『第11章:帰還』 -2
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ビートチェイサーが今あれば…と思った。
ゴウラムがいてくれれば…と思った。
でも、俺は今は普通の人間だったから、新幹線に乗って、長野に向かった。
(一条さん…一条さん…無事でいて…)
それだけを、俺は願い続けて、座席に座っていた。
握りしめている手の平が、不安な冷汗で濡れる。
久しぶりの日本なのに、窓の外の景色なんか見えなかった。
(二日前…と、確かに言っていた…)
俺があの…一条さんの声を聞いたのも、二日前。
一条さんは、あの時、俺を呼んだんだ。
そして、あの声の直後に聞こえた、パン!という短い音…あれは、きっと銃声だったんだ…。
とてつもなく…嫌な予感がしていた。
ひかりさんは、ああ言ってくれたけれど…きっと、かすり傷なんかじゃない…。
一条さんが、俺を呼んだ…一条さんは…今、生きているんだろうか…?
どこを…どこを撃たれたの?一条さん?
一条さん…無事でいてください…俺、今行きますから…。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
長野県警に駆け込んで、名前を言うと、しばらく待たされて…
制服姿の警官が、俺に会ってくれた。
あれ…?この人、どっかで会ったことがあるよな…?
「五代さんですね。未確認事件に協力してくださった方ですよね。
よく一条さんからお話は伺ってました。僕、亀山と言います。」
「あ…俺も…一条さんから聞いてます。」
一条さん…俺のこと、この人に話していたの?なんて?
…でも、そんなことを聞く余裕なんてなかった。
「あの、一条さんは?」
亀山さんがぎゅっと唇を噛んだので、予感が適中していたことがわかった。
「教えてください。一条さんは…一条さんの具合はどうなんですか…?」
亀山さんは、すごく辛そうに言った。
「…危篤状態なんです。ずっと意識が戻らなくて…」
俺は一瞬、きつくきつく目を閉じた。予想はしていたけど…おそろしい痛みだった。
「病院はどこですか?」
「僕がお連れします。」
亀山さんは、俺をパトカーに乗せてくれた。
走り出してしばらくは、しゃべれなかった。
でも、聞きたいことがあった。
「すみません。亀山さんは、一条さんが…撃たれた時、現場にいたんですか?」
「はい。御一緒してました。」
亀山さんは、運転しながら真面目な声で応えてくれた。
「どんな…どんなふうだったんです?
あの一条さんが…そんな簡単に撃たれるなんて…」
あの一条さんが…俺と一緒にいつも最前線で未確認たちと闘っていた一条さんが、銃で撃たれて危篤、なんて俺には考えられなかった。あの頃、怪我をしたことはあったけれど、いつも必ず、一条さんはすぐに立上がってくれた。静かで冷たく強い…一条さんは、本物のスーパー刑事だった。そんな…銃なんかで倒れる筈はないんだ。
…そんな筈はないんだ…。
「…ちゃちなコンビニ強盗だったんです。ちんぴらが、銃で店員を脅して、金を出せって…。
一条さんは、銃はモデルガンかもしれない…俺が近付いて確かめるって、近寄って…。」
「それで…撃たれたんですか?」
「そうです。いえ…ちゃんと車の影をつたって行ったんだし…あのままなら撃たれることもなかった、と僕は思うんですが…。」
「…どうしたんですか?」
「次の車の影に隠れようと、身体を乗り出した時に…一条さんは、ふっと止まって…
僕にはわかりません…一条さんは、空を見上げたようでした。
何か飛んでいたのかもしれないけど…僕は、あぶないって叫んだんです。
その時、銃声がして…一条さんは、撃たれました。」
空?
一条さん…空に何が…あったの?
「…二日前の…何時頃のことだったんですか?」
「出勤時間帯でした。午前7時過ぎです。」
俺が中国の市場で、あの…一条さんの声を聞いたのは、確か朝の9時くらいだった。日本と中国では時差があるんだから…丁度、日本では午前7時くらい。
…一条さんは…撃たれて、俺を呼んだんだ…。
(!…違う…!!)
声のほうが…一条さんの声のほうが、先に聞こえた。銃声より先に…。
それに、苦しい声じゃなかった…いつも、夜、俺を呼んだような声で…優しく「五代…」と…。
その後に、銃声が聞こえたんだ…だから…撃たれる前に、一条さんは俺を呼んだ…。
一条さん…一条さん…俺にはわからない…。
なぜ?どうしたの?なぜ俺を呼んだの?
