〜EPISODE35【愛憎】より〜 その1

 その夜は月もなかった。漆黒の闇だけが辺りを支配していた。
 風も凪いでいた。蒸し暑さが一際不快だった。
 箱根の林の中、聞こえてくるのは、夜行性の動物の気配だけだった。
 雄介は彷っていた。もう何時間経ったのかわからなかった。
 バイクを押しながら自分の足で歩いているのが不思議なほど、疲れ果てていた。
 しかし、歩を止める気にはならなかった。
 いや、そんな思考はとうの昔に出来なくなっていたのかもしれなかった。
 さながら亡霊のように、燃料切れで走らなくったバイクを押しながら、路なき林の中、深く深く分け入って行くだけ。
 雄介は疲れ果てていた…。

     ◇◆◇

 今夜は来ないと一条にはわかっていた。
 合い鍵を渡した相手は、いつの頃からか、闘いの後、一条のもとを訪れなくなっていた。
 (もうどれくらい前からか…)
 一条は背広をハンガーに吊るしながら、壁にかけたカレンダーを見るとはなしに見た。

 一条が身も心も開いた相手は、一度死んだ。死んだとの報告を受けた時に、一条は自分の気持ちに気付いた。喪って初めて、どれだけ大切で必要としていたかがわかった。
 死途に旅立ったはずの男が黄泉から戻ってきた夜、ふたり体を結んで、どれだけ餓えていたかを知った。それは体が欲する肉慾でもあったが、精神的にも愛に乏しく飢えていた証明ともなった。
 生まれて初めて味わう恋愛に翻弄されつつ、新たに芽生えた感情に趣くまま、合い鍵を渡した。

 一条がいてもいなくても、男はやって来て一条の身の回りの世話を焼く。洗濯や掃除、それに男が得意という料理。やって来た日は、冷蔵庫の中が充たされているのですぐにわかる。冷凍庫の中では、小分けにストックされたカレーが充填されている。
 時々、時間を合わせて夕食を共にするが、刑事という職の激務さと一条の体力を慮ってか、夜をそのまま過ごすのは、非番の日の前だけにセーブしているらしい。
 それと一条が気付いたのは、同僚の杉田に乞われて休日をやり替えた日の朝、男が合い鍵を使って部屋に入って来るなり、「あれ? 一条さん! どっか具合悪いんですか!?」とベッドサイドまで駆け寄って心配そうに訊いてきた時だった。
 「ん、ん? ああ…、今日は休み…だ。杉田さんと代わったんだ」
 寝惚けた声で一条がそう言うと、「ちぇっ」と舌打ちする声が聞こえてきた。
 「なんだ、俺がいて不満なのか?」
 眠たげに目を擦りながら言う一条に、
 「逆ですよ! そうと知っていれば、夕べ来たのに…」
 と応え、不貞腐れてベッドの横に座り込んだ。
 クスッと笑って、一条はその男、五代雄介を、愛しさいっぱいの目で見た。ベッドの上からだと、雄介の後頭部しか見えなかったが、子どものように口を尖らせて不平を顕わしていることが容易にわかった。

 情熱的に愛を体現する雄介から抱かれると、一条は自分を見失って悶え狂う。普段、自分を律することに慣れているだけに、歯止めが利かなくなる熟れた時間が脅威でもあった。自分の身体が抗うことなく雄介を欲し、あまつさえ身も蓋もなく求める瞬間、(いっそ総てを壊してくれ)と願っていることに戦慄したこともあった。
 忘我の熱が収まると、決まって、漠とした哀しみや淋しさや切なさが一条を襲った。
 しかし、傍らには雄介がいた。一条がまどろむまで髪を梳き、翌朝、太陽が高く昇る頃まで、ベットの中で睦みあった。
 それが出来るのも、雄介が一条の休日前を狙って泊まっていくからだった。雄介の、言葉にはしない優しさの表れであると、一条は知ったのだった。
 (奴等が日本語を喋るのに驚いた頃だったか…。もうずいぶん昔のことのように思える)
 正確には、一条が薔薇女に襲撃され、気を失っていたところを雄介に発見され、車の中で朝を迎えたとき。四ヶ月ほど前のことだった。…それ以来、雄介は頻繁に一条を抱くのを自制するようになった。

