〜EPISODE35【愛憎】より〜 その2

     ◇◆◇

 警視庁では、杉田が顔を曇らせていた。箱根に行った筈の一条から連絡が来ないばかりか、分署に電話してみると、一条は姿を見せていないらしいことがわかったからだ。
 パトカーの無線にも出ないし、携帯電話も「電源が入っていないか電波の届かない所にいるか」の決り文句が繰り返されるだけだった。
 しかし、ここで自分が騒ぎ出せば、却って面倒なことになるのでは…と危ぶんでいた。
 新たな未確認生命体が出現しない限り、一条と五代のことは信じて放っておこうと思った。
 まさか、いつも冷静沈着な一条が、箱根の山中で遭難しかかっているとは、ついぞ考えが及ばなかったのだ。
 (榎田には言っておこうか…)
 杉田は科警研の榎田に電話した。経緯を話すと、「じゃあ、折りを見て一条君の携帯を鳴らしてみます」と言ってくれた。
 (これでヨシ)
 杉田は一条の欠勤届を作成し、一昨日の事件の報告書に取りかかった。

     ◇◆◇

 一般道と呼べるほど大きくはなかったが、とりあえず轍のある道に出る頃には、一条の息はあがりきっていた。
 とっくに太陽は登り切り、残暑は容赦なく一条を照り付けていたが、人影はなかった。一条が乗り捨てたパトカーも見当たらなかった。見当違いの場所に出てしまったらしかった。
 そう言えば一昨日の事件の現場となった別荘も、ひと棟ぽつんと建っていた。
 昨日ビートチェイサーを見付けた営林所の職員は、本当にたまたまそこを通りかかったのかもしれない。
 途方に暮れた一条は、それでも、緩い坂になった道を下って行こうと思った。
 目印に石を積もうと幾つか集めたところで、崖の淵に行きついた。
 下方に目をやると、建物の屋根が見えた。
 (ああ! 助かった!)
 とにかく一条は水が飲みたかった。
 滑り落ちるように崖を下ると、建物をただひたすら目指した。
 (誰かいてくれ!)
 しかし、近付くにつれ、一条にはある確信が脹らんできた。
 (ここは…生田さんの…一昨日来た別荘だ!)
 間違いなかった。第四二号に狙われた生田和也の両親が、逃れるために避難してきた別荘だった。
 (…ということは…無人って訳だ…。確か…電話線も…切られたんだっけ…)
 絶望が一条を襲ったが、(いや、落ち付け)と、自分を叱咤した。
 ベランダの窓ガラスが割られていたので、そこから侵入した。
 真っ直ぐに台所へ行き、水道の蛇口から直接水を飲んだ。
 次に冷蔵庫を物色した。何もなかった。首を巡らすと、食卓テーブルの上に果物が盛られた大ぶりの鉢があった。林檎を手に取り齧り付いた。
 食器棚の引出しや扉を次々に開けていった。ようやく目当ての鎮痛解熱剤を見つけ出した。
 一条は大きく息を吐き出すと、震える指先で薬を取り出し、服んだ。
 落ち付く間もなく、電話機に走った。鷲掴みで受話器を上げたが、やはり無音だった。
 スラックスのポケットから携帯電話を取り出してみたが、ここでも『圏外』の表示だった。しかも、電池表示も残り僅かになっていた。
 (クソッ やはりパトカーまで行かないと……)
 気持ちは逸ったが、雄介のことが途端に心配になった。
 (五代を何とかここまで連れて来よう)
 薬が効き出せば、背負うことも出来るだろう。今度は道にも迷わないから、大丈夫だろう。
 ボロ雑巾のような服を身に纏っているが、つい先ほどとは打って変わって溌剌として見えた。
 一条は、早速もと来た道を戻り出した。

     ◇◆◇

 榎田は何度目かのリダイヤルボタンを押していた。やはり応答は「おかけになった…」だった。
 「せめて留守番電話サービスに繋いでよねー。まったく、もう」
 不服そうに頬を脹らませて、榎田は窓辺に佇んだ。窓ガラスに吹き付けるようにして降る細かい雨粒を見た。
 「どうしちゃったの、一条君。キミらしくないぞぉー」
 机の上の冷めたコーヒーをひとくち飲んだ。

