『第12章:回復(2002年4月18日〜5月22日)』 -1
「一応、危ないところは脱したがな。
…なんて言っている。
俺はずっとずっと、一条さんのベッドのそばにいた。 昼頃に、一条さんはまた目を開けた。 「一条さん…?」
俺はそっと呼んだ。嬉しくて、嬉しくて、ほっぺたがゆるんでしまう。 「ご…だ…い…」 「はい…」 「ごだ…い…」 「はい…」
あの頃のように、一条さんは俺を呼ぶ。
「一条さん…俺を呼んだでしょう? 一条さんはただ微笑んでいる。
「おい。空を眺めて強盗に撃たれるなよ。
俺の後ろから、一条さんを覗き込んで、椿さんがからかう。 「…れは、くじった…」 「あれは、しくじった、だそうです。」
椿さんは、大声で笑った。 「…が…で…ったから、ご…かと…ったん…」 「おい。通訳しろ。」 「いやです。一条さんと、俺の秘密。」 「なんだと?ふん。また除け者かよ。」 椿さんは、すねてしまったけれど、俺は教えてあげない。 『鳥が飛んで行ったから、五代かと思ったんだ』
それは、一条さんの名誉にかかわりますからね。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺はその夜、前の晩に椿さんが仮眠していた簡易ベッドを借りて寝た。
消灯時間前に、その簡易ベッドを取り合っていたんだ。 「駄目です。一条さんが愛してるのは俺なんだから、俺が付いてます。」 「なんだと、この野郎。昨日は俺は惚れられてない、とか泣きベソかいてたくせに。」 「うらやましいからって、人の恋路を邪魔すると、何かに蹴っ飛ばされますよ。」 「ちくしょう。急に強くなりやがって。教えてやるんじゃなかった。」
なんて、馬鹿なじゃれ合いをしていて、ふと気付くと、一条さんが目覚めていて、俺たちを見て笑っていた。点滴はまだ残っているけど、鼻のチューブが取れて、気持ちよさそうそうだった。少しだけど、さっきは白湯を飲んだ。 「ほら、椿さん、一条さんの目を覚ましちゃったじゃないですか〜〜。ねぇ、一条さん。」 すると、一条さんが、笑いながら、まだ少しかすれた声で言う。 「…うるさくて…寝れやしない…」
俺はまた、犬に戻ってしまった。
「薫、おまえが決めろ。今夜、おまえのそばで寝るのは、どっちがいいんだ? 「一条さん、俺、いびきはかきません。絶対です。」
一条さんは笑っていたけれど、ちょっとの間、椿さんの顔をじっと見た。
「ちぇっ、はいはい。おまえに勝てたことはないよ、俺は。 「わかってます。」 「明日、また邪魔をしに来てやるからな。」 そう言って椿さんは、俺の頭をこづき、一条さんに手を上げて出て行った。
なんて、俺はおおげさに頭をさすりながら、ベッドの横の椅子に座った。 よかった…一条さんが生きている…よかった…よかった〜〜。 「…五代…」 「はい…」 「笑顔を…とり戻せたんだな…?」 「はい…」
俺の笑顔の為に…旅立たせてくれた人が、ただそれだけで嬉しそうに笑っていた。 「…五代…手に、さわらせて…」 「はい…」
俺は掛布の中の、一条さんの手の下に自分の手を潜り込ませた。 「髪も…顔も…」 「はい…」
俺は、一条さんの手を持ち上げて、自分の顔に当てた。 「五代…会いたかったよ…」 「はい…俺も…」 一条さんの手が俺の頬を包んだ。確かめるように僅かに動く。 「やはり、待ってる、と言えばよかった…」 「…ごめんなさい、俺…」 一条さんは少し笑った。 「いいんだ、五代…会えたんだから…」 「…はい」
「未確認はもういない…
一条さんが疲れてきたようだったので、俺は一条さんの手をベッドに戻し、掛布を直した。 「五代…これからは、もう少しちゃんと話すから…」 「はい、俺もちゃんと訊きます。」 「そばにいてくれ…できるだけでいいから…」 「俺…もう離れません、二度と…」 「無理しなくていい…できるだけでいいんだ…」 「はい…でも今は離れるほうが無理。一条さん、俺を追っぱらわないと…」 一条さんは笑って、俺を見つめていた。
「一条さん、また明日も俺いますから…疲れたら、眠ってください。 「じゃあ、あとひとつだけ…五代…」 「はい…」 「愛しているよ…」 「俺も…とても愛してますよ…」
一条さんは、「愛しているよ…」と言いながら、目を閉じ、眠ってしまった。
俺は、すっかり昔のようなお調子者に戻ってしまって。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
次の日には、一条さんは集中治療室から、普通の病室に移った。
午後には、椿さんは帰るつもりらしい。昼に、俺を食事に連れ出しに来た。 「おい、馬鹿。甲斐甲斐しいな。」 「はい〜。もう愛してますから〜。」
俺はにこにこ笑って言った。椿さんに「馬鹿」と言われるのは、全然気にならなかった。 「薫、この馬鹿に昼飯を付き合わせていいか?」 どうしよう…。俺は、一条さんを振り返った。
「行っておいで、五代。
俺が売店のサンドイッチとかおにぎりとかを食べているのを、一条さんは知っていたらしい。 「でも…」 「俺はここにいるから。おまえの帰りを待っているから。」