 心停止状態になった時に椿が施した電気ショックは、雄介が自らもっと強くなりたいと願った結果、クウガに金の力をもたらした。
 敵は明らかに力を増していた。武器を使うようになっていたし、ゲームに喩えた弑逆も、ルールが複雑になっていた。それと比例して、敵を爆滅する際に引き起こすエネルギーは増大し、クウガのみならず、警察機構のあり方までをもマスコミから非難されるという一幕もあった。
 つい先ごろ倒した敵は、トライチェイサーを破壊した。替わりに、開発中だったビートチェイサーを雄介に与えようと上層部に掛け合った一条だったが、許可はすぐに下りなかった。
 敵を倒すには、被害を最小限に留められる爆滅ポイントまで敵を誘導しなければならなくなった。追い込むためだけに、警官の犠牲が出ることもあった。
 それらを、クウガである雄介は、どう見ていたことだろう。一条は雄介の気持ちを推し量ろうとする度に、暗澹たる思いがした。

 (そうか、三九号を赤の金の力で大爆発させてからだ。あの日、五代は二度も椿のもとに行ったんだった)
 雄介が作り置きしてくれていたおかずを温めながら、一条は思い当たった。それはほぼ一ヶ月前のことだった。その日を境に、非番の前の日であろうと、闘いの後は部屋に訪れなくなった。それどころか、雄介と連絡すら取れなくなっていた。
 その日の午前中、二人は関東医大病院の椿のもとを訪れていた。
 金の力を得たのは、期せずして受けた電気ショックに拠るものではあるが、自分が強くなりたいと願ったことからアマダムが基質変化をしたと識ったとき、雄介は居たたまれなくなった。
 「このままでは…戦うためだけの生物兵器に……」
 椿は語尾を濁したが、雄介の顔に緊張が走ったのを、一条は見逃さなかった。  椿はまた、雄介の体をひどく心配していた。特に右足への負担を危惧していた。
 「オレ的には全然OKです!」
 と陽気を装って答えた雄介だったが、一条にはもうわかっていた。雄介はずっと以前から無理をし続けている、と。
 そのことについてもっと食い下がって尋ねてみようとした一条だったが、ルーレットで鉄球を落とす場所を決めていた未確認生命体第三九号の出現で、阻まれたのであった。しかも、その闘いの最中、雄介は重傷を負って再び椿のもとへ運ばれてしまった。
 だが、アマダムの力は以前にも増して雄介の回復力も高めていた。数時間の休息で戻ってきた雄介は、ついに第三九号を斃した。
 一条はその日、大爆発の余波で甚大な被害が出た事後処理を後回しにしてまで、雄介と連絡をとろうと試みた。しかし、ついに雄介は捉まらなかった。
 「いやぁ〜、爆睡しちゃってて、気が付かなかったみたいですー。惜しいことしたなぁ〜、せっかく一条さんが呼んでくれてたのに〜」
 などと軽口めかして嘯いた雄介だったのだが、その次の怪人の時も、そしてその次の怪人の時も、雄介は闘いの後、行方をくらましていた……。

 (一体どこで疲れを癒しているんだ、五代?)
 ここ二週間ほど平穏が続いていた所為で、雄介の料理は手の込んだものになっている。
 それを途中までは美味しく咀嚼していた一条だったが、今日の闘いが終わった時に見せた雄介の表情が過ぎった瞬間から、味がしなくなってしまっていた。
 第四二号は一際卑劣な敵だった。だから、雄介の異様なまでの怒りに任せた闘い振りも、頷けるところがあった。杉田や桜井も、満足気だった。
 しかし、何か引っかかるものを一条は感じていた。こんな夜は、いつもとは逆に雄介を抱いて眠りたかった。何も言わず、優しく背中を撫ぜていたかった。
 (ここに来ないか、五代…)
 不意に窓のほうに目をやった。遮光カーテンの向こうに雄介がいそうな気がした。
 部屋を横切り窓辺に歩み寄ると、勢いをつけてカーテンを開けた。蛍光灯が反射して、サッシが鏡面と化していた。開錠してサッシを全開にすると、エアコンディショニングされて快適だった部屋に、夏の名残を濃く残して澱んだ外気が、ぬるりと顔を撫ぜながら滑り込んで来た。
 (五代…、どこにいる…?)