     ◇◆◇

 箱根の山中でも、雨が降り出していた。雨量は大したことないのだろうが、枝葉を伝って落ちてくる雨粒は大きく、耳鳴りにも似た音が林の中を鬱蒼とさせていた。
 暑さが薄らぐのは有り難かったが、熱発している一条の体力を更に奪ってしまうことは明らかだった。
 それでも、やはり道順がわかっていると、時間短縮できる。ほとんど山登りの状態で革靴は時に精大に滑ったが、程なくして雄介のところまで戻って来れた。
 「五代、待ったか? 雨にまで降られるとは、…お互い運がないな」
 乱れた息を整えながら、雄介の唇に自分の唇を重ねた。
 一条の濡れた髪から雫が零れ、雄介の眼窩に出来ていた水たまりでポチャンと音がした。顔を少し左に傾いでいるところを見ると、鼻から侵入した水滴に、噎せたのだろうか…。
 雄介に掛けていた上着を今度は袖を通させた。夏物のスーツなので生地は薄く、既にぐっしょり濡れそぼっていたから、着せても何の足しにもならなそうに見えたが、気持ちだけでも雄介の背中を守らせた。
 「さぁ、山を降りよう。ちょっと行ったところに生田さんの別荘を見つけたんだ。本当はパトカーに戻りたかったんだが、道に迷ったみたいだ」
 一条は雄介の声と屈託のない笑い声が聞こえてくるようだった。
 「一条さん、迷子? まったく〜、しょうがないですね〜。クールな冒険野郎に成れませんよ〜?」
 「ああ、ダメだな、俺は」
 雄介を背負う体勢の体育座りに俯いて、一条は溜め息と一緒に呟いた。

     ◇◆◇

 目を開けようかどうしようか迷っていた。どうせ開けても暗いような気がしていた。
 どっちでもいいのなら、何もしないでいいじゃないか。そう思うと、それが正解のような気がした。
 何か聞えるような気がして耳を澄ませようとするが、やはり集中できなかった。
 (たゆたうって…こんな感じ?)
 暗黒の世界なのに、恐れはなかった。何もしないというのは、ものすごく楽だったのだ。
 (見なくていい。聞かなくていい。素晴らしい)
 自分の顔は笑っているだろうと思った。幸せに笑み崩れているだろう…と。

     ◇◆◇

 「もう…少し…だから…」
 弾む呼吸に声も震えて途切れる。しかし、一条は語り掛けることを止めなかった。
 背中に雄介を乗せ、落ちないように支えているだけでも、相当に疲れることだった。
 「崖を…降りる時は…ちょっと…勘弁して…くれよ。…転がすから、…おまえを」
 「転がすー? オレ、落とされるんですかー?」
 「嫌なら…起きろッ もうすぐだ…ぞ…五代」
 「どのくらい高いんだろう。怖いなぁ。痛そうだなぁ。風呂に入る時、沁みますよねー」
 「だから…起きろッ …目を醒ま…して…自分で…歩けッ」
 一条の頭の中では会話が成り立っていた。
 少しでも気を抜くと、視野が狭まる。朦朧となる。雄介が落ちそうになる。
 だから、ずっと声に出して話し掛けていた。
 気を確かに保っているためだったが、側から見れば、充分におかしい行為だった。

