『第10章:夢』 -2
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
五代は、酸素マスクをかけられて、ベッドに寝かせられていた。
もう、血はぬぐわれて、静かな表情になっているようだ。
俺は、ガラス越しに五代を見つめていた。
看護婦とともに集中治療室に入っていった椿が、五代の手を探り、脈を看るのが見える。
それから、椿は、五代の首に触れ、目蓋をめくる。
胸のポケットからペンライトを取り出し、五代の目に当てる。
(それは…そのしぐさは…まるで…)
瞳孔の散大を見るのは、死亡の確認、ではなかったか…?
それから、椿は、五代の顔からゆっくり酸素マスクを外し、ボンベの栓をひねって酸素の配給を止めた。
五代を見下ろして、椿は立っていた。
酸素マスクが外されて、五代の顔は少しこちらを向いていた。
静かな表情で目を閉じている。穏やかな顔だ。
(五代…終ったよ…)
愛しさがこみ上がる…。
終ったんだ、五代…疲れただろう?
いっぱい眠って…元気になろう…な?
ぐっすり眠って…目を覚ませ…五代…
椿が振り向く。
俺を見つめ、僅かに首を振った。
(な…に…?)
椿が歩き、扉を開けて、俺を呼ぶ。
「薫…入れ。」
俺は足を動かして、集中治療室に入り、五代のそばに立った。
五代は、まだ静かに眠っている…。
「駄目…だ。死んでいる…。」
椿の言葉が聞こえた。
俺は黙っていた。五代の寝顔を見つめていた。
「薫…五代は、死んでいる。」
椿が、もう一度繰り返した。
「さっきまでは、生きていた。確かに…呼吸していた。」
俺の声ではないような俺の声が、遠く応えていた。
椿が、俺の横でまた首を振る。
「そう…かもしれん。だが、もう死んでいる。
心臓は停止している。呼吸もない…。」
「ああ…だが。」
俺は、思い出す。
「五代は…死んでも、生き返る筈だ。
何度も…生き返った。あの、石があるから。
おまえが電気ショックをすれば…五代は生き返る。
椿…やってみてくれ。
五代は…死なない。」
眠る五代の顔を見つめ続けながら、俺は淡々と言った。
「薫…もう、電気ショックは必要ない。
五代は、もうこれ以上強くならなくていいんだろう?
もし、まだ石があるなら…五代が生き返る可能性は、確かにある。
だが…」
椿が、俺のほうを向くのがわかった。
肩に手がかかった。
「薫…おい。」
俺の身体は妙な揺れかたをした。
「薫!俺を見ろ!」
俺は、いやいや五代から目を離し、椿を見る。
「薫…希望を持つのはいいが。
五代は、たぶん生き返らない。俺は、そう思う。
以前は、心停止しても、こんなふうに身体が冷えきることはなかった。
何か、感じが違う…。」
俺は、手を伸ばした。
動かない五代の頬に触れる。
氷のように…冷たかった。その冷気は、俺を竦ませた。
俺は掌で、五代の頬を包む。暖めたかった。
だが、冷気は逆に俺の指を凍らせていく。
恐怖が…静かに、背筋を登って来る。
「何時間も…かかった、だろう?前は…?」
奇妙な声が、椿に訊ねていた。
「最初の時は、な。二度めは、あっという間だった…。」
椿の声も、苦しそうだ…と俺は、思う。
「待…とう。」
俺は、とうとう耐えきれずに、五代の頬から手を引く。
あの…暖かく、俺を抱いていた五代の身体と、同じものだとは思えなくなってきていた。
恐怖は、首筋まで這い上がっていた。頭が痺れて、目が霞むような感覚がある。
「そう、だな。
薫…おまえも疲れている。座れ。」
俺は僅かによろけて、椿が差し出した腰かけに着地した。
「…技師が来たら、レントゲンを撮ってみようと思っている…」
椿の静かな声が聞こえた。
そのまま…俺は五代の顔を見つめ続けた。
目覚めず、応えてくれない、ただ一人の恋人を見つめ続けた。
影が…死相、と呼ばれるものが、次第に濃くなっていく。
俺に微笑み、俺を愛した男が、ただの物体に還っていく。
