。」

「お世話になりました。」

 一条さんも俺も、丁寧に挨拶する。
 婦長さんも、看護婦さんも見送ってくれて…
 なんだか、一条さんと俺は、けっこう人気があったらしい。
 特に、パジャマ姿じゃなくて、ポロシャツとチノパンに着替えた一条さんは…若い看護婦さんたちの目はみんなハート型になっちゃうし、廊下にいる入院患者たちも振り返る。
 俺は嬉しくて、自慢でしょうがなかったけれど…
 やれやれ、やっぱり一条さんはすごくもてる…俺、大丈夫かしら、と心配にもなった。

「雄介はやっぱり人気があるんだな…。」

 呼んでもらったタクシーに乗って、一条さんはそんなことを言う。
 この人は本当に自分のことがわかっていない…俺は可笑しかった。

「あの可愛い看護婦も、おまえを見ていたぞ。いいのか…?」

 あらら…一条さん、ちょっと妬いてます?もしかして…。
 でも、一条さんは俺を見て笑っていて…どうやら、また俺をからかっているみたいだった。

「いいのか?ってなんですか〜?」

 俺がふくれて見せると、また笑う。
 本当に、一条さんは、笑顔が増えた、と思う。
 それも、心から幸せそうに笑うので、ますます綺麗で…。
 俺は、一条さんに見とれてばかりいる…。だから、他の人なんか、見えっこない。

「俺、一条さんしか見えてませんから…。」

 運転手さんに聞こえないように、一条さんの耳元に囁いた。
 一条さんはまた笑って、やはり同じように小声で応える。

「あまり寄らないでくれ。タクシーの中で発情すると、困る。」

 俺は、さりげなく窓のほうを見る。
 本当に、一条さんの顔を見ていると、何をしてしまうか、わからない。
 …しあわせでしあわせで…嬉しくて嬉しくて…自然と顔がにやけてしまう。
 シートの上に置かれた一条さんの手に指を絡ませて、俺は、さらに窓の外を見る振りをする。
 俺たちは、そんなふうにそっぽを向き合いながら、一条さんのマンションまで帰った。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 一条さんのマンションは、あの東京のレンタルマンションよりも、ずっと立派だった。
 あ、エレベーターも付いている…。俺、もう階段を駆け上がらなくていいんだ…。
 一条さんの部屋は最上階だった。階段だったら、俺、大変だったな…。

 なんて…もう、ここに通う心配をしながら、一条さんの部屋の前まで来る。
 一条さんが鍵をあけて、一緒に玄関に入って、俺は中の様子を見回そうとした。
 でも、いきなり一条さんが、俺の腕を引き、首に腕を巻いてくちづけてきて…何も見えなくなってしまった。

「…雄介…雄介…」

 俺を見つめながら、唇が優しく唇を探ってくる。

「一条さん…荷物…」

「そのへんに置け…」

「靴も脱いでないし…」

「こっちが先だ…」

「部屋も見てない…」

「駄目だ…俺を見て…」

「風呂に入ってから、じゃ?…」

「キスぐらいはさせろ…」

 唇を触れ合わせながら、囁き合う。一条さんの目がきらきら笑っている。
 俺は、両手に持っていた紙袋を足元に置き…それからようやく一条さんの身体に手を廻した。
 怪我があるから、強くは抱きしめられない。でも、腰を引き寄せて、しっかり抱いた。

「…雄介…雄介…」

「一条さん…」

 一条さんは俺を呼びながら目を閉じる。くちづけはすぐ深くなってしまった。
 一条さんの唇は、まだ病院の味がする。でも、それは懐かしくて恋しかった一条さんの唇で…。
 あの月の夜以来…一年以上経って…俺は、ようやく一条さんを腕に抱いていた。
 俺の腕の中に…もう一度、一条さんがいる。
 今度こそ、俺だけの一条さんが…いる。
 もう…二度と離さない…。

「一条さん…一条さん…」

「五代…雄介…」

 一条さんの指が、俺の髪にからまる。
 俺も指を一条さんの髪に差し入れて、掴む。
 呼び合いながら、肌を探り合いながら、舌がからまって…くちづけはついつい過熱してしまった。
 気がつくと、一条さんは少し息を切らしていた。