 俄雨だったらしく、夕方には晴れ上がった。夕暮れの林の中で、思い出したように蝉が鳴き出した。
 濡れて張り付いた衣服が気持ち悪かった。特に革靴の中でぐしゅぐしゅ立てる音は最悪だった。
 滑らないように踏ん張りながら歩いていたので、膝が悲鳴を上げていた。でも、もうすぐゴールだった。
 「さあ、覚悟はいいか、五代雄介。落ちるぞ、一緒に」
 崖淵に座り込んだ一条は、雄介から上着を返してもらい、自分の腹の上で仰向けにした雄介をしっかり抱き締めた。脚の間に雄介の下半身を挟み、尻でにじって前に出た。
 目の前にあった大きな夕陽が、一瞬でぶれた。
 上背のある大人二人分の重量は、加速も衝撃も半端じゃなかった。雄介の下敷きになった一条の背中は、上着が捲れワイシャツが裂け、血痕が広がっていった。
 しばらくは痛みで呼吸も困難だったが、移動しなければならなかった。
 一条は体勢を整え、雄介を再び背負った。我知らず、甲高い悲鳴を放った。だが、構いはしなかった。
 「心配じゃ…ないのか、…五代。俺は…どうやら…怪我を…している…らしいぞ。…熱も…高そうだ…。看病…したいんじゃ…ないのか…?」
 ベランダに登る階段が目前に迫り、一条は安堵した。
 「到着…だぞ、…五代」
 部屋の中に入り、ソファーに雄介をそっと降ろした。
 すぐにでも裸になって横たわりたかったが、気を取り直し、もう一度薬を服むことにした。
 薄暗くなった室内のあちこちに手をつきながら、一条は台所へ行った。
 試しに電灯のスイッチを入れてみた。ポカッと点いて、辺りが明るくなった。
 「ああ、人心地つく明るさだな」
 たった六〇ワットの電球ひとつの明るさで心が和む自分が可笑しかった。
 「明日はパトカーを探そう。…先ずは着替えの調達だな…」
 薬を服み、精神的に少し快復した一条は、林檎をひとつ手に取ると、雄介のもとに戻った。
 「もうおまえを抱いて一歩も歩けない。ベッドでなくて済まないが、我慢しろ」
 ソファーの脇に膝立ちし、雄介の顔を撫ぜた。
 急に思い立って林檎を咀嚼し、果汁だけを雄介に口移しで飲ませようとしたが、大部分が流れてしまった。
 今度はまず深く接吻し、歯列を割ったところで、少しだけ含ませてみた。
 雄介が小さく嚥下した。一条は舞い上がりそうになった。
 「五代! 起きろッ」
 雄介の目蓋が微かに動いた。

     ◇◆◇

 (甘い。ん? 酸っぱい? 林檎の香り? いや…これは……、大切な…オレの…オレの……)
 暗闇の中で、更に黒い影が過ぎった。
 残忍な感情が蘇ってきた。
 同時に痛みの感覚が戻ってきた。拳が肉を捉えた、醜い感触だ。
 (駄目だ。考えちゃ駄目だ。思い出すな。このままでいろ。このままでいれば楽だろう。何もしなくていいんだ。何も感じるな。なにもするな。ナニモスルナ)
 心が引き裂かれそうだった。大いなる切なさが胸を覆い尽くした。
 (ニゲロ…さあ逃げろ。もっと深く潜れ。何も感じないでいい。まだ間に合う。逃げられる)
 (何事から逃げるんだろう。いや、逃げるって何だ? …声がする)
 (聞くことはない。見なくてもいい。聞くな)
 (切ない声色…識ってる)
 (いや、もう、いいんだ。このままでいい)
 (大切な…オレの)
 (潜ろう、さあ。何もしないことを楽しもう)
 (この匂い)
 (枯らせ)
 (瑞々しい…嗚呼…そうだ)
 (ヨセ)
 (…一条さん…)
 (止せッ 黙れッ)
 (一条さん)
 (止せッ 戻るなッ 苦しいだろう! 浮くな)
 (何故、思い出さずにいられる? 一条さんが傍にいるのを感じる)
 (怖いだろう。コワイ…コワイ)
 (黒い影が抑えつけている。これを退かそう。動けないのはこの影の所為だ)
 (触りたくない。近付きたくない。でもこのままじゃ動けない)
 (目を開けても真っ暗だったのは、こいつがいたからか)
 (一条さん、一条さん、一条さん…、痛い。…もう、ヤメサセテ…)

     ◇◆◇

 雄介の目が唐突に開いた。
 「五代!」
 一条は、満身創痍を忘れて、雄介の頭上に身を乗り出した。
 光のない眼だった。
 何もその瞳に映していない、虚穴のような眼だった。
 「五代、わかるか? 五代!」
 雄介の肩を抱いた。反応を待ったが、焦れた。一条は五代の手を取り、自分の頬に触れさせた。
 少し落ち窪んだように見える雄介の眼窩、光を宿していない双眸は、一条の知っている雄介とは別人のようだった。
 何も見えていないのか、一条が真上から覗き込んでいても、眼が動かなかった。
 「…五代…」
 胸が潰れそうだった。この作用が本当にアマダムがさせていることなのかが解らない。雄介にとってプラスなことなのか、一条には判断がつかなかった。
 (眺めているだけしか手立てはないのか?)
 握り込んだ雄介の手を少し噛んでみた。何も反応がなかった。目を開けているだけだった。
 「五代…何か俺に出来ることは…ないのか…?」
 心細さから泣き出しそうだった。以前の自分からは想像がつかないほど弱く脆くなった部分があるようだった。
 「闘いの後……こうやってひとりで…おまえは…」
 涙が零れた。一条のどこかが麻痺した。
 「わかるよ、五代…。戻りたくないんだな…」
 このまま植物のように動かない雄介を、命果てるまでの間、自分が養い続けていってもいいと、一条は思った。どうせ世界は滅ぶ。それを早めて何が悪いと言うんだ。この男の無垢さを犠牲にして、生き長らえてまでして、世界をどう変えようというのか。
 (いいんだ、五代。おまえが戻りたくなければ、俺はこのまま一緒に朽ちていい。それでおまえが救われるなら、俺は見届ける)
 絶望ではなく、諦めでもなく、悟りでもなく、雄介に共鳴したかのように、一条も凪いだ。
 「誰が俺たちを赦さなくても、いいよ…な」
 雄介の、雨と汗と汚れでべとついた髪の毛を後ろに梳かしつけながら、一条は微笑みながら静かに泣いた。

