『第12章:回復』 -2


         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 一条さんは、だんだん回復していった。

 俺は、すっかり一条さんの病室に住み込んでしまった。
 ここは完全看護らしいけれど、文句はまだ言われていない。
 俺の件以来、なんだか知らないけれど、この病院で顔がきくようになってしまったらしい椿さんが、東京に帰る前に口添えしてくれたのかもしれない。
 あの婦長さんは、いつもただ、笑顔で挨拶してくれるだけだけれど、よかったわね、私の言ったとおりでしょ?と、目が励ましてくれていた。
 俺は…なんだか、すべてが輝いて、ただありがたかった…。

 一条さんが元気になってきたら、亀山さんや長野県警の人たちが、毎日のように見舞いに来た。
 亀山さんは、俺が居座っていることにちょっと驚いたようだったけれど、他の人たちは、俺を付き添いの親戚かなんかだと思ったらしい。
 一条さんは、誰が来てもそんなにしゃべったりしないのに、みんなは楽しそうにベッドを囲んで、一条さんの回復を喜んでいて…俺は見ていて、嬉しかった。

 ある日、俺が廊下まで送って行ったら、亀山さんがこう言った。

「五代さん…一条さんは、元気になられましたね。
 とうとう、あの傷も治ったんですね。
 僕はそう思います。おかしいですか?」

「いえ…俺もそう思います。」

 俺は笑って、それだけ言った。
 亀山さんは俺を見て、もう少し何か言いたそうだったけれど、じきに丁寧に御辞儀をして、帰って行った。

 椿さんも言っていた、一条さんの傷…。
 俺には、わからなかった。
 回復していく一条さんは、穏やかで幸せそうで、俺を優しく見ては、よく笑った。
 だったら、その傷って…俺がいないこと、だったのかもしれない。
 俺が帰ったんだから、もう治ったんだよ、きっと。
 そんなふうに、思い始めていた…。


 ひかりさんと杉田さん、桜井さんが、揃ってはるばる来てくれたこともある。その時は、ちょっとした同窓会になってしまった。
 最初はみんな、俺がいることに驚いて、それからわぁわぁ挨拶して、あの頃の話なんかもして…楽しかった。
 一条さんと俺の関係については、誰も聞かなかったので、俺たちも説明しなかった。あの頃から、俺たちが二人でいるのは見慣れている人たちなので、あまり不思議にも思わなかったのかもしれない。
 それとも…なんとなくわかっていたのかもしれないけれど…俺はどちらでもかまわなかった。
 ひかりさんたちがいる時にも、俺は普段通りに一条さんの世話をし、一条さんも当たり前のように俺に任せていた。
 同じ苦しい時間を共有した者たちだけの暖かい気持ちが五人の間には流れていて、あの後、お互いが元気で幸福であるのならば、どんな形でもかまわない…みんながそう思っているような気がした。
 去り際に、ひかりさんが俺たちを見て、言った。

「ん…やっぱり、いい感じ。コンビがまた見れて、嬉しかったよ。」

 一条さんは苦笑して返事の代わりにし、俺は久々のサムズアップで応えた。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 見舞い客のいない時には、一条さんと、いろいろな話をした。
 一条さんは…目を覚ました日の夜、俺に言ったように、以前よりもよく話してくれるようになった。気持ちも口にしてくれるようになった。
 俺のほうが、相変わらず倍ぐらいしゃべっていたけれど…すごく嬉しかった。
 一条さんはベッドの上で、横になったままで…。最初の頃は、あまり長い話はできなかった。
 だんだん元気になってからは、上半身だけ起こしたベッドに寄り掛かる姿勢で…。
 俺はベッド脇の椅子に座って、ベッドに肘をついて…。
 俺たちは、毎日、話をした。

 昔は、ほとんど話なんかしなかったんだなぁ…と、俺は改めて思う。
 未確認を倒し、夜中に一条さんの部屋に行き、食事をして、風呂に入って、抱き合って寝るだけしか…俺たちの時間はなかったから。
 今、初めて俺たちは向かい合って、時間をかけてお互いのことを話していた。
 出会ってから今までのこと、離れていた間のこと、もっと遡って、子供の頃や、出会うまでのこと…話すことはたくさんあった…。

