『第2章:致命傷』-2


         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 どこかでブザー音がしていた。俺の携帯だ。

(また、新たな未確認が出たのか…?)

 俺は緊張し、頭を軽く振って、一兵士に戻る。短い休暇は終わったのだろう。俺は戦場に戻る。致命傷を負った兵士にも、戦場で倒れる権利ぐらいはあるだろうから。

 俺はサイドボードから、携帯電話を取り上げた。

「はい、一条です。」

「…もしもし?…一条さん…俺です。」

 耳許の小さな機械から、思い掛けない五代の声が聞こえた。

「…五代か?どうした?」

 俺の口調はいつもどおりだった。いつもどおりだった、と思う。

「あの〜俺、これからちょっと会えませんか?
 いや、よかったら、一条さんのお宅に行っていいですか?
 あ、すみません、夜中だってわかっているんですけど。」

「…どうした、五代?」

「ちょっとお話したいことがあるんですよ…駄目ですか?」

「未確認のことか?」

「いえ、あの〜、一条さんのお宅、このへんだと思うんだけど…
 え〜と、どこかなぁ。」

(何をしているんだ?あいつは…)

 五代ののんびりした口調に苦笑しながら、俺は怒鳴った。

「五代!どこにいるんだ、今!」

「一条さん、窓開けてみてくださいよ〜。
 そしたら、俺、わかるかも…。」

 まったくもう、と呟きながら、テラスに出た。

「一条さーん、電気ついてます?つけてくださーい。」

 しかたなく、電灯をつけに戻った。

「あああ〜〜、あれかなぁ…一条さんの部屋、何階ですか?」

 またテラスに出て、下の歩道を見ると、街灯の下の電話ボックスから、五代が顔を出し、手を振っているのが見えた。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 五代に部屋番号を教えて携帯を切ると、俺は部屋の中を見回した。そして、急いで寝乱れたベッドにカバーをかけた。俺自身もパジャマ姿だったが、着替える暇はなさそうだ。

 ドアホンが鳴った。

「開いてるぞ。勝手に入れ。」

 ドアが細めに開いて、おずおずした五代の顔が覗く。俺は笑ってしまった。

「何している。入ったらどうだ。
 強引に押し掛けて来たくせに、今頃そんな顔をしても無駄だろう。」

 素直な五代の顔がぱっと明るくなる。五代は玄関に入って、後ろ手にドアを閉めた。

「すみません…俺。もう寝てたんですよね?」

「…これからな、寝ようとしていたところだ。上がれよ。」

 五代は尚もおずおずと、脱いだスニーカーを律儀に揃えてから、部屋に入って来た。

「へぇ〜〜〜。一条さんの部屋ってこんななんですねぇ。」

「何もないだろ?こんなに長く東京にいるとは思わなかったからな。」

 五代はもの珍しそうに、ワンルームの室内を見回していた。だが、俺に目を向けた時、五代の顔はさっと真剣な色に変わった。

「一条さんっ!血がついてますよ!怪我したんですか?!」

(!…しまった…!)

 俺は血がついているだろう額のあたりを、とっさに隠そうとした。

「あっ!手も!」

 五代が駆け寄って来て、俺の手を取った。

「ああ…たいしたことはないんだ。さっきグラスを割ってしまって。
 指をちょっと切っただけだ。もう血は止まっているから…」

「駄目ですよ!ちゃんと治療しないと!
 ばい菌が入るかもしれないし、ガラスのかけらが残っているかも。
 とにかく洗わなくっちゃ、消毒液ありますか?」

 五代は俺の手を引いて、さっき眺めていたキッチンに引きずりこんだ。

「おいおい…。」

「手、出してください。」

 シンクの中に割れたままになっているグラスを手早く片付け、あきれる俺の手を脇に抱え込み、五代は真剣に流水で俺の掌の血汚れを流し始める。五代の指が、慎重に傷を探っていた。指先が、血の跡を丁寧にこすって落としていく。
 俺は、その感触に、ぞくりとした。すぐ近くにいる五代の匂いが、ふいに強くなる。

「…怪我なんて、しょっちゅうしているじゃないか。
 このくらいのかすり傷で…おい、五代、もういいから。」

 俺はいくらか本気になって、手を引こうとしたが、五代は腕を締めつけて離してくれない。部屋の温度が上がったか、少し熱い、と俺は思う。

「駄目ですってば、一条さん。
 ほんとに自分のことは何もかまわないんだから…。」

 五代はそれっきり黙って俺の傷を洗い、丁寧にぬぐってくれた。俺はなんとなくぼんやりして、五代のするままに任せていた。
 五代が俺の手を捧げるように持ったまま振り向いた。

