左義長について

最近ではあまり行われなくなった行事なのですが、正月15日は「左義長」が行われていました。

起源については諸説あるので省きますが、元々は宮中で行われていて、清涼殿の東庭に青竹を束ねて立てて扇子・短冊・吉書等を結んで、悪魔払いの吉言を唱えながら陰陽師がそれを焼く、小正月15日の儀式だったと言われています。原形は中国にあり五行に従って行われていたようですが、早い時期に日本独特の形態になったようです。

それが、民間に広まったのはお正月に注連縄やお飾りをする風習と歩を揃えそして全国に色々な呼び名でこの風習は今でも残っています。

大阪でいう「どんと焼き」の「どんと」は古文書の漢字は「爆竹」と当てられている事が多いようです。「爆竹」とは元々竹のはぜる音であった事は語源としてはほぼ間違いないようです。そして「どんと焼き」が竹を弾かせる行事である左義長の変化した物との傍証ともなっていたりもします。

「どんと」という言葉と行事の思想的関係はいくつか有力な説があるのですが、七草の時の京阪での囃子詞は

「唐土(とんど)の鳥が日本の土地に渡らぬさきになずな七草」

と唱えます。

この場合の「唐土(とんど)」については

異国=知らぬ土地
西方=黄泉の国
仏教伝来の国=恵方

等様々な解釈があるのですが、いづれにしても、結界と招福の為に飾った正月飾りを塵と一緒に廃棄するのではなく感謝と一緒に、この世の形を滅して灰に帰す行事で、
日本独特の神仏の思想が混ざり合った形だったりします。

小正月に宮中で行われていた左義長が変化拡大して、その時に竹の爆ぜる音を文字化した「どんと(爆竹)」と「唐土(とんど)」も混合し、現在では関東やその他の地域でも「左義長」より「どんと焼き」という名称の方が一般的かも知れません。

江戸時代の関西では、大阪を中心に「とんど」という呼び名が一般的で、子供たちが四人一組で竹を担ぎ、町の家々を巡り歩いて、注連縄や門松を貰い受けるのが一つの行事になっていたようです。ただ、町内やグループで、集めた数を競うようになり、早い時期から注連縄をねだったり、夜中にこっそり持ち逃げしたりするようになって、これを禁止する公示が出された記録も残っていたりします。

集めたお飾りは16日の暁前に、川岸で焼いて左義長の儀式を行っていたようですが、時代が下がるに従い様式は変化して、15日は眠らずに街を練り歩く事が定着して「夜寝ず講」とも言われました。

江戸では火災予防を理由に17世紀半ばに禁止されたので、江戸文化に左義長はほとんど現れなません。専門の業者が高い料金を取って回収したり、庶民は川や堀に投げ込んだりして問題になった記録も残っていたりします。

明治以降、神社に御札やお守りをお返しして左義長の日に焼く儀式が現れたりもしましたが、現在ではどんと焼きに吸収され、一般的には言葉も含めあまり馴染みの無い行事になりつつあります。

江戸のつれづれ
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