『第3章:決意(2000年6月3日)』-1


 ドアチャイムが鳴った。
 もう夜も更けているのに、誰が俺の部屋を訪れるというのか。
 やって来そうなのは、唯一人しかいなかった。

(五代…おまえか…?)

 少し鼓動が速くなっている。
 期待はするまい、と思っていたのに、やはりどこかで待っていた自分を、俺は知る。
 だが…違うかもしれない。
 ことさらにゆっくりと、俺は玄関に向かった。

 静かに開けた扉の隙間から、やはり五代の笑顔が覗いた。

「すみません、いつも遅くに。
 近くを通ったもんですから〜」

(…太陽がやって来た…)

 俺は…ただ、嬉しかった。
 近くを通った、というのは…たぶん、嘘だ。だが、追求する気はない。

「五代…上がれよ。」

「はい。」

 五代が嬉しそうに笑って、入って来る。

「一条さん、夕飯食べましたか?」

「食べたよ。」

 何を食ったのかは、忘れた。だが、何か食った筈だ。コンビニの弁当…いや、あれは昨日のことか。
 ああ、確か…夕方の早い時間に、食堂で杉田と一緒に定食を食べた。

 俺は、また食べ物が口にできるようになってきていた。味もわかるようになってきていた。できる限り、きちんと食べるようにしていた。

「俺、おなか空いちゃって、うどんを買ってきたんですよ。
 ここの…けっこう旨いんです。讃岐風で。
 一緒に食べてもらえます?夜食ってことで…」

 五代は笑いながら、ねだるようにしゃべっていたが、目は真剣に俺を見つめていた。

(五代…何処まで行って買ってきたんだ…?)

 たぶん、俺に食べさせる為に、この男は夜更けにバイクを飛ばしたのに違いなかった。
 だが、それも俺は追求しない…。

「ありがとう。いただくよ。
 早い時間に食べたきりだから、ちょうど腹が減ってきていた…。」

 俺も笑って礼を言うと、五代はひどく嬉しそうに笑う。

「じゃあ、すぐつくりますからね〜
 お邪魔しま〜す」

 五代はスニーカーを脱ぎ、もう使い慣れてしまったらしいキッチンに駆け込んでいく。
 俺はそれを見送り、半ばあきれ、そしてやはり嬉しくて、にやけかけてしまった顔で後を追った。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 五代は、相変わらずくるくると、他人のキッチンで働いている。
 どうせ手伝わせてはくれないし、俺が手を出しても邪魔なだけだろうから、俺は座って、それを眺めていた。

「五代…どんぶり、なんていうものはないぞ。」

 気がついて、声をかけると、五代が振り返って笑う。

「わかってます。スチロールのどんぶりを、ちゃんと付けてもらいましたよ〜」

(マメな男だ…)

 俺は、感心してしまった。俺にはとても思い付かない。
 俺の表情が楽しかったらしく、五代は自慢そうに笑い、鼻歌混じりで、またうどんに取り組む。

(闘わせたくない…)

 ふいに、強くそう思い、胸が苦しくなった。
 五代雄介には、戦闘は似合わなかった。この優しい、柔らかな男は、こうしてキッチンでこまめに料理をしているほうが、遥かに似合っていた。

(この馬鹿…なぜ、クウガになどなったんだ…)

 わかっている…五代は、ただ守りたかったのだ。消されていく笑顔に、耐えられなかったのだ。
 そして…おそらく、石も五代を選んだ。この、優しい、柔らかな心の持ち主だからこそ、五代を。
 クウガは、五代雄介の運命だった。

 それでも、俺は深くため息をつく。五代に知られないように、そっと…深く。

 俺は、闘わせたくなかった。
 優しくても、五代は強い。柔らかいが、闘うための意志は固い。
 だが…この激化していく戦闘はおまえを傷つける。身体も心も傷つける。
 優しければ優しいほど、五代は死に向かってしまう。
 俺には止められない。五代が自ら望んでいる闘いだから。
 そして、未確認殲滅の為には、クウガは欠かせないから。
 五代は、俺の持つ最強の武器だった。
 俺は今日も五代を呼んだ。未確認生命体第33号と、五代は闘い…倒してくれた。

(俺が…殺していく。こんなに優しい、愛しい五代を。)

 この苦痛は、果てもなかった。
 だが、迫ってくる息苦しさを晴らす為に、俺はひとつ息を吸い、吐いた。

(俺が揺らいではならない…)

