〜EPISODE20【笑顔】より〜 その1

 今日ほど曇天が有り難いと思ったことはなかった。黄色い太陽など、拝んでなるものか! と、カーテンを開けるのでさえ、躊躇った一条である。
 パトカーを走らせながら、助手席に座る、上機嫌な雄介を盗み見る。
 尖らせ気味の唇は、今にも口笛を吹き出しそうだ。全身でリズムを取り、ダッシュボードや膝を軽く叩いてストンプの真似事をしている。
 特技のひとつであるストンプを披露すると、みのりが勤める保育園の園児たちと約束していたらしい。約束の日は守れなかったが、今日、それを果たせるのが嬉しいのだろう。
 だが、いまパトカーが向かっているのは、関東医大病院だった。

 「だったら五代、まず保育園に行くか?」
 小一時間前、朝食を摂りながら、(当然だ)と思いつつ、そう訊いた一条に、渋面をつくりながら唸るように雄介は答えた。
 「いや、やっぱ先に椿さんですよねー。振り切って出てきちゃったからなぁ〜。看護婦さんなんて、腰抜かしてたし…」
 死んだ人間が生き返る筈はない。誰もがそう信じている。
 しかし、雄介は甦った。その瞬間、看護婦がその場に居合わせてしまったらしい。
 後の騒乱は、椿が上手く極秘裏に処理してくれたものと思うが、雄介の憔悴した表情を一刻も早く晴れ晴れとしてやりたくなって、一条は折れた。

 「ところで一条さん、オレ、ここしばらく悩んでいることがあってー」
 雄介の手が止まっていた。口調も何となく元気がない。
 一条は前方を気にしながらも、助手席の雄介を気遣った。
 「…何だ?」
 「…いや、やっぱいいです」
 愛の告白なら、昨夜、聞いた。雄介らしく正攻法で挑んできて、一条もそれに応えた。こんな風に言い淀むなんて雄介らしくない。 ここしばらく悩んでいたとは、尋常ではない。普通の付き合いでなくなったから、言い難いのだろうか…。一条は気を揉んだ。
 「気を遣うな。俺でよければ…何でも訊いてくれ」
 運転中の一条の、生真面目でいて、引き攣り気味の横顔をチラリと見て、雄介は(一条さんが勘繰ってる!)と嬉しくなった。
 心の中で北叟笑みつつ、悩みに沈んでいる風に装った声を出した。
 「赤いクウガから別の色になる時、…勢いつけるために何か言いたいんですけどー」
 (…いま…コイツは…何を言ったんだ……?)
 一条は何が何だかわからず、鳩が豆鉄砲食らったように固まってしまった。
 雄介は構わず、上半身だけで変身のポーズを取りながら続けた。
 「超変身! でいいと思います〜?」
 (…俺は…ひょっとして…おちょくられたのか?)と思いながらも、すっかり気の抜けた一条は、
 「…いいんじゃないか…?」
 半ば投げ遣りに、たっぷりと間を空けて、そう返した。
 「いいですか? よかったぁー!」
 (一条さんって、可愛いんだよな〜! オレが何を言い出すかって、不安がっちゃったりして。 んで、「なんだそりゃ」って呆れても、ちゃんと真面目に答えてくれるし。オレの一条さん、かっわいーー!)
 再び、蕩けそうな顔をして、ストンピングを始めた雄介。
 一方、吹き出しかけた顔を、頬杖に紛らせて片手で隠している一条。
 (何を言い出すかと思えば…。まったく、五代ってやつは…憎めないっていうか…かわいいっていうか…)
 お互いの愛しさに胸いっぱいの二人だった。
 パトカー備え付けの通信機を手に取った雄介は、勝手に外部スピーカーのスイッチを入れ、喜びをおもむろに表現した。
 「あ、あ〜〜、果・て・し・な・い〜〜〜〜〜♪ イェイッ」
 即ち、幸せを象徴する、大きな鼻歌である。公道を疾走するパトカーから、雄介の声がこだました。

