〜EPISODE47【決意】より〜 その1
「イテ…」
「どうした?」
「いえ…。あー、一条さんの爪で…」
ベッドの上で全裸になった二人は、今から愛を交歓するところだった。
が、雄介が一条の上から起き上がって、自分の踝の内側付近を見ている。
一条も上体を起こし、同じ所を見た。
雄介の踝の、出っ張って皮膚の一番薄い部分が、一条の足の爪で引っ掻かれて傷を負っていた。
二人が見ている間に、その小さな傷は塞がって、跡形も無くなってしまった。
「…すまん。ここのところ、爪を切ってなかった」
「切ってあげます」
怪我がその瞬間に塞がる超現象を目の当たりにしていながら、二人とも最早、不思議には感じていなかった。
しかし、肉の欲望は、萎んでしまった。
気分を変えるようにベッドから跳ね起きた雄介は、勝手知ったる一条の部屋で、爪切りを奇術紛いに出して戻ってきた。ゴミ箱を片手に持っているところを見ると、ベッドの上で今から切るつもりなのだろう。
「いま切るのか?」
「はい。オレにやらせてくださいね〜」
「…大丈夫なのか?」
「一条さんより器用ですって」
そう言って、いそいそと、一条の足を、胡座に組んだ自分の太ももの上に乗せた。
「夜、爪を切ると親の死に目に遭えないって…」
体勢を整えながら、雄介がボソボソと言った。
「でも、オレの親は二人ともいないし…。切ってるのって一条さんの爪だから…」
「ただの迷信だろう」
「気になりませんか?」
「気にしないさ」
「…オレ達二人のことだったら…お互いが離れなければ、死なないってことですよね、ずっと…」
一条の返事は不要というように、雄介は爪を切り出した。
パチッパチッと小気味良い音が部屋に響いた。
その平和を象徴するような、何気ない日常の音でさえも、もの悲しく聞こえてしまうのは何故だろう。
◇◆◇
十週間前、『知ってる同士の普通の時間』な会議の席上、「アマダムはあくまで使う人の意思を受けて色んな力を出す」ことから、「雄介さえ良心を喪わなければ、究極の闇を齎す者にはならない」という希望と結論が出た。
碑文は、『聖なる泉 涸れ果てし時 凄まじき戦士 雷の如く出で 太陽は 闇に葬られん』と語っていた。
『凄まじき戦士』とは『究極の闇を齎す者』と同義。古代リント族の世界では、戦士という言葉すらなかったのだ。『聖なる泉』が雄介にある限り、グロンギ族と同列には並ばない。
それは希望であると同時に、雄介に過大な期待と責任が寄せられることにもなった。雄介ひとりが背負う重責…、雄介ひとりにしか担えない責務だった。
◇◆◇
また、ちょうど一ヶ月前、雄介は再び死んだ。一条はその事実を知らされていなかった。
未確認生命体第四六号は黒い金のクウガで仕留められ、それが新たに備わった力であると察した一条が、椿に探りを入れて、その事実を知るに至ったのだ。
それと一条が確かめたのは、第四六号が倒されてから二週間ほど経ってからだった。暫らくは椿に電話を掛ける勇気が持てなかったのだ。
「ああ、おまえの言う通り、五代はまた死んだんだ」と、事も無げに言われたら、自分は簡単に壊れてしまうのではないか…との危惧が、一条にはあった。
「まいった…な」
電話の向こうの椿は、初めこそのらりくらりで白を切っていたが、一条の粘りにとうとう根負けした。
「…五代には口止めされてたんだか…。あいつ、…心停止させやがったんだよ…。沢渡さんもその場にいて、相当に吃驚していた。…しかし、彼女だって五代の望みを叶えてやってくれって頼みに来てたんだ。もっと強くなれる力を与えて欲しいってな」
「沢渡さんが?」
「ああ。「みんなの笑顔が見たいから、ただ自分の出来るだけの無理をしてる。ただそれだけだよ」…と、五代が言ってたって…な」
「……そう…か…」
「四六号は、おまえも殺そうとしていたんだろう? 危ないところだったんじゃないのか?」
「…ああ、寸でのところで……助けられた…」
「新しい力が早速役に立ったって訳だ」
「……」
「一条、…悩むな、これ以上。おまえが迷えば、アイツだってつらいぞ」
「……」
「薫」
「……」
一条は一方的に電話を切った。胸が苦しかった。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息苦しさに喘いだ。
一条は、受話器をフックに戻した姿勢のまま、その日のことを思い返していた。
前の晩、雄介は一条の部屋に来て、泊まっていた。濃密な時間を夜じゅう共有し、満ち足りた気分で朝を迎えた。
それから、二人でジョギングをした。山での遭難未遂を教訓として始めた習慣だった。
第〇号について、走りながら戦い方を話し合った。確かに雄介はその時、「もっともっと強くなりたいと思ってるんです。ヤツには究極の力を出さないと勝てそうにない気がして…」と言っていた。
警視庁では松倉本部長に雄介を紹介し、会議はムードメイカーの雄介のおかげで和やかに進み、警察機構とクウガとの連携の軸が更に太くなった。
その会議が終わって、二人は別行動をとったのだ。雄介は、桜子のもとに行くと言っていた。
そこで雄介は桜子に相談を持ち掛けたのかもしれない。金の力について、もっと強くなる術が碑文に書かれていないか、確かめに行ったのかもしれない。
椿から聞いたことと総てが符合する。疲弊し切った一条の神経が、逆撫でされた。
(俺には言えなかったのか? 言う間もなかったのか?)