 五代が初めてこの部屋に訪れ、俺の身体を抱いてから、十日経っていた。
 あの夜。振り返ってみて、俺は崖から落ちる寸前まで来ていた己を知った。五代の死という恐怖に、俺は崩壊しかけていた。愛するものを死へと追う地獄の連続に、疲弊しきっていた。眠れず、食えず…ただ休みたかった。心身の限界は、とっくに越えていたのだろう。普段の俺は、自殺など卑怯な手段、と忌み嫌っていたのに、あの夜…己の手で命を断つ、という思いつきはとても魅力的だった。
 その時…五代が突然やって来て、俺を救った。

 状況は変わっていない。俺は五代を呼び、五代は怪人たちと闘い続ける。
 地獄は続いていた。俺の苦痛も、変わりはない筈だった。
 だが、俺は眠れるようになっていた。夢は時々見るが、俺は追って来る恐怖から逃げ切ることができるようになっていた。
 再び、食べられるようにもなってきていた。少しずつ俺は回復し、精神の健全さも取り戻していた。

 胸苦しさは、今も時々俺を襲う。だが、もう鎮めることができた。
 あの夜の、五代の涙を思う。涙と共に知った、五代の愛を思う。五代の唇と手の優しさを思う。俺を抱き、寄り添って眠ってくれた肌の暖かさを思う。
 告げるつもりもない想いだったのに、俺の愛は叶えられていた。すでに俺は孤独ではなかった。
 あの夜の五代を思い出せば、胸の苦痛は軽くなった。呼吸も楽になった。勇気と闘志が戻って来るのを、俺は感じていた。

 あの一夜だけでも、俺はおそらく立ち直って、生きていけただろう。
 俺は多くを望まない。五代に愛されるだけの価値のある生命だとは、思っていなかった。あれが五代の一時の欲望だったとしても、俺は嬉しかった。

 だが…五代は一夜で終らせるつもりはないようだ。
 あの後、五代の視線は絶えず俺に向けられている。心配そうに、探るように俺を見る。目を離せば、俺が消えてしまうように、振り返る。
 おまけに、昼時にはどこからともなく現れ、俺を食事に誘う。俺が食べれば、嬉しそうに笑う。そして、ほっとして息を吐くことも、俺は知っていた。
 もともと素直な男だった。五代は誰にでも優しいが、それとは違う想いが目に、表情に現れてしまっている。差し出される心は、どう考えても疑いようがなかった。
 俺のような不器用で無愛想な男のどこがいいのか…と、俺は思うのだが。
 どうやら、五代雄介は、本気で俺を愛しているらしい。

 そのうちには、またやって来るだろう、と思っていた。
 そして、俺も密かに待っていた…。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「お待たせしました〜はい、どうぞ。」

 五代がいそいそと、俺の前にスチロールの容器を供える。

「あっはし、箸、箸〜〜」

 キッチンに取りに戻る。
 自分のぶんも持ってきて、すとんと座る。
 可愛らしかったので、俺は笑って見ていた。

「どうぞどうぞ、一条さん。」

「いただきます。」

 俺は、頷いて箸を取り上げ、食べ始めた。
 俺は、食べ物のことはよくわからないのだが、うどんには腰があり、薄い色の熱い出汁は意外と味が深く、旨かった。
 俺が食べるのを、五代はじっと見ている。

「…ん、旨いよ。」

 そう言うと、安心したように笑って、五代も箸を取り上げた。
 だが、せっかく食べ始めたのに、すぐにまた騒ぐ。

「ああっ七味!」

「…唐辛子か?
 五代…そんなものは、ないよ。」

 露骨にがっかりした顔が、可笑しい。
 俺の五代は…本当に可愛い。

「いいじゃないか。このままで充分旨い。」

 思わず、慰めてしまった。
 だが、五代は何か思い付いたように、またキッチンにすっ飛んで行き、うどんを入れて持ってきた袋の底を覗いている。

「あったあった!ありましたよ〜〜
 おばちゃん、付けてくれたんだ、優しいなぁ〜」

 小さな袋を持ってきて、俺のうどんにもかけてくれる。

(優しいのは、おまえだろう…五代…)

 俺はただ微笑んで、礼を言った。

「ありがとう。」

 何気ない言葉なのに、五代は俺を見つめ、蕩けてしまいそうな顔をする。
 そして、あわてて俯いて、うどんを食べ始めた。

(こんな…日々なら、いいのにな…五代…)

 少しだけ、また胸が痛み出す。
 俺も、俯いてうどんを食った。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 食後に、五代は茶まで煎れてくれた。
 茶碗はないから、揃わないコーヒーカップで、俺たちは飲んでいた。