     ◇◆◇

 「馬鹿野郎! 心配かけやがって!!」
 椿の常駐している部屋に入るなり、いきなり怒鳴りつけられた二人だった。
 「五代、すぐに検査だ! あの看護婦について行け。一条、ちょっと来い!」
 雄介と一条は目で肯き合い、椿の指示通りに従った。
 雄介がドアの向こうに姿を消すと、椿は一条の肘を掴んで、もうひとつ奥にある部屋に引っ張り込んだ。
 「どうしたって言うんだ、おまえらしくもない! 連絡のひとつも入れなれないほど、昨日は夜通し忙しかったって言うのかッ あいつ、あの後、闘ったんだろう!? どうだったんだ、あいつの体はっ」
 一条をソファーに押し込みながら、椿はガミガミと続けた。
 「…すまなかった。連絡を入れなかったのは、私のミスだ。…心配を掛けてしまって…」
 見る間に顔を赤らめる一条に、椿は怪訝そうな顔をして、先に座った一条を見下ろす位置から、屈みこんで来た。
 一条の頭の中では、椿の言葉がグルグルしていた。
 (昨日は夜通し忙しかったって言うのか……どうだったんだ、あいつのカラダは……)
 「……何かあったな、あいつと。隠しても無駄だぞ。顔に書いてある」
 ハッとして一条が顔を上げると、接吻前という感じの近さに、椿の意地悪そうに歪んだ顔があった。
 「何があった、一条」
 「……別に…何も……」
 しどもどしながら目を泳がせる一条に、さらに追い討ちを掛ける椿だった。
 「あいつと寝たな」
 囁くように、だがキッパリと、椿は断言した。
 「ば、馬鹿なことをッ」
 「おまえと俺はいつからの付き合いだ? それに…ただのお付き合いじゃ…なかっただろう? 薫」
 目を伏せ、そっぽを向いてしまった一条の耳もとに、息を吹き込むように椿は喋った。
 ギッと椿を睨み付け、一条は奥歯を噛み締めた。
 高校時代、一条の体を味わったことのある椿だった。
 瑞々しくしなやかな体は自由になっても、頑なな心までは振り向かせられなかった。
 それまで挫折を経験したことがなかった椿は、自分の力ではどうにもならないものがあるということを、一条で識った。
 一条が警察大学校に入学を決めたと知ると、椿は監察医務医に成るべく、進路を決定した。
 「おまえとの縁が切れないようにな、薫…」
 医学部に合格したとわかった発表の日、その足で、一条に報告しに行った椿は、先ほどのような睥睨に合い、けんもほろろな対応をされたのだ。椿はそれを思い出していた。
 「目の下に隈なんぞ拵えて…。五代は好かったか?」
 ソファーの肘当てを支えに上体を傾け、一条の敏感な耳朶を舐めんばかりに唇を近づけ、椿は殊更ねっとりと、さもいやらしく揶揄した。
 つい先ほどまで受けていた愛撫の余韻が残っている一条は、拳を固く握り、椿の顔を叩きに手を振り上げた。
 「おおっと」
 一条の反撃を鼻先で躱して身を起こした椿は、一条が雄介に抱かれたことを確信した。
 「あいつに、おまえのカラダは熱かったか、訊いてみるとするか」
 「やめろ! そんなこと、するなっ」
 椿と目を合わせられないのか、一条はリノリウムの床の一点を穿つような恐い眼で凝視しながら、搾り出すように言った。
 「一条刑事のラブアフェアか…。いいネタを仕入れたもんだな」
 「…椿…」
 弾かれたように顔を上げ、哀願するような声が思わず口を衝いて出た一条の目は、瞬きを忘れて潤んでいた。
 椿は、そんな一条に見つめられて、名前を呟かれて、(降参だ…)と思った。
 だいたいが、一条を椿が本気で傷付けられるわけがないのだ。
 (惚れた弱みってヤツだよな)
 監察医務医は、通常、死因に不審な点がある死体が相手の医者だ。
 なのに越権行為も甚だしく、一条からの個人的な依頼を受諾し、秘密裏に雄介を診ているのである。
 我が身の保身を考えれば、高校時代からの親友の頼みとは言え、「通すところをちゃんと通せ」と突っぱねて当たり前のことをやっているのである。
 「…おい、おまえら…ほどほどにな…」
 いつもの、ちょっと斜に構えた、椿のクールぶっているポーズに、(俺は敵じゃないぜ)の姿勢を見、一条は一条で、ばれたことを観念した。

