吉原町十五丁の宝殿堂

 
「よしはら」(H2.4.26, 吉原郷土研究会発行)より
「よしはら」より

記載内容がよく理解できないが、「昔禅定に地蔵尊としてお祀りしてあった」というのは、現在宝殿堂の前にある北向き地蔵のことだろうか、それともお堂内に別の小さな地蔵仏でもあるのだろうか。

北向き地蔵
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これは石工が刻んだというよりは、地元の人が自然石に目・口を彫り込んだような極めて素朴な愛らしい石像になっている。

ところで、上記「よしはら」には「本尊は、阿弥陀如来像と観音菩薩像」と書かれている。「150年前位にこの本尊を出釈迦寺から貰って」ということだから、この「よしはら」出版の平成2年(1990)から150年前の1840年(天保11年)頃にこのご本尊がここに安置されたことなる。
(安藤家墓地には利藤太という俗名が彫られた墓石がある。昭和7年82才で没とあるから、逆算すると1851(嘉永4)年頃の生まれである。安藤喜藤太は利藤太の兄であるとのこと。)

一方、「増補西讃府志」(舊丸龜藩京極家編輯 S4.11.3 藤田書店発行、S48.10.20 復刻版発行)によれば、
「西讃府志」より

これには、十五丁に「堀典(ホテン)堂」がある、と書かれている。漢字は異なるものの十五丁にはほかにそれらしいものはないから、堀典堂=宝殿堂のことと思われる。(日本語は元々「音」があって、それに中国から輸入した外国語である「漢字」の音を当ててきたという歴史があるから、漢字は当て字の可能性が高い。)

ところで「西讃府志」はいつ成立したのか? 増補を繰り返したらしく、安政戊午(1858)か嘉永6年(1853)かそれとも明治初期か、いろんな年代が書き込まれている。「香川県大百科事典」(四国新聞社編)によると安政5(1858)年完成となっているそうだ。
従ってそれより以前の天保年間に宝殿堂が出来ていたとするなら、その後に編纂された「西讃府志」に記述されているのは辻褄が合っている。

現在のお堂の内部にある宝殿堂再建寄付芳名板をみると、このお堂は昭和33年4月15日に竣工している。再建から約60年が経ち、雨漏りがひどくなっているそうで、修理費用の目途もたたず、ご本尊を出釈迦寺へお戻しすることとなった。
平成29年10月28日に出釈迦寺ご住職による法要(御性根抜き)が行われ、阿弥陀如来像と観音菩薩像は丁寧に包装されて出釈迦寺へ戻った。

宝殿堂内にてご本尊の法要
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御本尊(観音菩薩像)搬出の準備
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宝殿堂祭壇の扉
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