「…空は…晴れていたんですか?天気は…よかったんですか?」
よくわからない衝動に駆られて、俺は尋ねていた。
胸が苦しくて、絞り出すような声しか出ない…。
「え?…ええ、はい…そうでしたね。あの日は、朝から快晴で、抜けるような青空でした。
…あ、そう言えば…
未確認生命体事件が終わって、合同捜査本部も解散して…一条さんはだいたい一年近く前に、長野に帰ってきてくれたんですけど。
…前はそんなことなかった、と思うんですが、一条さんは、戻ってからはよく空を見ていました。
特に、晴れて青空の日には、よく…。
でも、あんな時に空を見るなんて…本当に一条さんらしくないんです…。」
そう。一条さんらしくない…そんなの、一条さんらしくないよ。
一条さん…一条さん…なぜ?…なぜ空を見るの?…なぜ青空を見るの?
俺は自分の痛みに気を取られていたのだけれど…亀山さんは…亀山さんも、ずいぶん一条さんのことが心配みたいだった。一条さんのことを話し続けていれば、一条さんは死なない…亀山さんはそう思っているような気が、した。
亀山さんは、姿勢よく前を向いて運転しながら、一条さんのことを話し続けた。
「…一条さんは…未確認事件以後…なんだか変わってしまっていました。」
「…?…変わった?」
「ええ…。なんて言ったらいいのか、よくわかりませんけど。
僕は以前から、一条さんを尊敬していましたから、一条さんのことは…なんというか…詳しいつもりなんです。
東京から戻って来た一条さんは…別に勤務態度とか話しかたとか…何も変わってはいなかったんですけど。
僕はファンですから…なんとなく、わかったんです。
一条さんは…前からかっこよくて…こんな言い方、変なんですけど…とても…綺麗な人でした。
でも、東京から帰って来た一条さんは、もっと…なんと言うか、透きとおるみたいに綺麗になっていて…。
なんだか心配な…綺麗さ、なんです。
どこか悪いのか、病気なのか、とも思いました。
一条さんにも聞いてみたんですが、どうもない、と笑い飛ばされてしまいました。
そう、笑いかたも…どこか、変わってしまってました。
楽しそうに笑うんですけれど…いえ、たまにですけどね。一条さんはもともと無口な人で、あまり笑わないから。
でも、笑った時に…同時にどこかが痛むんじゃないか…そんな気がすることがありました。
たぶん…未確認生命体たちとの闘いは…とても、辛かったんですよね。
治らない傷が、心の中にあって、一条さんは自分でもそれを知っているみたいな…僕は、最近はそう思うようになってました。
辛かったですよね…あいつらとの闘い。
でも、ようやくあいつらが出なくなって、みんなそれぞれ回復してきたんです。元気を取り戻していったんです。でも…一条さんの傷は治らなかった…そんな気がしてました。
おかしいですか?こんなの?」
「…いえ。」
俺には、亀山さんの言っていることの一部は、よくわかるような気がした。亀山さんの気持ちも、よくわかった。
そう…一条さんは、本当に綺麗な人で…亀山さんが憧れる気持ちは、俺にはとてもよくわかった。
俺も…俺も…憧れていたから。憧れ続けていたから。
透きとおるみたい、というのも、よくわかった。そういうふうに、俺も思ったことがあるから。
でも…最近の一条さんのことは知らなかったから…治らない傷って…それはよくわからない。
そう…未確認との闘いは、辛かった、誰にとっても。…俺にとっても。
でも、俺だって、また今は元気に笑えるようになっていて…一条さんが、あいつらとの闘いの記憶をそんなに引きずっている筈はない…。
じゃあ、やはり亀山さんが心配するように、病気なんだろうか…?
ふと、ずっと前のことを思い出した。一条さんは何か病気なんじゃないか、とすごく心配だった時のこと。
ああ…あの時から俺と一条さんは、恋人…みたいになったんだけれど…。
やっぱり…ずっと病気、だったのかな…。あの後は、ずっと元気なように見えたから、俺はほとんど忘れてしまっていた。
ずっと病気だったの?一条さん…だとしたら、あんなに近くにいたのに、俺は気付いてあげられなくて…。
一条さん…俺、胸が痛い…。
「なにか…辛い、かなわぬ恋をしているみたいだ、と思ったこともあるんですよ。」
「…え?」
一瞬、意味がわからなかったけれど。
一条さんのことを、亀山さんは話し続けていたんだっけ。
辛い、かなわぬ恋…一条さん…誰、に?