「一条さん、ゴウラム、ね。」

「うん?」

 五代が真剣に言い始めたので、俺も表情を引き締めた。

「碑文では『馬の鎧』だって、桜子さんは言ってました。
 前の…クウガは、たぶん馬で闘っていたんですね…。」

「馬…か。」

「ゴウラムと一緒に、あいつらと闘ってきたんですよね。
 でも、眠らせることしかできなかった…。」

 長い時を越え、グロンギたちを封じ込め、人類を守り続けていたクウガの存在を、俺も思う。
 そして、そんな責任を引き継いでしまった五代の運命を、俺は胸の内で嘆く…。

「一条さん…」

 五代は静かに俺を呼ぶ。

「俺は…必ず、終らせます。」

 無理をするな、五代…と、言いかかる自分を押さえ、俺は頷く。
 もう少し、決定的な武器があれば、五代だけが背負わなくてもいい筈なのに…。
 だが、科捜研も努力している。俺には、どうしようもない…。

「なんだか…もっと強くなれそうな気がするんです。
 もっと強くならなければいけない、と思うんです。
 だから、俺…強くなります。」

 そうやって、おまえは何処まで行くのか…。
 そうやって、おまえは何処まで強くならなければならないのか…。
 そして…おまえはどうなってしまうのか…。

 気遣う心を見せるつもりはなかったのに、五代が俺の気配を読んで、明るく笑う。

「大丈夫ですよ、一条さん。
 俺を信じてください。」

 得意のサムズアップが付いて、笑顔が広がった。
 俺も笑って頷いた。

「信じている…。」

(ちくしょう…信じることしか、俺にはできないのか?)

 一瞬の焦燥が胸を焼いていく…。
 できることがある筈だ。俺にも、まだ…。

 五代は、俺の言葉にまた嬉しそうに笑い、そして突然、笑顔を曇らせる。
 言いたくて、言い出せないような表情が気になった。

「一条さん…」

「なんだ?」

「俺…今夜、泊めてもらえます?」

 真剣に、上目づかいに俺の表情を伺うのが可笑しくて、何気なく応えるのに苦労する。

「ああ…もう遅いしな。泊まっていけよ、五代。」

 俺の言葉ひとつで、五代は喜ぶ。闘いの話の時とは違う、本当に幸福そうな笑顔になった。

「実は…俺、パジャマを持って来たんです。」

 と、バックパックを引き寄せ、パジャマと替えの下着を取り出す。

「五代…準備がいいな。」

(こいつ…最初から、そのつもりで…)

 あきれた俺の苦笑を、五代が心配そうに見ている。
 主人の顔色を伺う犬のようだった。

(こんな顔をされて、誰が怒れるんだ…?)

「泊まるなら、シャワーを浴びて来ればいい。
 沸かしてはいないんだが…シャワーでいいか?」

「はい!…一条さんは?」

 尻尾が振られているのが見えるようで、俺は笑うしかなかった。

「俺は、もう浴びたよ。」

 そう言うと、なにやら尻尾がうなだれてしまった。
 どうやらこの犬は、あれこれとあらぬ夢想をしながら、俺の元に来たらしかった。

(どうせ、後で俺を抱くつもりだろうに…
 風呂にも一緒に入ろうとしていたな…こいつ…)

 つい、俺も夢想してしまい、顔を背けた。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 俺は、タオルを用意してやった。
 妙にしょんぼりしてしまった五代がバスルームに消えた後。
 俺はテレビをつけた。
 だが、観てはいなかった。聞いてもいなかった。

(俺は、もう揺らいではならない…)

 それだけを、考えていた。

 俺はすでに、弱い姿を五代に見せ過ぎていた。見せたくはなかった。だが、五代は見てしまった。
 その結果、俺は救われたが、五代は今、俺を心配し過ぎている。
 俺と同じ落とし穴に、五代は落ちかかっている。
 最近は、振り返っては命にかかわる戦場でも、五代は俺の姿を目で追うようになってきていた。
 五代の心配を取り去らねばならない…すぐに。

 わかっていた…。俺を愛してくれるから、五代は俺が心配でならなくなってしまった。
 嬉しかった…。だが、それではいけない。それでは、危ないんだ…五代。
 かかっているのは、五代の命だった。何よりもそれが大事だった。
 そして、俺の命は捨て駒にできなくなっていた。五代がこれ…俺の命…を愛しているなら。