「一条さん…大丈夫?」

 俺の身体に、寄りかからせるようにしながら、訊いた。

「ちくしょう…目が回る…。」

 一条さんは笑っていたけれど、少し蒼ざめていた。俺はすごく反省した。

「すみません…退院したてなのに、俺、夢中になっちゃって…。上がりましょう。」

 俺たちは、まだ玄関にいたんだ…。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 一条さんの肘の当たりを支えながら、短い廊下を抜けたら、広いワンルームに出た。
 窓が大きくて、明るくて、キッチンもベッドも何もかも見渡せる。
 インテリアはとても簡素で…一条さんらしいな、と思う。

「おお〜。いい部屋ですね〜。」

「相変わらず、何もないが…な。」

 きょろきょろ見回している俺を、一条さんは可笑しそうに見ていた。

「ああ、一条さん、座ってください。顔色、ちょっと悪いです。
 それとも、少し寝ます?俺、荷物を片付けちゃいますから。
 あっお茶煎れましょうか、ありますか?それとも、コーヒー?
 ああっコーヒーは、まだ無理なのかな?」

「雄介…ここは、俺の部屋だぞ。」

「一条さんは病み上がりなんですから、じっとしててください。
 動いたら、俺怒りますよ…。」

 言いながら、何か変だな、と思った。
 一条さんも可笑しそうな顔をしていて…目を合わせたら、二人で吹き出してしまった。

「俺…同じ台詞を言ったことがありますね。」

「俺も、同じだ…。」

 ベッドに腰掛けた一条さんが手を伸ばすので、自然に俺も横に掛けて、笑いながら吸い寄せられるようにまたくちづけてしまう。

「しょっちゅう、おまえに看病されているな…俺は…」

「俺だって、さんざん世話してもらいましたよ…」

「二人とも、ぼろぼろだったから…」

「過激なんですよね、俺たちって…」

 くちづけの合間に囁き合う。

「ああ…もう全然離れられないじゃないですか…」

「離れないでいい…離れるな…」

「離れたくないですけど…また目が回りますよ…」

「いいんだ…ベッドの上だから…」

「押し倒しますよ…」

「俺も押し倒したい…」

 とうとう二人で、ベッドの上に倒れてしまった。
 一条さんの上に倒れないように気をつけたので、少し距離が開いて…俺たちは横になったまま、またどうしようもなく幸せな顔を見つめ合った。

「ベッド…大きいんですね。」

「雄介と寝るには狭いか、と思ってセミダブルに替えたんだ…。」

 俺は手を伸ばし、昔のように、一条さんの頭を腕に抱き取る。
 一条さんはごく自然に、俺に身体を預けてきた。

「…遅くなりました。ただいま…一条さん。」

「…おかえり…雄介。」

 腕の中の一条さんが、静かに言った。俺たちは、そっと唇を触れ合った。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「一条さん…少し、寝ててください。
 まだ顔色悪いです…。
 俺、片付けちゃって、風呂沸かしますから。
 風呂沸いたら起こしますから…できれば少し眠って。
 俺、心配ですから…。」

「雄介…」

 離れようとした俺のシャツを、一条さんが掴む。
 甘えて見上げて来る瞳が可愛くて…。

 こんなことはしたことがなかった…前は。
 どちらかと言うと、淡白な冷たい人かと思っていたのに。
 そうじゃなかったんだね…一条さん…。

 これからは、いっぱい甘えて…。
 俺、なんでもしてあげる…。

 額にくちづけた。

「ね。少し…眠ってください…。」

「…ん。」

 一条さんは、素直に俺のシャツを離して、目を閉じた。
 クローゼットから毛布を探し出して、掛けてあげる頃には、完全に寝入っていた。
 今まで、長いこと病院の中だけにいたんだから…疲れたんだ、と思う。

 じきに…体力も戻るよね。早く元気になって…。

 一条さんは、まだ少し不自由な左側を上にして身体を投げ出し、安心しきった顔で眠っている。
 俺はベッドの横にひざまづき、しばらくその綺麗な横顔を見つめていた。
 目を閉じると、この幸福は消えそうだ…。
 消えてしまわないか、何度も確かめてから、俺は立ち上がった。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 俺は風来坊だから…一番好きな人のいるところが、自分の家だ。
 だから…ここは一条さんの部屋だけれど、すぐに慣れてしまった。

