〜EPISODE20【笑顔】より〜 その4

     ◇◆◇

 「五代、タオル置いておくぞ」
 浴室のすりガラス風なドアに、一条のシルエットがぼやけて映っていた。
 湯船にゆったりと浸かっていた雄介は、ザバリと派手な湯音をたてて立ち上がると、「あ、一条さーん、石鹸がー」と声を掛けた。
 「石鹸? さっきは未だあったぞ?」
 言いつつドアを開けると、その手首を中から掴まれ、強い力で引き込まれた。
 「なっ 五代!」
 「一緒に入りましょう。これ、オレの新しい我が侭」
 「ああっ パジャマが濡れる!」
 「オレがまた洗いますってー」
 濡れそぼったままの雄介が、嬉しそうに一条に抱き付いた。
 「どうせ後から脱ぐんだし。ね?」
 憮然とした一条は、観念したように脱力しながらも、雄介を睨め付けた。
 「俺はちゃんとさっき入ったんだ。おまえは未だ入っていなかったようだがな」
 一条の憎まれ口など一切意に介せず、雄介は悠々と一条のパジャマを脱がせに掛かっていた。
 「いいじゃないですかー。背中の流しっこしましょう?」
 「…それも新しい我が侭か?」
 「んー、背中だけじゃないです、洗いたいのはー。こんなスケベなところも…」
 雄介は、いきなり一条のズボンと下着を一気に下ろすと、ペニスをやんわり握った。
 「ああッ」
 「一条さん、上は自分で脱いで…」
 開襟パジャマの五つあるボタンの内、三つまでは雄介が既に外していた。
 あとの二つを自分で外し、肩から腕を抜くだけの行為だというのに、下がもう脱がされていて、愛撫まで受けているので、一条はもの凄くいやらしいことをするような気分になった。
 「うわぁー、扇情的な眺めだぁー」
 雄介は一条の全身に隈なく散った赫い斑点に目を細めた。
 おもむろにスポンジを手に取り、石鹸を泡立てた雄介は、そっと一条の胸板にスポンジを滑らせた。
 雄介がスポンジをギュッと絞ると、石鹸の泡が大量に出て一条の体を伝う。一条の体から泡が流れて、床に向かって落ちて行く。ぬらぬらとした輝きを残して泡が滑り落ちる様を、雄介は吸いつけられたかの如く凝視していた。
 この印は自分がつけたキスマークだ…と思った瞬間、雄介は呪縛から解き放たれたかのように一条をきつく抱き締めていた。
 「本気で帰ろうと思っていたのに…! もうダメですよ、一条さん! こんな…こんなに…! オレは…我が侭ッ」
 「おまえは…素直になれば良いだけの話だ」
 お互いに、先ほどの蒸し返しだと思ったが、ここを乗り越えないと、先に進めない二人でもあった。
 心を開放することは、体を開くより複雑で難しいことなのだ。
 「オレが素直だったら、一条さんが困るんですって」
 「……いいんだ…、それでも…!」
 一条は、込み上がった激情のまま、雄介の背中を掻き抱いた。
 「困らせてみろ、もっと……」
 雄介は一条にそれ以上、喋らせなかった。深く口付けておいて、一条の背中を撫ぜまわした。
 「後悔しても知りませんよ、一条さんッ」
 「あ…あ…」
 もう、まともに返事も出来なくなってしまった一条だった。

 タプッタプッと湯が規則的に撥ねる。
 「ハッ…ハッ…」と、一条の仰け反った喉から洩れる息使いもまた規則的だった。
 湯船に深く身を沈めた雄介に向き合って跨った恰好で繋がっている一条は、雄介が送り出してくる律動に、ただ身を任せて揺す振られていた。
 一条の色付いた乳首に手を這わし、雄介が両の親指で潰すように捏ねると、一条はいやいやをするように首を緩やかに振った。
 「一条さん、後ろ向いて…」
 湯の中にいるので、繋がったまま軽々と体位を変えながら、雄介は一条のうなじに舌を這わせた。
 雄介は、胸板を一条の背中に密着させ、腰を大きくグラインドさせた。
 うねる湯が追い撃ちをかけるように動き、一条の腰を勝手に揺らす。
 「あ…ああ…」
 雄介の抉るような腰の動きに、一条は自分の上体を支えている腕が戦慄くように震えるのを止められなかった。バスタブの縁に爪を立て、体勢を保とうと努めた。眼前に壁が逼り、自分の吐く甘い息使いがすぐに撥ね返って、一条の耳にこだました。雄介の腰の動きに上手く合わせようとするが、反逆する湯に阻まれ、一条はとうとう壁に手を付いた。
 一条の上体が安定したことで、雄介はそれまで以上に深く交わろうとした。一条の背中から胸を離し、一条の腰をがっちりと掴み、片膝立ちになった。
 突き上げられて撥ね上がる湯の飛沫は、一条の頬まで届いていた。自分の口から、絶え間なく歓喜の喘ぎ声が吟じられていることを、一条は自覚できていないようだった。
 「好きです、一条さん…! もう、オレ、…アアッ」
 一層強く腰を打ち込んだ雄介は、一条に包まれながら達った。