それでも、俺は待ち続けていた。
あたりがざわめき始め、建物が生気を取り戻しても、五代は甦らなかった。
一度、部屋を出ていった椿が戻り、看護婦に手伝わせて、五代をレントゲン室に運んだ。
俺は、レントゲン室の前のベンチに座り、待った。
やがて出て来た椿が言う。
「石は…完全に破壊されていた…。」
俺は、椿の顔を見る。辛そうな表情だ、と思った。
「薫…五代は、死んだ。もう生き返らない…。」
「…そう、か。」
俺は立ち上がった。僅かにまたよろけた。
「薫…」
手を伸ばし、俺を支えようとする椿の手を振り払う。
「会わせてくれ…。」
俺は、レントゲン室の扉を開け、中に入る。
冷たそうな金属の台の上に、五代は寝かせられていた。
俺は横にひざまづいた。
頬に触れた。冷たく硬直している。
「…五代…起きろ…
俺を…置いていくのか…」
俺は、呟いた。
俺は、もうわかっていた。
絶望が…やって来る。
(おいで…いいよ…俺を呑み込め…)
それから、腕を回し、五代の身体を抱いた。
五代の身体はすでに強張って、俺を抱き返さない。
(おまえ…死んだの、か…)
俺は、腕に力を込め、死体を抱きしめる。
絶望が来た。俺を呑み尽くす。
「薫…もう、あきらめろ。
行かせてやれ…。」
椿の声が、背後から言う。
俺は、五代の頬に触れ、髪を梳き、それからゆっくり唇にくちづけた。
冷たい冷たい唇は…もう、俺にくちづけを返さない。
何かが、壊れる音がする…。
大量のガラスが雪崩れ落ちて、砕けていく音だ…。
「薫…」
後ろで、また椿が俺を呼んでいた。
ガラスが…落ちていく。
いっそ清々しいような、高く美しい音を立てて、壊れる…。
すべてが、終った。
俺は、五代を離し、立ち上がった。
「わかっているよ、椿…」
俺は、振り返った。
「薫…」
何か言葉をかけようとする椿を遮った。
「椿。すまないが、五代の養い親と、妹さんに連絡してくれるか?」
「薫…おまえは?」
俺は、椿の心配顔に微笑みかけた。
「俺は、戻る。五代はもういないんだ。まだ未確認が残っているなら、俺たちが闘わなければならないからな。じゃあ、よろしく頼む。」
去ろうとする俺の腕を、椿が捉えた。
「薫、大丈夫か?」
「心配するな。…世界は、俺たちが守らなくては。」
そう、世界は…な。
可笑しくなって、俺は少し笑った。
気遣う顔をしながら、椿は曖昧に頷いて、俺を掴んでいた手を離す。
「じゃあ、頼む。」
俺は去りかけ、思い付いて、椿を振り返る。
「椿…ありがとう。五代が世話になった。」
軽く、頭を下げた。
言葉に詰まり、俺を追う様子を見せた椿に背を向け、俺は病院の廊下を歩き出す。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
病院の外に出て、空を見上げる。
空は晴れ上がり、澄み切って、真っ青だった。
(やはり…な…)
俺は、せせら笑った。
思った通りだ。
五代があいつを倒し、五代も死ねば、空は晴れる。世界は元に戻る。
五代の命を贄にして、世界は元通り、健全な、美しい姿に戻る。
俺は、TRCSを停めてある駐車場に向かって、歩き出した。
そういうことか…そういう魂胆か…。
よくも俺を騙したな…。
一度は助けると見せかけて、俺に救わせておいて、希望させておいて、やはり奪い去る。
そういうことか…よくわかった…。
許さない…と、言っただろう?
聞こえなかったのか?
それとも、奴隷で従僕で虫けらの俺の意志など、気にも留めないのか?
言っただろう?許さない…と。
俺の忠誠を、試しているのか…?
五代を、すぐに殺しておけば、俺もあの場所で死んだ。
俺は、それを望んでいたのだし、あの吹雪の中ではたやすかった筈だ。
ただ…五代に重なり、倒れていればいいのだからな。
どうして…そうさせなかったのだ…?
なぜ…希望を持たせた…?
なぜ…助けさせておいて、奪うのだ…?