「…一条さんは…誰か…付き合っている人はいるんですか?」
「どうでしょう…。いえ、いないようでした。僕が知らないだけかもしれませんけど。
あんな…人ですから、ずいぶんもてるんです、一条さんは。
上司からも、結婚はまだか、とか、うちの娘はどうか、とか、しょっちゅうからかわれてたんですけど。
一条さんは、全然相手にしなくて。
硬派、なんですよね。そこがまた、かっこいいんですけど。女なんか、目に入らないって感じでした。
ああ…でも、東京で恋人ができたのかも…。
それで、いつも、空を見て、思い出していたのかもしれません…。
でも、どこかに出かけていた様子もなかったし…まさか、一条さんが失恋した、なんて…そんなこと、考えられませんよね。
でも…僕には、何も言ってくれないから、わからないですけれどね。」
亀山さんは、少し寂しそうだった。俺もとても寂しかった。
東京に…恋人がいるの?一条さん…?
その人を、いつも思い出していたの…?
「…五代さん。」
亀山さんが、寂しさを払うように、言った。
「はい。」
「…一条さんは、きっと大丈夫ですよ。
きっと、持ち直してくれます。きっと、目を開けてくれますよ。
こんなことで…死んじゃうような人じゃない、こんなことで、死んじゃいけないんです。
五代さん…そうですよね。」
「…はい。」
「僕は夜に、また病院に寄ります。
僕は、ずっと祈ってます。
五代さん、お友だちなんですよね。
一条さんのそばに…いてあげてください。呼んであげてください。
きっときっと、一条さんは目を覚ましますから。」
「…はい。」
それしか…答えられなかった。
亀山さんの祈りは、俺と同じだった。
でも…俺は…亀山さんのように、まっすぐには祈れなかった。
東京に…一条さんの恋人がいる…一条さん…それは誰?俺の知らない人?
その人がいたから、俺を愛してくれなかったの?
俺に抱かれながら、その人にも抱かれていたの?
その人を想って、空を見たの?
それなら、どうして、俺を呼んだの…?
こんな時なのに…嫉妬の牙を持つ蛇にがっぷり噛まれて…
このまま、帰りたくなった。一条さんに…会わずに。
でも…やっぱり、どうしても…一目でも…一条さんに会いたかった。
「ここです。3階ですから。
昨夜は、集中治療室でしたけど、一応ナースセンターで聞いてみてください。」
亀山さんは、ハンドルを切って、病院の駐車場にすべりこんだ。
「は…い。」
「じゃあ、僕はまた署のほうに戻りますので。五代さん、よろしくお願いします。」
「はい…。あ、ありがとうございました。」
なんだか、ふらふらしながらパトカーを降りて…俺は病院の建物のほうに歩き出した。
ここに…一条さんがいる…。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
亀山さんに教わったとおり、エレベーターで3階に登っていった。
ずいぶん、古い病院だ。いかめしくて、薄暗くて…なんだか嫌だ。
外来の待ち合い用のソファのそばを通って、ナースセンターを捜した。
「あの…すみません。」
落ち着いた感じの看護婦さんが、何か書類に書き込んでいたけれど、すぐ顔を上げてくれて…
「はい?」
「あの…一条さん…一条、薫さんはどこの部屋ですか?」
看護婦さんは、なんだかちょっとためらったようだった。
一瞬…霊安室、と答えがあるような気がして…すくみあがった。
帽子の線が多いから、きっとこの人が婦長さんだ。
婦長さん…お願いだから…はやく答えて。お願い…。
婦長さんは、ちょっと首を傾げた。
「あら…あなた…。」
そう言って、婦長さんは笑った。
「お元気になられたのね?あんなふうに退院なさったから、その後どうかな、と思っていたんですけど。
でも…今度は、逆なのね。不思議な御縁ですね。
きっと、あの方…一条さんもお元気になられますよ。
あなたがいらしたんなら…きっと、お元気になられますよ。」
…まるでわからなかった。
俺、この人に会ったこと、ある?