       ◇◆◇

 雄介の検査が終わり、椿の診立ては「想像だが」という前置きのもと、雄介の腹に吸い込まれた不思議な石の威力で、毒を排除するために雄介を仮死状態にしたのではないかというところに落ち付いた。
 碑文の解読結果が待たれる一条と雄介は、次に沢渡桜子のもとに行くことにした。
 「沢渡さん、今フリーか?」
 椿が去り掛けの雄介に、何気なさを装いながら尋ねた。
 「たぶん、そうだと思いますけど…?」
 (フリーって、付き合ってる男性はいないってことだよな?)
 内心で桜子の周辺を探りながら、雄介は幾分慎重に答えた。
 「そうかっ」
 椿は(よし!)とばかりに喜色を浮かべた。
 そのやり取りを傍観していた一条は、思わず、「おまえ…」と、呆れた口調で呟いた。
 「あの子とは、おまえのせいで終わったんだ!」
 一条に噛み付くように、椿は喚いた。
 「俺の…せいか…?」
 思い当たる節がまったくないではない一条は、上目使いに椿に問うた。
 (確かに、ここのところの呼び出しは頻繁だったし、この間は明らかにデート中だったし…な)
 しかし、たとえ椿がどれだけ美形の女性とデートを重ねようが、好みの骨格を持つ女性と付き合おうが、本懐が遂げられることはなかったのだ。
 なぜなら、椿が心底惚れているのは、振り向かない、靡かない、親友というスタンスに立っているその男、一条薫だったからである。
 (ああ、そうさ。おまえのせいさ。俺はヘテロのつもりなんだがな。どんな女を抱いていても、おまえがチラつくんだよ。おまえを落としたのは、ほんの遊びのはずだったのに。既に初いカラダって訳じゃなかったよな、俺がおまえを抱いたときには。それなのに、おまえはいつも清らかで…)
 視姦するような危うい眼で一条を捉えたまま、椿は口角を僅かに上げた。
 「じゃあー、オレたち、そろそろ行きますネ。椿さん、心配掛けてすみませんでした。看護婦の皆さん、ありがとうございましたー」
 のほほんと装った声で雄介が一条と椿の間に割って入ると、一条の肩を押しながら出口に向かった。
 (五代か…。あいつが薫を抱くのか…)
 猛禽類の眼で雄介の背中を追った椿だった。

     ◇◆◇

 パトカーの助手席で、ぎこちない笑みを浮かべていた雄介は、車が発進して間もなく病院の敷地を出ると、とうとう痺れを切らして言った。
 「椿さん、桜子さんが気に入ったんですかねー」
 「どうかな」
 「不思議なカップルになりそうだなぁ〜」
 (ぜひ、カップルになってくれ、桜子さん! 椿さんはヤバイよっ 絶対に一条さん狙いだよっ)
 焦燥感に、声色は固く、顔の表情も引き攣っている雄介だった。
 かたや一条の方はと言うと、そんな雄介の挙動を完璧に誤解していた。
 (やっぱり、沢渡さんを渡したくないのか。椿が落ち付いてくれれば、俺も有り難いんだがな…)
 雄介に知られないように、そっと嘆息する一条だった。