俺は、貴様に差し出してきたではないか。
俺の命を差し出してきたではないか。
何よりも愛しかった五代さえ、差し出して、祈り続けてきたではないか。
俺の命は奪うがいい。だが、五代の命だけは許してくれ…と。
五代だけは助けてくれ…と、願い続けてきたではないか。
そうか…そういう魂胆か…。
五代だけを奪うのか。俺の命は奪う価値もないのか。
五代だけが欲しかったのか。
貴様も、あの太陽に恋していたのか。
ずるいずるい盗人。小汚い悪党。この…麗しい顔をした偽善者。
五代だけを苦しめ、五代だけを奪い、何事もなかったふりをするつもりか。
世界…運命…神…貴様には、いろいろな名前があるようだが。
俺は、誓った筈だ。
五代を奪ったら、許さない…と。
俺は、TRCSに跨がって、発進する。
見せてやる…地獄に落ちる前に。
貴様が、俺の五代を使って守ろうとした平和を。
五代の命と引き換えに訪れた、素晴らしい平和を。
ほんの少しだけ、俺は壊してやる。
どうせ俺は虫けらだから。貴様のすべては毀せない。
だが…最後の力が尽きるまで、俺は奪ってやる。
貴様が守った命を。俺たちが守った命を。五代が守った命を。
貴様の大切な大切な命を。
俺は、奪ってやる。
貴様も…五代を、奪った。だから、おあいこ、だろ?
俺は、微笑みながら、県警方面にTRCSを飛ばした。
信号は、すべて無視した。
俺の可愛い五代を、ただ一人の五代を、貴様は簡単に踏み潰した。
だから…ちょっと仕返しをしてやるよ。
貴様の可愛い命、それぞれただひとつの大事な命を、俺も握り潰してやる。
許さない…と、言った筈だ。少しは思い知るがいい…。
県警の駐車場に停めてあった、俺の警視04に乗り換える。
トランクを開けて、高圧ライフルとコルトパイソン357マグナム、銃弾もたっぷりあることを確かめて、俺は微笑み、発進した。
そうだな…確か、市外に古い給水塔がある。あれがいい。
近くには、男子高があった筈だ。
貴様が守った、馬鹿どもだ。
誰よりも優しかった五代を選び出し、祭壇に飾り、生贄として屠り、貴様が守った馬鹿どもだ。
さぞかし、素晴らしい、美しい命なのだろう…?
できる限り…たくさん…奪ってやるよ、俺は。
止めたいならば、今、止めろ…ほら…。
俺は、赤信号の交差点を高速で通過した。
走ってきたトラックの鼻先を通り抜ける。
ブレーキが踏まれ、衝突音も背後に聞こえたが、俺は振り返らなかった。
無線が俺を呼び始めたが、電源を切った。
もう…貴様の手先、貴様の番犬は廃業した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ライフルを背負って、柵を乗り越え、俺は給水塔のはしごを登った。
タンクの台座に座り、空を見る。
まだ…時間が少しある。
五代…一緒にここで、空を見よう…。
俺と一緒に、ぼぉっとして、青空を見たい…と、いつか、おまえは言った。
空が…青い。
おまえは…もう、昇ったか…?
好きだった青空に…もう、なれたか…?
(何をするつもり?一条さん…やめてください…)
声が聞こえる。
五代…俺を、止めるつもりか。
俺に生きて、笑って、幸福になれ…と、おまえは、言った。
俺は…そうするつもりだ…と、応えた。
(一条さん…やめて…)
駄目だよ…五代。
おまえにも、もう止められない。
おまえは…もう、死んだ。どこにも、いない。
世界を救ったおまえは、天国に行って…また笑え。
俺は…これから地獄に、落ちる。
お別れだ。あの世でも、もう会えない。
俺は…おまえを奪った世界を、許さない。
深く憎んでいるこの世では、もう生きられない。
俺は、己も憎み、呪っているから、これから殺すことにする。
おまえを、救えなかったのは、俺だ。
世界の為に、おまえを差し出してしまったのは、俺だ。
おまえを、殺してしまったのは…俺だ。
五代…ごめん。さようなら。
俺は、もう生きない。
俺は、まだ笑えるけれど、幸福ではない。
俺は、神に逆らうことにする。
俺は、貧しい人間で…。ただ、おまえだけを愛した。
おまえは、きっと神にも愛される。
どうか…笑ってくれ。
愚かな俺を、笑ってもいい。
俺は…もう一度だけでいいから、その笑顔が、見たい…。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺はそのまま、タンクに背をもたれて、ずっと空を見ていた。
やがて風に乗って、若者たちの話し声、笑い声が聞こえてきた。
下校時間。
さて…そろそろ、ショータイム。
見ていろよ。思い知れ。
貴様を守る為に身につけた技術で、貴様の平和を少しだけ、壊してやる。
俺は腹這いになり、照準器を覗き込む。
対未確認用に開発されたこの武器は、高性能で、見事な出来栄だ。
俺は…外さない。
下の通りが、高校生たちでいっぱいになるのを待って、俺は射的ゲームを始めた。
校門を出たとたんに、煙草をくわえる、茶色い髪の…そう、おまえ。
おまえを守って、五代は死んだ。
俺はトリガーを絞り、笑っていた高校生の頭が消滅するのを見る。
おやおや…対未確認用は、強力過ぎる。
跡形もなくなっては、死体確認がさぞや困るだろう。
突然、頭が弾けてしまった死体の近くにいた高校生どもに、動揺が走るのを横目で見ながら、俺は次の的を探す。
耳にピアスをたくさんつけて、いきがっている…そう、おまえ。
おまえの為に、五代は殺された。
俺はトリガーを絞り、はしゃいでいた高校生の頭が消滅するのを見る。
俺は笑った。やっぱり、頭を狙うのは止めてやろうか?