「一条さん…椿さんのこと、訊いていいですか?」

 椿さんが帰ってから何日かして…俺は訊いてみた。
 その時は、一条さんはまだトイレと食事の時ぐらいしか起きられなくて、一日の大半をベッドで横になって過ごしていた。

 白い枕の上で、一条さんはこちらを向いて…微笑んだ。
 おまえがいて、嬉しいんだ…と、一条さんの目が言っている。
 見つめられると、俺はとろける。もう何度も何度も、俺はとろけさせられていて…。
 一条さん…そんな目で見たら、俺、ぐにゃぐにゃになっちゃうのに…。

「椿と…いろいろ話したんだな?」

「はい。俺、いっぱい怒られました。
 でも…感謝してます。」

 一条さんは、苦笑してため息をつく。

「椿に…損な役回りをさせてしまったか…。」

「椿さんは…一条さんを愛してるんですね…。」

「…知っている。」

 一条さんは、白い天井を見上げた。

「俺は…応えられなかった。
 椿は…親友だ。それ以外には考えられない。」

「椿さんも…今は、親友だって…言ってました。」

「ずいぶん、俺を助けてくれた。
 五代…おまえを任せられるのも、あいつ以外は考えられなかった。」

「はい…世界でたった一人の、クウガの主治医でした…。」

「…あいつが俺の友として、いてくれるなら…俺は同情はしない。
 それが礼儀だと思っている。」

「…はい。」

「だが…長いつきあいだからな。
 あいつは無口な俺の顔色を読み慣れていて…」

 一条さんは、また俺を見た。目が優しくなる。俺はまたとろける。

「…途中までは隠していたつもりだったが、すっかりばれていたようだ…。」

「?…なんですか?」

「俺が五代を愛していること…。」

 俺を見つめる目が、おまえだけを…と語る。
 何度も何度も、一条さんは言ってくれるようになった。
 馬鹿だった俺の為なのかもしれない。
 繰り返し言ってくれて…「愛してるよ」と…
 俺はその度に嬉しくて嬉しくて…そして、少し辛かった…。

「俺は…見失ってしまったのに…椿さんは知っていて…
 …怒られました。」

 一条さんが、俺の気持ちを察して、身体の脇に置いていた手を伸ばしてくれる。
 俺はその手を捕らえて、自分の頬を擦り寄せる。
 一条さんの指が、俺の頬を撫でて、宥める。

「おまえは…ひどく傷ついたまま、旅立った…。
 俺を…見失ってしまっても、無理はなかったんだ。
 行かせてよかったのかどうか…俺も、椿に怒られた…。
 もう一度、せめてこの病院に連れて来て、椿に診せるべきだった、と。」

 一条さんが遠く、ため息をつく。

「…ここに、入院してたんですね、俺も。
 婦長さんが俺を覚えていて…驚きました…。」

「一晩だったが、な…おまえがここにいたのは。
 ここに五代を連れて来た時には、俺はおまえを助けることしか考えられなかった…。
 あれこれ無理を言って、迷惑をかけてしまった。椿にも…。
 必死だったので、あいつの気持ちに甘えて、ずいぶんこき使った…。
 すまなかったと思っている…言えないが、な…。」

 一条さんのことを本気で欲しかったのは、もう昔のことだとしても…
 椿さんは、ずっと一条さんのそばで、一条さんを助けてきた…。
 一条さんが俺のことを好き、と知っても、俺も助けてくれた…。
 口は悪いけれど、信頼できる人なんだ。

 それに比べて俺は…と、また思えてくる。

「自分のほうがいい男だ…って、椿さんは言ってました。冗談っぽくですけど。
 そうかもしれないって気がしてきたんですけど…俺…。」

 一条さんは笑って、俺の頬をまた撫でる。

「そうだとしても…椿に俺を譲り渡さないでくれ。」

 俺は、一条さんの指にくちづける…。

「渡しません…。渡せないんです…。
 でも…俺は一条さんを一人にして、帰って来なかった。
 椿さんに怒られて当然なんです…。」

「…五代…それでも、俺はおまえがいいんだ…。」

 一条さんが疲れてきていた…。
 だるそうになる声で、俺はもうわかるようになっていた。

「一条さん…眠い…?」

「…うん…ごめん…。」

 目蓋が閉じそうになっている。
 俺は一条さんの手を掛布の中に入れ、襟元を直した。

「…眠って、ください。」

 目を閉じかけた一条さんが、また言う。

「五代…おまえが帰れなかったのは…俺も悪かったんだ。
 だから…あまり自分を責めないで…くれ。」

 そう言って、一条さんは眠りに落ちていった。
 無防備な寝顔が愛しくて、俺は額にそっと唇を触れる。

 どうして、この人と離れていられたのか…俺にはもう全然わからなかった。
 俺にとってはたった一人の人だと…とっくにわかっていたのに。
 愛されていない、と思っていても…帰って来ればよかったのに。
 そうすれば、すぐに誤解は解けて、一条さんは俺を抱きしめてくれただろうに。
 もっと…ずっと前から、この人のそばにいられたのに。
 一条さんがこんな…死にかかるような傷を負うこともなかったかもしれないのに。