 俺は、もう五代に心配させてはならない…。
 俺は、もう二度と揺らいではならない…。
 俺は、この怖れを決して見せてはいけない…。

 俺は、拳を握り、見つめる。

 すっかり回復したか…?もう力は戻ったか…?
 五代を信じるだけでは足りない。俺は支えてみせる。必ず、五代を生きて、戦場から連れ出してやる。
 早く、早く、甦れ…俺の力、俺の技、俺の意志、俺の勇気、俺の知恵、俺のすべて…。
 未確認はどんどん強くなってきている。五代はますます危うくなる筈だ。だが、どんなことをしてでも、俺は五代を支えてみせる。
 五代が人々の笑顔を守る為に命を賭けるなら、俺は五代の命を守る為に生きる。
 だから、早く甦れ…二度と五代に心配させるな。五代を振り向かせるな。五代の足枷には決してなるな。
 五代の腕を引ける程に、強くなれ。走るクウガの先に立って駆けていける程、速くなれ。
 早く、早く、甦れ…。

 俺は両手の拳に額を伏せ、強く願った。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「…一条さん…寝ちゃった?」

 小さな声がした。不安そうな声だった。

(…いけない。また…)

 俺は、ゆっくりと顔を上げる。目をあたりを軽くこすり、それから笑った。

「ああ…腹いっぱいになったら、眠くなったようだ…」

 俺は、精一杯の笑顔で、五代を見る。
 五代は、丸首のトレーナーのようなパジャマの上下に着替え、首にバスタオルを掛けていた。
 湯上がりで、髪を濡らしている五代は、少し上気して、まだ湯気が立っているようで…いつもより子供っぽく見える。
 愛しさがこみ上がり、つくり笑いは、すぐに本当の笑顔になってしまった。

(そんな心配顔は、もうさせない…)

「五代…今日は疲れただろう?
 もう、回復した?」

 不安に立ちすくんだまま、今は俺の笑顔に見とれて動けなくなってしまったらしい五代に、俺は言う。

「…はい。おなかの石が、せっせと治してくれるようです〜」

 五代も明るく応える。

 だが、その笑顔の底に、僅かに…変化し続ける身体への恐怖が潜んでいることを、俺は知っている。五代は、笑うだけで、決して語らない。それでも、俺にはわかっていた。
 …簡単なことだ。怖くない筈がない。
 五代が自ら背負い、耐えて笑っている限り、俺は言及する気はなかった。
 言葉にはしない。だが、すべてを見て、すべてを知るつもりだった。五代の表情の小さな変化も、俺は見逃さないつもりだった。

「五代、髪を拭け。垂れてるぞ。」

 からかうと目を細めて笑い、俺の横に座り込んで乱暴にタオルでこすり始める。雫がはねて、俺にもかかる。本当に犬のようだ。

「おい…飛ぶ…。」

「はい?なんか言いました〜?」

「いいよ…」

 じゃれる五代が可愛くて可愛くて、思わず手を伸ばしそうになった。
 この腕を引き寄せて、肩を抱いて、バスタオルをむしり取って、くちづけたい…。
 俺は五代を愛している。五代も俺を愛している。
 そうしてもいいのではないか…?

 僅かに手を伸ばしかけ…そして、俺は手を止める。急いで、もう一方の手で握りしめた。

 駄目だ…。  抱いて、くちづけるだけでは済まなくなる。
 一度、そうしてしまえば、俺はきっと甘く崩れる。そして、五代に縋ってしまう。

(闘わないでくれ もう、やめてくれ どこかに隠れてくれ 未確認のいないところに逃げてくれ いや、俺と一緒に逃げよう…どこか、無人島に…誰も来ないところに…二人っきりで…暮らそう、五代…。)

 あっという間に、真の願いが吹き上げていた。強い憧れが俺を誘う。
 自分の手を握り、俺は耐えていた。
 そんなことはできない…。逃げれば、俺は俺でなくなる。五代も五代でなくなる。今、二人で逃げれば、命だけは長らえても、俺たちの魂は、結局滅ぶ。
 闘い続けるしかないことはわかっていた。
 俺は一瞬目を閉じ、熱風のような憧れが通り過ぎるのを待った。

 目を開けると、五代が髪を拭き終るところだった。
 気持ち良さそうに、前髪を掻き上げるのを目の隅で捕らえながら、俺はテレビを観ていた振りをした。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「拭きました〜これでいいですか〜?」

 五代がおどけて報告してくる。
 俺はちらりと見て、冷たく言う。

「まだ濡れている。ドライヤーで乾かせ。」

「これで、大丈夫ですよ〜」

「風邪をひく。寝癖がつく。」

「俺、風邪はひきません。寝癖はすぐ直ります。」

 どういう態度で接したらいいのか、俺は一瞬わからなくなっていた。
 だが、五代の柔らかな返答に、テレビを観る振りをしたまま、やはりまた笑ってしまう。
 この男は人を溶かす名人で、俺も氷のままではいられなくなる…。

