稲荷社など
今でも江戸の街には、神社や祠が沢山あります。これは、旧来から存在していた様々な祭祀に加え、
徳川家が入府した際に、家臣含め、旧領地にあった神社・仏閣を移転、あるいは招聘し、また、各大名屋敷に祭られた社稷が、屋敷が無くなったあともそのまま残った為でもあります。

現在は寺院と神社は基本的に別れています。これは慶応4年の明治政府が出した「神仏判然令」によります。それまでは神仏混淆の状態で、これは元々、神を信仰していた人達に仏教を広める為、僧侶や為政者達が「神様も仏様も同じもの」と教化活動を行ったのが最初だといわれています。国是となったきっかけは聖徳太子の十七条憲法(604年)の第二条にある仏教を国教とするという詔勅です。その後大化年代(646−649年)の仏教興隆の詔勅を経て天武天皇の詔勅により鎮護国家の仏教として不動のものとなりました。これにより、寺院(僧侶)−神社(神官)−修験者(山伏)という順位が確立しました。

実際の運営においても、神社を統括する寺がありその下に神社が位置するようになります。この寺を「別当寺」(大神社の場合は神宮寺)と呼びました。この構造に沿って生まれたのが「本地垂迹説」なのです。

これも簡単に例を挙げると「弁財天」(七福神の弁天様ですね*仏教守護の天部神)を「本地」(元々の姿)とした場合に、記紀(古事記・日本書紀)に出て来る「宗像三女神」の一柱である市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)を垂迹として、これにより仏や菩薩を拝むことで日本古来の神を拝むことと同義だとされたのです。「宗像三女神」は現在は福岡県の宗像大社に奉られています。市杵島比売命は「いちきしま」から転化し、高名な安芸(広島)の宮島にある厳島神社(いつくしまじんじゃ)の主神となりこちらにも「宗像三女神」が祭られています。(厳島の名前には異説アリ)

全国に弁天神社が数多くあるのですが、前述したように「弁財天」は神道の神様ではありません。本地垂迹により市杵島比売命と同一視され商売繁盛の神として広まり、七福神信仰ともあいまっていつか「弁天神社」が成立していったと言われています。ちなみに現在「弁天神社」と通称される社のほとんどは、ほんとは「厳島神社」だったりします。そして、七福神めぐりで回るお寺の殆どは、逆に「弁天神社」あるいは「厳島神社」の別当寺かその本山が別当寺であるわけです。

もう一言加えれば、「弁財天」は梵語の「薩羅薩伐底」の訳で、本源はインド神話の河川神と言われています。一説にはインダス川の神格化とも言われ、仏教では吉祥天と同一視される事もありますが、信仰の根拠は「無碍弁才(思い通りに話せる力)」を授ける神としてから転化し、非常に古来より様々な守護神として位置付けられてきました。

話しを戻すと、江戸にはたくさんの寺院や神社がありました。これは江戸時代の寺受け制度と檀家の関係もあるのですが、徳川氏入府以前から、もともと寺領として数多くの土地が寄進されていて、末寺としての寺や、逆に垂迹としての神社がありました。そこに三河・駿河・遠江から移転してきた武士が寺を連れて来る訳にはなかなかいかないので、氏神様や垂迹としての神様を屋敷内に奉りました。また、町民層もほとんどは他の土地から移住してきた訳で、元々信仰していた神様の社を市井に見つけて信仰したり、本地の神社に寄進して勧進したりして、爆発的に江戸の神社は増えていったのです。

その中でも稲荷社は、現在でも全国で3万余りの社数を数え、江戸においては言葉は悪いのですが「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と多い物の例えにされるほどでした。

稲荷社の祭神は大きくは2系統ありましたが、現在は同一視されたり、混同されています。一つは「宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)」で、古事記では須佐之男命(すさのうのみこと)と大神市比女命(おおかみいちひめのみこと)、日本書紀では伊邪那岐命(いざなぎのみこと))と伊邪那美命(いざなみのみこと)から生まれたとされていて、日本書紀の倉稲魂命(うがのみたまのみこと)とは同じ神様です。「宇迦」は「食(うけ)」と同じ意味で食べ物をさし、五穀・食物を司る神で稲に宿る聖霊の神格化と言われます。