 自分を責めるな、と一条さんは言ってくれたけれど、やっぱり俺は無駄に彷徨った月日が悔しくて。
 そして、一条さんを失いかけた夜のことをまた思い出して。
 一条さんの寝顔を見つめながら、俺は少し泣いた。

           ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 帰れなかった一年と二ヶ月の放浪を悲しく、悔しく思う気持ちは、それからも消えなかった。
 どうして、どうして、俺は…と、歯噛みするような後悔が、時折こみあがってくる。
 一条さんとの話にも、ついついそれが出てしまう。

「やっぱり俺、待ってる…って言って欲しかったです。」

 一条さんは、いつも優しく俺の話を聴いてくれたから、俺は甘えてこんなことを言っていた。

「…言えば、もっと早く帰ってきたのか?」

 一条さんは、眠っている時間がどんどん少なくなり、ベッドを離れた時の足取りもしっかりしてきていた。
 その時はベッドの背を起こして、寄り掛かった姿勢で俺に応えてくれた。
 俺の買ってきてあげた紺のパジャマがよく似合って…少しやつれた顔に、前よりも長めの髪がよく似合って…俺は見とれた。
 俺の視線に気付いた一条さんが、優しい目になる。それにまた見とれながら、俺は応えた。

「はい…たぶん、半年ぐらいで…。俺はもう、笑顔を取り戻していましたから。
 そのあとの、8ヶ月…帰りたくて、でも帰れなくて。
 それが、くやしいんです、俺。」

「…言えばよかったな。俺も損した…。」

 一条さんはそう言って、俺の髪を撫でてくれた。
 一条さんは、しょっちゅう自分から手を伸ばして、俺に触れてくる。
 俺がそこにいることを確かめるように…。これも前にはなかったことだ。
 こんなふうに、一条さんのほうから、愛してるよ…と、言葉でも動作でも示してくれることは、前は滅多になかったんだ。
 俺は、嬉しかったけれど…少し、不思議な気もしていた…。
 前からこんなふうにしてくれれば、俺は一条さんを見失わなかっただろうに…そんな思いがある。

「…そうだな。俺も、だいたい半年ぐらいで、五代が帰って来るような気がしていた…。
 だが、いつまでたっても帰って来ないので…さすがに、な。」

 一条さんの手が髪を撫でるのをやめて、見上げている俺の眉を、親指でなぞっていた。
 優しい優しい俺の王…なのだか、神か、女神か…わからないけれど、俺の崇めているただ一人の人…を、俺は見上げて、続きの言葉を待っていた。
 一条さんは、俺を見つめて、俺の眉をただ辿っている…。

「…さすがに…どうしたの?」

 俺は静かに促した。

「しまった、と思った…。」

 俺は思わず笑い出してしまい、その拍子に一条さんの手ははずれてしまったんだけれど、俺はすぐにその手を取って、唇に押し当てた。
 俺たちは…いつも、どこかを触れ合っている。
 離れていた時間のぶん、触れていたかった。

「呼んでくれたから…帰って来られました。
 よかった…。」

「…呼んだつもりはなかったんだ。
 いつも通りに空を見ただけで、どこが違っていたのか…わからない。五代…齧らないでくれ。」

 一条さんは、手を俺に預けたまま、笑って言った。
 相変わらず、沁み入るような笑顔だけれど、もう透きとおってはいない、と俺は思う。
 やっぱり、自殺なんかじゃないよ、椿さん…。
 俺のせいではあるかもしれないけど…。
 俺の帰りがもっと早ければ、きっと一条さんは空なんか見なかった…。

