江戸時代の吉原の海岸線

 
五色台から西を眺めると、雄山(おんやま)と雌山(めんやま)が見える。
保元の乱に敗れた崇徳上皇が讃岐に流されたとき、上陸したのは松山の津だとされている。この松山の津は雄山の麓(下の写真の赤丸あたり)と想定されている。昔はこの辺りまで海だったのだろう。
松山の津

平成24年5月16日の四国新聞のコラムによれば、
「林田町では松山館や松山津を示す地名は見当たらず、江戸時代以前には現在の海岸線より1〜1.5キロ南方まで干潟が広がっていたことが分かった。・・・干潟は水深が浅く、船を安全に停泊させることは難しく、林田町海岸部に津があったとは考えにくい。やはり風除けのできる雄山の北東麓に津があったことは十分考えられる。」
と書かれており、下図の点線が「江戸時代前期の干潟の範囲」と想定されている。


とすれば、吉原辺りでも筆の海と呼ばれ、筆の山の下辺りまで藻場だったというのも(有識者は否定的ではあるが)、案外事実なのではあるまいか。現在の海岸線からは吉原まで4〜5kmあり、海抜も吉原本村あたりで14〜5mあるけれども、地盤隆起あるいは山からの浸食土砂の堆積で高くなっただけで、昔は浅瀬だったのではあるまいか。三井之江が港であったというのは、さすがに無理があるにしても、火のないところに煙は立たぬの例え通り、事実無根の伝承ではないのではなかろうか。



吉原町 全景1  全景2  全景3  俯瞰図  道路標示  字名  五岳山  二反地川  石灯籠  葭の原  八十八カ所案内板  三井之江  十五丁石切場

善通寺  曼荼羅寺  出釈迦寺  禅定寺  西行庵  人面石  鷺井神社  東西神社
我拝師山  天霧山  七人同志  片山権左衛門  月照上人  牛穴  蛇石
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