       ◇◆◇

 雄介は林の中で蹲っていた。ここがどこだか、皆目見当がつかない。しかし、雄介はそんなことに構っている様子ではなかった。
 側には何もなかった。ビートチェイサーを手押ししていたはずだったが、今はもうなかった。
 そのバイクは、一条が新たに与えてくれた。一条自ら駆使して、雄介のもとに運んでくれたものだった。
 暗証番号は以前と同じ雄介の誕生日。
 警視庁の上層部が、味方とはいえ未確認生命体第四号で民間人である雄介に、最新鋭の白バイを使わせることを躊躇した時、この暗証番号が役に立った。
 科警研の榎田のところまで引き取りに来た係官は当然のことながら雄介の誕生日を知らない。暗証番号を入力しなければ、トライアクセラーをグリップに挿し込んでも動かすことは出来ない。
 それを設定した一条がタイミング良く駆けつけ、係官の説得に成功したのだ。
 雄介はビートチェイサーに跨り、新たな力を得ることとなった。第四一号は、ビートチェイサーなしでは歯が立たない相手だったのだ。
 その敵も、つい二週間前に片付けた。爆発の威力は凄まじく、爆破ポイントまで誘導するために、警官の尊い命が失われた。
 その時の雄介も様子がおかしかった。壊れかかっていた。心の均衡を保つことに限界が来ていた。しかし、辛うじて、一条からの追及を逃れることができた。
 今度も上手く事が運べばいい…。誰にも気付かれることなく、そっと自分を取り戻す作業…。
 未だしばらくは微動だに出来そうもなかった。未だ、しばらくは…。

     ◇◆◇

 「えッ!? BTCSが…!?」
 箱根の分署から受けた連絡が一条にもたらされたのは、翌日の正午過ぎだった。杉田が教えてくれたところによると、昨日、芦ノ湖付近で第四二号を破ったが、そこからずいぶん山林に入った辺りで、あろうことかビートチェイサーが放置されているとの情報が寄せられたと言うのだ。
 「どうやら燃料切れらしい。無線も電波受信状態が芳しくない山の中なんで役に立たんらしいぞ」
 「五代は…傍にいないんですか…」
 「ああ、BTCSを発見した営林所の職員も、唯のバイクじゃないと思ったんだろう。付近を捜索してみたんだが、人影はなかったらしい」
 「……」
 見る間に顔色を失っていく一条を斜に見上げるようにしながら、杉田は言葉を接いだ。
 「まぁ、あいつのことだ。心配は要らんと思うが…、一条、おまえは現場に行ってみるだろう? 上には俺から伝えておく」
 一条の強張った肩をひとつ叩いて優しく揺さぶると、杉田はメモを一条に渡した。
 「……」
 目の前に差し出されたメモの意味を解するまで間があった。のろのろと右手を上げて一条はようやく紙片を手に取った。
 「箱根にも連絡を入れておこう。…おい、大丈夫か、一条? 代わりの者を向かわせるか?」
 「! いえっ、すぐに私が向かいます。杉田さん、すみませんが」
 「ああ、気を付けて行って来い」
 一条は機敏に踝を返すと、一目散にパトカーに走った。
 (五代! 五代! 五代ッ…!)
 ナビゲーションシステムにメモの住所を入力すると、一条はタイヤを軋らせて発進した。