 でも、落ち込み続けるには幸せすぎて…俺は明るく言う。

「その後で、撃たれちゃった以外は…でしょ?」

 俺が甘く噛みついていた手が引き抜かれて、俺の鼻を摘んだ。
 一条さんの手、ずいぶん力が戻って来た…。

「五代…それは、言うな…。」

 いたずらで鼻を摘んだ指はすぐ離れて、また頬を辿り、俺の髪を梳く。
 本当に…元気になってきてくれた…そう思ったら、急にまたあの夜の悲しみが思い出された。
 この頃、俺の気分はすごく不安定になっていて…はしゃいだり、落ち込んだりを繰り返していた。

「…よかった…一条さんの声が、また俺を呼んでくれる。
 一条さんの指が暖かくて…俺に触れてくれてる。
 一条さんが笑って…一条さんが生きていて…よかった…。
 あのまま、一条さんを失ってしまっていたら…俺は…。」

 一条さんの優しい手の下で、俺は俯いてしまう。
 一条さんの手は、ゆっくりと俺の髪を梳き続けた。

「五代…心配かけてすまなかった。
 でも、俺は…おまえを置いて、死なない。」

 一条さんが、静かに言う。
 一条さん…また俺の気持ちをよくわかってくれていて…。
 まるで、俺と同じ想いをしたことがあるみたい…。

 おまえを置いて、死なない…。
 俺も、いつか…もう遠いあの日に、まだ愛を告げる前に…思わずあなたを抱きしめて、そう思っていたんだっけ…。あなたを置いて、死なない…って。
 あれは確か、俺が一度死んで復活した日で…。
 あの時、あなたはなんだか具合が悪そうで、俺は心配だった…。

(あ…。)

 俺は…気付いた。
 なぜ…今まで気付かなかったんだろう…俺、やっぱり馬鹿だ。

「…一条さん…?」

「ん…?」

 目を上げると、大好きな人は、やっぱり俺を見つめていてくれて。
 今は…ゆったりと、俺にすべてを預けてくれていた。
 その顔に…あの遠い夜の、一条さんの顔がだぶった。
 辛そうに、苦しそうに…何も応えてくれず、ただ俺を見つめていた…一条さんが。
 俺は…本当に、馬鹿だ。

「一条さん…いつから、俺のこと、好きになってくれたの?」

 俺は、静かに訊いてみた。

「さぁ…いつから、かな…。」

 一条さんは、夢みるように応えた。

「じゃあ…いつ気がついたの?」

 一条さんは、ちょっと首を傾げて、俺を見る。困ったように笑った。

「五代…答えなければ、いけないか…?」

「教えて…俺、なんでも知りたい…。」

 髪を梳く手は止まってしまった。
 指は、俺の髪にからんだまま…一条さんは、黙って俺を見つめていて…それから、囁くように言った。

「…26号の…毒で…おまえが死んでしまった時…。」

 すべて…今までわからなかったことのすべてが、解けていくような気がした。

 俺が、死から甦った日に、急に倒れてしまった一条さん…
 なにかに憑かれたように、最前線に飛び出していく一条さん…
 食事をしなくなってしまった一条さん…痩せてしまった横顔…
 土気色の顔、浅い呼吸、震えて俺の腕を掴んでいた指…。

 俺はずっと…俺が強引にアタックしたから、だんだん好きになってくれたのか、と思っていた。
 椿さんは、最初から一条さんが俺を好きだったようなことを言ってくれたけれど。
 それでも俺は、こんな綺麗な人が、自分のほうから俺に惚れてくれる筈なんてない、と思っていたんだ。そんなこと、考えたこともなかった。
 でも、そうじゃない。この人は…とっくに俺を…。

(あれは…俺のせいだったんだ…)

 俺は、動きを止めてしまった一条さんの手に、頭を擦り寄せる。
 なにか、胸が痛くなってきていたけれど、何気ない口調で俺は言った。

「じゃあ…あれは、病気じゃなかったんですね…?」

「…あれは、恋患いだ。立派な病気だろう…。」

 一条さんは、すぐにいつのことだか、わかったようだった。
 自嘲するように笑って、俺の髪をちょっと引っ張った。

「俺が死んで…辛かったんですね…?」

 俺は、俯いて小さな声で言った。

「ああ。」

 一条さんも小さく応えて、気にするな、と手が髪を撫でた。

「…あんなふうに…なってしまうくらい…辛かったんですね…?」

「…辛かったよ…。」

 目を上げると、一条さんが笑っていた。
 でも…亀山さんや椿さんが、「傷」って言っていたものが、その目から覗いているような気がした。
 とても苦しんできた人だけが、こんなふうに笑う…そんな気がした。