   城南大学の構内に車を乗り入れ、学舎から見れば最奥に設けてあるスペースに駐車を済ませ、最寄りの昇降口に向かおうとする一条を、雄介は無言のまま背後から腕を取って、強引に垣根の奥のちょっとした茂みに連れ込んだ。パキパキッと垣根の小枝を折りつつ、雄介は覆い被さりながら、一条を茂みの中に薙ぎ倒した。
 明かにいつもの雄介とは違う態度に戸惑ったが、一条はとりあえず、成すが侭になった。今日が久々に取った休暇だという心理も手伝い、一条はいつになく受動態だった。
 「どうしたんだ、五代ッ」
 充分に押し殺してはいるが、激した一条の口調に反駁するように、雄介は両手で一条の頭を固定しながら、むしゃぶりつくように唇を荒々しく奪った。
 興奮したせわしい呼吸音に、唾液の湿った音と、歯と歯がぶつかる硬質な音とが交じる。
 有無を言わせぬ雄介の容赦なく激しい接吻攻撃に、一条は時と場所を忘却し、淫らに喘ぐ自分の喉を怺え切れなくなった。つい数時間前までの爛れた交合がもたらした快感は、まだ一条を敏感なままにしていた。
 小さく鼻に抜ける一条の媚声は、雄介を更に狂わせた。
 雄介は、引き出したワイシャツの裾から手を差し入れ、素肌の腋から背中を掻き抱いた。
 (刑事として有るまじき…)と、一瞬間だけ頭を過ぎったが、与えられる滾った熱に、次第に翻弄されていく一条だった。
 一条の股間に楔のように片足を入れ、雄介は、太ももで強弱をつけて圧迫しながら、一条の発芽したての欲情の熱を育てた。
 一条の手を取り、雄介は自分の猛った股間に導いた。
 唇は依然合わせたままで、もう片方の手は、自分のジーンズのジッパーを器用な指で素早く降ろし、下着もずらした。
 つい何時間か前に番ったばかりの牡だった。なのに、そんなことはなかったかのように猛々しく反り返り、一条の手淫を待って脈打っていた。
 キスの合間に「どうした?」と問い質したいのに、息を継ぐだけで精一杯の一条だった。
 もし問われたとしても、今の雄介には、理路整然とした申し開きは出来なかっただろう。頭の中は、(一条さん!)の連呼のみだったから…。

