『第7章:覚悟』 -3完


        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「後ろ向きでいいですか…?」

「…いや、だ…五代の顔が見えない…」

 俺の首に両腕をからませ、俺の肩に顔を伏せ…
 まだ喘ぎながら一条さんは、駄々をこねる。

「じゃあ…上で、できます…?」

 背中の傷に負担をかけない体位は、他に思い付かなかった。
 肩に伏せられた額が、かすかに頷いた。

「ちょっと、腰を浮かしていてください…」

 俺は、自分が腰掛けていた椅子を外し、浴室の床にじかに尻をつけ、後ろの壁に背をもたれた。
 それから、一条さんの腰を引き寄せて、俺自身の上に導いた。

「自分で…腰を落としていけますか?無理はしないで…」

 俺の肩に掴まり、しゃがみこむ姿勢になった一条さんが戸惑う…

「…欲しいでしょう?ほら…」

 シャワーの湯が落ちて来るから、潤滑剤は要らない。
 腰を掴み、僅かに沈めると、先端がめりこむ。
 一条さんは静かに喘ぐ。
 ふと俺を見つめ、不思議に優しい表情になった。
 唇がわずかに動いて…「好きだよ」と呟いたような気がした。

 一条さんは息を吐き、俺の目を見ながら、腰を落としていった。
 暖かい湿った粘膜がからまりつき、引き込まれていく。
 今度は、仰け反ってうめいているのは、俺だった。
 一条さんは、途中で一度止め、少し戻した。熱中した表情が美しく、腰を突き上げて追いたいのをこらえて、任せていた。
 またゆっくりゆっくり沈めていき、途中で止まる。
 唇が開いていく。僅かに脅えていた瞳が虚ろになっていく。眉を寄せ、耐える表情になった。

「だいじょうぶ、ですか?無理…しないで…」

 俺の声もかすれてしまう。
 僅かに首を振って、快感に耐えていることを伝えてきた。

「ごだい…」

 声が震えていた。目は閉じられてしまった。

「ごだい…」

 また目を開けて、俺を見つめる。自分の中の欲望が高まるのを、一条さんは測っていた。

「一条さん…ちょうだい…」

「ほしい、の?」

「うん…欲しい…あなたが…ほしい…」

 一条さんは、優しく目を細めて、笑った。
 そして、一気に落とし、俺を呑み尽くした。

「あああぁ…」
「あ…うぅ…」

 うめきが交差していた。俺も耐えきれず、腰を捕えて突き上げた。
 俺の腕を掴み、一条さんは思いきり仰け反って悶えていた。

「ああ!…深い…」

 悶えたまま、動き出していた。締められ、からまれ、こね回される。

「い、ちじょうさ…だめ…」

 俺は歯をくいしばって耐えていた。

「とまって…おれ、いっちゃう…」

 自然に踊ってしまうらしい腰を掴んで、止めた。
 最初の激情が去って、俺に跨がる一条さんがうっとり微笑む。
 乾いてしまったらしい唇を、自分で嘗める舌が淫靡だった。

「…ゆっくり、なら…いい…?」

 低い声で囁く。妙に感じて、俺は震えて頷く。

「…これも…いいな…」

 上目使いに俺を見て、笑った。
 なんだか、またいけないことを教えてしまったような気がした。

 それから、一条さんは俺を見つめながら、緩やかに動き始めた。
 淫らで優しく、綺麗だった。俺は見つめて、震えていた。
 完全に主導権は奪われてしまった。犯されているのは、俺だった。
 俺の上で、喘ぎながら、悶えながら、一条さんは俺を追い上げた。
 俺が昇りかけると動きを緩め、落ち着くとまた追われる。
 勃ったまま揺れる昂りから、零し続けている。