どう考えても覚えがないんだけど…
俺が不思議そうな顔をしたんだろう、婦長さんはちょっと笑って、すまなそうな顔をした。
「ああ、ごめんなさい…あなたは覚えていないわね。
でも、急患だったし、あの方がずいぶん心配なさっていたから…私はよく覚えているんですよ。
あちらの集中治療室です。会ってあげてください。」
よくわからなかったけれど…この人があったかくて、優しい人だ…ということはよくわかった。
丁寧に御礼を言って…でも、もうどきどきしながら…俺は歩き出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ここ…だ。ここに、一条さんがいる…。
ドアを少しあけて…何か人の声が聞こえるのに、気付いた。
一条さん?じゃあ、もう元気になったんだね…?
…でも、一条さんの声じゃなかった。
どこかで聞いた声…それもよく知っている声が、誰かに話しかけていた。
「…薫…目を覚ましてくれ…頼む…
行かないでくれ…薫…
聞こえるだろう?なぁ…俺の声…聞こえるだろ?
…薫…起きてくれよ…たいした怪我じゃないんだ…
起きられるだろう…目を覚ませよ…薫…
それとも、おまえは死ぬつもりなのか…薫…」
俺はドアを開けて、中に入った。
白いベッドがあって…その前に屈みこんでいる背中があって…
俺の気配で、話し止めて、その人は振り返った。
椿さんだった。
椿さんの顔は、なにかぐしゃぐしゃに濡れていて、最初は驚いたように俺を見たけれど、すぐに怒ったような顔になって…
「…五代!…おまえ…」
椿さんは、何か言っていたけれど、俺はもっと前に出て…
そして、一条さんを見た…。
ずっと会いたくて、会いたくて、でも会いたくなかった一条さんがそこにいた。
ベッドの上に横たわって…目を閉じて…
白い布に包まれて…いろんなチューブが、一条さんの身体を取り巻いていた。
それでも、それは…俺の大好きな一条さん…世界でたった一人の大好きな一条さんだったけれど…
俺が覚えている一条さんより、なんだか小さくなって、身体が薄くなってしまったみたい…
一条さんは、白いベッドに沈み込むように、横たわっていた。
一条さん、ちょっと痩せたの?…髪、伸びたんだね…
一条さん…どうして…こんなところに寝てるの?
俺…帰ってきましたよ、一条さん…遠くから、あなたが呼んだから、ここへ…あなたの元へ。
だのに…どうして…どうして…目を開けてくれないの?
どうして…俺を呼んでくれないの?
「…一条さん…一条さん…」
その時に…よくわかった。
愛してる…愛してる…一条さん…どうしようもなく、あなたを愛しているよ、俺。
俺は…馬鹿だ。どうして…この人のそばを離れていられたのか…
この人なしで、どうして生きていけると思っていたのか…
俺…どうしても、あなたのそばで生きたい。あなたなしでは、いられない。
愛してくれなくていい。見てくれなくたっていい。
どうしようもなく、すべてが愛しくて…
俺は…あなたさえ、生きていれば、いい…それだけで、いい…。
だのに…一条さんは…今、死にかけていた…。
「…一条さん…」
名前を呼ぶしかできなかった。
涙も出なかった。
ずっと立ちつくしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「五代…ちょっと廊下に出よう。
今は…安定している。
廊下からも見えるから…」
誰かが、そう言って、俺の肩を叩いた。
ああ…そうか。椿さんがいたんだっけ。
椿さんが、白い掛布の下に、一条さんの手を入れるのが見えた。
俺の大好きな…一条さんの手。俺を抱いてくれた…一条さんの手。
椿さんは、今まで一条さんの手を握って…一条さんに話していたんだ。
じゃあ…椿さんが、今は一条さんの恋人なんだね。
今はって…昔からずっとそうだったのかもしれないけど。
そうかもしれないって…前にも思ったこともあったけれど。
でも、もう嫉妬はなかった。
椿さんといて、一条さんが幸せだったのなら…それでよかった。
椿さん、俺、邪魔かもしれないけど…もうちょっといさせて。
俺も…大好きなんだ、一条さんのこと。
一条さんが…死んでしまうなら…最後までここにいさせて。
最後まで…見ていさせて…お願い…お願いします…。
「五代…おい…」
椿さんにうながされて、俺は廊下に出た、らしい。
廊下には、長椅子があった。
でも、俺は座りたくなかった。