「さ、手はこれであとは消毒すればいいですけど…
 顔は、怪我したんじゃないですね?じゃあ…」

 五代が自然な動作で、伸び上がった。俺の額に、濡れて暖かな感触があった。舐められた、とわかったのは、たっぷり一秒ぐらい経ってからだ。

「な…っ!」

 俺は手をもぎ離して後ろに下がろうとしたが、キッチンの壁にぶつかった。おまけに五代は手を解放してはくれなかった。
 動顛している俺を見て、五代は、静かに笑っていた。

「…すみません。つい…。
 じゃあ、タオルで拭きましょうね。
 綺麗な顔が台無しですよ、一条さん…。」

(ついって…おい…それに…)

 この男は一体何をしゃべっているのか。五代は落ち着いて、楽し気だった。それでいて、強引だった。こんな五代は見たことがなかった。俺は、タオルを絞る五代の横顔を盗み見た。

(…五代だ…五代が俺の部屋にいる…)

 少しどきどきしている、と思う。さっきまで冷たかった俺の身体に、いつの間にか暖かい血が流れていた。氷のようだった足先もほっかりしている。いきなり五代が来て、いきなり太陽の光も俺を照らしていた。五代が太陽だった。俺は日溜まりのぬくもりに休らっていた。
 だから、この男にはかなわない。

 五代は他人の部屋で、くるくると動き回った。俺をローテーブルの前に座らせると、いつ買ったかも忘れた救急箱を探し出し、俺の指を丁寧に消毒し、器用に包帯を巻いた。それから、忙しくキッチンに走り込んで、今は湯を沸かし始めたらしい。

「一条さん!コーヒー!コーヒーどこです?」

 俺はもう、五代の好きなようにさせておいた。止めても無駄だろう。それに、五代が俺の部屋の中を動き回っているのを見ているのは、とても楽しかった。俺はいつしか微笑んでいた。

「さぁ、な。買い置きがあったかどうか…。
 俺が探そう。」

 と、立上がりかけると、五代がすっ飛んで来る。

「駄目ですよー、一条さんは座っていてください。」

「おい、ここは俺の部屋だぞ。」

「一条さんは怪我してますから。
 また指を濡らしたりしたら、俺怒りますよー。」

 五代は俺をまた座らせてしまい、キッチンに飛んで帰る。

「ああっお湯沸いちゃった。お茶はあったんだけどなぁ…
 一条さーん、お茶でもいいですかー?」

「…五代、何か飲みたいなら、冷蔵庫に確かビールもあったぞ。」

「駄目です、冷たいものは…とにかく温かい飲み物がいいんですよ。」

 春の宵にしては今夜は冷えているから。俺の家を探して、五代は凍えてしまったのだろう、と俺は思う。

 それから俺は、なんとなくしみじみ幸せで、五代が茶を煎れてくれるのを大人しく待っていた。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 こんなふうに、人を癒す男を、俺は知らない。五代には気取りもなく、てらいもなく、見栄もなかった。自由で気ままでありながら、ごく自然に優しかった。五代の笑顔は無造作ににじみ出て、人を照らした。五代と居ると、人はいつしか、自分が微笑んでいるのに気付く。身動きできない不安が、歩き出す勇気に変わる。己の中に、なくした希望をまた見つけだす。五代は一種の天才であり、達人だった。

(俺とは、まるで正反対だ…)

 五代が煎れてくれた茶をすすりながら、俺は思う。コーヒー用のカップに入った茶は、俺の身体をさらに暖めた。
 俺は…たぶん、氷のような男なのだろう。誰とも打ち解けず、誰とも交わらず、誰も俺には近寄らない。それで寂しいとは思ったこともない。俺は不器用な男なのだから、これでいい、と思う。黙ってやるべきことをやる。それが俺には似合っていると思う。

「五代…どうして俺の家の場所を知っていたんだ?」

「あれ?いつか一条さんが教えてくれたじゃないですかー?」

 俺には覚えがない。五代はまめまめしく、おそらく椿にでも尋ね、なんとかして聴き出したのだろう。追求する気はなかった。俺は、五代が来てくれて、嬉しかった。

「よかった…。一条さん、少し顔色がよくなりましたね…?」

 五代が俺を見て首を傾げ、嬉しそうに笑う。
 もしかしたらこの暖かい飲み物は、俺の為、だったのかもしれない…。俺はふとそう思った。
 俺が氷なのだとしても…氷にとってさえ、太陽は暖かい。今だけ、もう少しだけ、この男のそばで暖まっていたい、と俺も笑った。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 奇妙な沈黙に目を上げると、五代が俺を見ていた。
 五代は、もう微笑んではいなかった。

(五代…?)