     ◇◆◇

 (泣いてる。震えている。怯えている。大切なあの人が)
 (どうして暗い? 音がない? 望んだから?)
 (もっと勇敢になれば、撥ね返せる? 超えることが出来る?)
 (この広がってる暗闇は……願いが叶ったってことなのか?)
 (何を望んでたんだっけ……)
 (笑顔。平和。冒険。青空。あの人。愛…)
 (闘い。ブチノメシテヤル)
 (ぶちのめしてやったじゃないか…)
 (快感。肉を抉ってやった)
 (血飛沫が上がった)
 (それも願った)
 (もっと毅くなりたい)
 (もっと残忍になれる)
 (違う! …慰めなきゃ。違うって言わなきゃ)
 (まだ止められない。終われないんだ、まだ)
 (悍ましいほどの快感だったから)
 (違うって言わなきゃ。まだオレは…やれる!)
 (暗いと気持ちがイイ)
 (抱きたい。挿レタイ)
 (一緒に濡れたい…達きたい)
 (起たせて)
 (勃てろ、ほら)

     ◇◆◇

 (生理的な現象なのだろうか…。股間が脹らんできたけど)
 一条はさっきから、雄介の服を剥いで全身を拭いていた。
 睡眠と休養を摂らなければ身体が持たないとわかってはいたが、目を開けている雄介が次に何か喋り出すのではないか…と思うと、おちおち目も瞑れなかった。
 (瞬きしないと、眼球が乾いて痛いよな…)と気付いたのが始まりだった。濡らしたティッシュペーパーを目蓋代わりに乗せ、次いで、ふらふらする自分の体を宥めすかして、一条は着替えを探しまわった。
 生田和也と父親の服が幾つか見付かったので拝借することにして、お湯を沸かし、タオルを用意して清拭を始めた。一条の腕時計で雄介を傷つけてしまうかもしれないと気付いた時には、(こんなことに気が回るとは自分でもビックリだな)と笑った。
 言うことをきいてくれない雄介の体から濡れて張り付いた服を取り去る作業は心底骨が折れたが、一条の中の母性を刺激するものでもあった。
 いつも雄介に世話を焼かれることは嬉しくも面映くもあったが、施す愉しみは知らなかった。たまに風呂で雄介の体を洗うことはあっても、それはセックスの前戯の一部で、違う感覚の中でやることであった。
 そして拭き出してしばらく経つと、雄介の裸体を前にして淫らな情景が蘇って来てしまい、一条を困惑させた。
 (椿の科白じゃないけど……そそられるよなぁ)
 官能的な雄介の息遣いが耳もとで聞こえてくるようだった。
 欲情してしまった一条にシンクロしたように、その時、雄介の股間も勃ち上がったのだった。
 無意識に、一条は雄介の勃起に手を添えた。緩く扱いた。すぐに固さが増した。
 我に返り、一条は手を離した。一条の股間も猛っていた。
 (…起きるかな…)
 馬鹿な考えだと恥かしくなった一条だったが、一旦火がついてしまったカラダは、ひたすら頂点を目指したい欲求に支配されつつあった。
 一条は服を脱ぎ出した。出血の跡で、あちこち貼り付いているのを剥がし取る行為は、怖気を震うことだったが、もう、馴らされ熟れた一条のカラダは、肉の鞘と化していた。
 ちょっとした躊躇のあと、雄介の雄芯を口に含んだ。三日も風呂に入らず、包まれた服の中で蒸れていたから、もっと強烈な臭いがするかと思ったが、雄介の体臭はもともと薄い質なのか、気にならなかった。
 (いや、俺が発熱してるから鼻が利かないんだ。ついでに舌も麻痺しているかも)
 さも味わうように丹念に舐っていたが、雄介から先走りの汁を感じ取ると、一条は喉の奥まで迎え入れては亀頭まで出すというピストンに動きを変えた。
 (いつもならここで俺の髪を鷲掴みするところなんだがな)
 思った瞬間、一条の髪の毛は鷲掴みされていた。
 (!!)
 一条の心臓が撥ね上がった。
 (五代!)
 顔を上げて雄介を見たかったが、雄介の両手が許してくれなかった。強い力で押さえ付けられていた。喉の最も奥まで雄介を迎えることになり、一条はえずいた。
 一条も負けじと強い力で押し戻した。雄介の顔を見て、覚醒を確かめたかった。