 廊下にドアのあるバスルームとトイレを確認して、浴槽をざっと洗って、風呂を沸かし始める。

 さっき毛布を出してきたクローゼットは衣類もしまえるようになっていた。病院から持ち帰った物を、場所を確認しながら片付けた。
 一条さんの衣類は、スクエアなものが多い。何を着ても似合うだろうに…冒険する気も興味もないのだろう、と思う。
 まぁ、俺も…バックパックひとつに入るだけの衣類で一年以上生き抜いてきている。一条さんより洒落ッ気はないのかもしれなかった。
 でも、もう少し…一条さんにはお洒落して欲しいな…と思いかけて、あわてて首を振った。
 駄目だ…これ以上、一条さんがもてるようになってしまったら、俺は警察の中まで付いて歩かなければならなくなる…。
 うっとおしがる一条さんを想像し、俺は一人で笑った。
 浴用タオルを見つけ出して、脱衣所に出しておいた。

 それから、ワンルームに戻って、キッチンの構造と料理用具をだいたい把握する。
 東京のマンションは本当にやかんぐらいしかなかったけれど、ここには鍋とフライパンもあった。食器棚には皿や茶椀もある。…と言っても、結婚式の引き出物みたいな品が多い。
 相変わらず、あまり料理をしている様子はなかった。
 俺、料理もしてあげるから…ね、一条さん。
 二人で、食器も買いに行こう…そうだ…おでん用の皿も、ね。

 リビングコーナーには、見覚えのあるローテーブル…これは東京から持って来たらしい。
 東京にあったものよりは、サイズの大きいテレビとビデオ。
 それから本棚…ほとんどが、犯罪や暴力団関係の本ばかりだった。犯罪心理学やプロファイリングの洋書もある。それから、雑誌と、車と銃の本が少し。端っこに『未確認生命体と4号の謎』なんていうのもあって…驚いた。こんな本が出てたのか…。
 その他には、シンプルなデスクがひとつ。ペン立てと辞書が一冊、のっているだけ。

 昔、聞いたことがあったけれど…本当に簡素な部屋だった。
 警官という仕事だけに生きている、一条さんの部屋…。
 あの頃は、寂しいような気がした。
 でも、今は一条さんの生き方が清々しく感じられた。
 俺の一条さんは、本当に一途で…美しい人だ、と思う。

 思い付いて、デスクの一番上の引き出しをそっと開けてみた。
 ごめんね、一条さん…俺、覗き見の趣味はないんだけれど…。
 やっぱり…おかあさんが言っていたように、そこに俺の写真と手紙が入っていた。
 置き手紙の上に絵葉書が、その上に俺の写真が、きちんと重ねられて…それだけが、入っていた。
 誰が撮った写真なのか…トライチェイサーから降りかけた俺が、なにかに振り返っているところだった。はい、なんですか?と写真に写っていない人に応えているような俺…。
 でも、誰を見ていたのか、俺は全然覚えていなかった。
 こんな写真を…見ていたの?一条さん…。
 仕事の為の物ばかりのこの部屋で、この引き出しにだけ俺をしまって…。

「こら…。」

 小さな声がして、俺は振り向く。
 一条さんが、まだ横になったまま、俺を見て笑っていた。

 一条さんが目を覚ました…。
 日の光が急に射し込んできたような気がする…。

「勝手に覗くな。そこは俺の心だぞ…。」

 一条さんが起き上がりながら、優しく文句を言う。

「ごめんなさい。覗いたら、俺がいました…。」

 俺は、写真を手に取って、一条さんの元に行く。
 毛布を退かした一条さんがベッドに腰掛けた足許に座った。

「一条さん…これ、いつの写真なんですか?」

 一条さんは、俺から写真を受け取って、見る。
 瞳が少し和んで、俺は写真の中の俺に妬く。

 …ずっと、そうやって見つめていてもらったのか…。

「たぶん、24号の時じゃないか、と思うんだが…
 対策本部が解散する時、整理していたら出て来たんだ。」

「もうちょっとマシなのは、なかったんですか?」

 俺のふくれっ面をおもしろそうに見て、一条さんが応える。

「おまえはくれなかったじゃないか。
 でも…俺は、これが好きだよ。雄介らしくて。」

「俺…覚えていないんですけど、撮られたこともほとんど…
 これ…俺は誰を見ているんです?」

 一条さんは、写真から目を上げて、俺を見つめた。
 少し遠い、哀しい目になって、また写真の俺を見る。

「たぶん…俺だと思う。
 俺が呼んだので、おまえが応えながら振り返った…
 その瞬間だろう。
 そう…思いたかったのかもしれないが…。」

 最後は呟くようだった。
 写真の中で、少し笑いながら振り返っている俺の顔を、一条さんの指がなぞる。
 そうやって…ずっと俺をなぞっていたの…?
 写真に写っていない一条さんが呼んだ声に振り返る、俺の声のない応えを聞いていたの…?
 胸が痛くなりかけた。でも、俺は明るく言う。