「ああ…う…んん…い、ちじょう、さ…」

 また焦らされたのが苦しくて、俺はその昂りに触れた。俺の上に乗った身体が跳ね上がる。

「ごだ…はなして…いって、しまう…」

「おれ、も…いかせて…」

 握り込んで、僅かにしごくと、身を揉んで逃れようとした。

「いやだ…はなせ…ごだい、だけで、いきたい…」

「いかせて…くるし、い…」

「いやだ…まだ、ずっと…こうして、いる…」

 今日は、妙に意固地だった。
 しかたなく、手を放す。

 忘れてしまいたいの?
 思い出したくないの?
 戦場を、闘いを、死を、殺戮を…?
 じゃあ…一条さん…
 満足するまで、疲れ果てるまで、すべてを忘れるまで、俺を…食べて。

 また、微笑んで、一条さんは緩やかに動き出す。
 拷問のような快楽に俺は呑み込まれていく。
 一条さんは、長く長く引き延ばした。
 そして…ついには自らが耐えきれず、次第に昇っていく。

「ああ…いい…ごだい…いい…いい…」

 いい…と言い始めると、いつもこの人は急に乱れてしまう。
 動きが速まってきたのに合わせ、俺も突き上げた。

「ああ!だめ!もっと、もっと、ごだい…ああぁ…いく…」

「いって!いって!…俺も…もう…!」

 強く突き上げて、俺は果てた。
 次の瞬間に、一条さんも達し、俺の胸に暖かいものが散る。
 崩れ落ちて来る身体を抱き止めた。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 ほとんど動けなくなってしまったらしい一条さんを助け起こして、シャワーの湯で身体を流した。
 やっと膝立ちになる一条さんの内股を、俺が注いだものが流れ落ちる。

「できるだけ…出して…出せます?」

 俺の肩に頭を預けながら、一条さんは苦笑して、また内股に流れ落ちた。

「風呂でするのも、いいですね…後始末が…」

 俺は、流しながら笑った。

「そうだな…でも…」

「やっぱり、ベッドもいいですよね…」

「うん…」

 俺たちは、のんびりとそんな話をしていた。
 やはり、心も穏やかになっていた。
 愛しい気持ちだけが、俺の中にある。
 こんな時に、死ねるならいいのに…と、俺は思う。

「もう一度、湯に浸からなくていいですか?」

「もう…いい…入ったら、眠ってしまう…」

 俺の肩で、目を閉じかけていた。

「一条さん、ここで眠らないで…立って、ベッドまで行きましょう?」

「立てない…膝が笑っている…」

「俺…クウガになって運んであげましょうか…?」

 一条さんは、目を開けて、笑った。

「…やめて、くれ。」

 俺も笑いながら先に立ち上がった。
 差し出す腕を、一条さんが掴み、やっと立ち上がる。

「自分で動けるのはいいが…ハードだな…」

「…長過ぎたんですよ、一条さん…。」

「終りたくなかったんだ…」

 俺に縋って立ちながら、一条さんは呟いた。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 いつものように身体を拭き、丁寧にパジャマを着せた。
 ベッドに入ったら、一条さんは、あっという間に眠ってしまった。
 背中が痣だらけだから俯せ気味に、俺の胸に半分身体を預けている。
 俺の手は、一条さんの腰を軽く抱いていた。

「重い…だろう…?」

 俺の胸元に頭を預け、眠そうな声で呟いて…

「大丈夫ですよ」

 応えると、

「痺れたら、退けてくれ…」

 もう、眠りかけていて…

「気持ち、いいですか?」

「…うん…五代の心臓の音が聞こえる…」

 そう呟いて、寝入ってしまった。

 胸にかかる重みと暖かさが嬉しくて…
 愛しくて、幸福で、手放したくなくて…俺は、目を閉じる。

(これを…あきらめていかなければいけないのか…)

 あきらめられそうになかった。
 他の何をあきらめても、俺はこの人をあきらめられない。
 自分の命は、もうあきらめてしまっているのに…
 この…不思議な執着…。

(だから…この人に殺されたいんだな、俺は…)

 最後まで、最期まで、異形のものに成り果てても。
 心ももう俺でなくなっても。
 この人への執着はなくならないような気がした。

 一条さんが俺を殺すまで、俺は身体を抑えていなければいけない。
 俺でなくなったこの身体が暴走し、一条さんを殺してしまわないように。

(…できるだろうか…?)