     ◇◆◇

 重なり合う枝葉から木漏れ陽が揺れ、視点をぼやけさせる。
 梢を通る風は清涼で、動かなければ残暑の気配すらない。
 林の中、木の根元に丸まって横たわり、首だけを仰向けて、蝉のかしましさと鳥の囀りを聴いていた。
 (ここで終わる…かな…。枯葉の寝床で…レクイエムは蝉の声…)
 目と口が細く虚ろに開き、無意識の内に、蝉の鳴き声を真似していた。ハミング気味に、呼吸に合わせ、ほとんど聴き取れないほどの小さい音で。
 厚めの唇は乾き、ひび割れて荒んでいる。縦に切れたのか、黒く変色した血がこびり付いている。決して長いこと流血はしない。アマダムが治してしまうからだ。
 (オレは人間じゃなくなった…。もう…ヒトじゃ…ないんだ…。クスクス)
 ハミングが唐突に消え、顔が歪んだ。
 (まともでも…なくなっちゃったよ…! オレは…オレは…)
 肢体を捩り、泣き顔になりながら、嘲笑った。
 「バケモンだーオレはー。はははー。ヒトじゃないんだーオレはー。うははー」
 樹と樹の間を横たわったままのた打ち回った。
 体のあちこちが木の根に当たる。半袖からむき出しの腕が擦過傷を負う。
 顔面が出っ張った根の瘤を直撃し、目から火花が散った。とろっと鼻血が伝う感触がした。
 そこでようやく、再び動きが停止した。放心状態に戻ったようだった。
 (もう…ダメかも…。…オレ…いかれちゃったな……)
 意識を手放す瞬間は恍惚としたものだった。あらゆる痛みから開放され、雄介 は微笑んだ。

     ◇◆◇

 「ごだーーーーーーーい! ごだーーーーーーーーい!」
 箱根の分署には寄らずに、パトカーが入れるところまで山道を運転し、今は徒歩で林の中を捜し回っている。
 山には不向きな革靴のまま、一条のほうが迷子になってしまう可能性など微塵も考えていないように、必死な形相で雄介の姿を捜した。
 汗が全身から噴き出している。額から伝い目に入って痛むが、構う暇などなかった。心拍数も天井知らずに騰がっている。浅い呼吸を繰り返しながら、大樹の幹から幹に手を伸べ、喉も裂けよとばかりに大声で雄介を呼ばわった。
 分署に詰めている警官に救助の要請をすることなど、端から考えていなかった。一条は何としてでも、自分で雄介を見つけ出したかった。
 (絶対にここにいる! 俺が必ず捜し出す! 誰にも手は出させない! 俺があいつを助け出す!)
 根拠などなかったが、一条は雄介を見つけ出すことが出来ると確信していた。
 確証などなかったが、雄介はこの山林の中、ひとりで嘆き哀しんでいるとわかっていた。
 もうすぐ陽が傾く。完全に夜の帳が下りてしまったら、捜索は不可能だろう。一条は逸る気持ちを声にした。
 「ごだーーーーーーーい! ごだーーーーーーーーい!」
 (俺の元に帰って来い、五代!)
 「ごだーーーーーーーい! ごだーーーーーーーーい!」
 声が掠れてきていた。喉が張り裂けそうに痛んだ。水で乾き切った喉を潤したかった。だが、その餓えより遥かに上回る切迫した渇望があった。
 五代雄介。その男が欲しかった。
 「ごだーーーーーーーい! ごだーーーーーーーーい!」
 (絶対に見つかる! 見つけてみせる! 俺がッ)
 もう二度と失わないと自分に誓った。その男を見付けるのだ。自分以外は信じられない。失いはしない、絶対に。(そんなところで何してる?)と叱ってやるのだ。失うものかッ……一条の心の叫びは止むことがなかった。