「あの頃は、まだ警察の人には俺は知られてなかったから、一条さんしかいないですよね。
 『五代!』って一条さんが呼んで、俺は『はいっ』って慌てて振り返って…。」

「そうだな…。」

 やっと写真から目を上げてくれた。

「一条さん…俺、ちゃんとここにいますよ。
 これからはそばにいて、一条さんが呼んだら応えますから、いつでも。
 もう写真は見ないで…俺を見てください。」

 俺は、まだ少し哀しい目をしている一条さんを見上げて言う。

 できることなら小さくうずくまって、その胸のペンダントになってしまえばよかった。
 できることなら、平たくなって、その写真の中にいたかった。
 あなたを悲しませないものに、俺はなりたかった…。

 一条さんは軽く頷いて、口の端だけで笑った。
 写真を渡されて、ローテーブルの上に置いた。

「じゃあ…雄介…」

「はい…」

「雄介…」

「はい…」

 一条さんの指が俺の顎にかかり、上を向けさせておいて…
 身体をかがめて、一条さんはくちづけてきた。

「雄介…そばにいて、くれる?」

 ゆっくりと唇を辿りながら、一条さんは囁く。

「はい…もう離れません…」

「おまえがいないと…俺は駄目らしいんだ…。干上がってしまう…。」

「俺も、駄目です…全然。焦がれて死にそうでした…。」

「俺は…見ての通り、警官である以外には何の能もない男だけれど…
 そばにいてくれる?」

「はい…俺、なんでもしてあげます…」

 一条さんの唇が、俺の唇から少し離れて…一条さんは笑った。

「何もしてくれなくていいんだよ、雄介…
 俺は不器用だが、一人暮らしは長いから、自分の面倒はみられるよ。」

「でも…してあげたいんです…」

「無理はしないでくれ…
 絶えずそばにいてくれ、と頼んでいるわけでもないんだ…」

「でも、いつでもそばにいたいんです…」

 俺は、少し意固地な気分になって応えた。

「無理じゃないんです。そばに…いさせてください。」

「…雄介…」

 一条さんは、少し困った顔をした。

「入院していた間は、俺の我が儘で引き止めてしまったが。
 東京にも、おまえを待っている人はいるだろう?」

「電話はしてあります。」

「雄介…俺は、おまえを独り占めはできないよ…。」

「独り占めされたいんです。」

 一条さんは、苦笑して…。
   それから…思い直したように、晴れ晴れと笑った。
 俺は…意味はわからなかったけれど、一条さんの笑顔にまた見とれた。

「すごいな…雄介…俺たちは、痴話喧嘩をしかかっている…
 こういうのを…痴話喧嘩、と言うんだろう?」

 一条さんが笑いながら、言う。
 その気持ちは、俺にもすぐわかった。俺も笑い出してしまう。

「おまけに、一条さん…将来の生活設計してるんですよ、俺たち…」

「すごいな…」

「すごいです…」

 一条さんが俺の腕を引いた。

「おいで、雄介。寝転がって、将来の生活設計をやろう…」

「はい…」

 俺は、一条さんに引かれてベッドに這い登り、俺たちは並んで横になった。
 すぐに、今度は一条さんが俺の頭を抱き込んだ。
 右腕だったから、俺は安心して頭を預けた。

「本当に…すごいな…」

 一条さんが俺を見つめながら、まだ言っている…。

「俺…一条さんと、生きていけるんですか…?」

「雄介…おまえが望むなら…」

 一条さんが真剣な顔になる。

「…俺は、おまえと生きていけるのか?ずっと?」

「あなたが望むなら…ずっと。」

 一条さんが、息を吐く。

「すごいな…」

「すごいです…」

 すごいすごい、と繰り返しながら、俺たちはまたくちづけをした。

 出会った場所が戦場で、俺たちの愛はいつも死と隣り合わせで…。
 何度も何度も俺たちは死にかけながら、駆け抜いてきた…。
 その中で、俺は一条さんを、一条さんは俺を、お互いにめちゃめちゃに愛して…そしてお互いの愛に縋って生き抜いてきたけれど…。