大きなガラス窓があって、一条さんが見えるから…俺はそこに立って、一条さんを見つめた。
「…因縁だな。
あの時は、薫がそこに立って、おまえを見つめていた。
そっくり同じところに立って、今はおまえが薫を見ている…。」
なにか感覚が消えてしまったような感じだったけれど、椿さんの独り言のような呟きは聞こえた。
「あの時って…?」
一条さんから目を離したくなかったから。
ガラス越しに、一条さんを見つめ続けながら、ぼんやり尋ねた。
「おまえが0号を倒した後だよ。
腹の石を破壊されて、凍えて死にかけていたおまえを、薫は背負って山を降りて、ここに担ぎ込んだんだ。」
驚いて、振り返ろうとして、やっぱりベッドの一条さんに目を戻す。
俺は…そんなことは知らなかった。あの後すぐに、あの古い家に連れて行ってもらったのだと思っていた。
ああ、だから…さっきの婦長さんは、その時の俺を覚えていたのか…。
「俺も待機していたからな…薫に無理矢理、待機させられていた、とも言えるが。
だからすぐ呼ばれてここに来て、おまえを診たわけだ。」
「そうだったんですか…。ありがとうございました。」
椿さんも、またクウガだった俺を、力強く支えてくれた人だった。世界でただ一人のクウガの主治医だったんだ、この人は。
ちょっと変人で、口は悪いけど…とてもいい人だ。
一条さん…この人と、幸せだった?…だったら…嬉しいな…。
元気になって…これからも、この人と、生きていって…。
一条さん…俺は、それでいいから…。生きていて…。
「そうやって、薫も立っていた、な。
凍傷があったし、立ち上がれないほど疲れきっているくせに…俺が休むように言うと、いさせてくれ、五代のそばに…とか言いやがって。
そこに…まるで今のおまえとそっくりに、立っていたよ、薫は。
おまえは大丈夫だ…と告げるまで、ずっとおまえを見つめていた。
だが…おまえには言ってやれないな…薫は大丈夫だ、と。」
「一条さんは…どうなんですか?」
一条さん…そんなことがあったんだね…。
一条さん…ここに立って、俺を見ててくれたの?
あの頃は、いっぱい心配かけたんだよね…ごめんね。
…俺、胸が痛いんだ…一条さん…声もうまく出ない…。
「弾は…心臓をかすめるようにして止まっていて…大手術だった。
手術は成功したが、その後意識が戻らない。
血圧がだんだん低下している。脈も弱い。
…おそらく…今夜か…明日の朝だ…」
「今夜か…明日の朝に…なに?」
「…薫は…死ぬだろう…」
「…嘘だ…。」
「五代…座れ。ここからでも見えるから。」
「そんなのは…嘘だ。
一条さんは死なない。
絶対死なない。
俺を置いて死んだりしない!嘘だ!」
(嘘だ嘘だ嘘、嘘、嘘…)
一条さんが、死んでしまう…。
一条さんが、いなくなってしまう…。
どこにもいなくなってしまう…。
遠いだけじゃない…離れているだけじゃない…どこにも、いなくなる…。
呼んでも答えてくれない。あの笑顔が見られない。どこにも…どこにも…。
そんなことは…駄目だ。
俺はゆっくり首を振っていた。
「…駄目だ。そんなのは…駄目。
椿さん、お医者さんでしょう?
俺だって、助けてくれたじゃない?
一条さんも助けて…。
椿さん!助けて!一条さんを助けて!」
「五代…落ち着け。
病院なんだ…騒ぐな。」
椿さんだって、苦しいんだ…わかっているんだけど、止められない。
ベッドの一条さんは動かない…このまま…逝ってしまう…。嘘…だ。
「嘘…だよね。
ねぇ…嘘だよね。
一条さん…嘘だよね…」
「本当に…嘘なら…いいのにな…。」
俺は、動かない一条さんを見つめ、呟いていた。
椿さんの静かな声が俺を宥めようとするのに、俺はずっと、嘘だ…嘘だ…と呟き続けた。
「俺だって…叫びたいんだ。
座ってくれ、五代…。
たぶん…長い夜になる…。」
「いやだ…俺は…」
椿さんが、俺の肩を掴んで、引きずるようにして、椅子に座らせた。抵抗しようとしたんだけれど、手足がばらばらになったみたいに力が入らなくて、結局椿さんのするままにへたりこんだ。
椿さんの言うとおり、ここからでも一条さんはよく見えた。
少しだけ遠いけれど…一条さん…見えるよ。
近くにいるよ…俺。帰ってきたよ…俺。
応えてくれなくても…まだ一条さんは生きていて…俺、あなたのそばに帰ってきて、嬉しい。
「五代…」
「はい。」
俺は、自動的に答えた。
「五代…」って呼んで欲しい人は、そこで静かに死んでいこうとしている…
「五代…」って、もう呼んでくれないの…?