「眠れなく…なってしまったんですか?」

 あの頃は、教えてもらえなかったことを、俺はようやく訊いていた。
 今なら…応えてくれそうだった。

「…眠ると、夢を見るんだ…おまえが死んでしまう夢を。そして、息ができなくなる。
 俺は全然眠れなくなって、じきに食べられなくなった。
 五代が最初に来てくれた頃…あの頃が、最悪だったな…。
 俺は…狂いかけていたのかもしれない。」

 一条さんは…苦笑しながら、淡々と話した。
 どうということはないように…。

 でも…だって…あの時だけじゃない…。
 俺は、クウガだった時、二度、死んだ…。
 あいつらはどんどん強くなっていったから…死にかけたことは、何度だったか…。
 そして、最後のあいつと闘った時には…俺は完全に死ぬつもりだった。アマダムも甦らせてくれない、完全な死を、俺は覚悟していた…。

「じゃあ…ずっとずっと、辛かったんですね…」

 最後の頃…夢を見てひどくうなされて、苦しんでいたことも思い出した。
 呼吸困難のようになってしまったあの時は…そうだ、俺が二度めに死んで、甦った日だった…。
 俺…なぜ、気付かなかったのだろう…。

 どんな夢だか訊いたら、一条さんは「殺されてしまう夢」と言っていた…。
 俺は、一条さん自身が殺される夢を見て、怖かったのだと思っていたのに…。
 そうじゃない、俺が殺される夢を見て…この人は震え続けていたんだ…。

「…辛かったよ…。」

 一条さんは静かに言ったけれど、笑顔が僅かに歪む。
 俺は一条さんの手を握った。

「俺は…クウガが闘う度に、とても怖かった…。
 五代が、死んでしまう、と思って…。」

「そうだったんですか…。
 俺、知らなかった…。」

 一条さんは、悲しそうに微笑んでいる。

 俺は、知らなかった…。
 時々、心配させているなぁ、とは思っていたけれど。
 一条さんは、心配を滅多に口にしなかった。
 怖れている様子なんか、見たことはなかった。
 強い、冷たい人だ…と、俺は思っていた。

「隠していたんですか…?
 俺に…知られないように、していたんですか…?」

 一条さんは、辛そうに僅かに頷く。

「知られたくなかった…。
 おまえには、知られないように…俺は、していた…。」

 胸が苦しくなってきた…。
 一条さんの手の上に俺は顔を伏せる。

「それで…一人で、ずっと苦しんでいたんですか…?」

 一条さんは、応えない。

「俺…言って欲しかった…」

「五代…」

 俺は…少し腹が立って来て、顔を上げた。

「俺だって、一条さんのこと、大好きだったんですよ。
 だから、具合が悪そうだった時は、心配で心配で…。
 どうして、言ってくれなかったんですか?」

「五代…」

 でも、見上げた一条さんは、とても悲しそうで…。
 俺も悲しくなってくる。
 俺は一条さんの手に唇を押し当てる。

「一条さん…どうして、言ってくれなかったの…?
 俺がいくら訊いても…なぜ、話してくれなかったの…?」

 俺は、静かに訊いた。
 どうしても…聞いておかなければいけないような気がした。

「五代…もう終わったことだ。いいじゃないか。」

 一条さんは、悲しそうに笑う。微笑が少し、透きとおっていく。
 一条さん…駄目…。

「よくないです。全然よくないです。
 俺を心配して、俺のことであんなに苦しんでいたのに…俺は、知らなかった。
 教えてください…ちゃんと聞かないと、また俺は、一条さんが苦しんでいても気付かないかもしれない。
 二度と…いやなんです、一条さんを見失うのはいやだ。
 話してくれるって、言ったじゃないですか。」

 俺は、一条さんの手を握って、必死に頼んだ。

「愛していてくれたのに…ずっと、想っていてくれたのに…
 俺はあなたを見失って…彷徨って…苦しくて、苦しくて…。
 必死に忘れようとしてたんです。
 そんな…そんなひどいことを、二度としたくないんです。」

「五代、すまない…俺が、悪いんだ…。」

 一条さんがますます透きとおってしまう…。
 あの月の夜のように…遠ざかっていく…。

(いやだ!行かないで!二度とあなたを…)