     ◇◆◇

 笑顔が待っていると思っていた。「ごめんなさい、一条さん。心配かけて」と言ってくれる気がしていた。完全に、もとの雄介のままで起きたと信じていた。
 しかし、雄介の眼は依然何も映していなかった。被せていたティッシュペーパーは雄介の耳の横にずり落ちていた。薄らと口元から顎に生えた不精髭が、雄介の無表情に凄惨さの翳を落としていた。何度も肌を重ねているというのに、初めて見る男のようだった。
 雄介を跨るように強引に身を起こされた一条は、その事実に愕然とした。
 「五代、五代…」
 一条の唇が戦慄いた。瞳が見開かれた。
 雄介が上体を起こした。機械的な動きだった。
 焦点は合っていないのに、見えているように、一条を後ろ向きにしようとした。
 一条は抗った。身が竦む思いだった。
 雄介が一条を一条とわかって抱こうとしているのかわからないことに、打ちのめされた。
 雄介の力は強かった。躱すことなど出来なかった。一条を後ろ向きにすると、更に体を折るように両肩を押された。反作用で、一条の腰が高く上がった。双丘は自然と開かれ、雄介を迎える穴が露わに暴かれた。
 一条の羞恥心は瞬時にボルテージを上げ爆裂した。
 「やめろ!」
 雄介は一条の腰を強靭な力で支えると、穴にゆっくり舌を這わせた。
 「アアッ!」
 慣れ親しんだ愛撫だった。飼い馴らされた猫みたいに力が抜けていくようだった。
 舌が侵入してきた。唾液を送り込むように、襞を綻ばせるように、優しく緩やかに、雄介の舌は一条を侵した。
 腰が揺れるのを何とか止めたかった。熱がまた上がったのか、溶けそうだった。全く動きが自由にならなかった。しかし、この悪夢のような快感に身を委ねたくなかった。
 「やめてくれ…ご…だい…あ…ああ…ん……」
 一条の脳内に、自分の淫靡な声と、ぴちゃっぬちゃっという淫猥な音とが入り乱れる。
 (狂う)
 一条は目の前に伸ばされた雄介の両足を見た。向こう脛に噛み付いてやろうと思った。
 だが、一条が口を開いた時、腰を引かれた。雄介の肉剣を蕩けた鞘に呑み込まされた。開いた口は、そのまま喘ぎ声を吟詠させられた。首から背が弓形に反り、手が宙を掴んだ。
 凄まじい快感だった。雄介とこれ以上ないというほど深く番い、一条はそれだけで精を放った。
 緊張のあとの弛緩が訪れ、その体位の交合ではいつものように、背後の雄介に背中を預けた。途端に、背中に受けていた疵の痛みが、一条の正気を呼び覚ました。
 機敏には行かなかったが、撓るように身を翻すと、一条は雄介と対峙した。
 「五代!」
 一喝したと同時に下半身が鈍い痺れに蔽われ、一条はふらついた。ソファーの横に膝をつき、雄介の肩に手をかけた。
 その腕に雄介の手が伸びて、一条は再び捕らわれた。
 「五代、やめろ…」
 一条は腕を捕られたまま、膝で後退りした。
 雄介の首が一条のほうに動いた。
 一条は後退しながらも、雄介の顔を凝視していた。心なしか口角が上がったように見えた。
 ゆっくりと、雄介の焦点が一条に合った。その瞳に、次第に光が宿ってきた。
 「ご…だい…?」
 一条は後退るのを止めた。見詰め合った。
 爛々と光る雄介の眼は、だが一条の愛する眼ではなかった。
 (…憎しみ?)
 雄介が何に支配され、何に眩んでいるのか、一条は識りたかった。
 一条の知らない雄介の強い眼光に射抜かれ、腕を捕られたまま動けなくなってしまった。雄介が一条を見据えてソファーから起き上がっても、その場に尻餅をついても、ただ雄介から目を離せなかった。
 獲物に食らいつくように、無表情のままの雄介が一条に覆い被さってきた。一条の足を大きく広げ、その間に身を進めてきた。雄介の凶暴な屹立は、一条の狭い孔に狙いを定めていた。そして、屠るように、一気に埋め込まれた。
 雄介の兇器のようにギラついている瞳は、がくがくと揺さぶられながら仰け反る一条の喉を見ていた。
声にならない叫びを上げている一条の喉に、雄介は噛み付いた。
 (殺されるのか、このまま…?)
 つんと鼻の奥がきな臭くなった。(いいか、それでも)と一条は観念した。