一条さんは、優しく言う。 「はい、じゃあ、ちょっと行ってきます。」 「おい…おまえら、ずいぶん大胆になってきたじゃないか。」
椿さんが例によって、やたらと意地悪に言う。
「俺の恋人は馬鹿だから、ちゃんと言わないと、またどこかに行って帰って来ない。 一条さんは、真面目な顔ですごいことを言った。
「おまえ…開き直ったな。 「ああ。…世話になったな。」 一条さんが言うのに、椿さんはもう背中を向けていて、手を上げた。 「おい、馬鹿、行くぞ。」 「はいっ!」 俺は、急いで一条さんの枕元に駆け寄って、唇に軽くキスした。 「じゃあ、ちょっと行ってきますね。」
一条さんは、ちょっと上向いて俺の唇を受け、笑って頷いた。 「走るな、五代。」 「はい〜、すみません、ついついうかれちゃってます、俺〜」 しょうもないな、という顔で椿さんは俺を見たけれど、目は優しかった。 「よかったな。五代。」 「はい。ありがとうございました。」 椿さん、俺は、すごく感謝してます。本当です。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
近くのファミレスで、食事した。 「椿さん…」 「なんだ?」 「椿さんは、一条さんとどういう関係?」 「知りたいのか?」
「はい…。俺、椿さんが一条さんの恋人なのか、と思いました。 椿さん…椿さんも、一条さんを好き、ですよね。」 椿さんは、俺を見て…それから、苦笑しながら頷いた。 「ああ…。」 「恋人…だったんですか?」 椿さんはちょっと黙っていたけれど、真面目に答えてくれた。
「…俺と薫は、高校の時の同級生で…俺は、その頃から薫に惚れていた…。 「今も綺麗ですよ〜〜…一条さんは…」 椿さんは、苦笑して続けた。
「確かに外見もだったが…あいつには、昔からただの外見以上の何かがあって… 「椿さん…にも?」
「そうだ…俺は、中でも特にしつこかったと思う。
今度は、俺がくすくす笑った。椿さんの変人ぶりはよく知っていたから。 「椿さん…その頃、一条さんを…抱いたの?」
「そうさ…抱いたさ。 「はい…。」
でも、嫉妬はほんの少しだった。
「妬くなよ。妬きたいのは、こっちだ。 「はい。」
椿さんの言う通りだった。
「…薫に言い寄ったやつは、ほとんど薫と寝ていると思う。 「冷たいまま…?」
「感じないんだよ、薫は…。
信じられなかった。
「こいつは人に何も望まない… それは…俺にもよくわかった。 「月のように綺麗だよね…一条さんは。」 椿さんは、また苦笑する。昔のことを思い出している、遠い目の色だった。
「そうだな…あれは、月だ。夜空にかかる、ただひとつの月だ。 椿さんは、ふと話しやめて、俺を見た。
「…そうか。おまえは太陽だからな。 俺が太陽?なんのことやらだった。 「…で、どうなったんです?」
「ある日、薫は俺に言いやがった…。
俺は…それであきらめた。 おい、五代…どうなんだ?」 「なんですか…?」 「薫を抱いて、いいのか…?」 「椿さん…すごい質問…。」 「こたえろ。」 「…俺…一条さんが感じない、なんて…信じられないんですけど…」
「ちくしょう… 「…はい。とても。」 「ああ…聞くんじゃなかった…。」 椿さんは、頭を掻きむしっている。 「くそ…薫が最初におまえを連れてきた時から、ヤバイと思ったんだ、俺は。」 「…そうなんですか?」
「そうさ…薫は優しい男だが、あんなに熱心に他人に関わらないんだ。 「俺、今度はトンビですか…?」
「そうさ…それも赤、青、緑、紫…しまいには黒にも変身しやがって。 「椿さん…ええと…すみません…。」 椿さんと俺は目を合わせて、少し笑った。 「よかったな…薫も。おまえに会えて。」 「はい…。」
「…俺は、今も薫に惚れているのかもしれん。
「椿さん、暴力はもうやめたんじゃ? 「おまえが馬鹿だからだ。」 「はい。」 「素直だな。」 「俺、馬鹿でしたから。」 馬鹿だと言いながら、椿さんの目はやっぱり優しい。 「薫を大事にしろよ。」 「はい。」 椿さんは、話し止めて、少し考え込む顔になる。
「…未確認の事件は、誰にとっても辛かった。 亀山さんも、同じようなことを言っていた…。 「来てみたらおまえの姿がないので…あれは消極的な自殺じゃないか…とも思ったりしたんだが…。」 「消極的な…自殺?」 一条さんを失いかけた夜を思い出して、胸が痛み出す。
「いや…気のせいだろう、俺の。
椿さんは、心配そうな顔をしていた。 椿さんは、ふっと心配をやめて笑った。
「まぁ、あれで、それほどヤワなやつじゃないしな。 「はい…。」
「ああ、可愛い娘を馬鹿な男に渡す父親の気分だ、俺は。 「椿さん…性格悪いですよ。」
椿さんと俺は、目だけで笑い合った。 「じゃあ、俺はこれで帰るぞ。」 椿さんが、伝票を持って立上がった。俺は財布を出しかけたけれど、素直に奢ってもらうことにした。
「はい、ありがとうございました。 「妬けるか?ざまあみろ。一生呼んでやる。」 憎まれ口を残し、椿さんは東京に帰って行った。 |