このモヤモヤは嫉妬だろうか…と、一条は訝った。
新しい力を得ようと、心臓を止めてしまった雄介。結果的に桜子と雄介の望みを叶えてやった椿。
(俺は…? 俺は何をしてやれる?)
(……その時が来たら、……殺して……)
雄介の声が甦った。
ハッとして顔を上げた。
途端に耐え難い苦痛が一条を襲った。
(俺はあいつにとって、…死神でしかないのかッ)
わなわなと唇が震えた。その感情の奔流を圧し留めようと、下唇をきつく噛み、次いで、奥歯を噛み締めた。しかし、その努力も甲斐がなかった。込み上がる嗚咽を堪えることが出来なくなり、一条は我を忘れて泣き崩れた。
(イヤだッ 出来るわけがないッ 出来るわけないじゃないかッ そんなことになるくらいなら、俺を先に殺してくれッ イヤだ、見たくないッ 生きていたくないッ そんなことしてまで、あいつのいない世界を守りたくない!)
一条は、改めて世界を呪った。自分と雄介の運命を憐れんだ。悲痛な絶望に飲み込まれた。
「ううぅ…。五代…。五代……」
涙が涸れるまで、一条はベッド脇のサイドテーブルに突っ伏していた。
◇◆◇
泣き疲れて放心状態だった一条は、背後に迫った人の気配に、瞬間、身を竦ませた。
「どうしたんです、一条さん?」
「……ごだ…い」
ゆっくりと振り仰いだ一条の、泣き腫らした顔を見て、雄介はギョッとなった。
「どどどうしたんですか!? 何があったんですか!?」
一条の背後に座り込み、肩を抱いた。
受話器を握り締めたままの一条の指をそっと剥がし、体の向きを自分のほうに返した。
抱え上げるようにして一条をベッドに座らせ、その膝もとに雄介は傅いた。
「一条さん、ひとりで泣いていたんですか?」
手を伸ばし、ざんばらに垂れた一条の髪を後ろに撫ぜ付けながら、雄介は殊更優しく一条に問うた。
「良かった、今日も来てみて…。何だか、…呼ばれたような気がしたんです…」
正月を祝う気にもなれなかった二人は、年が明けたこの数日の間も、何か重苦しいものを引き摺ったまま、時がただ過ぎていくのを傍観しているような感じだった。
「オレの手、冷たくないですか?」
茫然自失とした体の一条の頬に、雄介は髪を梳いていた手を当てた。
「一緒に風呂入りましょうか」
雄介が静かに立ち上がると、その腰もとに一条は倒れ込むようにして抱きついた。
「一条さん…?」
「……」
「…オレのこと、呼んでくれたでしょ」
「……」
「届きましたよ、一条さんの声」
「…ご…だい…」
「はい。ちゃんと来ました。…ね? ここにいます」
「…五代…!」
雄介は一条を振り解くと、少し乱暴にベッドに押し倒した。
「オレを確かめて、一条さんのカラダで」
雄介の乱れかかった息遣いが熱い。体を弄られるまでもなく、一条は瞬時に火がついた。
「今日はもっと奥まで入っちゃいますよ…。覚悟して、一条さん」