     ◇◆◇

 (あー、なんて快感だー)
 (うーん…黙れ)
 (血を啜ろう。愛する一条さんの)
 (甘美。達きたくない)
 (一条さん一条さん一条さん)
 (うう…うう…)
 (ひとつに繋がってる)
 (どうして哀しいの?)
 (見えた! 一条さん!)
 (ダメだダメだ…うう…ダメだー!)
 (イッちゃう! イヤだッ)

     ◇◆◇

 立て続けに、どれくらいの精を受けたのか、一条はぐったり考えていた。
 噛み破られた喉からの出血は、大したことないようだった。
 殴られたり蹴られたりするような暴力こそなかったが、強姦のダメージは相当大きかった。
 雄介は満足したのか、再びソファーに戻り眠りについたようだった。
 (とうとう一言も声を発さなかったな…。息も乱さず…)
 ブルっと身を震わせたのは、決して寒さの所為だけではなかった。
 (風呂に入ったら…死ぬかな…)
 でも、とても起きられそうになかった。
 一条は奈落に足を掬われるように、意識を失った。
 最後に残った意識の欠片は(何時だろう)だった。

 寒さに、また目が覚めた。
 台所の電球の明かりがぼやけている。
 全身が強張っているのは、震えているからだ。
 汗と血と精液にまみれ、下半身が特にごわごわしているような気がする。
 絨毯に擦れた背中と肩から悪寒が這い登ってくる。
 指一本動かすのも億劫だが、薬を服みたかった。
 今がいつの何時かも知りたかった。
 外した腕時計はどこに置いたか。携帯電話はどこだろう。

 一条は、これも夢だと知っていた。何故なら、全部を俯瞰した位置から見ているからだった。
 雄介が横たわっているソファーも眼下に見えている。そんなことはあり得ないとわかっていた。
 (死んだのか?)とも思ったが、どうやら違った。喉もとが痛かった。
 起きよう、と意識を集中した。
 その時、足を掴まれた。
 「! …ごだい…!」
 声が嗄れていた。
 力が全く入らず、雄介の為すが侭になるしかなかった。
 雄介の怒張が挿入された。痺れていたが、痛みは残っていた。最低だった。
 穴を穿つ動きに永く揺す振られた。セックスの歓びはなかった。一条は萎えたままだった。
 「ああーイイー」
 雄介が喋った。狂気を湛えた眼のままで、でも喋った。喋ったことは喜びだった。
 「ウッ」
 極めた声がして、続いて雄介の胴震いを感じた。
 萎えかけたペニスが引き抜かれると、一条の中から雄介の排した精が流れ出すのがわかった。
 あまりの気持ち悪さに、恨みがましい声が出た。
 「…ごだい…」
 「うるさい」
 冷徹に言い放った雄介は、一条を放り出すと台所に向かった。
 (あれが……五代か……?)
 雄介の声だったが、雄介に抱かれているわけではなかったのだ。
 次第に靄が掛かってくる視界の中、一条は林檎を貪る雄介のシルエットを呆然と見ていた。

 次に一条が目を覚ました時、また雄介から犯されていた。
 雄介は顔を歪ませて泣きながら腰を振っていた。
 (バカだな、五代。泣きながら酷いことするなよ)
 喋ろうとしたが、もう声は出なかった。
 (それにしても…何時だろう…)

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