 ベッドに移ってからの雄介も、一条に嬌声を上げさせようと執拗だった。
 「全部教えてください、一条さんの好いところ…」
 一条の両腕を頭の上でひとつに纏め、雄介は一条の腋下に鼻を埋めた。
 二の腕の内側の柔らかい皮膚に、また新たな花びらを咲かせるのに余念がない。
 胸筋が肩の付け根で終わるあたりに軽く歯を立て、そのままラインに沿って歯を滑らせる。
 空いてる右手で、一条の左胸を玩んだ。爪で弾くように乳首を弄り、乳輪ごと摘み上げるようにして揉んだ。
 一条は、自分の体が融けてしまったかのような感覚でいた。自分の口から間断なく洩れ出て来る媚声が部屋中を充たしているようで恥かしいのだが、止める術など識らなかった。
 「椿さんは…上手でしたか…?」
 いきなり耳元に吹き込まれた雄介の言葉に、一瞬、冷水を浴びせられたかのように固まった一条だが、瞬時に耳朶を甘噛みされ、首筋に舌を這わされ、ペニスへの愛撫も受け、再び蕩けてしまった。
 「な…にを…言ってる…」
 すっかり掠れてしまった声が妙に近くに聞こえる…そう思った一条は、自分の耳の穴が雄介の舌で蹂躙されているのに気が付いた。
 「椿さんに嫉妬してるって言ったでしょう」
 そのままの恰好で雄介が喋るので、一条は、脳味噌の奥まで雄介の低音に攻められ侵されたような感じがした。
 「もうっ 終わった…っ」
 一条は首を捩って雄介の舌から逃れながら、罪を詰られた姦夫のように必死で言い募った。
 「やっぱり…関係があったんですね」
 雄介は、一条の耳の裏側に強く吸い付き、優しく添えていた手に握力を加え、一条のペニスを激しく扱いた。
 「あうぅッ」
 快感を通り越した苦痛に、一条の眉間に皺が刻まれる。それすらも、雄介にとっては昂ぶるための媚態だとも知らずに、弓形に背を反らせる。もう両の手首を拘束するものは何もないのに、腋下を晒し、二の腕の下に顔の半分を隠そうとする。一条から発せられる吐息のひとつでさえもが、雄介を狂わせていった。
 野獣のように四肢で身を起こし、雄介はゆっくりと一条の体を跨いで、体の向きを反転させた。しなやかに波打つように動く背中から腰のラインは、猫科の獰猛さを物語っていたが、ベッドの上に横たわった一条には、見ることは叶わなかった。
 雄介は殊更ゆっくりと、一条のペニスを味わった。
 一条が哀願を湛え、許しを乞うても、決して達することを叶えなかった。
 一条の眼前には、雄介の滾った欲望が脈打っていた。
 雄介は強制しなかったが、もどかしさから、一条は自ら口に含んだ。
 口の中一杯に広がる雄介の雄芯。一条も丹念に愛撫を与えた。
 雄介に早く楽にして欲しかった。嗜虐的な雄介の愛撫から、早く開放されたかった。
 一条の繰り出す愛撫に、雄介は急かされるものを感じ、ペニスの奥で窄まっているアナルに、ようやく舌を伸ばした。
 「はあぁッ」
 思わず吐き出した喘ぎで、雄介のペニスに喉の奥までの侵入を許してしまった。
 「うぐ…」
 無条件反射の嚥下の動作が繰り返される。一条の目尻から、生理的な涙が伝い落ちる。苦し気に鼻腔を広げ、雄介の脹らみ切った怒張から逃れようと、懸命に首を捩った。
 捩った拍子に、一条の歯が雄介のペニスにあたり、雄介は痛みから腰を僅かに上げた。
 「ごほっごほごほっ」
 やっとのことで口から雄芯を放せた一条は、恨みがまし気に、雄介に目を走らせた。
 が、一条から見えたのは、雄介の喉から胸にかけてだった。
 顔の行方を思い図って、一条の感覚は、自分のアナルに集中するような気がした。
 雄介の長くきれいな指が何本か埋まっているのがわかった。