 笑ってしまった俺の頬に、ふいに五代がくちづけてきた。軽い、小さなキスだった。
 すぐに離れ、自分でも驚いたような声が聞こえる。

「あ…すみません…つい…」

 頬に、五代の唇の感覚が残った。
 俺もくちづけたくて…見たら、ますますしたくなるに決まっているのに、五代を見てしまう。
 五代は、俺を見つめていた。優しくて、それでも焼けつくような目だった。強く俺を求めていた。

「五代…」

 揺れてはならないのに、俺は揺れながら、愛しい名前を口にする。
 手を伸ばして、引き寄せればすぐだ。
 五代と二人、天国まで昇れる。

(世界など、地獄に落ちてしまうがいい…)

 ついにそう思い、手を伸ばそうとした時、五代が静かに言った。

「一条さん…好きです…」

 俺は…凍りついてしまった。
 驚いてしまったのだろう、と思う。

(まだ…聞いていなかったか…?)

 そんな、奇妙な疑問が浮かぶ。
 とっくに、俺は知っていたから。

 だが、五代は言わないような気がしていた。
 俺が言えずにいた言葉だから、五代も言わない…そう思っていたような気もする。

 そうか…。おまえは太陽だ…おまえは、愛を口にできる…
 愛の為に、おまえは闘っているのだから…
 だが、俺の愛は、おまえを殺してしまう…

「一条さん?…もしかして、驚いちゃったの?」

 俺の沈黙に傷つき、五代が悲しそうに訊ねていた。

「…俺が、遊びでこんなことしてる、とか…思ってたんですか?」

(そんなことは思っていない、五代…おまえを疑ったことはない…)

 何か、応えなければいけなかった。
 五代を傷つけたくはない。
 だが、何を言ったらいいのか、俺にはわからなかった。

「…いや…。」

 俺は、やっと言った。

「俺…一条さんが…大好きです…」

 五代は、俺を見つめ、繰り返した。

 俺も、言いたかった。
 「俺も、好きだよ」…と。実に簡単な言葉じゃないか…。

 どんなにどんなに、五代は喜ぶだろう…
 どんなに、幸福そうに笑ってくれるだろう…
 俺は、五代の望みを叶えてやれる…

 この誘惑は、さっきよりも一層強かった。
 耐えきれずに、俺は目を閉じた。

(一瞬だ。長くても一秒。それ以上長いと、また五代が心配する…)

 閉じた目蓋の裏に、五代の笑顔が見える。
 「本当に?一条さん…?」そう言って、おまえは蕩けたように笑うだろう。
 そして、何度も俺にくちづけるだろう。
 おまえを幸福にしてやりたい。したい。俺は…言いたい。  だが。

 俺は目を開けた。

(駄目だ…。言えない。)

 告白し合って、甘く抱き合えば、俺たちは命を惜しみ合い、闘えなくなる。
 愛を告げれば、俺は崩れ、おまえを支えられなくなる。
 俺は惚れ過ぎている。すべてを知れば、おまえは俺の怖れにも気付くだろう。
 そして、おまえは振り返る。俺を気遣い、手も脚も動かなくなる。
 一瞬、おまえは振り返る…それは、おまえの死に繋がるだろう。

(すまない…五代…俺は告げられない…)

 俺は、ただ五代を見つめていた。

 おまえの笑顔をあきらめても、おまえの心を傷つけても、俺には守りたいものがある。
 おまえの生命…ただそれだけ。
 ましてや俺の愛や、俺の心などは、俺にはどうでもいい。
 おまえの命を僅かでもおびやかすものは、俺は排除する。
 俺は…告げない。おまえには…知らさない。俺は…氷になる。

 五代も、俺を見つめていた。
 やはり傷ついた色がある。それでも、五代は優しく笑っていた。

「ごめんなさい。困らせたんですね。
 俺…ただ、言いたかっただけです。
 好きになってくれ…なんて、言ってませんから。」

 俺の頬に触れようとして、五代は躊躇う。

「…さわってもいいですか?」

 五代の声も指も、かすかに震えていた。
 縋る言葉も願う言葉もすでに封じていたから、俺は黙っていた。
 俺の拒絶を怖れながら、五代は手を伸ばし、俺の頬にそっと触れた。
 五代の指がゆっくり俺の頬をなぞっていった。

「困らせたり、悲しませたりするつもりはないんです。
 ただ、好きでいさせてください。
 そばに、いさせてください…ね?」

 五代は、この前にも言ったとおり、何も訊こうとはしなかった。
 ただ、愛を差し出していた…。

 俺には、差し出す愛の言葉は、もうなかった。
 かすかに俺は頷いて、五代が嬉しそうに笑うのを見た。

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