「…違います!あなたが悪い筈なんかない…
 理由があった筈です…それを、聞かせて…」

 涙がにじんできてしまった。

「教えてくれないと、俺、泣きますよ…?」

 俺はヤケクソで、一条さんを脅す。
 一条さんは困った顔をして、少しだけ笑った。

「泣かないでくれ…五代…。」

 それから、ため息をついた。

「やはり…話さないと…いけないだろうな…。
 あまり、聞かせたくはないんだが…。」

 俺を見つめて、俺の髪をまた撫でる。

「俺の…為、だったんですね?」

 それしかないんだ…。
 こんなに話したがらない…俺に聞かせたくないのは。

 でも、一条さんは、小さく首を振った。
 それから、呟くように話し出した。

「俺は…不器用な人間で…たぶん、おまえに惚れすぎたんだ。
 五代がまた死んでしまうのが、俺は怖かった…。
 だが、おまえはクウガで…未確認を倒すために…俺は、おまえを戦場に送らなければならなかった…。
 おまえは…世界の為に、必要だったんだ。
 そういう運命を…五代はとうに背負ってしまっていた。
 俺は…闘わせたくなかった。だが、どうしようもなかった。
 俺が闘わせて…おまえを殺してしまう…おまえが死んでしまう…。
 それが辛くて…俺は狂いそうだった…。

 …あれは…きつかったな…。」

 一条さんはまた遠い自分を笑い、指の背で、俺の頬をゆっくりなぞった。

「だから…俺は…あなたが辛いなら、知りたかったです…。」

 一条さんは、悲しい困った顔で、また黙ってしまう。

「…どうして?…一条さん…なぜ?…
 一条さんが…一人で苦しんで…俺…いやだ…そんなの…いやだ…」

 胸が痛くなってしまって、声が詰まってしまう。
 俺は必死に一条さんの目を見た。
 一条さんの指が、俺の髪をそっと撫でる。

「ごめん…五代…。だから、話したくなかったんだ。
 だが、おまえが…俺に愛されていない、と考えて帰って来なかったのも…たぶん、俺の態度が原因だった、と思う。五代が悪いんじゃない…俺のせいなんだ。
 話したほうがいいんだろう…もう、終わったんだから…。」

 一条さんは、しばらく黙って俺を見つめ、俺の顔を指で辿っていた。
 それから、シーツに目を落とし、話し出す。

「五代…おまえはクウガとして、俺を守ることができたが、俺には未確認相手に、おまえを守りきる自信はなかった。
 実際…俺は、いつもおまえに助けられてばかりいた…。」

「一条さんだって…いつも、俺を助けてくれました…。」

 一条さんは、軽く首を振る。

「守ろうとはした…だが、守りきる自信はなかった。そんなことは、不可能だ。最後の神経断裂弾が開発されるまで、決定的な武器はなかったんだから。
 おまえしか…クウガしかいなかった。おまえはいつも最前線で闘った。
 俺はおまえを守れず、おまえは死んでしまう…俺は怖れ続けていた。…俺の怖れは深かった。

 だが…おまえには怖れを見せたくなかった。
 俺の怖れを知れば、きっとおまえは、俺を気遣う。愛してくれているなら尚更だ。
 そのぶん、闘志が鈍り、危険が増す。一瞬の気の緩みが死に繋がるかもしれない。
 俺の心配をさせたくなかった。…俺は、せめて強くおまえを支えたかった。
 おまえの足を止めるもの、自信を揺らがせるもの、振り返らせるものには、決してなるまいと思っていた。
 俺は、強く強く、おまえの後ろにいたかったんだ、怖れを知らぬ者として…。

 だが…愛と怖れは背中合わせだ。
 怖れを見せたくなければ、愛も告げられない…。
 愛していたよ…五代…ずっとずっと、深く愛していたよ…。
 だが、それだけ怖れも深くて…。
 俺は、心を見せられなかった…。」

 俺を見つめる一条さんの目が、哀しい色をしている…。
 俺の手を取り、唇に当てる。
 強く握って、目を閉じ、呟く…。

「俺は…おまえが闘うたびに…とても怖かった…。
 よかった…五代…生きて…生き抜いてくれて…。」

 そうだ…。
 戦場での一条さんはとても強くて、いつも真直ぐに立っていた。
 いつも冷静で、落ち着いていて、決して揺らがなかった。
 一条さんがいるから、絶対大丈夫だ…俺は、いつもそう思って闘ってきた。
 一条さんの強い意志が、いつでも俺の背中にあって…俺に勇気をくれていた。