 また、中のほうで、其々の指が蠢いているのにも気が付いた。
 その一本が擦るある部分が、強烈で新たな熱を呼び起こしているのも感じた。
 「ごだい…もう…ほしい…おまえが」
 ハスキーな媚声は艶こそないが、充分に唆るものがあった。
 「オレの、何が欲しいですか、一条さん?」
 一条のアナルを舐め解しながら、息を吹き掛けつつ、意地悪っぽく言った。
 「…ばか…そこで…しゃべるな…ああっ…」
 「ここが喋ってるみたいに、ひくついてますよー」
 態と唾液で濡れた音を立てながら、雄介が舌を這わせる。
 「いれて…おまえの」
 それだけ言うと、一条は首を伸ばして、再度雄介のペニスに口付けた。
 「うっ」
 今度は雄介が呻く番だった。
 忘れかけていた敏感なところに、一条の柔らかくいやらしい舌が這わされて、慌てて腰を退いた雄介だった。
 分身に手を添えるように緩く扱きながら、一条の横臥した体の上で、雄介は再び体の向きを替えた。
 「一条さん、またオレに乗ってください」
 「…!」
 「見せて、オレに」
 「…なに…を…」
 「一条さんがホントにオレを欲しがってるところ」
 「!」
 「自分で挿れて見せて」
 ギラついた眼で雄介は一条を射貫いた。
 見詰め合ったまま、雄介は一条に並んで横たわった。
 「キスして、一条さん」
 見ると、雄介の口の周りは、唾液でぬめっていた。
 片肘で上体を支え、一条は雄介の顔に自分の顔を被せていった。
 口の周りの唾液を舐め取るように、一条は啜った。
 口蓋を口蓋で塞ぎ、舌と舌を深く絡ませた。
 「うぅ」
 強く吸引され、一条が篭もって唸った。雄介に「早く」と言外に急かされたみたいだった。
 一条は次第に雄介の脚に自分の脚を絡ませていった。
 深いキスを交わしながら、雄介の骨ばった腰骨に、一条は自分の昂ぶりを圧し付けた。
 腰がうねるように動き、徐々に雄介の上に体が這い登っていった。
 完全に雄介の腰を跨ぎ、一条は接吻の場所を少しずつ移しながら、上半身をゆっくり起こした。
 雄介の胸板を愛し気に撫ぜ、二つの突起に指を遊ばせていたが、一条ももう限界が近づいていた。
 雄介のペニスを持ち上げ、自分の好い角度に支えた。
 一条は、ゆっくりと少しずつ腰を落としていった。
 天を向いた雄介の太い杭に、一条は自らを串刺していく。
 途中まで飲み込まれたところで、雄介は堪らない快感に溺れ、下から穿った。と同時に、すぐに腰を退き、再び深く穿った。
 「ひッ」
 楔がきっちり隙間なく食い込み、二人は繋がった。
 「あ…つい…、一条さんの中が…、気持ち好いー」
 恍惚の表情を汗で光らせながら、雄介が呟く。
 「ごだい…ぃい…いい……」
 ゆらりゆらりと腰を支点に揺らぐ一条の体を、雄介は下から静かに支えた。
 湯の中と違い、動き難くはあるが、下から突き上げる衝動は、深い快感と直結していた。
 一条は、蠢く熱に翻弄され、自失寸前のようだった。
 両掌を両掌で強く握り合い、雄介は、鍛えた腹筋で上体を起こすと、一条を胡座の中に抱き込んで、腰から揺すった。卑猥な音が大きく響いた。
 「うぅッ」
 結合が更に深くなり、小刻みに揺すり上げられ、一条はがくがくと首を傾がせた。髪の端から汗が飛ぶ。
 雄介は、一条の頭を自分の肩に乗せ、両の腕を自分の背に回させると、一条の腰を支え、最後の頂上を目指し、俄然激しい律動を刻み始めた。
 「嗚呼ッ」
 一条は、無意識の内に、目の前にあるものに歯を立て爪を立てた。
 「イくぅ」
 「ううぅッ」
 鼻の奥がつんとするような鉄の味を感じた気がしたが、もう一条の意識は遠くなっていた。