言葉で煽られ、一条は仰け反って喘いだ。衣服を剥ぎ取られるように、一条の理性も削ぎ落とされていった。
夏から秋へと季節が巡る頃、クウガもグロンギも同じ種との仮説が立った時、だが雄介は「大丈夫!」と笑顔で請け合った。「そうと判ったんだから、オレもう絶対そうなりませんから!」とサムズアップを決めた。
それ以来、雄介の獣性は鳴りを潜めていた。一条を抱く時も、壊れ物を扱うようだった。
究極の闇を齎す『凄まじき戦士』の亡霊に捕り憑かれて我を忘れ、箱根では一条を慾する侭にレイプしてしまった雄介だった。その消せない事実と記憶は、雄介を恐れ戦かせ苦しめただろうし、セックス以外の多くのことにまで影響を及ぼしたに違いない。
だが、殊プライヴェートなセックスに関して言えば、優しく接されること自体に不満はなかったが、そこに雄介の遠慮を見るようで、一条は微かな苛立ちを感じていた。
だから、その日のセックスは、久々に否が応でも燃え上がった。二人ともが、矯め込んでいた劣情を発散し尽くすような、激しい交合となった。
あの箱根での五日間を経て、雄介は、自分の弱さや脆さを識った。一条に救われた。その一条は、無条件で雄介を赦す自分が怖いと言った。そして、同じ口で、在るか無しかの未来を誓わせた。
(今度はオレが一条さんを支える番が来たんだ)
一条が疲れ果てていることを、雄介は誰よりも深く理解していた。
二度目の電気ショックを施してもらった時、雄介の去り際、椿が漏らした。
「わかってるだろうが、あいつは素直じゃないんだ。おまえが…一条と別れられる日が一日でも早く来ればいいと思ってる…なんて強がりを言うんだ。…いや、あいつの本音なのかもしれないな。…おまえには気ままな冒険が一番似合ってるんだと。夢みて寝言で「五代、行くな」なんて言うやつが…」
それは一条が薔薇女に襲撃され、全治三週間と診断された時のことだった。強烈な酸を操って全てを溶かす怪人と闘いつつあった九月の終わり頃の話だった。
第四六号を斃した日も、一条は二度も命を落としかけていた。雄介が危ういところで駆け付けた時は、二度目の時だったらしい。その日、雄介が初戦で第四六号に敗北を喫していた正に同じ時、一条はコンドル種怪人第四七号に襲われていたそうだ。
そのことは、後になって杉田から聞いた。「喜んでくれ! 君の力を借りずに、一匹始末したんだ!」と、ビートチェイサーの無線から、杉田の自信に溢れた声が響いた。
「俺と桜井で仕留めたヤツは、一条を工場の塔の上から突き落とそうとしたんだ。いやぁー、流石の一条も、もう……、あ、いや……」
苦労の末、科警研が開発に成功した神経断裂弾のみで、初めて未確認生命体を滅ぼした興奮が、未だ冷め遣らない内だったのであろう。杉田は慌てて口を噤んだが、本当に間一髪だったことは、雄介にわかってしまった。
(一条さんが約束してくれって言ったんですからね。思い出してもらいますよ…!)