 雄介は嫉妬で頭が爆ぜそうになっていた。
 一条と椿の過去を、雄介は本能で悟ってしまったのだ。
 それに、椿はどうやら、未だ一条に未練たっぷりだということも。
 さっきついた一条の溜め息は、椿が桜子と付き合うのを嫌がっていることを意味しているのではないか…、そう考え始めた瞬間から、雄介の中の嫉妬の炎が激しく燃えあがった。
 まさかの死の床から甦り、ようやく一条と体を結ぶことが出来た翌日のことである。つい数時間前にも、一条を組み敷き、愛を交歓したばかりである。
 しかし、雄介には我慢がならなかった。
 「あの子とは、おまえのせいで終わったんだ!」と罵るように言った椿の本意は、雄介には伝わってしまったのだ。
 一条の口から、雄介を求める言葉は出ていない。
 (オレは…一条さんのカラダに慰められただけなのかも知れないっ オレが…クウガだから…!)
 その不安感も、嫉妬の炎に注がれる油となり、烈火となって一層燃え上がってしまった。
 非道いことをするつもりなどないのに、一条を試す気もないのに、雄介の獣性は、一条という贄を欲していた。
 一条は尻餅をついたような恰好のまま、雄介の口付けという攻めを受けていたが、髪の毛を鷲掴みされたかと思うと、グイッと手前に引かれ、雄介の漲った牡を咥えさせられた。
 口腔を蹂躙されていた一条は、ようやく解放されたと思ったのも束の間、今度は口淫を強いられ、思わず顔を背けた。
 それが契機となり、漸く一条は本気で抵抗し出した。一条は、はしたなく悶えかかっていた自分を叱咤するように、雄介に強く吸われ続けていた舌は未だ痺れを残していたが、それをも振り払うように、鋭く一言を発した。
 「やめろッ」
 一条の髪の毛を握り込んでいる雄介の両手首を持ち、引き剥がすように捻る力を加えた。
 ふと、一条の頭上から、泣いているような息遣いが聞こえた。
 「…!」
 一条が見上げると、巧く空気が吸えないで喘いでいるような、ほとんど泣き出しそうな情けない顔をした、見慣れぬ雄介の顔があった。
 「いったい、どうしたんだッ 五代!」
 一条は、掴んでいた雄介の手首を自分のほうに引っ張り、倒れてきた雄介の上体を抱き込んだ。
 「っさん…いっ…じょ…うっ…さんっ」
 呼気も吸気もお構いなしに喋るものだから、雄介の言葉は奇妙な響きだった。
 それが、一条には痛々しかった。自分の名前を連呼している雄介が、途方もなく愛しくもあった。
 (何なんだ、おまえを苦しめているものは何なんだ?)
 雄介の頭を自分の胸に引き寄せ、労わるように背中を優しく何度も撫ぜた。
 「五代…、どうした…、五代…」
 未だ嘗て出したこともないような甘い声を意識した一条だった。
 (照れるな。何が悪い。五代が泣いているんだ。訳を聴いてやらなければ…)
 「どうした…、ん? そんなに…焦って…。俺は…ここにいるだろう?」
 肩で息をする度に大きく波打つ雄介の背中のライン。逆三角形の、意外と着痩せすることが判った雄介の逞しい背中。ジーンズの前を開いている所為で腰が大きく露わになり、背筋の起伏が消える辺りの窪みが、呼吸と共にぎこちなく揺れるのを、一条は見た。
 「…きです、…いちじょうさ…」
 「なんだ?」
 「好きです、一条さん…。好きです、一条さんが…。一条さんが…好きなんです…」
 「ああ、わかってる。五代、俺もおまえが好きだよ」
 「…本当に? オレが強引に欲しいと言ったからじゃなくて? オレ、余裕とかなくて…一条さんの気持ち、確かめもしなかった。オレは…一条さんのことが好きだけど…一条さんも本当にオレが好きなんですか?」
 (オレは…死んで、生き返って、…もう人間じゃないけど…。闘うための生物兵器まっしぐらだけど…。それでも…愛していいですか…)
 一条に縋るように抱きつき、雄介は震える声で言った。不安に怯え、恐慌に陥った者の声色だった。
 雄介の表情は見えないが、一条は、雄介の衷にある、冥い深淵を覗いた気分だった。
 一条の背広の上腕付近を握り締めた雄介の指の関節は白く強張っている。渾身の力で掴んでいるような必死さが、雄介の隠している脆弱さを物語っているようであった。
 「そうか、俺はおまえを不安にさせたか。…すまなかった、五代」
 雄介のうなじ辺りに降ってくる一条の穏やかで優しい声は、日頃の緊張感など微塵も感じさせなかった。親が子をあやすように、一条は自分の鼓動を雄介に聴かせた。
 「ちゃんと…言葉にしないと伝わらない気持ちもあるんだな。俺はおまえに甘えっぱなしだ。すまなかった」