     ◇◆◇

 「いってぇ…」
 雄介は洗面台の鏡に、自分の背中を懸命に写していた。
 体を出来るだけ捩って確認したところ、雄介の背中や肩口には、幾つかの傷が点々としていた。
 どれもこれも少量ずつ流血しているみたいで、雄介は、痛くて触ることも憚られているようだった。
 温水でタオルを湿し、そっと傷口に置く。途端に湯が沁み、雄介は奥歯を噛み締めた。
 こびり付いていた血が拭い去られると、小さな傷口が認められた。
 さっきのセックスで、一条が噛み付いた傷と、爪を立てた傷だった。
 「勲章じゃ〜?」
 やに下がった雄介は、誇らし気にベッドルームに戻っていった。
 ベッドの上には、様々な体液で全身を汚したままの一条が、精魂尽き果たして眠っていた。
 いくつも作ってきた温タオルでそっと拭き終え、改めて一条の体を目で愉しんだ。朝まで起こさないようにと気遣っていた雄介だったが、込み上がって来た愛しさに堪え切れず、一条に口付けた。
 一条の寝顔を見下ろしながら、雄介は、一条の言った言葉を反芻していた。
 『二人が一緒にいて、駄目になるって言うのなら、いっそ駄目になってしまえ…と、…実は思ってしまえる刑事だったんだ、俺は』
 (オレが言わせてしまったんだよなぁ…)
 一条の髪を玩びつつ梳いていた手が止まった。雄介の表情はすっかり固くなってしまっていた。
 (オレが弱音を吐いたから、一条さんにも感染しちゃった。…ダメだな、オレ。あんなこと言わせるなんて、オレの器が小さい証拠だ。…照れ屋さんなのに…無理しちゃって…一条さんも後悔してるだろうな〜)
 後悔しているのは発した言葉だけではないだろうと想像し、再び雄介の口角が僅かに上がった。
 (一条さん、いやらしかったな。っていうか、すごく大胆だったよなぁー。ゾクゾクしちゃったもんな〜)
 無茶はしないと誓った筈なのに、雄介は、果たせなかった言い訳を、一条が官能的で扇情的であった所為にしようとしていた。
 (…やっぱり椿さんとは特別な関係だったみたいだけど…。悔しいけど仕方がない、こればっかりは…。…嗚呼、でもオレって、こんなに意気地なしだったのかァ〜? 何にも訊けないよ、一条さんの口からは、怖くて…)
 どこにでも転がっているような恋愛の初期症状なのであるが、舞い上がっている当人には解らない。過去に嫉妬しないだけの度量が自分には備わっていないらしいと気付けた雄介は、立派なのかもしれなかった。
 と、死んだように眠っている一条が、僅かに眉間に皺を寄せ、寝言を紡いだ。
 「ごだ…ぃ…」
 胸がひとつ大きく上下し、右手の甲がピクリと動いたっきり、また死体に戻ったように、一条は深い眠りに堕ちていったようだった。
 (うっわ! どんな夢見てるんだろう! 出演者はオレだよ、オレ!)
 気にはなるが、起こせない。ジレンマに、一条の髪を梳いていた雄介の手は宙に浮いた。
 そのままじっと一条の寝顔を見ていたい雄介だったが、流石に目蓋が重くなってきた。
 明日もまた、熾烈極まりない闘いに身を投じなくてはならないかもしれない雄介だった。
 (限界かも……)
 せめて灯りだけでも落として寝ようと、雄介は壁のスイッチまで行こうとした。
 ベッドが軋んだ途端、一条がか細い声で、「いくな」と呟いた。
 雄介が半身を捻って一条を振り返ると、やはり寝言だった。
 雄介が離れる気配に「行くな」と無意識の内に言ったのか、夢の中のストーリーで死にかけた誰かに「逝くな」と言ったのか…。
 「どこにも行きませんよ、一条さん」
 優しく呟き返して、雄介はベッドを降りた。
 数歩で辿り着いたスイッチをオフにすると、暗闇に支配された寝室に、カーテンの下部から侵入してくる街灯の光の筋が延び、雄介はそれを手繰るようにしてベッドに戻った。
 一条の頭の下に腕を通し胸元に抱き込むと、雄介は「愛してます、一条さん」と囁いて、一条の髪にキスを落とした。
 そのままの姿勢で、翌朝を迎えた二人だった。

     ◇◆◇

 雄介が目を覚ました時、一条は半眼で困ったように何か一心に考えているようだった。
 「おはよう、一条さん」
 三回目になる科白を言うと、一条は竦み上がるように雄介を上目使いに見た。
 「どうかしたんですか?」
 予想外の反応にたじろいだように、雄介は恐る恐る訊いた。
 「あ、いや…」
 甘さの余韻の欠片も残っていない一条の余所余所しさに、瞬間、えも言われぬ寂しさと哀しさを感じた雄介だったが、おくびにも出さずににっこりと笑った。
 「起きましょうか。朝飯、作りますよ」
 「…ああ」
 するりと雄介の腕から抜け出した一条は、そのまま浴室へ消えた。
 (?? 何だ〜?)
 朝の挨拶もない一条にいささか戸惑いつつも、昨夜、一条の心身を執拗に虐めたことを思い出した雄介は、相好を崩して起き上がった。
 (照れてるのか〜)
 一人で納得した雄介は、いそいそと身支度を整え、朝食を作り出した。