ええ?どう思うんだ?優しい神よ…?
次はおまえだ…。
どれだけの力があるのか…今、おまえは命令し、脅える者をののしった…。
おまえがクウガになり、死ねばよかった。
俺はトリガーを絞り、髪型を整えかけた高校生の身体がふたつに割れるのを見る。
俺はまた笑う。ふたつになってしまうのも、まずいのかもしれないな?
やはり、顔がいい…。
もう二度と見られない、五代の笑顔の代わりに。
通りには動揺が広がっていた。気楽で傲慢な顔をしていた高校生たちは、事態を把握し始め、逃げ惑い始める。
さて…動きが派手になると厄介だが…ここが腕の見せどころ。
ここからは、選ばずに行くからな、神よ?
俺は狙い、連射した。
よく当たった。若者たちの顔は、次々に弾け、消えた。
たまに仕留められずに、腕や足が飛び、血の海の中で、獲物は苦しんでのたうちまわった。
五代…。
おまえが命がけで守ったものを、俺は殺す。
おまえは、俺を決して許すな。
はやく…殺してくれ。俺は…もう死にたい。
おまえのいない世界に、これ以上いたくない。
おまえが殺してくれれば、嬉しかったのに。
俺は、おまえに殺されたかったのに。
愛していたなら、なぜ連れて行ってくれなかったのだ…。
やがて、人影がなくなり、あたりは鎮まりかえった。
苦しむ若者を助けに飛び出そうとする警官を、俺は撃った。
ついでに、面倒くさくなり…動いている物にはとどめを刺した。
見渡す限り…動いている物がなくなった。
そろそろ…俺の位置もわかっている頃だ。
耳慣れたパトカーのサイレンが、遠く近く聞こえる。
スピーカーで呼び掛ける声を、俺は無視した。
はしごを登る気配を察し、また警官を一人殺した。
それから…ヘリの音が近付いて来た。
報道のヘリも混じっていることを、俺は知っている。
僅かに…母に、申し訳ないと思った。
だが、世界を呪う気持ちは萎えなかった。
そろそろ終りだ…五代…。
俺は、こんな悲しい人間だが…おまえを、とても、愛していた…。
警察のヘリが近付いて来る。
おそらく、狙撃手が乗っている…。
また、俺は笑う。
勝負…してやろうか?