もう一つは豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)で、漫画家の山岸涼子様が題材に取り上げてられていたのでご存知の方も多いかと思いますが、食物を主宰する豊穣神で伊勢皇太神宮の外宮の祭神としても知られています。現在の稲荷社はこの他にも、保食神(うけもちのかみ)をはじめ、食物に関する神が合祀されている事が多かったりします。また、この神神は元は同一神であるとの解釈もあります。

宇迦御魂命は別系統の信仰として宇賀神として奉られ、白蛇信仰の祭神でもあったりします。この本地は弁財天であるとされていて、回りまわって、弁天様とお稲荷様が同じになってしまうところが、系統だっていない本地垂迹説の面白いところだったりもします。元々が「人気者カップリングゲーム」みたいな性格も持っていましたから。

さて稲荷社の中で別格なのは、京都の伏見稲荷神社で祭神は「稲荷大明神(稲荷神・稲荷大神)」となっていますがこれは宇迦御魂命の尊称で「翁神(おきながみ)」とも呼ばれます。京都三十六峰最南部の稲荷山西麓に711年に鎮座し、現在は猿田彦神、大宮売神、田中大神、四大神の五座がありこれを総じて呼んでいます。「古風土記」には「伊奈利」と表記されていて、外来系氏族である秦氏の氏神である事が確認出来ます。祭神像は稲束を背負う翁であり、「稲成り」が転化して「稲荷」となったと言われています。

稲荷社が全国に広がるきっかけは諸説あるのですが、弘法大師空海様が東寺(救王護国寺)を建立する際(823年)に秦氏は稲荷山から材木を供出するなどして真言宗との関係が強化され、稲荷社は東寺の守護神として仰がれる事になりました。真言宗側は稲荷神を胎蔵界曼荼羅と「ゆ伽行法」で説く茶枳尼天(だきにてん)に習合(垂迹)させる事として、真言宗の全国布教と共に稲荷社も拡大していったという事です。

豊川稲荷として有名な豊川市の円福山妙厳寺は曹洞宗の寺院なのですが、本尊が茶枳尼天であることから稲荷大明神として崇敬されていたりして、これは現在でも各地に稲荷社以外の稲荷信仰として残っていたりします。その他、神札に狐に跨った小天狗が描かれている茶枳尼天を奉る系統がありますが、これは稲荷信仰ではなくて修験道の系統だったりします。八王子の高尾山薬王院(真言宗智山派)、秋葉権現(静岡県春野町)等がこれにあたります。

稲荷社の神使(みさきがみ)はご存知のように狐です。この縁起も諸説と言うか、伝説や民間伝承迄加えると無限と言って良いほどあります。真言宗との関係で見てみると、「茶枳尼天の別名を白晨狐菩薩(はくしんこぼさつ)ともこれを称し、稲荷の神体これなり」と説いています。これと陰陽師が媒介として狐を使った事や「春夏は田の神、秋冬は山の神」という狐の習性に沿った民間伝承が一致して一般化したとの説が有力です。

時代が下がるに連れて、産業が興り商業が活発化すると稲荷社も農業だけではなくて産業全体の神になってゆきました。そして、一番身近な神として鎮守的な性格が強くなり、江戸の大問題であった火事の神として宝珠が火炎の玉として観案されたり、初午のお祭りの隆盛と共に子供の守り神として、また痘瘡の神ともなってゆきました。

江戸時代が終わり、広大な大名屋敷や武家屋敷が無くなる中で、稲荷社はその地に残ったり、動座したりして街に溶け込んでゆきました。そしてビルの間や、時にはビルの屋上や専用の部屋に鎮座して、現在でも、もっとも身近な神として私達と触れ合っています。それぞれの稲荷社の縁起について調べてみるのも面白いかも知れませんね。
 
*付記
比較的認めれている説を中心に採っていますが、神の系譜等については諸説あります。また仏教神の解釈及びヒンズー教やインド古神、古事記とアジア神話との関連などは、それこそ百花繚乱なので避けさせて頂きました。また、国家神道の成立段階で採られた説は敢えて省いております。興味をお持ちの方は是非専門書等をお探し下さいね。

江戸のつれづれ
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