西行史跡

 
どうして羽床上にはこんなにあちこちに西行にちなむ史跡が残っているのであろうか?

当時(現在も)、この辺りは山村で、人家もまばらにしかない土地だったはず。そんな所へ西行さんがやってきて、山道もわからないから、たまに人に出会えば道を尋ねたであろう。その当時、西行さんは円位と名乗ったのか、それともすでに通称である西行と名乗ったのか疑問であるが、このあたりに西行という史跡がいくつも残っていることから、既に西行と名乗ったものと仮定しよう。そうでなければ、後で円位が西行のことであるとわかっても、統一して名前を西行に付け替えられまい。
ところで、あちこちに西行という名を残したということは、地元の人に相当なインパクトを与えたからに違いない。元々よそ者がやってくることなど滅多にない寒村だっただろうから、そこへ見知らぬ人が来れば注目を集める。しかもそれが僧侶で、都から来た、と言ったら、皆ビックリ仰天しただろう。だから高貴な僧と受け止められて、西行という名があちこちに残されたのではないだろうか。

これとアベコベなのが多分、誕生院善通寺であって、ここの僧は弘法大師の御誕生所をお守りしているという自負があったであろうから、見慣れぬ汚い乞食坊主のようなのがやってきても、あまり相手にはしなかったのではなかろうか?
その結果、「山家集」には圧倒的に曼荼羅寺・行道所の山の事ばかり書かれていて、尊重しなければならないはずの誕生院のことがわずかしか書かれていない。

「山家集金槐和歌集 日本文学大系29」風巻景次郎・小島吉雄校注、S36.4.5 岩波書店発行 より






  同じ國に、大師のおはしましける御辺りの山に、庵結びて住みけるに、・・・
から始まって、ほとんどが山の状況を書いていて、善通寺のことはわずかに、
  大師の生まれさせ給ひたる所とて、廻りの仕廻して、その標に松の立てりけるを見て、
    哀れなり同じ野山に立てる木の かかる標の契りありける
という箇所と、
  善通寺の大師の御影には、側にさしあげて、大師の御師書き具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。
  四つの門の額少々破れて大方は違はずして侍りき。末にこそいかがなりなんずらんとおぼつかなくおぼえ侍りしか。
と、良くは書かれていない。

従って、滞在期間中に、曼荼羅寺の霊地である山から、ときどき善通寺へは出向いたのだろうけど、善通寺の僧も軽くあしらったのか、「山家集」にあるとおり、あまり西行さんの関心は引かなかったようである。

ところが後になって、弘法大師の総本山である高野山から道範阿闍梨という高僧がやってくるに及んで、善通寺の僧は西行法師が有名人であることを知り、あわてて西行が善通寺に滞在した、という話をでっちあげたのではなかろうか?
だから、西行が南大門の東の松の下で籠った、と言ってみたり、南西の玉泉院で庵を結んだことにしてみたり、弘法大師が手ずから掘った玉泉院の玉の井で西行が歌を詠んだとか、という支離滅裂の伝承が出来上がった、とすれば納得がいく。










西行庵 正面  全景  内部  江戸時代の記録  歌碑  山家集  生木大明神  滞在期間  讃岐での足跡

善通寺  曼荼羅寺  出釈迦寺  禅定寺  人面石  鷺井神社  東西神社
我拝師山  天霧山  七人同志  片山権左衛門  乳薬師  月照上人  牛穴  蛇石
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