節分について

明治5年に太陰暦から太陽暦へ暦が変るまでは暦のいたずらで希に年内に立春を迎えることもありましたが、冬至を過ぎ、寒が終わり節分を過ごし、そして新年を迎えるのが一年の流れでした。この感覚が現代と大きく違っていたりします。

節分は元々立春、立夏、立秋、立冬の大節季の前日なので、年に4日あり、それぞれ大切な日として様々な行事が行われていました。その中で一年の厄を払い新年に福を迎える儀式として立春の前日の節分が大きな意味を持ち、江戸時代以降は「節分」と言えばほぼこの日を指すようになったようです。

現在行われている豆まきを始めとする行事の由来は、諸説はありますが中国の周王朝時代に編まれた「周礼」にのっとり平安時代に毎年大晦日(一説には28日)に行われた追儺(ついな)の儀式が元になっていると言われています。

「儺」の字は「おにやらい」とも読み厄災をもたらす邪鬼を追い払う行事に他なりません。当時の「鬼やらい」は12ヶ月それぞれの疫病神を表す12匹の鬼に扮した鬼役と、松明をかざしてそれを打ち据える役が立ち回りを演じる物で、豆を撒く習慣は無かったようです。また原形はやはり五行を元にした形であったようです。

豆を撒く習慣は「豆占」という古来からの農耕行事があり、これは節分の夜に12ヶ月になぞらえた12個の大豆を灰の上に並べてその焼け具合によって、月々の天候と作物の豊凶を占っていました。この行事は現在でも一部地方には独立した形で残っていたりもします。

この二つの行事が融合して一説には鎌倉中期一説には室町初期に民間へ広まり
江戸期になって全国的に現在の形に近くなったと言われています。

江戸中期以降の一般的な江戸での節分は豆の枯茎に塩鰯を刺した物と柊の小枝を家の玄関へ挿します。主人が神前仏前に灯りを点し、竈を清めて鬼打ち豆を煎って
煎りあがった豆は升に入れてから三方へ乗せその年の年男に渡され恵方へ向って豆を打ち、次に神棚に向って同じように打ち順に家中の部屋すべてへ豆をうちます。

それから「年取り物」(年包・福包)を主人から家内全員に配って、用意した里芋、大根、牛蒡、焼豆腐、黒豆、高野豆腐、蓮根の煮物、田作りの重と数の子を肴に酒を酌み交わすのが吉例とされていました。内容は現在のお節料理の一部となっていたりします。これも旧暦から新暦への移行に伴って変化しました。

お節料理という言葉自体が元々は「御節供料理」で節句、節分、春・秋分、夏至、冬至に神仏へ御供えした料理の総称で現在はお正月の料理を指す言葉になっていたりします。

現在でも易暦では節分を冬の陰気を払って、春の陽気を取り込む日として「除夜」と呼びます。

節分は様々な日本の伝統行事が、暦の移行に伴って変化した最も判り易い例かも知れません。


江戸のつれづれ
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