 できる…と、俺は思う。
 この人を傷つけるぐらいなら、俺は死んだほうがマシだ。
 ああ、そうか…死ぬんだけれど。
 俺は、決してこの人を殺すことはできないだろう…。
 だから、「凄まじき戦士」になってしまった俺を殺せるのは、この人だけなのだろう…と思う。

(…あれ?)

 それならば、俺は身体を制御できる、ということだ。
 制御できるならば、俺は死ななくて済むのではないのかな?

 そんな…調子よくはいかないのだろう…。
 抑えていられるのは、ほんの数瞬…そんなものなのかもしれない。

 でも…どう考えてみても、俺はあいつらとは違う。
 全く違う。
 俺は、殺すことなんか、大嫌いだった。
 憎むことも、怒ることも、苦手だった。
 俺が得意なのは、優しさと笑顔…大事なのは、この愛しさだった。

(俺は…もう一度、自分を信じてみようか…)

 俺は、自分の命をあきらめる。
 そして、優しさと笑顔だけを抱く。
 愛しさだけを覚える。

 その時に…もしかすると、奇跡は起こるのかもしれない…。

(聖なる泉涸れ果てし時、凄まじき戦士雷の如く出で、太陽は闇に葬られん…か…)

 桜子さんの解読してくれた碑文には、金の力のことはなかった。
 古代には、電気はなかったから…俺は、古代のクウガとは違う力を手に入れた。
 そういうふうに…何もかもが、伝説のまま、というわけではないんだ。
 伝説は…変えられるものなのかもしれない。

 つまり…「聖なる泉」が涸れなければいいんだろう?
 いや、そうでなければ、「凄まじき戦士」にはなれないのかな?
 「聖なる泉」を涸らさないまま、「凄まじき戦士」になることは…できないか?

 もう少し、考えなければ。
 そして、もっともっと俺は自分を綺麗にしていかなければ。
 逆に、「聖なる泉」で満たしていかなければ。
 本能的に…俺は、自分が間違ってはいない、と思う。

 俺は、真剣に考え始めた。
 自分の心と、自分の身体を見つめ、調べ直し、何ができるか、を考え始めた。

 生きようとしては…いけない。
 俺は…欲は捨ててしまわなければ。
 でも…この愛は捨てない。絶対捨てない。
 一筋の光として、俺はこの愛を抱きしめて…行こう。
 あなたの笑顔だけ…抱いていこう。

 もしかして…奇跡は起こるかもしれない…。

(でも…な。)

 俺は、苦笑してしまう。

 もし、俺が本当にクリアな心になり、「凄まじき戦士」になった身体を制御できるとしても…。
 やはり、生き残れる可能性は少ない。
 あいつ…0号は、きっとすごく強い。
 「凄まじき戦士」になっても、やっと相討ちに持ち込めるぐらいだろう…。
 決して負けはしない。けれど、勝つこともできないだろう。
 俺は殺して…殺される…。

(やっぱり…死ぬな…俺は…)