 明日のことなんか、語る暇はなかった。
 未来のことを考える余裕なんかなかった。
 いつも傷ついていて、今を生きるだけで精一杯で、次の闘いの為に張り詰めて…愛し続けることさえも必死だった。
 普通の恋人たちが語り合うような、自分のこと、相手のこと、そして明日のこと…そんな、当たり前の会話もしたことがなかったんだ…。
 ようやく、俺たちは今、明日のことを語り合っていて…それは、本当にすごいことだった…。

「そうか…本当に、そんなことを考えてもいいのか…」

 一条さんは横になったまま、左腕で目を隠していた。少し声が震えていた。
 俺は、気をつけながら、一条さんの身体の上に乗りかかるようにして、その腕を退かした。
 目を閉じたままの一条さんの頬に自分の頬を擦り付けながら囁いた。

「…明日のことを、話せるんですね。」

「もっと先のことも…。」

 一条さんが笑いながら、態勢を入れ代えて、俺に組み敷いた。

「一条さんのこと、もっといっぱい教えてください…なんでも…
 あっそんなとこ、舐めないで!」

 目蓋を舐められながら、俺はくすくす笑った。

「俺は…これっきりの男だから…おまえは…飽きるかもしれないな。」

 一条さんは、わざと俺の目蓋を舐めまわしながら、しゃべっている。

「そんなふうに舐めたら…一条さんが見えないじゃないですかっ!」

 一条さんが笑いながら、自分のシャツの袖で、俺の顔を拭ってくれた。
 目を開けると、一条さんが見える。俺の一条さんが見える。俺だけを見つめている…。

「…俺だって…一条さんに嫌われるかもしれない…」

「そうだな…でも、きっとそれはないよ、雄介…」

「俺も…飽きるとか、嫌うとか…考えられないです…」

 またくちづけてきた一条さんの頭を、俺は抱え込む。

 俺たちは、死と戦場を越えて、愛し合ってきたから…。
 たくさんの傷も苦しみも越えて、それでも今ここに二人で在ったから…。
 互いが互いの為に在ることを、生涯にただ一人の相手であることを、俺たちはもう、知っていた。
 明日の計画はまだないけれど、それだけは俺たちは知っていた。
 あなたは、俺のものだ…。俺は、あなたのものだ…。
 それだけは、知っている…。

 一条さんが舌を入れてきて…相変わらずの柔らかい上手なキスに、俺は蕩けそうになる。
 そのまま、また態勢を入れ代えて、今度は俺がむさぼる。
 指を髪に入れ、掴んで仰け反らして、首筋を甘く噛む。
 舐め上げて耳に辿り着く。
 舌を入れると、一条さんが喘ぐ…。
 愛し合う時のいつもの手順を、俺たちはすぐに思い出していて…
 耳を舐めながら、一条さんの胸のボタンをはずしていく。
 一条さんの指も、性急に俺のTシャツの下から入り込んで…。

「…雄介…欲しい…」

 脳味噌が溶けそうな声を聞かされたところで、俺は我に返った。

「あっ…風呂!!」

 あわてて起き上がろうとする俺のシャツを、一条さんが掴んだ。笑っている…。

「あわてなくて大丈夫だよ…雄介。
 ここのは、沸くと自動的に保温になるんだ…。」

「え…?なんだ…そうなんですか…すごい…俺、時代遅れ…」

「でも…入ろうか、雄介。
 病院のシャワーでは、どうもさっぱりした気がしなくて…。」

 胸をはだけたまま、俺を笑って見上げる一条さんの目は、まだ情慾にけぶっている。
 入院生活で、青白くなってしまった頬も上気して…。

「そんな顔して、見ないでください。
 俺、今すぐ食べたくなるから…。」

「それでもかまわないが、な…。」

 一条さんは、俺を誘惑する方法をよく知っている。
 どんなことを言い、どんなふうに笑えば、俺が蕩けてしまうか…とっくに知っている。
 危うくもう一度のしかかりそうになるのを堪えて、一条さんの右手を引いた。

「駄目ですよ。風呂に入りましょう。
 俺、洗ってあげますから。」

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