もう二度と呼んでくれないの…?
一条さん…あの幻のような声で最後なの…?
永遠に…俺は、失ってしまう…たったひとつの愛を…
「おまえたちが惚れ合っているのは知っている。
今さら、俺が間に割って入ろうとは思っていない。
だがな…五代…おまえに言いたいことがある。
もう…言ったって無駄なことかもしれないが…。」
突然。椿さんが、なんだかよくわからないことを言った。
俺は思わず、一条さんから目を離して、椿さんの顔を見てしまった。
冗談なんか…言える場所じゃないのに…
「な…なんのことですか…?」
「…なぜ、こんなに長く帰って来なかったんだ、五代?
なぜ、こんなに長く待たせたんだ…。
薫の気持ちを、考えたことがあるのか?
どこで、何して遊んでいたんだ?
薫がこんなことになって初めて帰ってきて…
どういうつもりなんだ。五代…」
話しているうちに、椿さんの声が低くなっていって、本気で怒っているのがわかった。
けれど、俺はひたすら混乱していて…
「おまえが…おまえも大変だったことはわかっている。
だから…旅に出たことは…いいんだ。
だが…なぜ、一年以上も帰らないんだ…
薫は…ずっと待って…おまえが帰ったことも知らずに死んでしまう…
くそ…薫が…死んじまう…」
椿さんは、顔に拳を当てて、前に屈み込んでしまった。
なにか…話が変だった。
俺は、ベッドの上に動かない一条さんの姿を見つめた。
一条さん…あなたの恋人、椿さんは、なにか間違えてる。
一条さん…ちゃんと言ってあげなきゃ、駄目だよ。好きだよって、愛してるよって…。
本当に好きなら、ちゃんと…俺に言ったみたいに、嘘じゃなくて…。
だから、起きて…一条さん…。起きてください…。
あなたの恋人が泣いてるから…。目を覚まして、話してあげて…一条さん。
でも、一条さんは、目を覚ましてくれなかった。
じゃあ…俺が言わなくちゃ…駄目なんですか…?
一条さん…俺、それは辛いんですけど…。
でも…一条さんの恋人を悲しませては、いけないよね。
「椿…さん、俺と一条さんは…惚れ合ってなんか、いないです…」
俺がそう言っても…椿さんは、少しの間、動かなかった。
それから…拳の間から、すごく低い声がした。
「…なんだと?」
「…惚れ合ってなんかいないんですよ。だから…安心して、ください。」
椿さんがすごい勢いで起き上がって、俺の胸倉を掴んだ。
「…じゃあ…おまえは薫を捨てたのか…?」
なんでこうなるんだろう?
一条さん…助けて…。
俺、困ってるんです…一条さん…起きて…。
「椿さん…苦しい…」
「こたえろ。おまえは薫を捨てたのか?」
椿さんの目が怒り狂っていた。
「違います、よ…捨てられた、のは、俺のほう…」
だよ…ね、一条さん。
でも…俺、やっぱりあなたが好き…。大好きです…。
これで誤解は解けた筈…なのに…椿さんはもっともっと怒ってしまった。
椿さんは歯ぎしりしながら、俺の身体を投げ出した。すごい目で俺を睨む。
「…おまえは…そんなことを思っていたのか?
捨てられたと思って、帰ってこなかったのか…?」
「だって…一条さんは…俺に惚れてなんかいない…!」
一条さん…俺、それでもいい…俺に惚れてなくていい…。
それでも、あなたの声がもう一度…聞きたい…。
俺の横で、椿さんが大きく息をしながら、拳を握りしめていた。
よくわからないことで殴られちゃうのかもしれないけれど…どうでもよかった。
「俺は…今、おまえをめちゃくちゃに殴りたい…。
だが、絶対暴力は使わない、と決めたんだ。
おまえが!ああやって…苦しい思いをして、あいつらを倒してくれたから…
だから…そう決めたんだ。
なのに…どうしてそのおまえが…どうしてそんな馬鹿なことを…。」
俺はぼんやり座っていた。一条さんのいる白いベッドだけが世界だった。
あなたが死にかけているのに…
どうして、俺は息をしているのか…
どうして、俺の心臓は動いているのか…
なんだか、変だね…一条さん…
どうして俺は生きているんだろう…?
俺の横で、椿さんは俺を睨みつけて、言った。
「五代…まだわからないのか?
薫は…おまえだけをずっと愛し続けているのに。」
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