雄介は一段と深く抉るように腰を動かし、一条を啼かせた。
もう、何度達したか、一条にはわからなくなっていた。
ついに、いつものうわ言が一条の口から出た。
「こ…わし…て…くれ……ぜ…ん…ぶ……あぁ…」
堕ちる直前になると、こう苦し気に呻いて涙を流すのだ。そして陥落して失神する。至福の表情の中で…。
「一条さん! まだダメですよっ まだ…!」
絞るような収斂が一際きつくなった。が、雄介は堪えた。堪えるために、一条の温もりの中から素早く昂ぶりを抜いた。
「ああ! ダメだッ」
一条が目を瞠り、慌てて脚を絡めてきた。両腕を伸ばして来て、必死で雄介を引き寄せた。
「五代! ひどいッ」
雄介の二の腕に爪を立て、潤んだ瞳で、一条は逐情を許してくれない雄介を責めた。
「ひどいのは一条さんも…でしょ? お互い様だと思うけどな〜」
「何…を…」
腰を擦り付けるように悶えている一条を態と冷たく突き放し、雄介は余裕の表情で一条の媚態を眺めていた。
「さっき…どうして泣いてたんですか?」
「…何で、それが、…ひどいんだ」
普通に喋ろうとする一条だったが、どうしても鼻に抜けてしまい、声に余計な艶が出た。
「泣いてた理由を教えてくれないのがひどいんですよ。……電話で、誰と何をお喋りしたんですか?」
「…!」
雄介の怒張が、一条の後蕾をいやらしく擽った。
「これでも…言えませんか?」
怒張の先端を宛がい、少し埋めて再び退いた。
「ああぁ…んッ」
一条の腰が、腹筋の限りを尽くして、雄介の逃げる腰に、はしたなしくついて来た。
「言うまであげません。お預けです」
「うう…ぅ」
完全に雄介の腰は捩られ、一条は諦めざるを得なかった。今度は頭を上げ、雄介の肩口に恨みがましく歯を立てた。
しかし、雄介は全く動じなかった。それどころか、「…ひとりで、しちゃおうかな〜」と嘯き、一条を焦らせた。
「ダメだ…、ごだ…い、お…ねがい…だ」
「んじゃ、吐きます?」
再び、雄介は挿入の構えを見せた。一条は期待から、瞳を淫猥に輝かせた。
「…椿だ。…椿から…聞き出した。…おまえが…心停止したこと…」
「ああ、…あれ…」
(やはり、そうか。隠せなかった、か…。…椿さ〜ん、…困るよぉ…)
雄介の表情が俄かに曇った。一条の気持ちの展開が読めた気がしたのだ。
「言った…から……意地悪…しないで……もうッ」
「……」
雄介は自分の強張りを緩く扱いた。乾いてしまった触角に、自分の唾を塗り広げた。誘うようにひくついている一条の暗がりに焦点を定めて、雄介は一気に挿した。
「はうぅ…!」
一条の目蓋が震え、黒目が裏返った。雄介はそれを見ながら破廉恥に腰を蠢かし、一条はそれに呼応するようにあらん限りの痴態を演じ、二人は同時に頂点を極めた。獣ですら斯くもは…といった乱れ振りだった。
◇◆◇
その翌日、一条は有休を取った。下半身の痺れにも似た鈍痛が抜けず、また泣き過ぎて寝た顔は、見事に目蓋を腫らしていた。
「蛙みたいになってますよ、一条さんの綺麗な顔が」
昨晩の悪魔饗宴じみた狂態など微塵も感じさせず、雄介が人懐っこい笑顔で屈託なく一条に話しかけた。
「…人間に戻す魔法の呪文は、おまえが知ってるのか?」
氷をビニール袋に入れて簡易氷嚢を作ってくれた雄介に、思わず憎まれ口を利く一条だった。
「う〜ん…」
出鱈目な呪文を巫山戯た顔で唱え始めた雄介に、(そっちがその気なら…)と反発を覚えた一条は、無視を決め込んだ。
実際、雄介には怒りを感じていた。
(あんな…恥かしい聞き出し方があるかッ)
うろ覚えではあるが、一条の脳裏に甦ってくる昨晩の切れ切れの記憶は、どれひとつ採っても赤面してしまうものばかりだった。
(五代のバカ!)
上掛けの布団を頭から被り不貞寝を始める一条に、(ありゃりゃ、やりすぎちゃったか〜)と少しばかり後悔した雄介だったが、話の矛先が早々と電気ショックの追求に至らずに済み、心ならず安堵した。
「一条さん、オレちょっと買い物に行って来ますね〜。何か食べたいもの、ありますか? 今晩は、鍋にしようと思うんですけど。白菜が美味しい季節だしー」
案の定、一条からの返答はなかった。小さく笑って、雄介は頓着なく出掛けようとした。
それもまた一条の気に障った。
(俺が心配で来たんじゃないのか!? 抱いて気が済んだのか!?)