 どう考えても…それしかない…。
 あなたを置いて…俺は、死ぬのか…。
 こんなに愛しいあなたから永遠に離れて…俺は、死ぬのか…。

 悲しみが、俺を満たす。
 透明な悲しみだった。
 俺を洗っていく。
 俺は、腕の中の一条さんを少し抱き寄せ、髪に頬を寄せて、目を閉じた。

        ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「う…ん…」

 一条さんの苦しそうな声で、目を覚ました。
 俺も眠ってしまっていたらしい。でも、そんなに時間は経っていない…。

 胸元の、一条さんの頭が揺れている。
 やはりこの姿勢は、寝苦しいのかもしれない。

「…う…だめだ…」

 首を振って、もがき出していた。
 何か…夢を見ている。

「…よせ…やめろ!」

 きっと、悪い夢だ。起こしたほうがいいのかもしれない。
 と、思った時。

「う…うわぁああああああっ!!」

 一条さんは叫んでいた。
 そして、いきなり仰向けになって、仰け反った。

「一条さん!一条さん!」

 俺は、呼んだ。暴れかけるのを抱き止める。
 一条さんの目は見開かれていた。でも、まだ、今見た夢に捕らえられている。

「ああっ…やめろっ!!」

 また叫んで暴れる。

「一条さん…一条さん…どうしたの?」

 強張る身体を抱き込んで、静かに声をかける。
 時々…一条さんは夢にうなされる。でも、こんなにひどいのは初めてだった。

「…う…うぅ…」

 腕の中で、一条さんが必死に歯を食いしばっていた。
 身体全体ががたがた震え始めている。

「一条さん…夢ですよ…大丈夫ですよ…ほら…」

 俺は、背中をそっと撫でる。
 この人は、強い強い人だけれど、こんなせっぱつまった戦場で、何も苦しみがない筈はない。
 夢でいろいろなシーンを見るのだろう、と俺は思う。
 背中を撫でて、声をかけ続けていれば、一条さんは安心して、また眠りに落ちる。
 今までは、そんなふうだった。

 でも…震えが収まらない。だんだんひどくなって来る。
 ひゅっ…と、歯の隙間から、息を吸う音がした。

「一条さん?」

 目を開けたまま…一条さんは自分のパジャマの襟を掴み、喉を反らして、息を吸おうとして、もがく。
 覗き込んだ瞳に、恐怖とパニックの色が見える。
 ひゅっ…ひゅっ…ひゅっ…息が吸えなくなっている。

「一条さん、力を抜いて…息を吐いて…吐いて…吐かないと吸えないから…」

 たぶん…過呼吸なんだろう、と思う。
 みのりの保育園の子供が、こんなふうになるのを見たことがあった。

「…ごだ…ご…」

 だんだん切迫してきて、とうとう俺を見つめたまま、呼吸が止まってしまった。

(駄目だ…このまま、気を失う…)

 俺は顎を掴み、口を開けさせて、強引にくちづけた。
 舌を引き出し、絡めて吸って、背中のこともかまわず抱きしめる。
 一条さんは一瞬暴れて、それからくちづけに流されて、背中の痛みに喘ぎ…息を吐く。
 俺は、すぐに離した。

「落ち着いて…ゆっくり吐いて…ゆっくり吸うんです…大丈夫ですから…」

 俺は見つめながら、静かに背中を撫でた。

「吐いて…もっと吐いて…吸って…吐いて…吐いて…力を抜いて…もっと…」

 俺に従おうとする一条さんの身体は少しずつ力が抜けてきて…それでも、時折、激しく震えた。

「そ…うか。吐かな、ければ…吸え、ない…な…。」

 苦笑しようとして、また震え、硬直した。

「まだ…しゃべらないで…息を吐いて…力を抜いて…」

「気が…つか、なかった…。」

 一条さんは、しゃべり続けようとする。瞳に残る恐怖から逃れるように、無理矢理笑う。
 俺は、背を撫で続けた。

「五代…あり、がとう…。」

 額に触れると、冷たく濡れている。俺は指で拭い、頬を包んで暖めた。

「夢を…見たんですか?」

 訊くとまた震える。でも、話してしまったほうがいいのかもしれないから、俺は尋ねた。

「ああ…」

 呼吸がだいたい普通になってきていた。
 頭を抱き取り、元どおりに深く抱き込み直す。

「どんな…夢?」

 一条さんの全身に震えが走る。しばらく、一条さんは応えなかった。

「…殺されてしまう、夢だ…」

 俺の肩に頭を擦り付けて、震える。俺は抱きしめた。

「…大丈夫ですよ…俺が、必ず守ります…」

 一条さんは一層震えて、低くうめいた。

「…殺させません…あなたは、必ず守ります…」

 一条さんは、俺のパジャマを掴み、また震えた。
 髪を撫で、背を撫でる。
 一条さんは、息を吐き、息を吸って、自分で鎮めようとしている。

「ご…だい…」

 苦しそうな声だった。

「はい…ここにいますよ。
 ほら、あなたを抱いて…あったかい、でしょう?」

「う…ん…」

 また震えて…吐き出す息と一緒に、力が抜けて、俺に預けてくる。
 くちづけをねだるように、顔を上げたので、唇を重ねた。
 それから、俺は頭を起こし、閉じた目蓋にも、眉も額も鼻も頬にも、くちづけていった。
 戯れに顎を齧って少し笑わせておいて、首をなぞり、首筋を舐めて上がり、いつものように耳に辿り着いた。
 耳朶を唇でなぶると、一条さんが感じて、身体が緩む。