 その時、チラリと目の端に、今まで目に馴染んでいた色彩とは違ったものが映った気がした。
 「…!」
 一条が目を凝らし焦点を合わせると、それは確かに雄介が穿いていたアイボリーのチノパンだった。
 「五代!!」
 一条はたたらを踏みながら雄介の傍に駆け寄った。
 「おいッ しっかりしろ、五代! 大丈夫か!? 五代ッ!」
 汗みずくの背広の上下で、横たわる雄介のすぐ傍に跪いた。五代の双肩に手を掛け、自分の胸に引き寄せ抱き締めた。
 目を開けない雄介の胸に手を置き、心臓の鼓動を確かめた。
 規則正しいスタッカートを掌に感じた一条は、そこでようやく、ひとつ大きな息を吐き出した。
 「ごだ…いッ ああ! よかった…! 見つけたぞ……俺の…五代…!」
 雄介の湿った髪を後ろに撫ぜ付け、一条は雄介の安らかな寝顔を今一度凝視した。荒い呼吸が伝播して、雄介まで揺れている。その顔には乾いた血が至るところにこびり付いていて、とても無事なようには見えなかった。
 しかし一条は動く気になれなかった。もう少しだけ、雄介を胸に抱いたまま、座り込んでいたかった。
 山の夜は速い。急速に陽が暮れかかった。林を出るには、もう立ち上がらないといけない。
 暫しの休息のつもりだったが、早くも汗が退き始め、一条の体温を奪い出した。
 「五代、起きろ。車まで移動するぞ」
 雄介の蒼白な頬に手をやり、軽く叩いた。
 しかし、雄介は無反応だった。
 「五代? おい、目を醒ませ!」
 今度は少し乱暴に肩を揺すった。
 やはり、雄介は表情ひとつ変えなかった。
 「五代、五代! 起きろ! 目を開けろ!」
 一条の声は割れていた。今や必死に呼び掛けていた。雄介の全身に手を這わせ、外傷を探しながら、また反応も見ていた。目蓋を無理に開けたが、やはり反応はなかった。
 完全に自失している雄介を、しかし、ここから運び出さなくては埒が明かなかった。
 一条は雄介を背負うことにした。体勢を整え、雄介のだらりと弛緩した腕を胸の前で掴むと、やおら立ち上がった。
 (車まで歩けば大丈夫だ。五代を病院に連れて行かなくては)
 自分にそう言い聞かせ、鼓舞し、一歩を踏み出した。

     ◇◆◇

 道を失ったことを認めるのは辛いことだった。一刻も早く雄介を病院に連れて行きたいと思えば尚のこと、歩みを止めるのが腹立たしかった。
 一条は焦っていた。膝がもう言うことを利かない。あと一歩、足を踏み出すのも困難だった。
 暗闇の中、闇雲に動き回って大怪我でもしたら取り返しがつかない…冷静な判断が出来ていれば、とっくの昔に水を確保しようとしていたことだろう。
 背負った雄介は岩のように重く感じた。どうやら、もう限界と諦めるしかなかった。
 一条はそっと雄介を降ろした。途端に一条の膝が崩れ、もんどりを打ってその場にへたり込んだ。
 (ああ…、水が飲みたい…)
 常日頃鍛えてあった体だが、生理的な欲求には勝てない。精神鍛錬も人一倍出来ている一条だったが、やはり水分補給は必要だった。
 張り付いた喉が笛のように鳴っている。目も霞んでいるのか、でも暗闇だからわからない。
 自分の体が熱いような気がする。背中が妙に冷える。膝以外の関節も痛んできたようだ。
 (いかんな、熱が出てきたらしい。こんなところで…こんなときに…)
 何時間経ったのか、どのくらい歩いたのか、一条は眩む頭で考えた。
 (! そうだ! 携帯電話!)
 暁光が射したような気分で背広の内ポケットに手を伸ばした。携帯電話を手に取り、救急の番号をプッシュしようとした。
 しかし、受信状態を示すアンテナが立っていなかった。それどころか、無情な『圏外』の文字が霞む視界に踊っていた。
 (なんてこった…)
 さっきよりも格段に具合が悪くなった。意気消沈したことで、気力と体力が倍増しで削がれた。横臥し顔を背けると、少し胃液を吐いた。
 (朝が来るまで待とう…。それしかない…)
 隣に寝かせた雄介の手を手探りで探り当てると、一条は安堵したように握り締めた。
 もう、少しでも体を動かせば、悪寒が走り気分が悪かったが、それでもにじるように雄介に体を密着させると、握り締めた手を口に近づけ、そっと雄介の手の甲に唇をつけた。撥ね返る自分の息の熱さに吃驚したが、雄介の傍にいるという安心感が嬉しかった。