 (そわそわしてる一条さんって、初めて見るな)
 朝食が済み、後片付けも終わってエプロンを取りながら、雄介は普段と違う一条を盗み見ながら思った。
 結局、シャワーで身を清めた後も、一分の隙もないネクタイ姿で朝食の席に着いている間も、一条は、まともな会話どころか、視線すらもろくろく雄介と合わそうとはしなかった。
 明かに変なのであるが、雄介も問い質す勇気が持てなかった。
 時計の針は、一条の出勤時刻に近づいている。
 一条が急に慌ただしくベッドルームに入っていった。背広を取りに行った風情だった。
 (どうしたんだろう。オレに「帰れ」って言い辛いのかな?)
 いくらなんでも、このまま居着くわけにはいかない雄介は、一条と一緒に部屋を出ようと決めていた。
 「じゃ…あ、一条さん、オレ、帰りますね」
 ベッド脇の、電話の子機を乗せているチェストの前で佇んでいる一条の背中に向かって、雄介がおずおずと切り出した。
 一瞬で背筋が伸びた一条は、「あ、ああ」と、うろたえて返事をした。
 一条は振り向きもしないので、雄介は憮然とした表情で、踝を返して玄関に向かった。
 スニーカーに足を突っ込み、無造作にドアチェーンを外していると、雄介の背後に、一条が駆け寄った気配がした。
 「…忘れ物だ、五代」
 意を決したような一条の物言いに、「え?」と雄介が振り返ると、未だ背広は着ていないワイシャツ姿の一条が、耳まで赤らめて片方の拳を突き出していた。
 雄介がゆっくりした動作で手を差し延ばすと、掌に、体温に温められた金属の一片がぽとりと乗せられた。
 良く見れば、それは見覚えのある、ここの部屋の鍵だった。
 「…え?」
 もう一度雄介が疑問を呈すると、少し怒ったように一条が口を開いた。
 「…もともとあるスペアだ。…な、なくすなよッ」
 それだけ言うと、一条はキッチンの方へ引っ込んでしまった。
 雄介はつんのめりながら、今履いた靴を乱雑に脱ぎ捨て、一条の後を急いで追った。
 背広を手に、やはり背中を向けたままの一条を、雄介は羽交い締めに抱き締めた。
 「ありがとう、一条さん! 嬉しいです! …またメシ作りに来ます。…オレ、一条さんの奥さんになったみたいに、洗濯掃除アイロン掛けします! 許してくれるんですね? ありがとう、一条さん」
 「……来たい時に来ればいい…。…俺は…定時に帰れる仕事じゃないから……。飯を…一緒に食いたかったら…」
 「待ってます! 一条さんをここで待ってます!」
 「…それと…」
 「毎晩は致しません!」
 「!! ばッ馬鹿ッ」
 雄介の腕から逃げ出して、一条は振り返り様に詰った。
 雄介はそれを待ち構えていたかのように、今度は正面から堂々と一条を腕の中に納めた。
 「嬉しいんです、一条さん。ホントありがとう」
 大役を果たした態で、ようやく緊張が解けた一条は、雄介の背中に手を添え、微笑みながら「ああ」と言った。
 (オレがクウガだから、オレの我が侭聞いて甘えさせてくれてるのかもしれないけど……。でも、本当に嬉しい! 嬉しいよ!)
 涙腺が緩みそうになるのを必死で堪え、雄介は一条を抱き締めた。
 一条は、そんな雄介を、大きな子どものように、背中をポンポンと優しく叩いてあやした。

 「じゃあ、行ってくる」
 程なくして、一条が抱擁を解いた。
 「はい。行ってらっしゃい」
 恰好良く背広を着込み、一条は颯爽と玄関に向かった。
 「あ、一条さん、忘れ物」
 「? 何だ?」
 幸せな新婚さんお約束の、お見送りキスである。
 照れる一条の後頭部を引き寄せて、軽い吸引の割には派手な接吻音を鳴らした。
 「気を付けて」
 唇が名残惜しげに離れ、雄介は一条のネクタイの歪みを直してやりながら、言葉を添えた。
 「ああ」
 極短く答えた一条は、俯き気味にドアを開けて、小走りに出勤していった。

‐了‐

EPISODE36【愛憎】に…続きたいな…

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