 だけど…そのぶん冷たくて、恋人としては、愛情も薄いような気がしていた。
 最初の頃は、身体を抱いていても、抱き返してもくれなかった。俺は、片想いの恋をしているように苦しかった…。
 「愛してるよ」と言ってくれたのも、結局、一度だけだった…。
 俺は、冷たく情の浅い人に恋してしまったことを…いつも、どこかで嘆いていた…。

「じゃあ…わざと…わざと、冷たくしていたの…?」

「…そうだよ。五代…。
 冷たく振る舞うように気をつけていなければ、俺は…縋りついてしまいそうだったんだ、おまえに。
 闘わないでくれ、どこかに隠れてくれ…俺と一緒に未確認のいない無人島に逃げてくれ…。
 いいじゃないか、世界なんか勝手に滅んでしまえ…そんなことまで、思った。

 だが、それもできなかった…。
 未確認生命体の殲滅は、俺の望みであり、おまえの望みだった。
 逃げたら…俺は俺ではなくなってしまう。おまえもそれは同じだったろう…。
 逃げるわけにはいかない、負けるわけにはいかなかった。

 俺には…他に、どうしようもなかった…。
 おまえを支え、おまえを助けて、生きて戦場から連れ出すことだけを考えた。
 怖れと一緒に、優しい言葉、縋る言葉は…封じてしまった。」

 一条さんは、大きくため息をつく。
 俺の手をまだ握りながら、覗き込む。

「五代…怒った?」

 俺は首を振る。怒るなんて…できる筈がない。
 でも、何か呆然としてしまって…胸がまた痛む。

 俺が自分で選んで始めた闘いだった。けれど、俺は途中から壊れかけた。
 闘うことが辛くて、苦しくて…そんなことは自分でも認めず、誰にも言わなかったけれど、俺は疲れ果てていたのだろう、と思う。
 終わってみた今では、俺はわかっていた。
 あいつらを…殺すたびに、どんなに自分を傷つけていったか。
 どんなに俺は…戦闘と、自分の力を憎悪していたのか。
 それでも、俺はどんどん強くなって走らなければならず、闘うたびに自分の笑顔を滅ぼしていった…。

 俺は…途中で倒れかけていた。
 闘志が萎えそうになっていた俺を支え続けたのは、一条さんだった。一条さんの硬い信念と闘志だった。
 一条さんを信じて、一条さんを愛して、一条さんに応える為に、俺は必死に駆けた。強くなり続けた。

 俺は…一条さんがいなかったら、生き延びられなかっただろう…。
 あいつらの全てを滅ぼし、終らせることも、できなかっただろう…。
 一条さんに頼って、一条さんに縋って、一条さんに導かれて、俺は戦場を駆け抜けた…。

 あの…最後の頃の一条さんを思い出す。
 触れたら切れる鋼のように張り詰めて…強く強く輝いて…俺と共に走ってくれた一条さん…。
 あれは…俺の為の、姿だったんだ…。

「…一条さん…」

 俺は、何を言っていいか、わからずに一条さんを見上げる。
 一条さんは、俺を見つめ、気遣っていた。

「もっと…優しくしたかったよ、五代…。
 好きだ、と言って抱きしめて、何万回でもくちづけて…。
 だが、そんなことをしたら、俺は崩れてしまっただろう。
 どんどん強くなり、死に向かって走っていたおまえを見守り続けることなんか、できなくなっただろう。
 だから、俺は冷たく振る舞って…だから、おまえは俺を見失ったんだ…。
 俺が…悪いんだ、五代…。」

 俺は首を振るのがやっとだった。
 一条さん…悪いなんて言わないで…。

「だって…」

 やっと声を出した。うめき声のようになってしまう。

「だって…それじゃあ…一条さんが…苦しい…」

 愛を隠して、怖れを隠して、あんなに強い姿になって…。
 それでは…あなたは…引き裂かれてしまう…。

 一人で浴室の中で、傷だらけの背中で俯いて、冷たいシャワーを浴びていた一条さんを思い出す。
 あれは、もう最後の頃で…俺はもう死を覚悟していて…あなたもきっと、それを知っていて。
 あなたは、冷えきった身体で、言い訳して、それでも俺に笑っていた…もう力尽きたような瞳で…。

「おまえが好きなんだ…。
 あの闘いの中で…俺には、おまえの命だけが大切だった。
 生きて、生き抜いて欲しかった…。
 それに比べれば、俺の苦痛なんて、たいしたことじゃない…。」