「もう一度…します?目も覚めたんだし…」

 耳許で囁くと、一条さんは頭を逸らして逃れ、笑った。

「やめてくれ…明日も早いんだ…俺は…」

 俺も、もうする気はなかった。ただ、一条さんが笑ったので、嬉しかった。

「じゃあ…もう、眠ってください。
 夢を…見ても、俺がいますから、ね。」

「うん…」

 元のように、抱き込み直した。
 腕の中の一条さんが、身体の力を抜いて、眠る位置を探す。落ち着いて、ため息をつく。

「寝苦しくないですか?」

「気持ち…いいよ…おまえの鼓動が、聞こえる…」

 また僅かに震えた後、一条さんの息が静かになっていく…。

 こうして…腕の中にこの人を抱いて眠る夜…。
 これ以上、幸福なことなんか、この世にはない…と、俺は思う。
 あと幾晩…こんな夜が、俺に残されているんだろう…。

「一条さん…?」

 俺は、衝動に駆られて、呼んだ。

「…ん?」

「これ…が、終ったら、何をしたいですか?」

 何か、楽しい話をしたかっただけだ。
 何か、死と殺戮以外の夢をみたかっただけだ。

「そうだな…俺は…」

 少し、考え込む気配があった。

「そうだな…普通の空き巣とか、かっぱらいを捕まえたいな…」

 一条さんらしいので、俺はくすくす笑った。

「…五代は?」

「俺は…」

 …やっぱり、こんな話をしなければよかった、と思った。
 俺は…その時、もういない…。

 でも…その時に生きていることを、想像してみるのもいい。

「俺は…一条さんと二人で、ぼぉっとして青空を見たいです…」

 一条さんは、しばらく黙っていた。

「…そうだな。それもいいな…かっぱらいを捕まえるより…」

「…はい。」

 俺は、その時を思う。
 どこで…二人で、見上げようか、青空を…一条さん…
 一条さん…ねぇ…どこにしようか…海岸がいい?山がいい?
 それとも…二人で暮らす部屋の窓からがいいかな?
 ねぇ…一条さん…一条さん…。

 それっきり、俺たちは黙っていた。
 一条さんの息は、もう静かだった。

 もう、眠入ってしまったか…と思った頃、一条さんが静かに俺を呼んだ。

「五代…」

「はい…」

 一条さんの身体が、またかすかに強張って、震える。
 俺は手を上げて、一条さんの髪をそっと撫でた。

「五代…」

 近付いて来る別れを知っているのか…声まで僅かに震えている。

「はい…」

 静かに、髪を撫で続けた。
 それっきり…一条さんは、もう何も言わなかった。
 じきに、深い寝息になっていった。

(一条さん、もうじき…俺は、いなくなります…)

 あなたは、誰に抱かれて眠るんだろう…
 あなたは、次には誰を呼ぶんだろう…
 悪い夢を見たら、誰に宥めてもらうの…?

 やはり、どうしようもなく、悲しかった…。

 涙は出ない。
 そういう…泣くような悲しみじゃない…。
 透き通るような、突き刺さるような、清冽とも言えるような悲しみだった。
 別れを告げなければならない、この世のすべてが愛しくて。ただ悲しくて。
 腕の中で眠るこの命が恋しくて。

 俺は…死のう。
 この、愛しいすべてのものの為に。
 愛するものを守る為に。
 空気のように、水のように、青い空のように、虚ろなものになって。

 俺は…死のう。

 眠る一条さんの髪にくちづけ、俺はひとつ深呼吸をして、静かに目を閉じる…。

           (第7章:覚悟 完)

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