 雄介の肩の上下する幅が狭まった。間隔も間遠くなり、呼吸音も静かになった。一条の胸に貼り付いたように動かなかった雄介の頭が、僅かに傾いだ。
 「………………照れるもんだなぁ……」
 一条の洩らした声は、充分に、困惑と羞恥を顕わしていた。
 改めて畏まって、自分の雄介に対する感情を、率直に表現できない一条だったのである。
 (ひょっとして、俺は初めて自分から、愛だの恋だのって言うんじゃないのか?)
 本当は、一刻も早く雄介を安心させてやるために、その一言を口にすべきだということは重々わかっているのに、なかなか踏み切れないでいた。
 タイミングを失って、一条が逡巡していると、胸元で雄介がクスッと笑った。
 「一条さんの心臓、早鐘に鳴っちゃってます」
 いつもの笑顔に立ち直った雄介が、眩しげに一条を見上げながら上体を起こした。
 「すみませんでした、一条さん。オレ、ちょっと最低なサルでしたねー」
 「いや、五代…」
 「いいんです。もう大丈夫。変なことして、すみませんでした。…怖くなかったですか?」
 乱れた服装を手早く正しながら、雄介は優しく静かに言った。
 その声色が切なくて、一条は思わず、雄介の手に自分の手を重ねていた。
 「有耶無耶にするな、五代。ちゃんと聞け。俺はおまえが」
 「オレのどこが好きですか?」
 「え?」
 「オレのこと、好きでいてくれてるんですよね。どこに惚れました?」
 雄介は微笑み続け、少し悪戯っぽく言った。
 「…どこって……」
 「実はオレ、わかってます。一条さんって、ちょっと色事には疎そうですよね。だから、惚れた腫れたって言うより、オレの中に自分と似ているところがあって、そこがたまんなく放っておけないんじゃないかなって気がするんですけど」
 雄介は一条の手を引き、一緒に立ち上がりながら気さくな感じで続けた。
 「不安なんて、ないです。オレが、一条さんを好き。それでOK!」
 一条の尻あたりについてきた草や葉の破片を払い落としつつ、雄介が殊更何事でもないようにきっぱりと言い切ったのが、一条には哀しかった。
 (言わせない気か…? 俺の口から聞かなくてもいいのか…?)
 気持ちを通わせることに怖気づくなど、未来が薔薇色に見えている間柄では、おそらく考えもしないことだろう。
 しかし、一条には雄介の、雄介には一条の、お互いを気遣う辛い気持ちが、透けて見えているのであった。
 お互いに、お互いの足枷にはなりたくない…、そう考えると、どんな睦言も誓約も、重荷になりかねない。
 自分の身勝手な想いや願いのために、戸惑いや躊躇いを覚えさせてはいけないのだ。明日も明後日も、たった今からでも、未確認生命体が絶えるまで、二人は死線に立っていなければいけない身なのだ。命を賭けて、逃げることも斃れることも許されない闘いを、続けなければいけないのだ。
 (…それでも、もう少しで言えたのに…。五代雄介、おまえを愛している。俺が初めて自覚した恋だ。…そう言っちゃダメなのか…? 俺達には許されない言葉なのか? 聞けば苦しむだけなのか!?)
 先ほどの感情の迸りは、雄介の心の叫びでもあるのではないか? 何がきっかけになったのかは判然としないが、訴えたいことがあったのではないか? …一条は少し恨めしく思いつつ、雄介の背中に問い続けた。

 雄介は先ず首だけを垣根の外に出し、辺りを窺がった。そして次に肩から順に、垣根の壁の向こう側に姿を消した。
 一条がその後に続くと、垣根の向こう側では、雄介の八の字眉が待っていた。
 「ところで、一条さん。…怒ってません?」
 「あ、ああ。まあ、びっくりはしたが…」
 ニパッと笑って天を仰ぎ、「あー、良かった。叱られるのは、椿さんからだけで勘弁してって感じです」と、晴れ晴れと言い放った雄介だった。
 (オレが一条さんを困らせてどうするんだよ〜! …もう、泣きごとは言わない。疑わない。信じる。一条さんを信じていいんだから、信じるだけ。ただ信じているだけでいいんだ。…それだけでいいんだ…)
 「一条さん、オレはこっちから登って行きます! いつも通りに壁伝いに窓から入って、桜子さんを安心させますから。じゃあ、研究室で逢いましょうねー!」
 「え? あ…おいっ 待て、五代! ……登るって……」
 蔦の絡まる校舎を漫然と見上げながら、取り残された一条は呆れかえっていた。
 (…それにしても…、五代、おまえは本当にそれでいいのか…?)

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