 それでは…あなたは…ずたずたに切り裂かれてきたんだ…。
 俺の為に、俺にさえ愛を隠して、あなたは生きてきた…。
 怖れながら、苦しみながら、冷たく輝いていた…。

 俺は、知らなかった。それほど愛されているとは…思っていなかった。
 俺のほうが、よほど愛していると思っていた。俺が守っているのだと思っていた。
 未確認さえ倒せば、喜んで笑ってくれると思っていた。
 俺が死んでも、それほど嘆くとは思えなかった。
 そりゃあ辛いだろうけれど、強くて冷たい人だから…と。俺は、思っていた…。
 俺は…あなたを知らなかった…。

「それに…苦痛は、おまえが救ってくれた…。」

 俺の胸の痛みを気遣って、一条さんが静かに話す。

「俺が…?」

 俺は…血まみれのあなたに支えられていた、ただの血まみれの兵士じゃないか…。
 一歩ごとに流れていたあなたの血に気付かずに、自分の痛みだけに気を取られていた愚かな兵士じゃないか…。

「そうだよ…五代。
 おまえが俺を助けてくれた…。
 あの最悪の夜におまえが来てくれたから。
 それからはそばにいてくれて、俺を抱き、愛してくれたから…。
 俺は立ち直って、怖れを越えた…。」

「俺…。俺は、ただ一条さんが好きで、心配だったから…。
 そばにいたくて…ただ一条さんが欲しかったから…。」

 俺は、自分だけが愛しているように思っていて、何も知らなかった…。
 一条さんが心と命を削って、俺を愛し、俺を支えてくれていたことに気付かなかった…。
 知ったら、俺が辛いから…一条さんは、俺に知らさずに耐え続けた…。
 だから、俺は一条さんの気持ちがわからなくて、無駄に彷徨ったんだ…。

 …やっと…わかった…。

 ベッドに伏してしまった俺の髪を、一条さんの指がまた撫で始める。

「それが全てなんだよ…五代…。
 …おまえに抱かれ、夢中になって…夢も見ずに眠った。
 たまにうなされて、おまえを呼べば、必ず応えて、抱きしめてくれた。
 おまえの愛を俺は信じて…死を越えても愛している、愛されていると信じて…
 俺は、また立ち上がることができた…。」

「俺…役に立ったの…?」

 俺は、伏したまま訊ねる。悲しかった。
 俺は知らなくて…この人を見失い、傷つけ続けた。

「愛してくれただろう?」

 いっそ怒ってくれればいいのに…優しい優しい声が俺を包んでいく。

「…はい。あなたしか、見えない。ずっと…離れても…今も…。」

 うめく俺を、また声が包む。また愛が包む。

「おまえが来てくれなかったら…俺はあの夜に命を断っていたかもしれない。
 おまえが俺を救ったんだ。
 俺はおまえを支えようとしたが、その俺を支えていたのは、五代…おまえだった。
 おまえが愛してくれたから、俺は走っていけたんだ。
 そして、闘った…おまえと共に。」

 そう…あの頃、あなたは俺の腕の中で、俺の名を呼んだ…。
 遠い遠い声…透きとおる、胸が痛くなる声…
 愛しくて、恋しくて、嬉しくて、ただ呼びたくてしょうがなくて…。
 あなたは、俺を呼んだ…。
 俺は、ずっと愛されていた…。
 あなたは、愛を封じてしまう程、俺を愛してくれていたんだ…。

 そして、俺は…あなたの愛を知らないまま、ひたすらにあなたを愛していた…。
 俺たちは孤独に、愛し合っていた。どちらも片恋だった。
 それでも、俺たちは互いの愛に縋って走っていた…。

「俺…ごめんなさい。あなたを…知らなかった…。」

 一条さんが、首を振る気配がする。

「五代…俺のほうが、謝りたいんだ…。
 すまなかった…せめて、待っていると言えばよかった…。」

 俺は、シーツに横顔をつけ、ただ一人の恋人に髪を撫でてもらいながら、呟く。

「俺…一条さんがいたから、闘うことができた…。」

「五代…それは、俺も同じだったよ…。」

 俺たちの恋は、苦しかった。
 それでも二人でいたから、俺たちは、あの闘いを越えてこられたんだ…。

「会えて…よかったね…。一条さん…。」

 俺は顔を上げ、一条さんを見上げて言う。
 愛する人は俺を見つめ、微笑んで頷いた…。

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