     ◇◆◇

 (寒い)
 そう感じて目を開けた。
 つい今しがたまで温もりが傍にあった気がしたのに、鳥肌が立つように冷たく感じる。
 頭が割れるように痛かった。目を開けたつもりなのに、真っ暗だった。
 (夜か)
 目を開けていられないほど、ひどい頭痛が襲ってきた。
 頭に手をやろうとして、手が動かないのに気付いた。
 今度は意識して指を動かそうとしたが、自由にならなかった。
 (?)
 指だけではなかった。自分の体なのに、命令に従わなかった。
 (寝てる?)
 再度意識を集中させようとしたが、逆に拡散していくような気分だった。
 (どこだ、ここは?)
 思考がまた緩慢になってきた。次第に面倒臭くなって、何事ももうどうでも良くなってきた。
 (いいや、もう……)
 再び意識を手放した。

     ◇◆◇

 雄介が懸命に呼んでいた。自分の名前を叫んでいた。しかし、見渡せど、声は届いても姿は見えなかった。
 また次の瞬間は、遠く微かに雄介の姿を捉えた。傍に行こうとするが足が動かない。目を懸命に凝らすと、何か喋っているように見えるが、その声は聞こえない。
 苛立たしさに一条は「こっちへ来てくれ!」と雄介を呼んだ。しかし、雄介は寂しそうに微笑んで背中を見せた。
 「待ってくれ、五代!」
 この叫びは届かないと一条は知っていた。何故なら雄介は、もう旅立ってしまったから。
 「駄目だッ 行くな、五代! いやだッ 離れるんじゃない、ごだーーーーい!」
 雄介の背中が蜃気楼に飲み込まれてしまう。その情景は何度も何度も見た。
 (ああ、また同じ夢だ。安心しろ、直に目が覚める。これは夢なんだ)

 苦しげに呻いて、一条は強張った目蓋を薄く開いた。
 いきなり飛び込んできた野外の風景に、一条は驚愕して一気に覚醒した。
 朝靄が立ち込め、空気が青かった。夜明け前の、一番冷え込む時間らしかった。
 「ううっ」
 上体を起こそうとして関節と頭の激痛に唸った。
 体の節々が軋んでいた。喉と目蓋が焼け付くように熱い。いや、寒い。とてつもなく寒い。
 ガンガンと脈打って痛む頭をそっと傾がせた。横には雄介がいるはずだった。
 (そうだ、五代。五代の様子はどうだ?)
 雄介は昨日と同じ姿勢で横たわっていた。
 薄い青のフィルターを通して見ているような感覚に馴れるまで、雄介の全身を眺めていた。
 やおら手を伸ばし、雄介の頬に触れた。
 (生きてる。良かった…)
 アマダムの力の話を椿から聴いていなかったら、一条は半狂乱にパニックしていただろう。
 (この状態はいつもなのか、五代? だから俺のところに来ないのか?)
 闘いの後で昏睡するとは知らなかった。いつからなのだろう、と一条は考えていた。
 油断すると、哀しみと切なさが忍び込んで来る。だが今は感傷に浸っている時ではない。
 (さあ、今日は何が何でも車まで戻らないと…。現職の刑事が遭難者だぞ、これじゃ)
 薄く笑みを刷いて、弱々しく息を吐いた。
 這うようにして雄介の顔に近寄ると、一条は優しく接吻した。
 「ここで待っていてくれ。たとえ目が覚めても、動かないでここにいてくれよ」
 警察手帳から一頁むしり取ると、手早く書いて雄介の手に握らせた。
 ついでに携帯電話を見てみたが、やはり『圏外』は健在だった。
 細く溜め息をついて背広を脱ぐと、雄介に被せた。服だけでも、傍についていてやりたかった。
 一条は割れそうな頭を抱えながら、樹の幹を伝いつつ立った。
 今度は迷子にならないよう、ボールペンの先で樹の幹に瑕を付けながら、一条は歩き出した。ふらつく体を幹に縋らせながら、足を引き摺って歩いた。

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