「ところで、何の用だったんだ?
 まさか、俺に包帯を巻きに来てくれたのか?」

 珍しく、俺からふざけてみたつもりだったが。
 五代の笑顔は戻らなかった。五代は少し悲しいような顔で、俺を見ていた。

「夜中に…悪いとは思ったんですけど…
 俺、なんだか心配になっちゃって…」

「一条さんが…俺を呼んでいるような気がして…
 いや、そんなこと、ある筈ないんですけど…」

「今日、31号を探して…戻って来たら、一条さんが倒れていました。
 俺、一条さんが気を失っている間、ずっと顔を見ていたんです…」

(ずっと?…俺は…寝言でも言ったのだろうか…?)

「バラのタトゥの女にやられて、な。不覚だったさ。
 それで…?俺はいびきでもかいていたか?」

 俺は、苦笑しながら言った。五代は静かに首を振った。

「いえ…死んだように静かだったんです。それで、俺…。
 一条さん…なんだか痩せましたね…?」

 五代は、俺のへたな横車には乗って来ようとしない。俺は追い詰められたような気分になってきた。五代は何を言おうとしているのだろう…?

「俺の勘、なんですけど…間違いだったらいいんですけど…
 でも、どう考えても、間違いじゃないと思うんです。」

(五代……?!)

「一条さん、なにか…あったんですか?
 最近…なにか…一条さんは変だ…無茶ばっかりするし…」

「…な…にも変わりはしないさ。」

 五代が俺を見つめて首を振る。怖いように真剣な表情だった。

「いつも…なんだか…思いつめたようで…
 真っ先に飛び出して…今日みたいに危ないことして…」

「いつからだろうって、俺、考えたんです…
 そうだ、確か26号に俺がやられちゃって…その後…」

「やめろっ!!」

 俺は思わず怒鳴ってしまった。あのことは聞きたくない、あのことは思い出したくない、五代、言うな。それ以上言うな…。
 俺を見つめる五代の顔に、突然さっきの夢の五代が一瞬重なった。投げ出され、タンクローリーの下に吸い込まれていく五代の身体…。

(だめだ。いけない。思い出すな。)

 五代が俺を見つめている。少し眉を曇らせて、いつもの笑顔は影もなく。
 五代がひとつ息を吐き、また大きく息を吸う。
 軽く握られていた五代の指が、少し握り込まれる。
 五代は暖かく息づき、俺の前で確かに生きている。

 この命を…明日にも、俺はまた前線に連れ出す。
 敵を倒す力が、この俺にはないから。
 五代こそが俺の切り札…最強のカードだから。
 俺は、差し出す。五代を、あの怪物どもの前に。
 そして…五代は明日にも、また…死ぬ。
 この暖かい身体と心が、寂しく冷える。
 五代を殺すのは…この俺だ。

 地獄だった。

 俺はカップをテーブルに置き、震え始めた手をテーブルの下に隠した。

「…なんでもないさ。たぶん、ちょっと疲れているんだろう。
 もう…寝たいんだ。五代、帰ってくれないか?」

 俺は顔を背けながら言った。さっきまで感じていた暖かさに冷気が忍び込んでいる。空気が僅かに濃く、重くなっている。

(お願いだ、五代、帰ってくれ…)

「嘘…だ。」

 それなのに、残酷な俺の太陽は言うのだった。

「じゃあ…一条さん?俺の顔見て、俺の目を見て、言ってくださいよ。
 『大丈夫。なんでもない』って。」

 俺は五代の目を見た。五代の目はとても哀しそうだった。
 笑ってくれ、五代。おまえのそんな顔は嫌だ。
 笑ってくれ、五代。誰がおまえにそんな顔をさせるんだ。
 笑ってくれ、五代。俺はおまえにちゃんと言うから。

「…大丈夫。なんでもないさ。」

 と、俺は言った。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

 俺はちゃんと合い言葉を言ったのに。
 五代は笑ってくれず、一層悲しそうな顔になってしまった。

「一条さん…心配もさせてもらないんですか…?」

 うつむいた五代が、小さな声で言った。

「…いや、心配するようなことはない、と言ったんだ。」

 俺は笑って言う。

「さぁ、五代、帰れよ。もう遅いから。
 いつまた呼び出すか、わからんからな。
 お互い、よく寝ておかないと。」

(死地に、呼び出すんだ。おまえだけを闘わせるために…)

 何か、胸が詰まるような気がした。世界がぐらり、と傾き、廻り始めるような気がしたが、俺は笑って言えた、と思う。

「帰ります…」

 五代は、うつむいたまま立上がった。

「ああ、そのまま帰ってくれ。  後で鍵を閉めておくから。」

 俺は、なんだか立ち上がれる気がしなかったので、座ったままそう言って、五代に手を振った。

「…おやすみなさい」

 五代は、小さな声で言うと、出て行った。玄関が閉まる音が聞こえた。
 俺は前に倒れ、ローテーブルに額をつけた。部屋が揺れながら廻っていた。お馴染みの息苦しさも始まっていた。
 ハロー、マイフレンド…と俺は笑った。

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