素直に「話がある」と切り出せば善かろうに、拗ねた一条は強情で、且つ、子どもだった。いつものスーパー刑事振りからは、全く想像がつかない一面だった。
着々と身支度する気配の雄介にジリジリしながら、それでも未だ一条は布団を押し被ったままだった。
ついに、雄介が本当に出掛けてしまった。静寂が部屋を包み、回転するドラムの乾燥機の音が微かにした。
途端に意気消沈した一条は、(早く戻って来いよ)と、すぐに里心を出した。
気がつけば、微睡んでいた。雄介がキッチンで料理をしている音を聞きつけ、目が覚めた。
(いつ戻ってきたんだ…? 今何時だろう…。ただいまぐらい言いに来ればいいのに…)
雄介は帰って来てすぐに「ただいま」を言いに来た。来てキスまでしたのだが、一条がぐっすり眠っていて気付かなかったのである。
排泄と空腹を満たしたくなり、一条は不機嫌なまま布団から出た。
その気配を感じ取って、雄介がパタパタとやってきた。
「一条さん、おなか空いたでしょう。軽く何か作りますねー」
トイレから出て来ると、旨そうなバターとベーコンの焦げる匂いが一条を迎えた。
「おー、グッドタイミングですよ〜」
食卓には、定番の洋風モーニングセットが並んでいた。雄介がくるりと振り返り、端がこんがり焼けたベーコンエッグの皿を追加した。
一条が吸い寄せられるように着席すると、ニコニコ顔の雄介が向かい側の椅子に座った。
「さぁ、空腹だと碌な考えしませんからね。先ずは食べてください」
「……」
ゆっくりとした動作で箸を取った一条は、しかし、一口目を咀嚼した段階で、食べることに集中した。
しかし、コーンのカップスープでは危うく舌を火傷しそうになり、ベーコンエッグでは、ベーコンを切り損ない、皿から飛ばしてしまった。
その度に上目遣いで雄介を睨むが、相変わらず穏やかに微笑んでいるだけなので、次第に一条は居たたまれなくなってしまった。
「じろじろ見るな」
「あ、じゃあ、夕飯の下拵えの続き、やりますね。お尻向けて、ごめんなさいだけど」
八つ当たりのつもりだったのに、突っかかることもしない雄介だった。
拍子抜けした一条だったが、今度は丁寧に食事することが出来た。
次々と皿を空にしてしまう頃には、苛立ちも鎮まっていた。箸を置いて顔を上げ、雄介の逆三角形の背中や、時々垣間見える端正な横顔を、一条は頬杖ついて、ぼんやり眺めた。
「よっし」
俎板をラックに戻し、手をエプロンで拭きつつ、雄介が振り返った。
「一条さん、コーヒーのお替わりは?」
「ああ、もらうよ」
完全に虚を突かれて、一条は普通に返事した。「あっ」と思ったが、もう遅かった。今さら不機嫌を装うのも馬鹿らしかった。フッと自嘲気味に微笑んで、椅子の背もたれに、大きく凭れた。
その一条の反応に、爽やかだった雄介の笑顔が大きく破顔した。
「やっぱりおなか一杯になると、リラックスしますよね〜」
マグカップにインスタントコーヒーの粉末をスプーンで掬い入れ、やかんから熱湯を注ぎ入れる雄介は、作っているのはインスタントなのにも係わらず、コーヒー専門店の若い看板マスターの風貌だった。
「なぁ、五代…」
「はい?」
「一緒に暮らさないか…?」
「…!」
雄介は動揺して、手にしたマグカップを傾けた。熱い液体が雄介の手に流れた。
「アツッ!」
「バカッ! すぐ冷やせ!」
一条は飛ぶように雄介の傍らに駆け寄った。
雄介の火傷したほうの手を強引に蛇口の下に持って行き、勢いよく出した水に晒した。
「…痛むか…?」
「……いえ…、もう、大丈夫です」
「そんなわけないだろう!」
ほんの三〇秒ほどしか経っていなかった。しかし、雄介の言う通り、赤かった皮膚は、もう普通の肌色に戻っていた。
「…オレ…、怪我…しなくなっちゃったようで…。って言うか、治り方が…半端じゃなく速くなってて……」
雄介が空いた方の手でゆっくり蛇口を捻って、水を止めた。
水を弾いた雄介の手の甲は、元通りだった。
一条は唖然として、いつまでも雄介の手首を掴んだまま、凝視していた。
「……時々なんですけど……アマダムに…感覚を…制御されてる…ような感じにも…なるんです」
「…制御…」
ぼんやりと呟いて、ゆっくりと雄介の顔に目をやった。
「オレは、最期の使命を果たすまで、きっと、アマダムに支配されることになったんだと思います」
「…さ…いごの…しめ…い」
「第〇号を斃すまで」
「…! ……じゃ…あ…、…心…臓を…停めたのも…」
「はい。もっと強くなりたいと願ってたから、アマダムが察したんだと思います」