安定した態勢の、俺のほうが有利だ。
狙撃手を殺し、操縦士を殺し、ヘリを落とし…また、次を待つのもいい。
それだけ長いこと、貴様を呪っていられる。
だが…ヘリから乗り出して、俺に呼びかけたのは、杉田だった。
その後ろで、狙撃手がライフルを構えているのが見える。
杉田は、その前に出て、必死の形相で俺に呼びかける。
なに?…馬鹿だな、杉田さん…ヘリの音で、何も聞こえないさ。
そして…すべてが無駄だよ…もう俺を救えるものは何もない。
では…終ろう。
俺は、コルトの銃口を杉田に向けた。
次の瞬間、俺は眉間を撃ち抜かれ、倒れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俯せに倒れている俺の身体は、何人かの警官に囲まれていた。
一人が俺の脇腹を蹴る。
「こいつ…警官だという情報は正しいのか?」
「そうらしい…未確認対策本部で活躍している、優秀なデカだそうだ…」
「それが、なんだってこんな阿呆なコロシを…」
「未確認の恐怖で狂ったんだろう…」
「終った、という話もあるがな…?」
「まぁな…あいつらを相手にして、頭のネジが壊れたんだろうな…」
それから、俺の身体は、乱暴に引き起こされ、仰向けに返された。
額の真ん中に開いた穴を見て、俺は狙撃手の腕を見事だと思う。
俺の目は、開いたままだった。
「ちくしょう…前途ある高校生を、あんなに殺しやがって…」
俺の身体はまた蹴られ、僅かに動く。
「おい…もう、よせ。」
蹴った警官をとどめる警官もいた。
俺の目は開いたまま、青空を映していた。
なぜ…俺はもう死んでいるのに、俺の目に映る青空を知っているのだろう…?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目を覚ましたら、闇が見えた。
青空を映していた筈なのに…と、俺は思う。
それからやっと、夢だったことに気付く。
俺は、闇の中に横たわっていた。
もうすぐ、未確認生命体対策本部は、なくなる。
この部屋から…もうじきに、俺は出て行く。
そして、俺もまた、二度とここへは戻らない。
このベッドは…もう、捨てよう。
五代との思い出が多すぎて…このベッドは、良くない。
このベッドで、俺は五代に抱かれながら、怖れ続けた。
一人で眠れば、闇に捕まる。今の夢のような、闇に…。
今見ていた夢…俺は、細部まで覚えていた。
あの絶望、あの壊れる音、殺し尽くした感触まで、覚えていた。
現実に、起こり得たことであることを…俺は知っていた。
俺の心に、闇の領域があることを、俺は知っている。
暗いものに惹かれる部分があることを、俺は知っている。
俺は、ひたすら正しいものを求めて生きてきたが、それは闇を呑んだ心の反動だったかもしれない。
アマダムは…俺を、選ばなかった。
触れたのは、俺のほうが先なのに…それでも、アマダムは五代を選んだ。
クウガになっていたら、俺は力に酔っていた。
そして、喜んで『凄まじき戦士』になっただろう。
アマダムが選んだのは、あの陰ることのない優しい魂、苦しんでも闇に堕ちないあの命…。
アマダムは…正しい選択をした。
それでも…俺は、五代を愛し、クウガに結びつけられてしまった。
夢の中で、俺が「貴様」と呼んでいた世界は、運命は、神は…何を、俺に求めるのか…。
…何も。
応えはなかった。俺は、自分で決めなければならなかった。
そして…俺は、とっくに決めていた。
五代…おまえを、ただ、愛している。
五代…雄介…おまえを失っていたなら…
俺は、今の夢のような鬼になり、地獄に落ちただろう…
だが…世界はおまえを救った…
おまえは、生きている…
俺も、生きている…
そうだよな…?
俺は、もう癖になってしまって、ペンダントヘッドを探った。
握り込んで、僅かに落ち着いていく。
「五代…」
呟いた声は、妙に大きく耳に響く。
今夜も、俺は一人だった。
「五代…」
嫌な…夢を見た。
怖い…夢を見た。
だから、いつかのように、抱いてくれ…。
俺を抱いて、背を撫でて、落ち着かせてくれ…。
「五代…」
俺を抱く腕は、なかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
五代は、山の上にいる。
岩石の多い、不思議な山の岩影に座り、五代は天空の月を見ている。
月が夜空に明るいのだから…今は、夜だ…。
岩にもたれ、五代は月を見ていた。
悲しそうに、苦しそうに、月を見ていた。
五代の唇が動いたが、音は聞こえなかった。
誰かを…呼んでいるようだった。
また…五代は、誰かの名を呼ぶ。
それから、五代は両手で顔を覆い、泣いた。
人気のない、天空の月に近い山の上で、五代はすすり泣く。
五代…どうした?
まだ…泣いてばかりか…?
髪を撫でたかった。
おまえを、旅立たせるのではなかった。
どうしてでも、俺のそばに引き止めて。
俺が抱きしめていればよかった。
雄介…おまえは、また誰かの名を呼んで、また泣いている。
誰でもいい、そこに、おまえの涙を受け止める胸はないのか?
俺でなくていい…誰か、泣いている五代を抱いてくれないか?
だが…五代は、誰も求めず、ひとつの名を呼び、月の照る俺の夢の中で泣き続けた…。
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