「…いつ…から…」
アマダムの支配を感じるようになったのは…という意だろうと汲み取った雄介は、苦い顔で俯きながら言った。
「……箱根…です…」
それ以前、闘いの後に一条の部屋を訪れなくなったこととも関連があるのか、一条は畳みかけて訊きたかったが、喉が張り付いたようになって言葉が接げなかった。
ショックを受けている一条の肩を押して、椅子に座らせた。
冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してくると、雄介はシンクに伏せてあったグラスに注いで一条に渡した。
「段々、その時が近付いて来ているような予感がしてるんです」
「!!」
雄介がテーブルの向かい側にあった椅子を、一条の横に持ってきた。
腰を下ろすと、そのまま沈黙した。長いこと、二人とも黙ったままだった。
「いつ頃だったかな…。ああ、椿さんが言ってる戦うためだけの生物兵器って、こういう感覚なのかな〜って思ったのは…」
冬の日暮れは早い。カーテンを開けたままのサッシの向こうから、西陽が低く入って来ていた。
キッチンの明かりを点け、カーテンを閉めに立った雄介は、歩き回りながら喋り出した。
「ひょっとすると、すごく早い段階から、オレは支配を受けてたのかもしれません。気付かなかっただけ。いや、ホントどこからどこまでがオレだけの意志で動いてるって、確証はないですからね…。その気になれば、あの姿になって闘っちゃってる。無意識の内に、滅ぼすことだけを考えてる。で、ヤツ等が爆発しちゃうと変身が解ける…。最初っから不思議ですもんね」
雄介は饒舌だった。一条に打ち明ける日を想定していたようだ。
椅子に戻って来た雄介は、今度は背もたれを前にし、跨ぐようにして座った。
「オレ、相当恰好良いこと言ってました。みんなの笑顔が見たいからって。自分にできる無理をしてるだけって。…オレがクウガになっちゃったんだから、もう、怖いなんて言ってられなかった。もう…おなかの石を取り出すことは不可能だって椿さんに言われて、…辞めるなんて言えなかった。……だから、受け入れることにしたんです。本当に恰好良く闘おうって……。誰にどう思われようと、…これがオレの生き方だから…」
一条は、テーブルの上で、両手をしっかり組み合わせ、目を瞑って聴いていた。
「…一条さんと心が通じ合って、オレ舞い上がりました。クウガになって好いことがあったとするなら、…一条さんと出会えたこと。こんなに深く愛し合えたこと」
雄介はそっと手を伸ばして、テーブルの上の、一条の手に重ねた。
一条は微かに頷いた。そのまま顔を伏せた。
「…もう、オレには、あんまり…時間が…残っていないようです。…だから、…本当は、…一条さんとずっと一緒にいたいです。……でも…」
「……辛くなるんだな…」
「……はい…」
雄介は重ねた手に力を込めた。雄介の掌の中で、一条も固く手を握り込んだのがわかった。
「…お互いに…与えすぎると…つらくなるって…愛もあるんですね……」
「……まるで…袋小路だ……」
「でも、後悔はしていないんです。…んで、希みも捨てていません」
一条は伏せたままの顔を雄介のほうに振った。
雄介はそんな一条の顔を覗き込むようにして続けた。
「オレは、一条さんと離れられない。でも、連れて行くことはできない。じゃあ、オレが踏ん張って残るしかない。オレが強く望めば、アマダムはその願いを、これまで叶えてくれました。…だから、オレは願いながら闘います」
「……俺は…おまえのために、何が出来る? ……殺すこと…以外で…だ」
心細げに見つめる一条に、寂しい微笑みを返しながら雄介は言った。
「酷なことをお願いするようですけど、でも…、これは外せないから…」
一条の頬に恭しく手を添え、ゆっくりと続けた。
「オレの特別大好きな一条さんには、いつも、とびっきりの笑顔でいて欲しいんです。…オレの大好きな…笑顔で…いてください。……オレ、ずっと一条さんの凡てを見つめていたいです。…でも、…死に顔だけは、…ご勘弁……」
一条の頬に置かれた雄介の手に、今度は一条が手を重ねた。
「俺の願いも、おまえと一緒だとは思わないのか…?」
「わかってます。…だから、祈ってます」
雄介は静かに一条へ口付けた。お互いの柔らかい口唇が、言葉以上のものを伝え合った。
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